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第三話(騙す) 9

9.


 約束の待ち合わせ場所へ向う。

 紗江子は黒岩がいつも指定する待ち合わせとは違う場所を今日は指定してきた。品川駅からタクシーに乗りここまで来た。さほど遠くないこの埠頭は最近夜でも人通りが多い。駐車場も拡張され週末は賑わいを見せていた埠頭は入り口からすぐに屋台が軒を並べている。土曜日ともなればさらに賑わいを見せるらしく口コミでもちょっとしたスポットになっていた。暖色系の街灯が乾いたアスファルトを照らす。どのベンチにも先客がいるようで邪魔にならないよう紗江子は場所を選んだ。それでも薄闇の中でも黒岩がすぐに分かり易い場所に立つ。

 腕時計を見る。時計の針は二十時四十分になったばかり。二十一時の時間までにまだ二十分もある。まだ少し早いけれど居ても経ってもいられずついこの約束の場所へきてしまった。

 左肩にかけたハンドバッグの取っ手をぎゅっと握る右手。思わず力が入る。はあ、どうしよう。肩で溜息をつく、いくつもの数え切れない溜息。つけば着くほどどうしても落ち着かない。私の気持ちが一歩前に進もうとすると、彼の気持ちがそれとは反対に一歩後ずさるそんな気がしてならない。いや、一進一退というより最近はどんどん彼が遠のいていく気がする。

 落ち着かず、再び腕時計を見る。時計の針はさっきから全然進んでいない。この腕時計、壊れてない? コツコツと叩いてみる。――そんな訳ないわよね。はあ、早く時間が経たないかしら。

 時間の経過に苛立つ紗江子。又、ジワジワと不安が胸いっぱいに広がる。

 本当にこれで良かったのかしら――。あの時、彼を目の前にしてつい勢いで口走った。それでその時は良かった。けれどこの場に居ながらして迷いが生じている。時間が経てば経つほど迷いの方があの時の気持ちをみしみしと押し潰していく。いったい、どっちが良かったのだろうか? 改めて冷静になろうと呼吸を整えるようにした。

 暫くして又、時計の針を見る。今度は時計の針が二十時五十五分になったばかり。あともう少し。あと少し――。


「課長、いいんですか? これで。これで本当に良かったんですか?」不服そうに駿平が課長に噛み付く。どうしても納得いかない様子で絡む。

「ああ、いいんだ」

 苛立ちを隠しきれない駿平と課長二人、屋台の物陰で小声、で遣りあう。だが、課長はまったくもってのんびりと構えている。

 駿平がどうしても絡みたくなる訳にはここで黒岩の首根っこを捕まえよういうことだ。紗江子と会うときが現行犯に近い。彼女が黒岩に何か金品などを渡すだろう。或いは何かその決定的な確たる瞬間を狙おうという計画だ。山根が考えた計画は刑事張りの捕物丁だ。けれど彼女の目の前で黒岩の素性を突きつけるということは彼女の気持ちを無視した乱暴なやり方であることは間違いない。課長がそんな乱暴な手段で解決しょうとしているのか? 意図が掴めない。

 相変わらず人通りが多い場所だ。通り過ぎる人が怪訝そうな目で過ぎていく。二人の遣り取りはこの人ごみにはさほど影響ない。それより駿平は取り分け変哲のないスーツ姿だが、課長の山根はサングラスとトレンチコートを纏っている。五月の半ば差し掛かろうとする初夏、日中は蒸し暑くエアコンが必要になってきた季節だが、夜まだまだ寒い。夜風は晒した肌を冷やす。肌寒いからコートは分かるが、レイバンのシューターのサングラス。黒岩軍団の渡哲也気取りはないだろ。おまけに指のでたレザー製のドライバーグローブまでも。夜のサングラスにドライバーグローブ、異様な怪しい人物と思われても仕方ない。とにかく本人は刑事か、探偵気取りの出で立ちである。目立つことこの上ない。付け加えて言うと左手にはソースがたっぷりの串に刺さった烏賊焼きを持つミスマッチ。

「そもそも、なんでここがわかったんですか? 教えて下さいよ」

「あ? まあいいじゃないか。あいつに頼んだんだ。……いや何でもない」しらを切る課長に陰りのある顔つきになる。

「え! あいつって?」

「いや、何でもない。とにかくないない。――あ、烏賊のソースが垂れたじゃないか。おまえが話しかけるからだぞ!」トレンチコートに垂れたソースに大騒ぎしている。

「課長! 静かに」口に指を当て駿平も焦る。

 だいたい、本当に今日のこの時間と場所まで本人に訊かないと分かるはずの無いのだが。ここへ向う車で散々食い下がったが、課長は口をまったく開こうとしなかった。で、これだ。挙句の果て有耶無耶にする。そう言えば、課長が車に乗り込むとき携帯電話の会話終りの言葉に……むら? とか聞こえたような気がした。

はっ、思わず洩れそうになる。もしかしてカミムラ? あの無言電話の相手も確か、ムラカミと言ったような記憶が……。

 けれどどうして? あのムラカミという人物が課長に何を教えてくれたのだろうか?

「いいんだ、俺に任せておけ」そう言うと課長は烏賊焼きの串を側の屑入れに放る。振り返るとすぐに二本の指を駿平に向けてきた。

 思考している駿平の顔間近に指二本が向ってきた。その向ってきた課長の指に驚いた駿平が身を引く。

 びっくりした。この場においても要求する課長、仕方なく懐から煙草を取り出し課長に差し向ける。まったく課長の突然の行動に虚を衝き呆れる。今度は銜た煙草に火を点けろと要求してくる。世話の焼けるおやじだ。

 駿平は火の点いたライターを差し向けながら「課長。何か隠してないですか?」

「なにを?」

 惚ける課長にもう一度質問を投げかけようとした。「外部に誰かと繋がっている人物は……」と言いかけた駿平の質問を「居ない!」と途中で折る。ぴしゃりと言い切った口調だが、何かを隠そうとするのが感じられた。煙草を一気に吸う仕草に違和感があった。

 その課長の横顔を見ながら、落ち着きなく煙草を銜える駿平。その目に疑念を拭い去れない視線があった。


 少し肌寒い。薄手のセーターだけで良いと思っていたけれど寒い。海風が彼女の晒した肩から腕の体温を奪う。

 紗江子は両手を交差させ二の腕辺りをさする。その瞬間ハンドバッグが肩から落ちそうになる。思わず右手でハンドバッグを掴む。肩にかけなおしてハンドバッグのファスナーを引くと一センチほどの厚みのある茶封筒を確認する。小さく溜息をつくとハンドバッグの底へと押しやる。

手首を返し、腕時計を見る。

 そろそろだわ。


「課長、もうそろそろ時間ですよ。二十一時でしたよね。十五分ほどですよ」

 相変わらず煙草を吹かす課長に向って囃し立てるように言う。

「ああ、わかってる」

「あの男、もう来る頃じゃないですか?」

「ん? んんん。――そうだな」長く吐き出す煙草の煙。それに爪楊枝も銜えている。

 気の無い返事だな、大丈夫か? こんな時に。ああ言っていたが本当に上手く解決してくれるのだろうか? 悠長に煙草を吸っている場合ではない気がするが。

 どうも落ち着かない。つい何度も手首を返し、腕時計を見る。薄暗くてよく見えないが、恐らく針は二十時四十八分を過ぎたところを差している。さっき覗いたときから五分と経過していないようだ。

 駿平の焦りとは裏腹に暫くその状態にまだ変化は訪れない。

焦る気持ちを押さえようと溜息交じりの深呼吸を着き、首を左右に折ってコキコキと鳴らす。

 いつの間にか課長は人目も憚らず鼻を穿る。その穿った指を屋台の外壁に塗りつけているように見えた。駿平は見て見ぬふりをして課長との距離を空けた。

 暫く時間が流れた。

 課長が煙草の吸い差しを放ると革靴のつま先で揉み消す。

コートの襟を整える。そして物陰からスッと飛び出した。

 不意に山根が動いた。

 背筋を伸ばすと握る右手を口元へ運び咳払いをひとつ吐く。スタスタと彼女へと向かって歩き出した。

 その突然の行動に慌てて追いかける。山根の背中から視線を落とし、腕時計を見た。時計の針は二十一時にはまだなのに。え、どうして? 


「紗江ちゃん」

 突然の呼び掛けに驚き、紗江子は身を固め萎縮した。

 紗江子は硬直した身を解きながらゆっくりと声のするほうへ体を捻る。そこには彼女の待ちわびた人物はいない。

落胆するというより疑いの眼差しでじっと見る。薄暗い中、彼女の目に確認できた人物、山根。片手を上げサングラスを懐にしまう。山根の後ろに慌てて続く野呂がスーツの襟を正してこちらへ向って駆けてくる。

 あれ、山ちゃんだ。それに野呂さんも一緒だわ。なぜ、ここに? 思わず右手で口元を隠す。二人いったいどうしてここにいるの? 

「や、山ちゃん? なぜここへ?」彼女はまだ口を押さえたままで言う。驚きを隠しきれず動揺している。

「いや、こいつがな」横にいる駿平へと親指を立てた左手をくいくいとする。ムッとした顔で課長を睨む駿平が横に並ぶ。

 二人は紗江子と対峙した。

「来ないよ」山根がぼそっと呟く。

「え?」一瞬動揺を露にした。

「あの人は来ないよ。――来れないんだ。分かっていると思うが、実は今回の事で紗江ちゃんに迷惑掛けられないと言ってな、断りにくくて。こうして代理で来たんだ」

 なぜそんなことを言えるのか? 課長は申し訳無い言葉で言う。

 山根に対峙する紗江子は暫く俯いたままでいる。それから溜息交じりで、ふう、と肩が大きく上下した。

「分かっていました」

「ん? 何を?」紗江子の言葉に少し遅れて反応した課長。

「彼のこと……」

「そうか、なら話が早い」

「いえ、彼の本当のこと」

 予想していなかった返事に駿平も驚く。

 ――そうか、「もしかして?」と課長は腕を組み、黙りこくる。山根が口を開いたのは暫く経ってからだ。横でイライラと山根を見ていた駿平が痺れを切らし、身を乗り出そうとしたときの事。神妙な顔を解き溜息交じりに言う。


「紗江ちゃん。既に分かっていたのか。黒岩の事?」

「ええ、まあ」一言頷く紗江子。

「じゃ、結婚詐欺だということも?」

「じゃ、最初から……」

紗江子の顔を覗き込む。

「いえ、最初は分かりませんでしたが、何度か会ってお金の話が出るようになってから、何となくおかしいな、と」今度は首を縦に振る紗江子。

「そうだったか、既にね……」

迷いを払うように「はい、覚悟も決めていました。でも、嘘であってほしい。間違った事実であって欲しい。迷いながらも真実を知りたくそれだけでここにきました。結果はどうであれハッキリと」

 どうやら彼女はすでに知っていたのだ。どうやって確信を持ったかは分からないが黒岩が変だということを薄々感じとっていたのだろう。その落ち着いた目が腹を決めていたことを表している。けれどその予感が的中したことが残念でならない顔つきだ。

「彼の弟さんの事故の件で少し違和感を感じ取っていました。確信を得たのは、弟さんはまるで別人のようで彼とは似ても似つかない容姿だったから」堪えて浮ついた声で彼女は言う。彼女はやはり、彼の弟さんと会ったときにすでにおかしいと感じ取っていたようだ。

「やはり、そうですか……」口を挟むように駿平が相槌を打つ。

 紗江子は黙って頷く。

「すまんかった。俺がもっとしっかりと確認しておけば、こんなことにはならんかった筈だった」項垂れる課長。それを見ていた駿平も頭を下げる。

「何言うのですか。そんな事、全然ないです。山ちゃんは悪くないです。それに紹介してくださった『ハッピーパートナー』も野呂さんも皆さんも悪くないです」

「そうか、――そう言われてもな」

「そう思っていますから。そう思わないと遣り切れないし、自分が惨めになるだけです。だから、もう……」

 彼女の目に涙を堪えているのが薄暗い中でも分かる。

「――そうか、ともかく本当に悪かった。だから、蹴りはきっちりとさせて貰った。もうこれで……」課長が頭を下げる。山根に倣って駿平もう一度、深々と頭を下げる。

 彼女は奥歯を噛み締め、堪えて俯く。薄闇でもその表情は見て取れた。

「蒼井さんにはこのことを言わないで下さい」山根に向って訴える。山根は首を持ち上げ彼女を見上げる「彼女には縁がなかったと、言うことにしておいてください。すみません、お願いします」今度は紗江子が頭を下げる。

 そのまますすり泣く声が暫く続いた。堪えていてもやはり堪えきれない気持ちが溢れる。

 俯く彼女の髪が海風で揺れる。

 山根が彼女に歩み寄ると崩れるように山根のトレンチコートにしがみ付く。それからも暫くすすり泣いていた。彼女は堪えていた。

やりきれない表情で課長は夜空を見上げじっと黙っていた。海風で揺れる課長の少ない髪は飛んで行きそうで堪えている。

「送っていこうか?」気障な台詞を小声で囁く。それも低い声で。

「いえ、大丈夫です。なんとか」

 彼女は山根から離れると深く頭を下げる。顔を持ち上げると同時に踵を返す。そのまま駐車場のほうへとすたすたと歩き始めた。

 遠くになった紗江子の姿が小さくなる。それから人ごみに消えてしまったのを確認してから山根が呟く。

「もう既に解決していたのだ。いや、解決しようと心に決めて今晩、奴に会うつもりでいたのだろうな。ふぅ……」

「課長」駿平が呟く。

 山根に歩み寄りながら「なぜです」

「なんか、辛いもんだな」駿平の質問を聞き流す。

「けれど結婚詐欺って初めから分かっていれば、こんなことにはならなかったのですけど……」

「仕方ないさ、結婚相談所は、興信所でも探偵事務所でもない。むろん警察でもないからな。お客さまが登録する時、はなから疑ってしまってはいかんだろう。信用第一のこの業界だ。男と女、止むを得ないことだが、今回ばかりは滅入るな」

「そうですね。私もそう思います」

「さて一服するか」そう言いながら指を二本突き立てる。またかよ。いつもいつも貰い煙草で課長本人が自分で買ったのを見たことが無い。煙草を差し出すと課長は当たり前のように引き抜く。続けて言われるまでもなくライターも差し出す。

 ふむ、と頷く課長の銜えていた煙草に火をつけると一息長く煙草の煙を吐き出す。煙草を銜えなおすとトレンチコートの襟を立てる。サングラスを懐から取り出し掛ける。歩き始める山根を駿平が追いかけるように歩く。

「ところであの男、黒岩とはどうした、いえ、どうケリをつけたのですか?」

「あ、あいつか」

「ええ、会ったんでしょう」

「あ、会ったよ。一昨日にな。今日のこの場所も時間も訊き出した。あいつに言ってやったよ。この場所に行くなら警察に通報するしかない。しかし、罪を認め彼女に会わない事! それとうちの会社を即退会すること! 他の人から騙し取ったお金と今後の身の振り方を考え警察に自首するんだ、その方が罪も軽くなるはず。とな、いろいろと脅してやったよ」

 課長のどこにそんな脅しができるほどの凄みがあるのか信じられなかった。そう本当に脅したのだろうか。

「恐らく明日にでも警察に行くはずだ。あ、それから会社の登録データはすぐに消すな。警察が来たとき一応の証拠資料として対応しないとな、隠滅したら逆に疑われるからな」

「じゃ、うちに警察来るんですか?」

「まあ、多少仕方ない。おれのほうから本社に報告しておく」

「そうですか……」

「心配するな、手は回してある。だが、覚悟しておけ」しょげる駿平に渇を入れる。

「ところで彼女、気持ちの整理がついてもう一度出会いを求めるかな?」

「ああ、そうだな。彼女本当にいつかな――。女も男も分からんもんだからな」

「そうかな……、そんな時が訪れたら――。いや、もう出来ないかな」首を捻りながら駿平は溜息を着く。

「わからん、わからん。ふむふむ」腕を組みひとり頷く。

 このおやじのほうが全く分からん。

 でも、そうかもしれない。

 男も女も恋に傷ついても懲りない生き物だ。彼女とて又、同じ。一つ終わっても何れ次があるだろう。見渡せば人間、男と女。横を通り過ぎる女性も、もしかして明日は別の場所で偶然出会うかもしれない。アヤもひょっこり帰ってくるかも知れない。

 んな訳ないか――。

 もう少しやってみるか。喩えビジネスと割り切ってもきっかけを作るならまんざら悪くないかもしれない、この仕事。

 ふと、もしかして、カミムラという人物と課長で黒岩に何かしたのか?

「ところで課長」

「なんだ?」

「カミムラ、って知りませんか?」

「カミムラ?」

「そうですよ、カミムラ」もう一度訊きなおす。

「はて?」

「惚けないで下さいよ」しつこく問い詰める。

「はいはい」駿平の質問を聞き流すのを観念したのか耳の穴を穿る山根。

ふいに立ち止まり、駿平に向って振り返ると人差し指を突き立て「誰にも言うなよ。ま、エージュントだ。」

「エージュント?」

「ああ、そうだ」

「何のエージュント?」

「エージュントは、エージュントって言ってるだろうが」口を尖らせて連呼する。山根は踵を返すと、歩き始めた。とてものろのろと歩く。

 課長の背中を見送る「でも……」それ以上訊き返せなかった。岩見から訊いた何かの組織? 裏への繋がり?

 駿平は納得いかず、その後もしつこく食い下がるが答えは同じ。呆れたように仕方なく山根の後を歩いた。

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