第三話(騙す) 6
6.
約束の場所へ向う。電車からタクシーへと乗り継いで向う。
時計の針は午後十時三十分を丁度さしている。週末のせいか道路が混んでいるけど、十五分もすれば約束の場所には着けるはず。
今日は自棄に落ち着かない。
いつになく今日は約束の時間が遅い。それだけのことで落ち着かないのではない。昨晩遅く黒岩から携帯へ電話があった。いつもはメールでのやり取りが多い。けれど昨晩は珍しく電話で短めの言葉「午後の十一時を近くに来て欲しい」とだけを告げて携帯を切った。それ以外に会話はなく、いつになく迷いがありそうな声に。
それだけではない。最近、府に落ちないことが多い。
困っているとはいえ、いくらなんでもやはりお金の話を切り出してくることなんてどうなのか? 相談所で知り合ったのだから、そんな変な男が登録されているはずがないし、山ちゃんの会社だということもあるが。
待合わせ場所に着くと紗江子は運転手にタクシー代を素早く支払って降りると小走りで向う。腕時計に目を落すと午後十時五十分、まだ余裕があるけれど気が急いた。
約束の場所に着くとすでに黒岩が先に着ていた。足元には煙草の吸殻が三本ほど散らかっている。私に姿に気付くと慌てて銜えている煙草も足元に投げ捨て踏みにじる。
「すみません。遅れて」
「こちらこそすみません。こんな遅くから申し訳ない」黒岩は神妙に頭を下げる。
「そんな」
――そう言えば、彼が煙草を吸う姿を見たことがなかった。今夜はやはりいつもとは様子が違う。遅い約束の時間といい、煙草を吸う姿。紗江子は何ともいえない不安が胸の中で広がりつつあった。
少し沈んだ口調で「少し歩きますか」紗江子の返事も聞かず、黒岩は顔を叛け、一人歩き始めた。
一瞬、その行動の意味が分からず、彼との距離を縮める為に後を追いかけた。
黒岩の横に並び、さりげなく見る。彼の顔は蒼白で口数が少ない。時折、何かをいいたげな素振りを見せるが、鉛でも呑まされたように唇が歪む。なかなか切り出さない黒岩はいつもの彼らしくない。黒岩は気にもせず歩く。
紗江子は考えた。すでに遠い昔となる留めておいた記憶。その記憶の欠片が繋がり始めた。呼び起こしたくない記憶が頭の一面に広がる。鼓動が大きく波を打つ。その不安が広がりつつあることを阻止したく、足を止め、腹を決めて問いかけた「黒岩さん。なにか?」
その呼びかけで背筋が伸び、後ろへ引き戻されたような反応と顔になる黒岩。その場でピタッと足を止めた。
暫くそのままの距離を保った。横を通り過ぎる人達は全くといっていいほど二人に無関心だ。
黒岩が踵を返すと言い難そうに切り出した「実は――」
対峙する二人は二メートルほど離れており、声は聞こえるが、少し訊きづらい。紗江子は黒岩へと歩み寄り「弟さんのことで? あれからなにか?」
「いえ、その件はなんとかなりました」すぐに否定する黒岩。
「じゃ……、ほかに何か?」
黒岩は俯いて口を硬く閉ざしている。夜も遅く薄暗いが横一文字に引き締めた口元に何か迷いが見られ、決断しかねている。
かなりの時間を要した。いや、恐らく大した時間ではないだろうけど、私の中ではとても長く感じられた。
「実は――、仕事で損失しました」
「え? 今なんと」
黒岩は唇をひと舐めした。唾を飲み込み、溜息交じりに話を続けた。「実は、会社へ損失を与えたことで責任を取らされる事になりました。背任行為として問われて、その……」言い淀んだ黒岩だが続ける「子会社への出向と減棒、もしくは損害額を会社へ支払うということ。だから仕事で今、とても厳しい局面に立たされています」
彼の話――、意味が分からない。けれど彼は今、とんでもない状態にいることだけが大きく私を貫き、砕く。
「私、どうしたら?」胸に広がる不安を抑えつつ黒岩に聞く。
「紗江子さん。――白紙にしてもらえないかな」
「え!」
「二人のことは無かった事に――」
「なぜ?」虚を衝かれた。彼を分かろうとしているところに言われた言葉に耳を疑った。
「だから、二人はもう会わないほうが……」黒岩がなるだけ視線を合わせないように項垂れて「恐らく、あなたにとんでもない迷惑が掛かる。――そうじゃないにしても間違いなく苦労させることになる」おもむろに煙草を取り出し銜える。
「でも、どうにかならないの? 私の出来ること。何かない? 何か?」歩み寄って聞く。
「いや、恐らく無理かも……」そう言いながら黒岩は煙草に火を点ける。何故、そう簡単に二人のこれからの事を決めるなんて、――どうして? 私には言われてすぐに理解できない。だって本当にこれからじゃないの? 彼の言うこと、何故なの?
それから又、かなりの時間と思えた。やはりものの数分だろう。この短い時間でぼんやりとだけど事の成り行きに逆らえないのかもしれない、と思った。はあ、私は深く溜息を洩らし俯く。街頭に照らされたアスファルトが滲んでみえる。鼻を啜る。こんなことで……。どうにもならない。何処にどう、ぶつけようのない腹立たしい気持ちを堪えつつハンカチを取り出す。頭の奥のほうで妻子がいた男のことが浮かんだ。あの時とは違う。ただ、今は『別れ』という二文字が漂う。目の前にいる黒岩はあの時に男とは違う。そのことは強く言える。自分が気持ちをもてば乗り越える事態だと思う。そうだ。不安となり漂う気持ちを払いのければ。
「でも……」ふと黒岩の口元が動いた。
「でも? でも何?」紗江子の言葉に反応した。
「いや、やはりよそう。これは決していい考えではない」かぶりを振る。
「はっきり言ってください」
「こればっかりはね……」口を歪め、黒岩は夜空を見上げる。目を閉じると眉間に皺を寄せる。「やはり、無理だ」溜息交じりに呟く。
「いや、私になんとか出来ることがあるはずです。会社に損害を与えたといってましたよね?」黒岩の否定する言葉から何か解決策を見出す紗江子。鼻を啜りながら言う。
「ええ、まあ」
「損害、それって賠償問題ですか? もしかしてお金で解決できるのですか?」
その言葉、お金に黒岩が反応したのを紗江子は見逃さなかった。
やはり……。いや恐らく私からお金を借りることを気にしているのだろうか。きっとそうに違いない。ここへ来るまで胸に広がる疑念を抱いていたが、彼に限ってそんな事はある筈がない。私が勝手にそう思い込んでいるだけ。
「もう、いいですよ。止しましょう。こんな僕のことに首を突っ込まないほうが懸命です」残り少ない煙草を躊躇いもせず足元に投げる。軽く革靴の爪先で踏みにじる。
「とにかく、私に出来る限りのことをさせて下さい」
「ほんと、もういいですよ。今日、今ここで終わりにしましょう」
「いえ、ここで諦めたら後悔します。きっと後悔する」
紗江子の目。愛情というより熱意に気圧されたようだ。
黒岩は間を置いてから、紗江子をベンチへ誘い二人で腰掛けると詳しく話し始めた。自分の仕出かした事、会社への損害、自分の今の状態から今後の予測される事等と。
「分かりました」すかさず紗江子は頷いた。
「本当に、あなたって人は――」黒岩は紗江子の手を取り、体を引き寄せた。黒岩の胸に蹲る紗江子の背中に両腕を回し、右手で風に靡く黒髪を撫でると唇を重ねてきた。