第二話(応援) 2
2.
ふと手を止め、溜息をつく。パソコンへの先月の営業成績データ入力を主任から頼まれ、昼休みまでに及んでいる。事務所には誰も居ない。
大丈夫かしら――。
矢倉玲子は右手の拳をみる。少し赤みが残る中指と薬指の付け根が時折痛む。改めてゆっくりと手を擦り眺める。
はあ、どうしてあんなことを。――でも、私は悪くないわ。だいたいあの男が悪いのだ。それにあんな男とは思わなかった。子供の頃から負けん気が強いといつも言われていた私。そんなことで幾度となく失敗、自分でも分かってはいるが、つい、が多い性格だ。
頬杖えをつくとぼんやりと数字の並ぶパソコンのモニターを見ていた。画面の隅々まで数字がびっしりと並んでいる。横に目をやるとクリアファイルが積み上げられている。モニターの数字は、ゲームソフトウエア販売契約をしている取引先の売上データ資料が埋められている。玲子はそのデータに基づき販売戦略を企画する業務をしている。平たく言えば、その数字をデータとしてパソコンへ入力し、営業データの販売実績表を作る。表を作るだけで、彼女自身、発言もなく販売企画などといった役割などの大袈裟な事はしていない。当然責任も評価もない。彼女は膨大な入力作業の能力が他の誰よりも速いという評価だけだ。必要とされるのはそれだけだ、と本人も分かっている。
机の携帯電話が鳴る。正確にはマナーモードで振動する携帯電話。手に取り携帯の液晶表示を見る。セキュリティ上の為、会社には持ち込んではいけない携帯電話であるが、特別に許可を貰っている。母の介護の為だ。
やはり母の通う病院からだ。今日は週一の通院日だ。その事で何かを伝えてきたのだろう。携帯電話を受けるのに少し戸惑った。
「はい、矢倉です」
彼女の母親は救えない病気、記憶が欠落して失くしていく病気、アルツハイマーだ。まだ初期症状で入院までは至らず、自宅治療をしている。時折介護の方に来て頂き、身の回りの世話をしてもらっている。本来であれば、毎日自分が身の回りの世話をしたいのであるが、二人の生活費を稼げるのは自分以外に誰も居ない。
母子家庭で育った玲子にとって母が唯一の肉親である。その母がこれといった手立てもなく、回復見込みのない病魔に蝕まれて既に八ヶ月が過ぎようとしている。突然だった。それが今の現実でもある。
「ええ、はい、――そうですか……、はい」
「――わかりました。では、今週の土曜日に時間を作り、参ります。私一人で宜しいですよね? あ、はい、――わかりました」
「態々、連絡ありがとうございます」電話を切るとさらに肩が落ちた。
送話先から聞こえる淡々とした声に怒りもなく、落胆が強まるばかりである。胸に広がる不安は薄っすらとしたものだったが、今は深く滲む不安、いや落胆といったほうがいい。溜息を何度ついてもつき足りない。母の様子を見ていると目頭が重く、溢れそうになる。それどころか本人を前にしてどうしょうもないことに怒りさえ覚える。とにかくどうにも出来ないのである。時が経つにつれ、私の事、いえ母本人、自分自身の事すらいったい誰なのか分からないようになる母を見ていられない。だから、責めて母の介護をしておきたい。少しでも――。
拳が痛む記憶、あんな事があってもやはり共に歩くパートナーも早いところ必要だと考える。自分勝手ではあるが、母の事を考えるとこのままより二人の方が良いと最近考えている。介護も一人より二人。けれど私の母の面倒見てくれる相手は居るのだろうか? はぁ、あんな人でなかったら良かったのに。
ブラインドから差し込む柔らかな日差しが事務所の天井に広がる。やはり私、不味かったかな……、もうあそこには行けないな。
手に握る携帯電話が再び振動した。
まだ、何か言い忘れたことでもあるのかしら、と携帯の表示を見る。誰だろう? この電話番号に記憶がない。躊躇ったが受話ボタンを押す。
「もしもし?」
――もしもし、矢倉さんのお電話でしょうか?
「はい」
――ハッピーパートナーです。
「え?」
――理想の結婚を提案する『ハッピーパートナー』の野呂といいます。
「あ、はい」
――すみません。今、お電話宜しいですか?
「ええ、あ、はい、ああ」
――大変申し上げにくいことですが……。なんとも歯切れの悪い口調でそれ以上話が進まない。
一瞬、思い浮かばなかった。病院から電話、その事で全然気持ちに余裕が持てなかった。自分でも動揺を隠し切れず露に声となる。どうしょう? あのことで連絡をよこしたのだろうが。
――あの……、お分かりだと思いますが、秋山さんの事です。
今度は淀みがなく男は話す。やはりそうだ。真摯な口ぶりのようでもあり、馬鹿丁寧な口調でもある。付け加えて嫌味が無く冷静だ。
「何か?」背筋を伸ばし、硬直する姿勢で椅子に座りなおした。あの男のことが一気に不安となり胸の中を駆け巡る。
野呂という男の申し入れは、先ずは何とか時間を割いてもらいたい、と。下手で話す男の声が心なしか私側に非がないように受け取れた。
耳から携帯電話を離し、少し考えた。それから肩を落とすと同時に溜息も深く着いた。
「ええ、わかりました」ならばと頷く自分がいた。
携帯電話を切り、ぼんやりと天井を見遣る。
「わっ!」ふいに手に持つ携帯電話が再び振動した。しどけなく物思いに耽っていた玲子は思わず驚き表示を凝視した。
あれ? 今度はいったい誰からだ? 見覚えない携帯番号だわ。
一瞬躊躇ったが、受話器を耳に当て応える。「――もしもし」耳に聞こえる声。
――ああ、あの時の。