第一話(派閥争い) 3
3.
「えー、わが社のビジネスは男女の恋を結婚という素晴らしい形にするビジネスだ。特化して他の支部とは違い……」
毎朝のいつもの光景。今朝はどうやら山根課長が息巻いているからなお朝礼が長い。手首を返し、腕時計をチラッと見る。すでに九時を少し廻っていた。
ここでは課長が支店長も務める。月末本社で行われる当月の数値目標、最終着地の詰め、本社の営業報告会でこってりと絞られる。成績がよければ、翌月は毎日の朝礼が短いが、営業成績が少しでも落ちるとダラダラと長い。
俺のいる支部は例年数値目標をクリアしている。課長の顔が幅をきかせている、とカウンセラーの遠藤ばあさんからの話。どうやら、山根課長が伝説の課長と呼ばれる由来があるらしい。いったいどうやってこの数字をたたき出しているのか、今ひとつ分からないようだ。やはり裏があるに違いない。きっと何か繋がりが? そんな与太話を誰が信じる。
とは言うものの、課長の話は概ね脱線する。要点が出鱈目でとても伝説と言う人物には当てはまりそうに無い。それに何とも始末が悪い。岩見の言う疑いは絶対にあり得ない。
課長と向き合って横一列に並ぶ職員は俺を含める四名。専門カウンセリング、女性二名、四つ年下の少し生意気な経理担当の奈津美、そしてプランニングや企画営業の駿平である。
カウンセラーは、先月五十歳になった現役の主婦、遣り手婆の遠藤と独身三十八歳の藤沢。
遠藤はどこにでもいる中年ばあさんで特に駿平には影響を及ぼさない。いつも気にかけてくれるので有り難く感謝している。ただ一つ言えば、服装や身に着ける装飾品がケバケバしい。見栄えがとても派手の一言に尽きる。その遠藤の姿は新宿界隈のオカマバーのママと言っても通用する。前職時代から自ずと他人の事に首を突っ込む事、三度のメシより好きであった。今の職業が天職である事には間違いない。両名の普段の業務は主に会員の登録後からの面接による身上相談。相手の希望を聞きだして理想とする。いや現実的理想とする相手を登録会員の中から紹介していく。男女の仲を取り持つ仲介業。ほんと世話焼き好きな人には持って来いの仕事だ。けれどどうしてもあの女、藤沢には首を傾げる。
藤原という女は全く持って遣りにくい存在だ。この仕事向いていないと思うくらい愛想がない。そう、細く横に伸びる眉と薄く引いた口紅くらいの化粧に対面した時、レンズの奥底深くから威圧感で押してくる細い目が冷酷な人物。で、いつもムスッとした顔でとても人相手の仕事とはほど遠いものである。人の世話が微塵も感じられない。いつも尻拭いするのは駿平自身だと思う。
一番の印象は黒縁眼鏡が不思議と似合う女だということ。そもそも黒縁眼鏡をかけているだけで何と無く斜に構えているように見える。細身の体に纏う服装は遠藤ばあさんとはまるで反対の地味なモノトーンの黒を基調とするパンツスーツでその身なりが更に後押しをする。時折、乱れる長い黒髪は、女性の色気を醸し出すどころか昔の怪談に出てくる怨念の鬼畜女といってもいいくらい。いや、すこし言い過ぎか……。いや、そのくらいは言いたい。
両名の女性、ともに以前は大手保険の外交員をやっていた。遠藤ばあさんは藤沢の同僚であり、元上司でもある。遠藤ばあさんは大の世話好きの力量を買われ、今の会社に引き抜かれた。遠藤ばあさんの紹介もあり藤沢も引き抜かれる。まあ、その引き抜きに一役買ったのが山根課長だ。
俺は主に外回り営業と新規会員の受付け応対、企画、お見合いパーティの受付けと進行役。時として業界関連のオブザーバーとして課長と共に行動する。
この手のビジネスは女性が良いとされているが、忙しい時はそうは言ってられない。時として男手が必要となる。カウンセリング役として応対する事も多い。その補助要員として俺みたいな営業がいる。
「……よって、環境問題もクリアしなきゃならん。そこでエコとは……」
「あのー、課長」奈津美が口を挟む。
「ん?」
「そろそろ……」と奈津美が壁時計を指差す。他の職員も揃ってチラッと見上げる。だが、藤沢だけは黙って課長の話を訊いている。
もう一人、癪に障る女がいる。奈津美。御厨奈津美。
この女は生意気なことこの上ない。俺より半年前にこの会社に入社した少し先輩だ。課長と同じくらいの役職気取りで幅を利かせている。
だが、仕事はきっちりとこなす。その辺りがこの女の信用を築きあげている。悪い女じゃないがまあ、とにかく生意気な奴。
「おお、そうか、すまん。では、今月もお願いしますよ。みなさん。ジャンジャン決めちゃってよ。なんだもうこんな時間か――」山根課長が手を揉みながら口惜しそうに言う。 まだ話し足り無いような口調だ。
解散してもう一度腕時計を見る。すでに九時三十五分を回っている。今日は長くなりそうだったな。奈津美が止めなきゃ、一時間くらいは平気で話す。いつもは三十分くらい一人で話している。課長の横に逸れる無駄話が多い毎日の朝礼だ。
駿平は自分の席に戻ると気持ちを引き締める。ロートレック調のフレームで、大枚を叩いて買ったばかりの眼鏡をかけ直す。
さて――、昨日の続きだ。
課長に数字目標について相談する前に出来る限りの資料は纏めておきたい。今日中にはなんとか仕上げないと不味い。昨夜危うくとんでもない事になりそうになり、キャンペーン企画の資料が途中で放り出したままだ。今朝、事務所の入口に横にある傘立てが倒れ、散らかっていた。おまけにドアに貼ってあるポスターまでも破れ、紙片が散らかっているのは昨夜のガキの仕業だ。
今朝、出社したとき、中腰になりながら、片付けをしていた奈津美と目が合った。訝しそう顔して俺を一瞥、いや睨んだ。あんた何かしたんと違うのか? と言わんばかりに。身が引けたがそ知らぬ顔した。
かぶりを振って今朝の奈津美の突き刺さる視線を頭から払いのける。パソコンの電源を入れ、営業鞄から会議資料を探し、昨夜の続きにとりかかろうとした。
目の前のビジネスホンがチカチカと点滅、視界に入る。すると遅れて呼び出し音が鳴る。少し旧型のビジネスホンは着信表示ランプと鳴動がズレている。そろそろ買い換えて欲しいところだが。
鳴り響く。何度も何度も呼び出し音が鳴る――。
おい、誰もいないのか? 体を捩じりながら周りを見る。ん? 課長が奈津美からお茶を受け取るのが見えた。それ以外、他には誰もいないようだ。頭の後ろを掻き面倒だと思った。この二人に期待しても、と舌打ちして手を伸ばす。
資料に目を落とし、パラパラと頁を捲りながら受話器に手を伸ばし、耳に当てて応える。「はい、ハッピーパートナー、野呂です」抑揚のない素っ気ない、でも愛想よい声で応える。
――もしもし、山根君いる?
山根君? 誰だこいつ? 馴れ馴れしい口ぶり。 ――瞬間、考えたが思い浮かばなかった。
「あの、どちらさまですか?」
「富山だが」
富山? 何処の『富山』だ。偉そうに――、山根? あ!
「あ、はい。し、暫くお待ち下さい」駿平の引き攣った口が縺れた。
富山常務の声だ。瞬時に受話器を塞ぎ、保留ボタンを押す。
「課長! 山根課長ー! 電話です。本社の富山常務からです」身を捩り、振り返えろうとした背後に居た山根課長に驚いた。
「わーッ! ビックリした。」思わず受話器を投げてしまった。駿平は両手を万歳している。
課長が『ニッ』と歯茎をむき出し驚きもせずこちらを見下ろしている。このおっさん、いつもの間に――。
「課長! ビックリするじゃないですか」声が引っくり返ったまま駿平は狼狽する。
「いや、ね……。おまえとシケモクしようかと思ってさ」課長は人指し、中指と親指をスリスリと擦りながら言う。
「あ、そうですか」駿平は素っ気なく返す。
「しかし、イカンなー。そんな電話応対じゃ」
「はあ……」ゲンナリする。
「駿平の電話応対。不味いな、それじゃイカン!」
はいはい、どうぞ続けて下さい。駿平は無視して受話器を拾う。
「いいか! 僕を真似て。『はい、あなたの愛のパートナーをお探しします。ハッピー♪ ハッピー♪ ハッピーパートナーの野呂です』って言わなきゃ」目を瞑ると別人が話しているようだ。目を開ける。オエー。はっきり言ってキモイ。しかし、この顔の何処からこんな声が出せるのか? 世の中の七不思議だ。
どうしても慣れない。いや、慣れたくないのが本音だ。この受け応え、アホ丸出しだ。くだらない社員研修を受けて、それをまともに言う奴がいるか。
「さ、復唱して!」駿平を全く無視して言う。
「はあ……、」
課長は両手を揉みながら「はい、あなたの愛のパートナー……。ハッピー♪ ハッピー♪ ハッピーパートナーの野呂です」すかさず、俺の顔を覗き込む。
「いいかね。『ハッピー♪ ハッピー♪』ここのところがポイントだからね。明るく」チッチッチと人差し指を揺らす課長。
朝っぱらから、アホっぽく言えるか。俺をジッと見たままの課長と視線を逸らす。
「エヘン……」咳払いをひとつする。駿平の顔はあからさまに嫌そうである。
もうひとつ溜息をついて「あ、――はい、あなたの愛のパートナー――。ハッピー♪ ハッピー♪ ハッピーパートナーです」
駿平が言い終わるとすぐに課長が首を横に振り指摘する「あ! ダメダメ。自分の名前が抜けているじゃないか。誰が受けたか分からないじゃない。困っちゃうな」今度は人差し指を自分の唇に持っていく。
気色悪る! あんたはオカマか! その素振り誤解されるよ。
あっ! とする駿平「――あの、課長、ところで電話ですが……」握っていた受話器を突き出すと、課長は何が? 惚けた顔。
「富山常務ですが」
――すると少し間が空き、はっ! と息を呑む。急に課長が真顔になる。
「ダメじゃないか! 早く言ってくれなきゃ困るよ!」駿平の握る受話器を奪い取りにかかる。
「はあ、そんな……」今そう言って課長に真っ先に伝えたじゃないか。
何処でどうして困るのだ。まったく――。
「あ、はい……、滅相もない……、……………はっはっは、またまた常務…………」駿平の机の横で畏まってひたすら話す課長。何時も直立不動の姿勢で話す。
駿平は無視してパソコンに向う。まったく、自分の席で話せばいいのに……。
「こちらの女性は如何でしょうか? うん。絶対にお似合いだと思います」そうかな、本当にそうだろうか? 似合っているのか? 心にも無いことを俺は言っているようだが。
折角、お似合いだと思える女性を推薦しているのにも拘らず。これで三人目だというのにまるで何で登録したのかわからない。
「先日、河崎さんのお写真を先方の女性もご覧になって頂いております。先方の方、河崎さんの印象が宜しく、お会いしたいといっております」無反応だった女性の顔が頭を過ぎる。あの時、無理強いして女性に拝みこんだ。写真をみるが河崎さんの印象は無反応。でも、恐らく、似合っていると思う……。
「河崎さんの理想に近い女性だと思われます。理想! 現実の女性が貴方をお待ちしております」駿平の押しの営業声。つい、成績達成の為に声に力が入る。口調とは違う内心、不遜な下心で相手の腹を探る。
――…………。
黙っている様子が受話器を通して伝わる。相手も躊躇する反応が遅い、どうしょう。不味いなこのままだと……、懸命に会員男性に謙って薦める。「どうでしょう、来週にでもセッティングなど……、如何ですか? 無理にとは申し上げませんが……。でも、絶対に!」考える間を与えては駄目だ。食い下がるが、強引すぎても相手が引く。押して引いての会話だ。
このままでは埒があかない。「まずはお会いになってみては?」少しほど背中を軽くトン、と押す。ここまで話してもう一度様子をみる。
――そうですか? 本当にそうですかね?
「勿論です!」自身漲る言葉で語気を強める。
――でも、いや……、やっぱり……。
「自信持って下さい、秋山さん。あなたの人生、ここで道開けるのですよ。チャンスですよ。ここが決め所ですよ」
駿平も本心少し迷うが、ここぞとばかり口先が勝手に動く。
――それは……、そうなんですが。
内心、舌打ちした。じれったい男だな。
「いえ、先方の女性、別の方とお会いになるつもりはないと仰っていました」
紹介する女性は他に三人ほど写真を見比べ、全員に会ってみたいと言っていた。
「今を逃すと、恐らく……」
――恐らく? 何か?
「いえ、何でもありません」もったいぶって、わざと濁す。
――ま、待って下さい! でも……。
「じゃ、決まりですね」ここで一気に畳み込む。
――ええ、じゃ、お願いします。
「そうですね。先ずはお会いしてみるだけでも。では、後ほど日時と場所のご連絡を差し上げます」やっとだ。
――あ、……はい。
「河崎さんのご連絡の時間帯、お昼休み時間が良いと伺っていますので、その頃メール差し上げます」やっと力が抜ける声で言う駿平。
――お願いします。
「こちらこそ。では、宜しくお願いいたします。後ほど」
相手は気圧されている。駿平は右手の拳を握る。
受話器を置く駿平、全身にドッと疲れが押し寄せる。上手く行きそうであるがメチャクチャ神経を使う。これで、良いのか? こんなやり方で本当にいいのか? キッカケが大切だ。男と女共々の背中を少し押せば後は流れに任せる。それでも、つい考えてしまう。陰々滅々と煮えきれない。やはりこの仕事向いてないのかな――。
三ケ月前、会員登録して頂いた男性。河崎さんへの紹介のアプローチを終える。そもそもこの男性の職業は派遣会社で営業の仕事をしているはず。ならば人の世話を焼くことが得意な筈なのだと思えたが、こと女性ともなると妙に奥手になる。というより臆病そのものだ。けれど相手が相手で、仕事ならこうは無いのだろうが。けれど大抵はこう言った手の会員が多いのも否めない。この結婚に絡む業界はこれが普通なのだ。
ふと過る。
不味い、湧き上がるように思い出したキャンペーン企画、まだ仕上っていない。鞄を開きガサゴソと探す。机の端に放ってある資料を掻き集め、パソコンに再び向う。
「しゅんぺー」背後から嫌な声が聞こえる。
無視していたがとても馴れ馴れしくすり寄る課長の気配に攻防出来ず首を捻る。どちらが年上なのか、上司部下の関係なのかわからない。常務とのやり取りで苦みばしった顔をして額の汗をシワシワのハンカチで拭っていたはずなのに、もうこれかよ。やはり、伝説は伝説なのかもな。この課長に伝説は有り得ない。指二本突き立て、口の前でゆらゆらさせる。
一瞥して無視してやった。それでも、態度は変らず、馴れ馴れしい。
「なあ、モク」
「はぁ?」
「『はぁ?』じゃないだろ。モクだよモク」人差し指と中指を突き立て、スパスパと煙草を吸う真似をする。まるでその辺にいるオヤジだが、妙にその姿がリアリティだ。臭い芝 居をするダサ役者にも負けないくらいの演技だ。どうも調子が狂う。分かっているが惚ける。俺のところにきて背中を軽く一発叩くと肩に腕を回してくる。指をカサカサと擦り、貰い煙草を要求してくる。毎度、このオヤジいったいどんな神経しているのだ。人の見ていないすきに、こっそり煙草も掠める。
それでも溜息を着き、不本意ながらにもそんな課長に引き摺られるよう後ろに続くと廊下から非常口の階段踊り場へと向う。またいつものお決まりの場所だ。不思議とどこか逆らえずでいる。しかし、早いとこキャンペーンの仕上げしないとヤバイ、勘弁してくれよ。
鉛色の雲が立ち込めたどんよりした憂鬱な空だ。今にもポツポツと降りそうだ。
今日も朝から目覚めが悪かった。昨夜、あんな事があってアパートに戻った時間が遅かった。企画書に目を通していたが疲れ果てていた。どうしても空腹を抑えきれずカップラーメンを啜ったのがいけなかった。胃がもたれて、吐き気がする。
ふと横に目をやると怪訝な顔ひとつもせず薄ら笑いする課長。
「なにか?」駿平は惚けて聞く。
「いやー、なんでもない。それより、モク」
「え! またですか!」呆れる。たいそう驚きもしないが、駿平のリアクションはわざとらしくオーバーアクションだ。
――がしかし、一向に効果なし。おいおい、いい加減に貰い煙草は止してくれよな。ゲンナリしてしまう。大体立場が違うだろ。それも年上で上司とくれば、『吸うか?』とひと言くらい言ってほしいものだ。このおっさんよ――。
面倒くさく首筋を指で掻きながら、煙草を差し出す。そして、揺すると一本の煙草が飛び出る。すかさず箱を強く握りそれ以上の煙草を引き抜かれないように閉める。
「お、今日もモクが上手い。♪モクらはみんな生きている♪ なんてね」課長の薄笑いする唇。歯茎がむき出しになる。この闊達で挙措などうしようもないおっさんだ。
「ん?」
一本の煙草をどころか二本も抜き取ろうとする。瞬間に指先に力を籠める。
「ん、ん」駿平が煙草を取られまいと攻防するが、それ以上に負けまいと課長の指も攻める。
二人、目が合う。
駿平の阻止する指の圧力がハードパッケージ箱を徐々に変形していく。煙草の箱が潰れそうになる。課長は力を緩め、仕方なく諦めると後ろ頭を掻きながら、懐からライターを取り出し、火を点ける。
煙草の煙が目に沁みる。俺を一瞥した。
「いやー、美味いな。実に美味い」
そりゃ、貰い煙草はそうだろう。
「なんだ?」惚けた顔をする課長。
「あ、いや何でもないです」
課長は常に煙に巻かれていないと生き延びることが出来ない男である。鰹や青魚が昼夜寝ずに泳ぎまくるのと同じかもしれない。それにしてもライターを日頃から持ち歩いているなら、煙草を買えよな。毎朝貰い煙草は勘弁してくれ、俺みたいな平社員に。
チンケな事をする器の小さいショボイおっさんだ。だが、好かれている。どういうわけだか好かれている。女性が多いこの業界、にも拘らず不思議と慕っている職員や本社の人間までもが。
早いとこキャンペーン企画の資料を纏めて仕上げたいところだが課長と二人、ここで屯するかのように煙を燻らせる。この憩いの場所で二人屯する事が多い。この時ばかりは男二人で虚しく空を見上げる。さっきまでの状況とはまるで違う男の世界だ。
時折、藤沢が避けるようにここで喫煙するのをみたことがあるが、決して一緒に吸おうとすることは無い。
踊り場にこっそりと置いてある灰皿の前で煙草を吹かす。酷く汚れた空缶は課長の実家からの仕送りで送ってきた紀州みかんの缶詰。
ここに配属された翌日から駿平に馴れ馴れしい口調で話しかけてくれ、非常に親しみを感じたが大きな間違いだと気付かされたのは一週間もしなかった。
山根課長、独身。たしか四十七か八歳だったと思う。いつも課長の頂上辺りに目が行ってしまう。どうしても目が離せないのである。煙草は髪に悪いとある鬘メーカーの調査に出ていたように気がしたが、課長の頭は手遅れだと思う。それはすでに諦めているようだ。首から耳、モミアゲ辺りとチラホラ混じる白髪。そこからなだらかな丘陵地帯は、もう不毛の地帯と化している。絶対に。その丘陵には、とってつけたような鳥の巣みたいな鬘が居心地悪そうに乗っかっている。いつかこの手で鷲掴みしてみたい。偶にそんな願望に駆られる。
高校時代、担任の教諭に同じ衝動にかられた事があった。まさにそれだった。黒板に向う後姿に悪意はないのだが、クラスの奴らには興味そのものだった。どうしても不自然な頭部に釘付けになり、俺は、いや全員はいつもモヤモヤしていたに違いない。かき消そうとするが、授業中も手が付かない。クラスの奴らは分かっているのだが、なかなか証明する者がいない。
クラスのやつらにも何度となくチャンスがあるものの、それでも担任教諭の頭に手を伸ばす勇気のある奴はなかなか現れなかった。なお更じれったい。まさか、本気で行動するなんて到底考えられない。あの額の生え具合と髪と髪との不自然な境目。けれどそのモヤモヤは払拭できないままで青臭い青春は終わった。別段、恐ろしい訳ではなかったが、ただなんとなく。それを解き明かしても何も残らない焦燥感にも似た気持ちに徐々になっていった。
青臭い想い、徐々に薄れていったとはいえ、あの時の気持ちが課長の頭を見遣る度に湧き立つ。成し得なかった想い、とまではいかないが、いつかその証明を、と。
それなのに、何時だったか課長と並んで煙草を吹かしている時、後ろから近寄った奈津美が言った「駿平と課長って親子みたい。まるでそっくり」と指差して言った台詞にメチャメチャ、ムカついた。
背丈くらいは、と思うが奈津美を睨み返してやった。
「だって後ろ姿が似てる」全然悪気がない奈津美は二人を交互に指差して笑う。課長もまた同じく、まったく動じず同士哀れみと横目でヘラヘラと笑う。
おいおい、こんなふた周りも歳の離れたオヤジと一緒にしてくれるなよ。事もあろうか、この禿げオヤジと。
ふと空を見上げ想像してみる。親父の頭と横にいる課長の頭を重ねてみる。苦々しいがあえて集中して頭を重ねて想像する。
親父は中学校で国語の教員をしている。考えてみれば生徒からどう思われているのだろうか。恐らく、自分の親父も課長と同じなのかも知れない。ショボイオヤジだと思われているのだろうか。人の事などいえない。だから、独身のままのほうがよいと思う……。
「ん、ふむ」思い浮かばない。
最近、父親と会っていない。だからだ、思い浮かばない。けれど奈津美の言うとおり課長と父親は似ているのだろう。だからそんな言葉が躊躇いもなく言えるのだろう。
親父も今年確か、五十歳になったばかりだったはず。課長と同世代だ。今は独り身で過ごしている。俺が高校一年の夏、離婚した。母と二人の間に何があったか、どうかは分からないが、恐らく母の浮気だと思う。親父に同情をしたが、以外にも親父本人は全然堪えておらず、他人事のように思っている。
二十七歳と、まだまだそんな自分を追い立てる必要はないが結婚が良いものかどうか、両親のことを思い、折に触れると考えてしまう。だから独身を通すのだ。面倒なことを今は考えたくない。
先月、五年付き合っていた二つ年下の彼女、アヤと別れたばかりだ。と言うより、行方不明のまま。なお更始末が悪いのかも。人には、上手い言葉を使い、偉そうな事を言ってのける。男と女の間柄を悟りきった言い方をする女でざまあない。しかし、『人生とは出会いがあれば』と続くアヤの言葉があるのも事実だ。
アヤという名前、おれのタイプお淑やかで本名は綾乃。財前綾乃、とどこかのお嬢様ふうに聞えのいい名前だ。ところがまったく、まったくもってまるっきりの正反対だ。パンクのイカれバンドでメインボーカルを担当していた気性の荒い女だった。大学の連中は、おれ達の事を囁く者が「いつ見てもおまえら、やっぱ、全然不釣合いだな」全くだ。言われなくても自分でもそう思っていた。
彼女と出会ったのは、大学四年のコンパだ。入学したときから軽音楽サークルの篠田が手を揉みながらにじり寄る。何のことはない、合コンで頭数合わせに俺を誘っただけの事だ。パッとしない軽音楽サークルの連中五名と同数の女、のはず。都内の介護系の専門学校二年生の四名。
アヤは、トンデモナイ女。合コンにくるようなタマじゃない。コンパが始まり一時間ほど遅れてやってきた。来るなり俺の横を陣取った。座るなり何も言わず、黙ってガン飛ばしてきた。その勢いに気圧され俺は目を伏せる。アヤは下から視線を持上げながら俺を見続ける。酒臭い。すでにこの女、出来上がっているのか。遅れてやってきてにも係らず、すでにだいぶ酔っている。
膝まで紐で編み上げたヒールの高いブーツ、ピッタリとした革のスーツ、両手首の革ベルト、首周り銀色のクサリがとぐろを巻いている。色白だが、とんでもないアイライン。目の周りパンダのような黒塗り。頬のチークは紫とオレンジで燃えあがる。ポテっとした唇に黒色の口紅をヌラヌラとしている。右瞼の上にピアス二個、左耳たぶに三個。極め付けが舌に一本の銀。髪は言葉で言えないほどバサバサで鶏冠みたいだ。とにかくとんでもなくヒドイ。これがファッションか? 小学生低学年に厚化粧の女性を描かせたら、おそらくこんな女お化けになるだろう。アヤ、いやこの女、専門学校の生徒か? ありえない! 絶対にありえない!
アヤは、運ばれた生ビールを一気胃袋に流し込むと事もあろうかすぐにゲップを吐く。
俺をジロッと睨みポケットに紙切れを捻じ込む。そして右手でパーをする。何んだ? と思い顔を近づけるといきなりヘッドロックされた。
”払いないよ! 五枚だからね”
”ふがふが”アヤはグイグイ俺の頭を締め付ける。
”あたいのコンサートを見に来なきゃ、許さねーからな。きーてんか? このタコ! なあ、みんな!!”
”おおー”どこかで怒号する威勢ある声、空気を割るように店に響く。
”ふがー、ふぐむぐ”俺が暴れるとアヤは、酔いのせいかよろける。その瞬間スポッと頭が外れる。首をコキコキしているとアヤは俺に抱きついてくる。払いのけると今度は泣きながら俺の胸にしがみ付く。
駿平が深く溜息をつく。勘弁しろよな。首を左右に捻りながら右手で首を揉み解す。ほとほと疲れる。ポケットから捻じ込まれた紙切れを取り出し、『モダンキッド! 爆発ライブ』? と印刷された五千円のチケットを見ていると殴られた。
”来いよ!”又、後ろ頭を叩く。今さっきまで泣きじゃくっていたはずだが全くケロリだ。
”分かった、分かった”痛てー、このヤロー、女だからと言って許さんぞ。
”分かった。だから、な。コンサート行くから”この酔っ払いが!
こんな事だったら合コンなんて、もう絶対に参加するもんか! と篠田を睨みつけようと探すと篠田の唇が赤い。目を擦ってもう一度篠田を見る。
篠田の唇や頬に口紅が塗られ、横の女に小突かれている。周りを見ると他の連中も様子が変だ。煙草を咥えた女へライターを差し向けるやつ。ヘコヘコして女にお酌するやつ。女の腕が首を廻り硬直しているやつ。遠くをぼんやりみているやつ。サークル連中の胸ポケットやジャンパーの懐にチケットが見える。おかしい――。
どうやら、介護系の専門学校生なんて嘘っぱちでここにいる女全員、同じバンドのメンバー? まさかアヤと同じイカれバンド『モダンキッド』のメンバーか? それで俺がヘッドロックされた時に聞こえた威勢のいい声がこいつらだったのか。
最初は大人しい顔していた女達だが、アヤが来て酒が回ったところで状況が一変したのだ。チケットを買わされる為に仕組まれた。合コンという嘘だったことにここに居る全員が気付いた。但し、篠田を除いて――。
アヤがこの店に着てからその場が修羅場と化した。飲んで飲まされて酔いに酔っていた。恐らく周りから見れば変な男と女の集団だと思われているに違いない。客の視線がさっきから気に掛かるがもうどうしょうもなく手遅れだ。
気がつくと居酒屋の次のカラオケに居た。
途中から記憶がない。
ゴツゴツとマイクで俺の頭を小突き、疑いたくなる怒号の掛け声をバックに悪魔とも思える唸り声でサザエさんを歌うアヤ。掛け声をかける女も居酒屋に居た時とはまるで形相が違う。間が合うと焼酎を突き出し、無理やり飲まされそのまま自分が何処にいるのか意識がなくなった。
目が覚める。
思わず起き上がる。いったい何処にいるのかすぐには分からなかった。目を擦り、頭を振る。「イッツツ……」重く鈍痛が脳天を走る。両手で頭を抱える。俯いて辺りを見回す。――おれのアパートか。ふー、短く溜息をつく。
ふと横から鼾が聞こえる。目を移すと同じベッドの中にアヤがいた。
なんで? なぜ、こいつがここに?
それから、アヤがそのまま居座る。
なんで自分の家に戻らないか? と聞いたとき。その時点で、浮浪者一歩手前状態だった。家出状態にあるアヤは友達のアパートや下宿先を転々として、転がり込んでは追い出されるといった具合の生活を繰り返していた。なんで? と思ったがアヤは稼いだお金を全てバンドの運転資金に回して、いつも金がない。とにかく、女も嫌がるくらいだから行く場所がない。寝泊りできるのなら、男の部屋でもへったくれもない。
意外だったことの一つに料理が取り柄だった事だろう。俺の居ない間に勝手に冷蔵庫を開け、中にあった余りもの材料と米を焚いて手料理を作った時、こいつ真剣、料理得意じゃん。特に味噌汁なんて半端なく上手かった。
「うめー」
おお、涙が浮かぶくらいに旨かった。母親に負けないくらいの手際の良さもあるが、それ以上に料理が上手だと感動した。
「馬っ鹿じゃない。味噌汁くらいで涙する奴、今時いない」俺の横で煙草を吹かすアヤがさり気なくひと言。
何処でこんなの習ったかのか? 問い詰めたが惚けてはぐらかした。
それから同居、同棲? どちらともつかない共同生活が始まった。
二年くらい経ったある日。バイト先から帰ってきたときにチラシの裏に書きおきを残し、『大阪へ行く』とだけ、アヤが突然居なくなった。その後一度だけ、大阪の『ブラックヘル』というライブハウス、時々前座している。あれから連絡の一つも寄こさない。それきり、そのまま。
とんでもなかったが寂しい、アヤ――。
人には愛だとか、恋だとか、偉そうなことを言う商売に少し嫌気もさしている。俺は女不振になっている気がする。アヤや親父のことを考えるとなおさらだ。
突然、埃っぽい物が顔にかかる。横をみると課長の煙草の灰が飛んできた。
「ブッ! ブッ。ペッペッ」
「悪い、すまんな」課長がニッと笑う。一気に現実に引き戻された。
吸いさしをみかん灰皿に捻じ込む。おもむろに裏口を見下ろす。裏口の長椅子辺りにゴミや缶ビールが転がっている。よく見ると女の下着のようなものも見える。昨夜を思い出すと何故か背中からぶるった。あいつらここで何してたのだ。今時の高校生はいったいどんな事を――。朝から考えただけでつい悪寒が走る。
首を振り、ゆっくりと持上げる。
青空に薄く覗いている。東の空に浮かぶ雲が流されて行く。どうやら、一日雨に降られず何とか凌げそうだ。
「さて……」と課長が腰に手を当て背中を逸らす。「ててて、てっ」背筋が伸びるというより丸まった猫背のまま、膝だけがくの字に折れる。肩で溜息を落すとコキコキと首を鳴らし、課長がゆたゆたと事務所に向うその猫背の背中を見送る。
腕時計を見るとすでに十一時を回ろうとしている。慌てて転がるように事務所に戻る。