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第二話(応援) 3

3.


 その週の土曜日、朝八時三十分。

 野呂という男が言う待ち合わせ場所へ向かおうとしていた。

 母にすぐに帰るから、ね。お昼ごはんは食卓の上に準備しておいたから、時計の針が十二時になったら食べるのよ! と言い聞かせる。部屋のいたるところに張り紙がしてある。まだそこまで生活には不安は感じられないが、用心に越したことは無い。けれど最近、症状に歯止めが効かなくなっているように窺える。電子レンジでさえ使わせることを躊躇う。だから止むをなく出かける時は直ぐに食べられる物を準備しておく。当然、私が会社に出かけるときも同じで、間違ってもガスコンロなどは使えないように元栓も閉めておくことは日課となっている。本来なら常に側で生活の面倒を見て付き添っていたいけれど、生活費意外の治療代が莫大にかかっている。病院の施設で入院看護などしてもらえるほどの余裕はない。けれど、そろそろ本当に考えなければ――。

「おかあさん!」

「はいはい、大丈夫大丈夫、レイは心配性だね――」玲子の居る玄関へ向って歩いてくる母親。今日は安定して落ち着きのある返事を返してくれる。

「じゃ、行ってくるからね」

 気にかかる気持ちを抑え、朝早くから出かけた。午後から母の件で病院へ向うことも必要であるから仕方ない。折角の休みでも休まることがここ最近のところない。


 約束の喫茶店に着くとすぐにドアを開けることに躊躇した。

 けれどここに突っ立っていても何も解決しない。気を取り直し、店内に入ると幾つもの並ぶテーブルを見遣る。それらしい男の姿は見当たらない。私のほうが少し早く着いたみたい。少し安堵して席の空いている窓際のテーブルに足を向けた。

 席に着くとセカンドバッグを横の椅子に置き、テーブルに両手を乗せる。注文を取りにきたウエイトレスにダージリンを注文する。

はあ……。溜息をつき、窓の外をぼんやり見ていた。

 ふとあの事を思い出すと煮えくり返るが、野呂という男の電話での申し入れは私には非がないといった口ぶりだった。だから、今朝は男の顔がチラついても冷静に化粧もできた。

自分を薄く映し出す窓越しから車の行き交う通りの向こうに見える花屋で若い女性の店員が笑顔でラッピングしている姿に目が行く。その向かいにいる相手は若い男性。身につけている服からして二十代半ばかしら。これからデートにでも行くつもりだろうか? 頭の後ろを掻いて照れ笑いしていることに新鮮さえも感じる。あの笑顔、これから特定の女性にだけに見せる満面の笑み、となるのだろうか。私もそんな男性が――。

 運ばれたダージリンの紅茶を一口啜る。カップソーサーに置いたティーカップの縁に付いた口紅を親指で擦り払う。

母の事といい、なんでこんな事になるのだろう。私達親子ってとても不幸せなのだろうか。そう考えていると、何処と無く苛つく。あの男には間違っても謝ることなんて、――絶対にしない。喩え野呂という男が土下座をしたとしても。やはり今は思い出しただけで苛立つ。

 紅茶をもう一口啜る。少し温くなり苦味が増したような気がする。

いったいどちらが悪いのよ? 私は被害者よ。あの男が悪い。いや、あの男を紹介してくれた結婚相談所も悪いのだ。薄っすらと艶のある唇を横一文字に力強く結ぶ。


 三ヵ月ほど前、静香の結婚披露宴に呼ばれた。それはみせつけのように思える。私とサオリを含む三人は同期入社で誰が真っ先に結婚するか、とめいめいが牽制し、並々に注いだコップの水がかろうじて保つ表面張力のようであった。その最初に口火を切ったのは静香だった。

 静香の披露宴会場でサオリは、悔やしむどころかこれ見よがしと手当たり次第独身らしき男にアプローチ。それに二次会の約束まで取り付けているようだ。節操がないサオリが「遊び遊び、いい男を見つけてまだまだよ。結婚は別」日頃、結婚を意識しているが、所変われば発言も優柔不断。「あ、でもね結婚は安定よ。それも贅沢な安定」この女、まったくもって理解できない。ほんと呆れてしまう。付け加え同性であることに腹立たしさも湧き上がる。

 披露宴も終わりに近づき、静香の幸せな笑顔も最高潮。もう少しの辛抱。そもそも見せ付けの宴会もこれまで、早々に帰ることをここに来た時から決めていた。但し例外はサオリ。当然、サオリは声をかけた男達と二次会に向うはず。あれだけ声掛け捲りの女はここからが更なる盛り上がりタイム。

 披露宴が終わると、貰ってそう嬉しくない引き出物を抱え、宴会場を出てすぐに出口に向う。ホール床は硬いテラコッタ風のタイル張り。玲子のヒールがそのタイルを叩くと品のある乾いた音が発し、ホールに一際高く響き歩く。けれどその音は周り人並みの雑音に掻き消され砕ける。一人だけ残されていく自分が何か可愛そうに思えた。

歩きながら何が結婚よ! キャンドルサービス、父と娘、愛、男、酒……、くだらない。腹の中で毒づく言葉はやはり結婚に反抗するものばかり。なんだか目頭が少し熱くなってきた。

 不意に誰かが私の肩を叩いた。

「玲子、待ってよ!」振り返るとサオリが息を切らしてそこに立っていた。気付かなかった、すぐうしろにサオリが追いかけてきたことを。

「何よ」

「『何よ』は、ないでしょ!」

「もう終わったし、私先に帰るわよ」ハンカチで口を隠す。

「あれ? いつもの玲子らしくないじゃない」

「何が?」滲んだ目を見られたのかと思った。

「だってさ、いつもならあんた、いく? って」目に見えないグラスを持って傾ける。飲みにいく? といったふうの仕草。

「いや、よしておくわ」

「え! そうなの? ――そうね、あんた酒はいるとヤバイし」

「何が?」

「あ、いいの、何でもない。――でさ、玲子。訊いてよ、まったく話にならない」

 サオリは引き出物の紙袋を持ち直して訊いてもないのに勝手に一人ぼやく。含みを持たせた言葉を玲子にいいながら。

「あんた一人で行ったら?」心にもないことを言う。本心は少しくらいなら……、と誘いのないサオリにも苛立ちがある。「割といい男たちじゃない」やはり癪に障るのでサオリに言う。

「駄目、駄目、あんなの。これ持ってないよ。全部まとめてバイバイ」あれほど男連中と騒いでいたくせして、サオリの発言と指の仕草で全部の男、金持ってそうなじゃないようだ。

「あのさ、この際だから今度お見合いパーティ、行ってみる?」サオリが耳打ちする。

「それって、どこかの会員にでもならないと駄目じゃない?」どこにそんなお金があるのよ。あんた毎月にローンで汲々言っていたじゃないの。

「そうよ――、いつにする?」もうこれか、ほんと軽い女だ。勝手に一人で行けば。

「なんで? でも、どうしてそんな急ぐのよ」こんな切り返しの言葉、自分の年齢からして焦りのない台詞がおかしいけど。

「だってさ、同期の静香に先越されちゃったのよ。焦るじゃない。こう見えても私だって気にしてるのよ」全然そうは見えない。「でもまだ大丈夫」何が大丈夫なのか、サオリの言うこと意味不明。

「静香の旦那、銀行マンでしょ! 一応都市銀行マンに対抗するなら、それ以上の――、例えば証券マンか、そう医者よ。いや青年実業家なんてのもね。とにかく負けてられない」

 どうして、そう張り合うのよ。本当に馬鹿な女。所かまわず男に声をかけまわす女でも、結婚はしたいものなのか? けれどその馬鹿な女に付き合っている自分もその類なのかしら。

 会員といえば、世間でいう結婚相談所というところへ出向くのかしら。そうすれば理想の結婚が手っ取り早いのだろう。私はその誘いに言葉では否定しても内心軽い気持ちで頷いた。その時、母の事が少し頭にチラついた。そうね私もそろそろ、という気持ちも望んでいた。いや、母のことも私も人並みに幸せくらいは。

週明け月曜日、昼休みの合間にこっそりとインターネットで結婚相談所を検索してみた。会社に近過ぎても誰かに見られると気まずい。いくつもの中、手頃な結婚相談所を決めようと探した。その中から『ハッピーパートナー』が目についた。会社から自宅へと向う帰路にある訳じゃない。その反対、自宅へ向う反対の方向に位置する。ここならという気がした。仕事が終わると、こっそりプリントした『ハッピーパートナー』の用紙をサオリに見せると何処でも問題ないようであっさりと会員候補となった。

翌日、仕事帰り。二人で『ハッピーパートナー』の事務所を訪れ、一緒に会員として申し込んだ。

 安くない三十万円という大金をはたいてまで男を手に入れようとするサオリの気持ちにはなれないけど、藤沢とか言うカウンセラーの説明に「出会いは大切だ」、「無理しないでも……」とどちらでもいいわよ、と言わんとするその投げやりとも無理強いしない言葉に頷いている自分の右手にはペンを持っていた。

その後、サオリは直ぐに自分の気に入った男性とお見合いゲットしたにも拘らず、すぐに男を乗り換える。明け暮れず更に何人かの男を品定めしている。彼女は三十万円で鯛を釣ろうと思っているに違いない。鯛という高学歴、高収入の男を――。恐らく本当のパートナーを決めきれないだろう。しかし、どこで三十万円もの大金を彼女が準備出来たのか? 訊く気になれなかった。もしかしていままでの男達に貢がせた品物を質屋にでも持ち込んだのか? いや、そのくらいじゃ到底足りるものでない。恐らく現金を貢がせたのだろう。どこかの馬鹿な男にでも、――きっとそうに違いない。

 男性会員のファイルに目を落とし迷っていると、カウンセラーが紹介する秋山という男性の詳細に目をやる。大金をはたいて会員になり欲はあるものの、浮かれても。

 秋山という男性。

 介護の仕事をしている。私にとってもしかすると必要な男性なのかも知れない。それは母にとっても都合が良い気がした。しかし、写真を見てピンとも、これは! ともない。詳細な身上を見るうち、はて? と思う箇所が幾つかあったがこのくらいことは割り切りだと。選り好みしていても仕方ない。とにかく会ってみようかと思った。自分の年をおざなりにして他人の事をとやかく言う事無い。違うなら断ればよいはず。

 翌週、セッティングされたホテルのロビーで紹介された時、実物の男性は写真の印象とはだいぶ違うと思えた。どことなく穏やかな雰囲気。とにかくおとなしく物静かな人物。けれど割と感じがいい。些細なことは付き合っていくうちに慣れてくるものだろう、と感覚的にそう思えた。

 それがあんなとんでもない男とは思いもしなかった。その逆、あんな事を自分でもするとは思いもしなかった。とても腹立たしくもあり、自己嫌悪で憂鬱でもある。

その後、どうしても結婚相談所まで行く勇気が湧かなかった。行けば絶対に後ろめたさでその場にいる事が耐え切れないと思ったから。結婚相談所の野呂とかいう職員から電話を貰った時、あのまま電話口で退会したいとつい、言いそびれてここに来てしまった。


 ふと手首を返し、腕時計を見る。十時五十分、すでに約束の時間は過ぎている。午後早めには病院にも足を運ばなければならない。電話の口調からして誠実そうな人物だと思っていたのに、なによ待たせるなんて。人を馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。少し苛立ちながらもう一口紅茶を啜る。

カップをソーサーの上に置き、店の入り口へと振り向こうとした時、左視界に入る影。思わず驚き身を引く。

 改めてその影のほうへ目を向けると笑顔が似合う男が立っている。玲子は慌てて立ち上がると同時に椅子のすびく音が店内に響く。

 男の顔をみるなりすぐに分かった。いかにもそれらしい。電話をかけて来た結婚相談所の職員に間違いない。彼は私に笑顔を振りまいているのが見て取れる。当然のこと私の顔は知っている。

 カチッとしたグレーのスーツを纏い、縦縞のスプレッドワイドのシャツにレジメンのストライプタイでキュッと襟元を締める。右手にはビジネス用のダレスバッグを持つ。それとは似合わない紙袋を左の小脇に抱えている。

「矢倉さん? 矢倉玲子さん、――ですよね」当然分かっているのにも拘らず、それでも確かめるような口ぶりで私を見下ろす。

「ええ」

「良かった」男は感嘆している。すぐに頭を下げ、快濶よい声で「遅くなりまして申し訳ありません。『ハッピーパートナー』の野呂です。お電話差し上げた者です」

「あ、は、はい」言葉が出ない。

 男の口調と態度がワザとらしい。遅れたことに気分を害していた自分だが、この男に不快な気分は微塵も感じられない。それどころか、爽やかささえ感じられる。いやだ私、騙されない。決して惑わされない。こんなことであの事を許すとでも思っているのなら、甘いわ。でも――、割かし感じいい男。

「よろしいですか? ここ?」

「は?」つい見惚れていた。

「あ、いえ、座っても?」

「ああ、どうぞ」玲子は咄嗟に横の椅子に置いてあるハンドバックを手繰り寄せた。無意識に胸に押し付け、揉みくちゃにしているハンドバックに思わず自分の動揺に気付いた。 こちらを見る男の視線。動揺して引き攣っている頬をみられた。

「すみません。すぐに終わりますから、大丈夫ですよ」

「はは」やはり引き攣っている。「は、そうですか」倣ってお尻を居心地悪そうに椅子に座る玲子。

 すぐにウエイトレスが氷水の入ったグラスを運んできた。メニューに見向きもしないで男はコーヒーを注文した。

「改めて、私、『ハッピーパートナー』で営業担当をしています野呂です」と懐から名刺を差し出しながら微笑む。

 緊張しているのが自分でも分かった。名刺を両手で受け取りながら、ぎこちなく会釈を返す。

「どうも、この度は」と頭を深々と下げてくる。「お待たせいたしまして申し訳ありません。早速ですが、当社でご紹介させて頂いた件です。あの方、秋山さんとの件です」紙袋をガサゴソと音を立て、中からのし紙付きのお菓子らしい箱がテーブルに威張るように滑る。

 改めて言うまでもない。そんな物を受け取りに来た訳ではない。この場を速やかに終わりたい。言いたいことを伝えて、きれいさっぱりに何も無かった事にしたいだけだ。こんなものを貰っても私は困る。

 二人に分け入るようなタイミングでウエイトレスが男の注文したコーヒーを運んできた。男は運ばれたコーヒーを一口啜ると少し間を置いてから話し始めた。

「あの、唐突ですが良かったら教えていただけませんか?」そんな玲子の目つきを悟ったのか、声色を変えて探るような口調だ。

 男はテーブルに両手をつき「今回の件、差出がましい事とは思います。お二人の問題ではありますが……、ご紹介させて頂いた当社側の責任もありますし、私どもの不手際があるのでしたらお詫びをさせて頂きたいのです。事の内容を把握させて頂きたいので、いや、元より今日は、矢倉さんのお話をお聴きしたいのが大前提であります」言った矢先、狭いテーブルに擦り付けるほど頭を下げる。

 その行動に、つい手を差し伸べようと気持ちが先にたつ。この男に似合わないわ。それに周りの視線が冷ややかに突き刺すのが分かる。特にウエイトレスもこちらの様子を窺っているのが分かる。知らない人が見たら、まるで一方的に私が悪者に見えるじゃない。

「いえ、もう結構です。退会します」遠慮しがちに玲子は首を縦に折る。

「え?」

「もう退会しますから」気持ちを察してよ。

「退会?」私の言っている意味を理解してくれないようだ。頭を持ち上げる。

「だから、何度も言ってるじゃないですか。今後、結構です」ごめんなさい、だからもう止めて。

「ですが、このままですと矢倉さんと秋山さんとの話がですね――」虚勢したさっきまでの気持ちが崩れる。私の気持ちを察して。テーブルに手を着き、上目線で私を見上げないで。あの事はもう、ぶり返さないで、跡形なく白紙にしたい。私がいい、と言っているのだから、もういいじゃない。退会すれば、何も無かったことに出来るくらい訳ないのじゃない。いったい何が言いたいの? あの男から詳しく訊いているはずよね。この場で言う事ってあるじゃない、大変でしたよね、もう安心してくださいとか、あなたは被害者だから先方に重々言い聞かせておきます。本当に申し訳ありません。おっしゃる通りに退会も受理し、全て白紙に致します、でいいじゃない。

「もう、無かった事にして下さい。おねがいですから。あ、そうだ。解約金か違約金があるのですよね。幾らですか?」本当は違約金など払いたくもない。そんな苛つく気持ちを押さえ言う。

「いえ、そんな急に言われても。当社としてまずは、お客様の事態を把握し、行き違いなどありましたら、明確にしてですね……」

 ええい、しつこい!

「え、じゃ一つ言わせて貰います」男の話を折り、苛立ち言い放つ。

 玲子の返す言葉に少し身を引く男。

「あの男――、ゲスな奴」呼び捨てである。「はっ」日頃、言動や行動に気をつけていたのに、いけない、つい言ってしまった。明確どころか暴言といってもよい。参ったな。

「……」

「はぁ」でも、いいわ。事をはっきりしないとこの男は納得できないみたい。それは私の気持ちを無視しているように思えるのだが、このままでは埒があかないのなら仕方ない。

「一昨日までは、そんな風に思わなかったのですが、先日呆れてしまいました。あの男まったくもって信じられない。変態そのものです」言った後、鼻の穴から空気が抜けたことは悟られなかった。また言ってしまった。男は突然に彼女の豹変に驚いていた。

「……」

「だから――」

 玲子の話を折るように男が言う「秋山さんは気が小さい方です。確かにその類である事は否めません。少し風変りだが、世の中その位の人間はザラにいます」この男は何を言っているのかしら突然、相手の男性を下げ落しているのかしら――。

「でも、まあ……、そんなところ。うん、ありますね。オタクっぽいところが。そうですね。やはり秋山さん変人ってところ十分ありますね」腕を組み虚空を睨みながら、口元を歪める。

 あれ、まったくもってあの男を犯人扱いだ。言っている事が分かっているのだろうか? メチャクチャでどちらの味方だ。

「しかしですね、人に危害を加えたり、犯罪行為するような方ではありません。だから、どうしても教えてほしいのです」男は先ほどとは打って変わり態度を急変し、玲子の目をじっと見つめて言う。

 どうしたのかしら、この男の言葉にどことなく頷く。いや惹かれるような、吸い込まれるような目。開き直った凄みというより、目が本気だ。気持ちで私を押し倒してくる。いけない、いけない。こんな事を考えるようでは。

「私が嘘を言ってるとでも言うのですか?」それでも気を取り直して負けず言ってしまう。男の目を見ていると言えなくなりそうだ。玲子は眉間の皺を作りそっぽを向く。

「いえ、とんでもない。申し訳ありません」男は慌てて頭を下げる。

 駿平は胸の内で気持ちを落ち着かせようと懸命だった。ここで状況を悪くするのは不味い。神妙な顔つきで口を引き締める。

 クレームはビジネスに付き物だ。溜息交じりの声で、テンポを遅くするように会話を仕向ける。ルール何番目だったかな? クレーム対応マニュアルに基本に忠実に話を進めることにする。だが、思い出せない。こんな時に限って――。何れにせよ、誠意を持って相手に話をさせるように仕向ける事を意識して接すれば――。

「本当に大変申し訳ありません。お怒りは重々察します。どうか最初から話してもらえませんか?」申し訳ない気持ちで何度も頷きながら、彼女の口から真相を引き出すように仕向ける。誠意、誠意と言うが……、最後に頭を下げたまま相手の出かたを窺う。横を見て無視していた彼女がチラチラ駿平を見る。

 暫く間を置いてから玲子は男に向き直る。

「なにもそこまで頭を下げなくても、野呂さんが悪い訳じゃないし」苛々している彼女の右目の瞼がピクピクと痙攣を起こしている。

「いえ……」駿平は思わず出かかった言葉を飲み込む。口を瞑り、とにかく反論しない事に意識した。

 玲子は俯くと暫く間が空く。どうも腰掛ける椅子が妙に居心地が悪い。

業を煮やした玲子から溜め息交じりで「じゃ……、私もあの時のことを言わせてもらいます」

 テーブルの温くなった紅茶を玲子は一気に飲み干す。乾いた喉を潤す。ゴクリと喉を鳴らす。紅茶が喉元を過ぎるその音が一段と増す。それでもまだ足りないのか横にあるグラスの水まで一気に胃袋へと流し込む。喉の渇きというより腹を饐える為のものだろう。思わず顎を引いて目をパチクリする。

「ヒック!」とシャックリが漏れる。胸を何度か軽く叩くと少し落ち着いたようで、長く息を吐き出し、それからハンカチで口元を拭うと深く落ち着いた声でゆっくりと話し始めた。

「実は……、先月――」


 先月末、週末の土曜日。

 あの男と昼食をした。

 そう言えば既に四回も会っているわ。なんで早く気付かなかったのかしらあんな男だということを。

 男は小洒落たイタリアン料理を予約しておいてくれた。私は少し心に余裕も出てきた頃で気の緩みもある。しかし、男は物静かで相変わらず多く語らずの人物だ。最初は緊張しているのだ、と思っていたが何度か会ってもそうでないことが分かってきた。それでも誠実さが伝わる男性だと窺えた。そうだな。そんな人柄のほうが本来結婚するには最適なのかもしれない。サオリみたいな選り好み、私自身、そんなことは出来そうにない。そんな性分でないと自己分析はしている。

 それから、二人は図書館を巡り、美術館に赴いた。暫く展示物を鑑賞して時間を潰す。一通り見終り美術館を出ると喉が渇いた私の様子を察しての事、男が手頃な喫茶店を探し始めた。この辺りならは私も詳しいが、あえて男の案内に任せることにした。

 数件の店を覗いた。何処も満員で二人座る席もなく適当な店が中々見当たらない。この辺り以外には私が知る限りの喫茶店は少ない。この人、詳しくないのだろうか、きょろきょろと落ち着きがない。やはり私がそれと無く促せばよかった、と思っていた。暫く歩くと街の景色は変わり、また喫茶店らしき店が見えてきた。男の横顔を見るとホッとした様相がわかった。

 更に店に近づくにつれ、店は思いのほか派手である。派手というよりケバケバしい。この店はパスね。顔を逸らしながらそのまま通り過ぎるのかと思った矢先、店の前で男が立ち止まった。あら、どうしたのかしら? おもむろに彼に目を向ける。男は店の中を窺っている。

 空いた口が塞がらない。そこはメイド喫茶である。

 パタッと足を止め、その場から離れようとしない男。まさか、何を考えているの? こんなところに女の私と同伴する店ではないはずなのに。

辺りの視線を横目で確認して男を見遣る。ガラスにへばり付き、ある一点を凝視している。その視線の先にメイドの服装をした女がいる。呆れた。私に目も呉れずただ一点を凝視している。首を左右に振る。ガラスが吐き出す息で曇る。私と居ることを一切忘れ、なりふり構わずである。

 私と男、二人の側を通り過ぎる人達の視線が冷ややかだ。訝しそうに横目で薄く笑って過ぎていく人もいる。どうしよう、恥ずかしい。いやだ、いったいこの状況どういう事。呆れて思わず拳握っていた。


 駿平は玲子の話を聞きいっていた。息苦しくなり、唾を飲み込むと咽た。

玲子もそこまで言うと喉が渇いたらしく、身を乗り出しカップを覗くと紅茶がないことに気付く、さっき飲み干したことも忘れるほど。すぐに視線を逸らし、氷も溶け、汗の掻いたグラスに残る水を一気に乾いた喉へと流し込んだ。それもゴクゴクと喉まで鳴らして。

相当息巻いて話しているので余裕はなさそうだ。飲み干したグラスをテーブルに強く押し付けるように置くと玲子は再び話を続ける。


「それからね……、その場で彼と分かれました――。だって、そうでしょ! その場の状況を考えたら誰だったそうするはずです。呆れて……」

 気が付くと私は一人歩いていた。立ち止まると地下鉄の入り口の表示が目に止まる。はあ、いったいなんなの? 手が痛くなるほど拳を握り締めていた。その場で俯くと地面が滲んで見えた。頬が涙で濡れていた。思わず地面を蹴る。悪いことにその勢いでヒールの踵がポキリと折れてしまった。ますます情けない。

 腑に落ちない。何故、あの男はメイド喫茶の女を? そうか、やはりオタクなんだ。やっぱり、最初に会った時……。

でも……。いや、そんなことはない私の思い込みだわ。何かあるのだわ。そうよ、きっとそうに違いない。一人、ムシャクシャしてあてど所なくセカセカと歩いた。男をその場に置き去りして来たこと。少なからず後悔していた。――いや、あちらから謝ってくるのが筋じゃないかしら。

道路に目を向け、手を上げる。踵の折れたヒールをズルズルと引き吊りながらタクシーを拾った。

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