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第二話(応援) 4

4.


 週末の土曜日、携帯電話を見つめていた。

 母の診察、病院の待合室で一人溜息を着く。ふう、何度も溜息を着く。ザッと乱暴に携帯電話をバッグに戻す。少しして落ち着かずバッグを開き、携帯電話を探る。躊躇いなが ら携帯電話を握ったまま待合室の出口へとツカツカと向い、空いたベンチを探す。目の前を通り過ぎる患者や看護婦。車椅子の老人を押す若い看護婦。その人達の先に木陰の洩れるベンチが目に留まる。

 ベンチに浅く座ると携帯電話を見下ろしダイヤルキーを押す。けれど恐る恐る携帯のダイヤルキーを押す。

聞こえる呼び出し音より、自分の胸の鼓動のほうが大きいようだ。

 クッ、と耳に聞こえる相手と繋がる音。

「もしもし」と、話すと同時に思った。何故、私から電話してしまったのだろう。今更ながらではあるが、電話したことの後悔が沸々とする。本当はあちらから電話をしてくるのが普通であるはずなのに。

 ――はい。あ、は、はいはい。

「あの、矢倉ですが……」何から話せば良いのだろう。やはりとても気まずい。

 ――あの、この前は……。

「……」こちらが声にならない。どう言ったらよいのか。

 ――すみま……、せ。

「いえ、いいです」男が言い終わらぬうちに玲子が言う。

 ――は? いえ、そう言われても……。

「だから、いいですって」つい、むきになる。

 ――すみません。大変、失礼なところを見られてしまいました。あれには、実は訳がありまして……。

「ええ、そうでしょうね。でも謝らないで下さい」

 だって、そうでしょ! どんな訳があろうと目の当たりにしたあの現場じゃね、謝られると認めていると言う事じゃない。だから、謝らないで。次に話す言葉で終ちゃうじゃない。

 ――そうですね。ええ、まあ。

「……」

 ――ですが、もう……。

「いえ、もう一度お会いしましょう」

言った後で後悔した。でもこれで終わるのかと思うとつい――。

 ――え、今何て言いました? い、いいのですか? 

「あの時のことは、そう簡単には、でも……」電話で話している時、この男のどこか惹かれるものを心の奥深い場所でしっかりと感じている。それだけは間違いない。

 そこまで話すと少し胸に痞える気持ちが腹の底へ落ちる。携帯電話を切ると握り締めたまま溜め息を着いた。

改めて後日の約束を取り付けた。私のほうから誘った。

 ――これで良かったのだろうか? あれだけしっかりと感じていながら誘っておいて電話を切った後、すぐ悩んでいた。まだ本当に男のことを知り尽くしたわけじゃない。そう、この人は私にとって必要な男性となるのかもしれない。そう思えて――。不安はまだあるが、やはりどこか彼の存在は私にとって意味がある。必然性を感じる。ただなんとなく、そんなふうに思えてならない。

 交互に気持ちが今も揺れ動く。

 母の事は気が沈むが胸の痞えがほんの少しだけ、なんとなくだが足取りは軽かった。

 空高くに薄く引き延ばした筋雲。見上げた玲子に一瞬だが心地よい風が体を撫でていく。その風が体温を下げたような気がした。

 携帯電話をバッグにそっと終い、ベンチを後にして病院の入り口に向った。


「この前は、どうも……」秋山は申し訳なさそうな面持ちで玲子に頭を下げる。

「……」玲子は許そうとしていたが、いざ本人を目の前にするとどうしても直ぐには。

「しかし、なんと言ったらよいのか」

「ええ、そうですね。あんな趣味がおありだなんて」なんて嫌味な事を口走っているのだろう。素直にまだなれない気持ちがあるが、あれはあれで、もういいことと自分なりに整理したはず。割り切っているつもりだ。ここに来るまでに気持ちの整理もしてきたのだから。

「どうもこうも、ほ、本当にすみません」

「はぁ、もういいですよ。あの位、男の人ならあってもおかしくないですからね」

「すみません」深々と頭を下げる秋山の顔はまだ強張っている。

 玲子と秋山はこの前のことを洗い流そうと、玲子のほうから都内のホテルで待ち合わせを提案した。やはり病院で電話したことで気持ちが少し軽くなり、あの時連絡して良かったのだ、と思えた。

 軽く食事をし、ホテルのエレベータに乗り込む。

「あの、玲子さん、お酒は何が?」エレベータの階数ボタンを押しながら秋山は語りかける。

「いえ、私少し……」本当は割りとお酒もいける口で日本酒、特に冷酒がいつもだった。同期にサオリと主婦の静香と行きつけの居酒屋では体外三人で一升瓶は容易く空ける。ただ、今日はそんなところは見せたくない。

「ビールくらいなら? ちょっとは」

「じゃ、一杯だけ、いいですか?」

 好きなお酒もお互いの気分転換には良いものだろうと思い、玲子も秋山の提案に賛成した。

 ホテルの直ぐ横にあった赤い暖簾がヒラヒラと夜風に靡く居酒屋に気付く。秋山と二人並んで暖簾をくぐり賑わいを見せる店内を見渡す。初めて入る店に戸惑いもなく秋山は空いているテーブルを見つけるとすかさず玲子を促す。

 秋山はテーブルに置くと手渡されたお絞りと突き出しを持ってきた店員に瓶ビールを注文した。

「どうぞ」差し向けられた瓶ビールに、玲子はグラスを傾け秋山のほうへ差し出した。秋山は手酌で自分のグラスにビールを注ぐ。私がグラスを取ろうとした矢先に秋山が先に自分でグラスを手にしたからタイミングを逃してしまった。改めて二人小さく乾杯、ぎこちなく噛合わないグラスの音がした。

「ところで、お義母さんの具合は如何ですか?」

「ええ、まあ、相変わらずです」

「そうですか、なんと言ってよいやら、あの、私が言うのも差出がましいでしょうが頑張って下さい」

「ええ、すみません」

 母の事についてそれ以上触れはしなかった。お酒も少し入ったせいか、二人の会話は少し弾んだようだ。彼は都内の介護施設で介護福祉師として働く傍ら、何かはっきりとは言わなかったがボランティアにも参加しているらしい。物静かな彼が珍しくいろんな話をした。秋山は動物が苦手らしく、その要因は子供の頃、犬に追われ、お尻を噛み付かれ泣きながら家に帰った事、自分の家族の事、今の仕事をどう思っているか。

 案外、この人はとっても気が優しい人物なのだろうと確信していた。時間の経つのも忘れ、会話に夢中になった。少し気が緩んだのか、調子に乗って手を挙げ日本酒を注文していた。

ふと隣のテーブルに若い女性が座るのが分かった。大きな声を上げ、騒ぎ立てる。数名の若い女性は大学生くらいだと思う。

 その中の一人の女性がこちらをチラチラと見る。玲子は視線を合わせないようにしたが、その女性は秋山のほうへ視線を投げかける。それに気付いた秋山は一瞬驚いた表情を見せたが、手を軽く持ち上げニコッと笑った。

 え! 誰? この娘は?

 私も少し酔いが回っていたが、女性に絡むこの程度のことではまだまだへっちゃらだ。しかし、どこかで見かけたことのある女性だろうか?

気がつくとその女性はするすると秋山にすり寄るとかれの手を握り、見つめているではないか! いったいどういうこと? 頭が混乱しかかっている。決して酔いのせいではない。目を疑う。

 彼はまったく気にも留めない素振りで彼女を見る。見つめている視線が絡み合うようにも見受ける。優しくも妙な二人。私がおかしいのか? どう見ても彼の態度は不自然だ。この男、私の目の前で他の女と手を握る。そう言えば、この前の喫茶店の時もそうだった。私がいることを忘れたかのように。あの時の情景が再び甦る。ふつふつと沸き立つあの怒りにも似た吐き気。決してお酒の性ではない。

 玲子は右手の拳を握り締め店の天井を見上げる。少しクラッときた。もしかして酔いが回っているのかしら。そんな筈はない。このくらいで酔うものか。

「何なの!」そう短く呟くと秋山を見据えた。

 頭に血が上り右手を振りかぶるとそれから……、薄暗い景色が広がる。

 記憶が薄れる中、秋山が仰向きに倒れるように一瞬見えた。


「ううん、んん……」気付くと揺れている。周りが上下左右に揺れる。

 ここはいったい? どこ? 身を起こした。――あたたた。頭が痛い。すると拳に痛みが走る。思わず、左手で右手を覆う。

 ここはタクシー? いったいどれくらい経っただろうか? 頭が痛い。気がつくと横に秋山が頷いている。しかも彼はハンカチで目を抑えている。

「あ!」あたたたた。

「ど、どうしたんですか?」

「止めて!」

「え?」

「いいから、止めて」秋山へ体当たりをしてハンドルを握る運転手の背広の左肩をグイグイと引き寄せる。

「お客さん! なになに、勘弁して下さいよ」タクシーは蛇行運転して走る。

「早く、止めて頂戴!」

 二人の体が急に大きく揺れた。タクシーの運転手が玲子の騒ぎに狼狽えてハンドルを左へとグイと切った。それも二人の状態も考えず行動をとった。

 タクシーは道路路肩へ音を立て停車。後続車両に迷惑をかけたようだが、幸いにして無事停車。玲子は後部座席にいた秋山を払いのけ、タクシーを転げるように飛び降りた。呼び止める秋山の声を無視してその場を後にし、逃げるように歩き始めた。

毅 然とした態度で勢いよく歩いたが、途中で気分が悪くなった。秋山のその後はどうなったか分からない。ただ、どうしてもムシャクシャとした気持ちがどうにもできず歩いた。

恐らく十分と歩いていないだろう、息が切れてきた。それに気分も悪い。吐き気を抑えカタカタとさらに歩く。舗道にあるコの字型の鉄パイプ椅子を見つけると腰掛け何度も肩で息をつく。吐きそうで吐けない中途半端な状態。心は最悪だ、と思った。

 その場で俯いていると涙が溢れてきた。あの時の気持ちと一緒だ。何がよ。あの男は見せかけの態度で騙している。あの男の本性はただの女垂らしのオタク野郎だわ。やっぱり騙された。

 椅子に座り、項垂れているとなんとなく嫌な空気を感じた。じっと見られているような気がする。息を呑みその場をそそくさと離れた。夜の繁華街は酔った女にとってカモだ。身の危険を感じ即刻その場を離れた。

 何も無くて良かった。

家に帰りつくと玄関のドアを背にして胸を撫で下ろし何度も大きく肩で息をした。不安とお酒の酔いで息が荒かった。

「レイちゃん?」ビクッとした。何に驚いているのだろう。部屋の奥から聞こえる声はいつもの聞き覚えのある声、母の声。日頃、こんな時間まで起きていることはそうそう無かったので、その声が訝しげに思えた。

居間から母がソロソロと近寄る。

「ああ、ただいま」母の顔を一瞬見て靴を脱ぎながら返事を返す。

「どなた?」

「え?」なんて? 今なんて言ったの?

「あなた誰? 人を呼ぶわよ!」

「え? 私よ!」パンプスに手をかけたまま母の目を見て一瞬固まった。

「ああ、あ、どちら……」首を傾げて私を訝しそうに見る。

「レイよ。玲子!」大声を出して言う。母の目を覗き込み、声を荒げる。「おかあさん!」

 暫く二人に沈黙が続く。

すると母は「はっ」と短く息を呑んで、自分の記憶の断片が繋がったかのように手を口に当てる。するとがっくりと項垂れる。

母は俯いたまま「ああ、そうみたいね。ごめんね」自分の記憶の曖昧さにしょ気ている。

「ううん。いいのよ」作り笑いだとわかるが、すぐに母の肩を支え、ベッドへとゆっくりと促す。母は目を瞑り静かに呼吸をする。

 遠い昔、怖い夢をみて夜中に目が覚めた。

 現実とも夢とも区別が付かない中、辺りを見渡した。――母が居ない。なおさら不安が湧き立った。

 布団から跳ね起き隣の部屋に行くと母の後姿。私の体操着に名札を縫い付けている。その母親の背中に纏わり付き思わず泣き出した。私に気付いた母は体操着を横に置くと膝に私を抱えた。そのまま私の髪をゆっくりと撫でてくれた。いつしか心地よい眠りに落ちていく。柔らかな母に包まれて眠る。

「――レイ」

「え」

 見下ろすと母が私を見ていた。

「どうしたの?」

「いや、あのね……、お母さんのことは気にしなくていいのよ。あなたはあなただから」

「何よ、突然」

「レイを邪魔したくないのよ。レイの人生はレイのもの」

「ええ、わかっている。どうしたのよ」

「いや、言いたかったの」

「そお、うん、分かった」

「なら、いいの、――疲れたわ」

「そうね、おやすみ」

「レイも早く横になって頂戴」

「わかってる」そう言うと母の肩まで布団を引き上げる。

 ――母の寝息を聞くと部屋を出て居間のソファーに身を投げる。肩に手を乗せ、首を回す。まだお酒が残っているようだ。

「はあ……」今日は最悪。それにとても疲れた。

 目を閉じるとゆらゆらと酔いで回る。頭の奥が痺れていく。

遠くから声が聞こえる。……玲子さん! ……玲子さん! もういいわ、駄目……。止して……。いい加減に……。「あ! 嫌だ!」大声を出した。

 自分の呼び声で不意に跳ね上がりソファーから落ちそうになった。

 夢だったのだ。

 痛っ! 思わず右手に痛みが走る。肩にかけた手を降ろし、甲を見てみる。どこも何ともないが握ると痛みが走る。拳に何かしら感触が残る。そう言えば、秋山さんの目を覆っていたハンカチが急に思い出された。

 もしかして……? 私、彼をこの手で? まさか……。

 けれど憶えていない。気がついた時、タクシーの中だった。何故だかとても言いようのない気持ちで、恥ずかしくて、その場から逃れたくてつい、飛び出てしまった。けれど、確かに手応えがあった。ガツンとした鈍く重い感触が残る。

 台所にフラフラと歩み寄り、適当にグラスを選び蛇口を捻る。その場でゴクゴクと喉を鳴らした。

 それからはもう何ひとつ考えたくなかった。

 とにかくリセットしてしまいたいが、どうすればよいものか考えが浮かばない。できれば早くあの『ハッピーパートナー』とも縁を切り、あの男とも絶対に会わないように決めた。何を思ったか、思考がまともに働かない中、バッグを弄り携帯電話の『秋山』と記憶してあるアドレスを消去した。後は『ハッピーパートナー』も同じ、消去してそのままソファーへと携帯電話をを放り投げ倒れこんだ。

 後にして思えば、携帯電話のアドレスを消したからといっても何も縁は切れないのに。


 およそ――、恐らく、一時間くらいだろう。

 玲子は回想しながら駿平を前にして話し続けた。

 胸に痞えて言いたかった不満をぶちまけたと思う。我を忘れて荒げた口調で前後なくぶちまける。ふと気付くと目の前の男は気圧され息継ぐ事も忘れているようだった。それに右手がまだ痛い。気付くと力を込めた右手でテーブルを何度も叩いていた。話し出したら止めどなく次から次へと続けた。

 玲子の回想を黙って訊いていた駿平は、冷え切ったコーヒーを啜るというより、一気にゴクリと喉を鳴らし飲み込んだ。

「あの……」玲子の話が一応の終了と判断した駿平は躊躇いがちに切り出す。

「矢倉さん。秋山さんのこと、勘違いをしていませんか……」

「え?」

「お聞きになっていないでしょうが、秋山さんうちへ来られました」

「そうですか、で?」一応、冷静に頷く。

だから、それがどうしたというの? いくら紹介といってもこんな事も人に相談するなんて……、それに自分の事を決められない男って、どうかしら。

「ええ、秋山さんのこと。本当はそんな人じゃないですよ」

「そうかしら? あなたは会社の立場で言い訳を並べ、物事を治めようとしてませんか?」

「と、とんでもないです。そんなことは無いですよ」駿平は手をひらひらと横に振り、とんでもないと否定をする。少しばかり狼狽する。

 駿平の反応に疑念の眼差しで見遣る玲子。

すると思い余って言う駿平「どうか、私の話を聴いてください」テーブルに両手を乗せ、眉間に皺を寄せ、訴えるように玲子を見つめる「秋山さんから事細かに訊きました。すべての疑いが晴れる訳じゃありませんが、責めて、いや、少しだけでも聞いて貰えないでしょうか?」言い訳を並べる為に来た訳じゃない。ここで秋山さんのことを釈明しておかないと誤解が解けず、すれ違いのままとなるだろう、と強く思っていた。

「いえ、もう結構です」

『沢山の男と女の幸せの数だけ喜びを味わえる。そんな男と女の背中をそっと押してやるのが俺たちの仕事』と課長の台詞が思い浮かんだ。会社の立場もあるが、二人にとってきっと後悔する事になる。今ここで誤解を解いて俺がこの二人の背中を押さなきゃ。課長の台詞、俺の背中も押しているようだ。

 玲子は駿平から窓へと視線を移す。暫くそのまま遠くを見遣る。

 肩を上下し、長いため息を落とすと駿平へ振り返る。すると駿平から視線を店奥へと移す。

ウエイトレスがこちらを見ていたようで目が合う。

「すみません。お水、お願いします」

 彼女の呼び声に気づいたウエイトレスがツカツカと歩み寄り玲子のグラスへと冷水を注ぐ。その注がれた水を一飲みするとゆっくりとグラスをテーブルにコトリと音を立て置いた。

「どうぞ」ボソッと話す。

「え?」

「だから、どうぞ。お話下さい」冷静に駿平を見る玲子。

「あ、はい」玲子の態度にすこしドギマギして返事をする。

 駿平はこめかみをポリポリと掻いて呼吸を整える。

「え……、まず、ひとつ。喫茶店でのこと、覚えていますか?」

「え、ええ」やはりそのこと? 何だか思い出したくない事だ。

「そうですよね。うん。――あの時の状況は、確かに秋山さんの誤解を招く行動でしたよね。まあ、訊くところによると硝子にへばりつき、店の中を食い入る様にされた行動ですが――」

「あ、あの時のことですか」

「ええ、『あの時』のことです」

「――はい」玲子が不貞腐れ気味で返事する。

 いったいあの時の話を持ち出していまさら何を説明しようと言うのだろうか。思い出しただけでも腹立たしい。

「実はですね、あの店でバイトしている女の子、不適切なバイトを強いられていたようでして」

「え? どういうこと?」

「いや、だからですね、あの店でバイトしている娘を知ってたらしいく、あの店、以前から警察もマークしていたらしいのです。それで」

「あ、あの、すみません。言っている意味がわからないのですが――」駿平の言葉を切るように言う。

「あ」一瞬、一時停止した「すみません。そうですね。じゃ、最初から」一時停止した話を巻き戻して、もう一度最初から駿平は説明を再生した。玲子は駿平を見据えた姿勢となる。

「実はですね。秋山さん、障害者や児童福祉の徘徊、非行防止ボランティアの活動の会に参加していまして。それが毎週土曜日と日曜日の夕方から繁華街を市の職員の方と巡回しているらしいのです」

「はあ」

「秋山さんの参加活動している児童非行防止会は総勢五十名で構成されています。十名程度で班を作り、主に児童施設の児童がアルバイトをする際に法に触れるような際どいアルバイトや違法な労働に就労してないか、等を巡回、監視してそう言った仕事場へは指導を順次していくらしいみたいです。秋山さんは主に家庭に問題を抱えた若年層の高校生が担当らしくの巡回エリアは台東区から秋葉原地区が中心のようです。仕事を終え夕方から深夜の時間までみたいですよ。大変ですよね。いくらボランティアといえ、仕事を終えて四、五時間ほど歩いて周り、時として身を危険な状態に晒すことさえあるようです。私には到底真似出来そうにないですが。とにかく非行防止ボランティアのようなものらしいですよ」

 そんなことは、あの人の口から訊いたことはない。まあ、そこまで話すことがなかったといえば、そうかもしれない。

「それで、以前からマークしていた店に秋山さんの知っている児童養護施設に入所していて行方不明の娘を発見したらしくて、つい慌ててとった行動が周りから異常にとられてしまったようで。偶々通りがかった時、あの時の――、『メイド喫茶』ですよ。まあその後、警察の手も加わり違法就業店舗として摘発されたみたいですよ。結果、その店は営業停止ということみたいです。それはそれで良かったと思うのですが、秋山さんは不謹慎な人物と勘違いされたままですよね」

 考え込んでいる玲子の目を慎重に覗き込んだ。

「あなたもそう思われた、と。いやそう勘違いされても仕方ないような行動だったらしいと。本人がその後、反省をしていました。しまったな――、とね」玲子を見ると嗜めるように言う。

「え、あ、そう、ですか」玲子が罰悪そうに頷く。

 メイド喫茶に明け暮れるオタク男と勘違いしていた。大人しい人柄からオタク男、実はオタク男ではなく心優しい男性へと、自分の見る目がない。早合点してほんの少しのことに気を取られ本質を見抜けない。情けない。でも、でもでもそのくらい話してくれたっていいじゃない。だって人生を共にしようか、と考えるほどの付き合いをしていたのだから。

「それから、居酒屋でのこと、――ですが」困惑して考え込んでいる玲子への俊平は真摯な姿勢から一変にして形成が逆転したような不適な顔付きで話す。

「まだ、なにか」玲子は駿平の顔へと目を向けると駿平の視線に気づき強張らせた。

 追い討ちをかけるように駿平は玲子をじっと見る。

 身を引き、怪訝な表情を浮かべる玲子。

何よ? 何よ! 私のほうが悪いとでも言いたいの? いったいこの男は和解に来たのか、それとも脅迫めいたことを態々言うためにここまで来たのか。いったい私がすべて悪者とでも言いたい訳?

「ええ」と俊平が一言。続けて咳払いをつくと「居酒屋の出来事が極め付けのようですが」

「ああ」ああ、あの時のこと? あの時のことはあまり記憶が定かではない。気がついた時、タクシーの中で目を醒ました。私は彼の膝にうっ伏していた。いや、それともひっくり返っていたのだろうか。とにかく、恥かしい状態だったに違いない。居酒屋での記憶があまりなく、どうやって彼が私を連れ立ったことさえわからないのだ。あられもなく酷かったに違いない。店の人からどんな視線を浴びていたのだろうか。或いは最低なのか、とにかく女としては羞じるべきなのだろう。記憶がないことも。

「あの時は、『メイド喫茶』どころか、相当な失態と本人は悔やんでいました。なんせ秋山さんとお会いしてお話を訊いて直ぐに分かりました。――一発食らったことも」

「え? あれも?」驚いてとても知らなかった風に業とらしく答える。

 ――ええ、本当は覚えているわよ。けれどあの時は、彼のあの応対。――だって変でしょ!

「言って良いのか、偏見ではありませんが、彼女を見た瞬間に秋山さん、ピンと来たようです。少し知的障害を持たれた娘さんらしく秋山さんへ頼り、擦り寄ったみたいですね。まあ、普通ではそこまで読み取れない機微な状況も経験からしてなんとなく、らしいようですが」

 そうかな、と思った。いや、そこまでは私も読みきれなかった。けれど、あれはないでしょ! だって私が横に居ながらあの態度はないでしょ! あの女。彼の横ににじり寄って来て座るとじっと目を見つめる。その眼差しは彼に何かを求めるようで。誰だってあの状況をみれば勘違いするはずだわ。

「そ、そうですか。だと、思ったのですけど」玲子は気持ちを押し殺し無理やり相槌を打つ。

「そうなんですよ。良かった! じゃ、あの時のこと――」駿平は残りのコーヒーを飲み干す。

彼女、本人を目の前にして言い難いことだが、詳しい説明をしないと。それも、今ここで言わないと――。けれど、さきほどからの感じからしてうまく行きそうだ。ならばここで、と。

「いや、あの――。あのですね」駿平は秋山から訊いた状況を説明し始めた。恰も彼女が事の事態を呑み込めたと判断しているものと思いあけずけに話す。今度は掻い摘む事無く、最初から細かく話し始める。それでも時折、玲子の表情を途中、途中確認しながら。

「……」

わかった、わかったわよ。もういいわよ。どうせ私が短気でそそっかしくて勝手に思い込んでしまった、もういいわよ、と心の中で叫んでいる。頭に浮かんだあの時の状況、かぶりを振り、払いのけようとする。

 あい反する玲子の気持ちを察していない駿平は更に説明を続ける。

「……」堪えてを聞き流す。けれど、じわじわと怒りが胃袋、喉元を逆流して一気に駆け上がりそうになる。もうこれ以上この場に居たくない。立ち去りたい気持ちが胸を衝く。

 はあ、息苦しい。呼吸が荒くなる。思い出してきた。――あの時のことを払いのけようとしたのに。なぜ、そこまでして掘り起こしたい訳? それって、あ、あの男の言い分を全面に受け入れ、私の気持ちは? じゃ、どうでもいい訳? すべていい訳じゃない。

 とにかく一方的な言い方で、もう、我慢ならない。

突然、『ギーッ』と椅子の素引く派手な音が耳を衝く、玲子は駿平の話を中断したく思わずその場を立つ。

「え?」玲子の突然立ち上げる行動に思わず仰け反る駿平。

「もう結構です!」眉を吊り上げ、駿平を見下ろしたまま叫ぶ。

 虚を衝かれた。形相と荒げた声に驚いた駿平は玲子を見上げ凝視した。駿平は思わず周りを見回した。視線をいっぺんに集めていると思った。まずいな――、言い過ぎて拗れた?

「だからもう、結構です。そんなに言われてまであなた方の紹介される人と会うつもりはありません」きっぱりと言い切った。

 その投げやりな口調の玲子に向き直り、「ちょ、ちょっと待ってください!」周りの視線なんてどうでも良いと両手で宥める。

 駿平を見下ろす玲子は鼻の穴を膨らませ、睨みつけたままだ。

「とにかく、ちょっと待ってください。も、もう一度、話を聴いて下さい」

 対峙する二人は暫くそのままの状態だった。

「とにかく、座って下さい」

 はっ、と玲子が我に帰った。

 駿平の言葉で我に帰る。

 気がつくと周りの人達の視線が注がれている事に気付く。顔が真っ赤になっていることが自分でも分かるくらい恥ずかしくなり、椅子に慌てて座る。

「すみません。取り乱して」俯いて言う。

玲子は駿平の顔、周りへの視線、何処にも顔を向けられず、視線をテーブルに向けたままじっとして固まってしまった。

 するとツカツカとウエイトレスが冷静な顔つきで歩み寄り、空になったテーブルのグラスを新しいものと取り替えた。冷静かどうかは分からないが、足取りからして恐らく冷静な表情に違いない。駿平の指示なのか、こちらの様子を監視しているのか、絶妙なタイミングである。

 ウエイトレスがその場を離れると、どうぞ、と駿平が勧める。

 少し間を置いから、新しく取り替えられたグラスへと玲子の手が伸び、乾ききった喉へと流し込まれた。それもゴクゴクと駿平にも聞こえるほど喉が。

「すみません。取り乱して」俯いて謝る玲子。

「あ、いえ、私が気持ちを察せず一方的に――、申し訳ありません」頭を下げながら玲子に詫びる。

 ふぅ、とひと息つくと少し落ち着いたのだろうか、玲子はバッグからハンカチを取り出し、額を拭いてヒラヒラと上気した顔へと風を送る。

「そうだ!」玲子は何かを思い出したのか、思わず呟くと腕時計に目を落とす。

「え? どうしました」

「あ、すみません。いえ、大丈夫、大丈夫。気にしないで」

 彼女に一瞬焦りが見える。恐らく午後の予定の時間を気にしていると言うことだろう。

「あの、今日この辺で止めておきましょうか?」眼鏡のつるを押し上げ、駿平は確認するかのように言う。

「はあ、でもいいです。折角だから――」少し震える口調で言う。

 不意に駿平の携帯電話が振動した。駿平は少し驚いたが、携帯電話を取り出し、目で玲子に了解を貰う。

 手刀を作ると「すみません。ちょっと」そう言い終わらぬうちに駿平は立ち上がり、一礼したかと思うと化粧室へ小走りで向かう。これでもかと、しつこく携帯電話は鳴り続ける。

 化粧室に入り、鍵と落とすと慌てて受話ボタンを押す。

「もしもし、はいはい」

 ――おい、おれおれ。

「お疲れ様です。で?」

 ――で? じゃないだろう。上司に向かって、で? は。

「ああ、ですね。で? そちらは大丈夫ですよね?」

――もう、まったく。ああ、わかった。ちゃんと任せておけ。ワッ! ちちち。煙草が――。

 いや、やっぱり心配だ。

「ちゃんと? 本当に? 大丈夫ですか?」何度も念を押す。

 ――手筈は大丈夫だ。なんだ、おまえ、俺を信用していないのか?

「はい」元気よく答える。いっそのこと奈津美の方がまだましかも知れない。あの女なら抜かりなくこなすと思う。

 ――は? なんと?

「はいはい、大丈夫ですよね? とにかく頼みます」

 ――なんか、嫌だよな。ああ、大丈夫だと言ってるだろうが、何度も。しかしな、そう、そもそもお前の考え通りにいくか、どうか……。

「じゃ、と言うことで」

 ――おいおい、お……。

 いきなり携帯電話の通話ボタンを切った。課長の話は無駄に長くなりそうで、ほどほどのところで切る。本当に大丈夫なのだろうか? しかし、いまさら奈津美には頼めそうにない。ましてやあの女になんて、今更あり得ない。

 一抹の不安を抱えながら、駿平は携帯電話を切るとすぐに化粧室から飛び出し、テーブルへと向った。

駿平は席に着くなりグラスの水を飲むと「――それでですね」先ほどの続きを話す。

「はあ」落ち着きない、気のない返事を返す玲子にこれ以上の話し合いは無理そうだ。

「止めておきましょう」

「え?」

「いや、このくらいにしておきましょう」

「はあ?」駿平の一言に拍子抜けした玲子。

「うん。今日はこの辺で。午後から予定があるんでしょ?」

「ええ、まあ。――そうですか」

「じゃ、そういうことで」唇の両側を吊り上げほくそ笑む駿平。

「分かりました。先ほどの話、もう一度考えさせて下さい。なんと言うか、今の自分自身の気持ちを整理したいので」

「そうですね」俊平は呟くと自分の腕時計を見る。

「あの……」

「なにか?」

「伝えて下さいあの方へ」

「え?」

「今度、直接私にすべてを話してください。そもそも、こんな大切なことなのに代理を立てるなんて。本人の口からお聞きしたいです」

「あ、はい。そう伝えます」しっかりと返事をする。

「待ってます」そう一言だけ言い残すと玲子は席を立つ。今度はゆっくりと。それからバッグを抱えると中から財布を取り出した。

「いえ、結構です。ここは私が」と手を持ち上げ、玲子の行動を制した。

「そうですか、じゃ」玲子はその場で一礼し、駿平に丁寧に礼を述べると店を出て行った。

どう、解釈したら良いのだろう。うまく行ったということなのだろうか? よく分からないが、恐らく悪い状態は脱したと思って良いだろう。今の説明で秋山さんのことを少しは理解してくれた筈。彼女は取り乱したが、店をでる時の後姿に落ち着きを感じとった。なぜか、それだけでもかなり解決、いや前進したようにさえ思えた。後は課長が――。

 駿平は男と女、特に女性の心理、思考を理解するのはまだまだ自分にはわからないものだな、と腕を組む。

 懐から煙草を取り出し、火を点ける。深く長く胸いっぱい吸い込むといつものクラッと軽い眩暈がした。首をコキコキと鳴らすともう一口吸う。

 息苦しかった。ここへ着てから相手を気遣い、煙草を抑えていた。灰皿が目の前にあるにも拘らず、堪えているのが辛いこと。それでも多少は目途がついて良かった。

 ふと窓へ目をやる。道路を挟んだ通りの向かいにある花屋が目に止まる。

白髪の老人が店の店員から花束を受け取っていた。定年をとうに迎え、社会を卒業して、十分に人生を知り尽くした男が照れ笑いとも取れる笑顔で頭を下げる。店員と二人交互に頭を下げる。ふと、どちらが客か分からないくらいだ。

 俺もあの年くらいになれば、少しは女の気持ちが分かるいい大人になれるのだろうな。その前に課長の世代を超えなきゃならん。ただ、あのおやじみたいな性格になると絶対にあの老人のようにはなれない。絶対そう思う。

 駿平はコーヒーカップに手を伸ばそうとしたが、飲み干して残ってないのに気付き手を引いた。その手で吸い差しを灰皿におくと懐から携帯電話を取り出した。

 素早く携帯電話からメールを作って山根へ送信した。

『課長、今向かいました。よろしくお願いします。大丈夫ですよね?』

 予め、彼女との約束と予定を聞き出していたことだから、先回りして課長の確認を取るだけだ。少々、課長には不安が残るが。

 もう一口煙草を吸うと紫の煙を天井へと吐き出す。半分ほどになる煙草をゆっくりと灰皿で揉み消す。

 するとツカツカとウエイトレスが歩み寄ってくる気配を感じた。灰皿に目を向けていたがハッキリと分かる。手が伸びてきて目の前のグラスを引くと代わりに新しいグラスがコトリと置かれた。その瞬間思わず、ウエイトレスの胸元あたりのネームカードに目が行く。『御厨』、どこかで訊いた名前だな。何処……。あ、そうだ、奈津美と同じ苗字だ。ついでに顔まで見届けようと思ったが、既に後姿しか確認出来なかった。まあ、良いか。同じ苗字だからといってもまさか――。敢えて止しておこうと思った。それにしても奈津美とは大違いだ。

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