第三話(騙す) 3
3.
それから、一週間後の土曜日に二人は都内のビジネスホテルの喫茶ルームで向き合っていた。
先週の食事のお礼を電話で伝えると黒岩から会えないか、と自然な口調で誘ってきた。
会って十分としないうちに神妙な顔で黒岩は突然話を切り出した。
「紗江子さん、実はね。隆志という弟が……、事故起こしちゃったんだ」
「え、異母弟、弟さん、あ!」
「うん、まあね。大した事は無いのだが、昨晩遅く連絡をよこしてきてね――。一昨日話しておいたと思うのだけど――、明日からの香港出張が。参ったな――」
とても歯切れが悪く要領を得ない黒岩の言葉。それより、「隆志という弟」? 不自然な言い方。そうか、異母兄弟だからそんな言い方をするのだ、とそう思った。
「それで?」
「ん――、ぶつけた相手が悪くてね……」黒岩は腕を組み唸ったまま横一文字に硬く結んだ口から次の言葉が一向にでる様子がない。俯いて暫く思考したのち「はぁ」と溜息を深く着く。
「黒岩さん、私に出来ることがあれば――」その様子を悟って紗江子は真剣な眼差しで黒岩を見る
「いや、やっぱりよしておこう。こんなことは出来ないし、不味い。うん。訊かなかったことにして下さい」
「え……」
「さあ、明日僕は出張だから、今日は少しゆっくりと会っておきたい」両膝をポンと叩き、汗の掻いたグラスの水を飲み干した。
黒岩は明日から向う出張先の香港の話を始めた。紗江子は気になって仕方なかった。黒岩とは何れ結婚するであろう男性。その弟さん、悩んでいる黒岩を見るに見かねない。そんな彼をみている私のほうが悩んでしまう。
紗江子は黒岩とのこれまでの事を思い起こしてみた。
何度も食事をした。映画も一緒に観た。二人の時間に色が塗りつぶされていく。けれど何処となく漂う不安な気持ち、私への優しさ、押し付けがましくなく嫌味もない。全てにおいて納得するが、これ以上という踏み込んだ気持ちの深さがなかった。直感で感じた筈なのにどうしてもそれ以上になりきれない。これが彼の悩みなら、本心で苦しんでいるのなら、私のやるべきことは今この時なのかもしれない。
唇を少し舐め、乾いた喉に押し込むように思わずゴクリと鉛のような唾を飲み込んだ。そして胃袋から腸へどっしりとした気持ちを据えて言った。
「どうしたらいいの?」
「え?」
「弟さんのこと?」
「なにをですか? いや大丈夫。紗江子さんは心配しないでいい。もう止しましょう」
「だって、気が気でないのです。私は黒岩さんの……、黒岩さんの……。人生を共にしたいのです」
「ありがとう。でも大丈夫です」黒岩は薄く笑った。
「だから、どうしたらいいのですか? 弟さんのこと」
黒岩は項垂れ、かぶり振る。何度も振る。そして大きく溜息を着くと口を閉ざして紗江子に視線を向ける。そしてもう一度俯く。暫くしてやっと顔を持ち上げる。
「百……、百万円、いや、五十万」
紗江子は黒岩の口を見遣ったままで硬直している。
「ええ、五十万を貸して欲しいのです。こんなお金の話をしたくなかったから……。やっぱり、止しましょう」
「待って下さい! 五十万で、それで良いのですね?」
「え?」
「いや、五十万円あれば。明後日までに五十万円あればいいのですね!」
「え、まあ――」
「分かりました。明後日までに用意します。それを弟さんへ渡して」大見得きって言うわけじゃないが、いままで貯めてきた蓄えがある。五十万くらいなら何とかなる。
「ちょ、ちょっと待ってください」紗江子の口を塞ぐように黒岩が言い返す。
「いくらなんでもやはり出来ません。この話止めましょう」
「出させてください」
「あなたって人は――。はぁ……」
二人の間に十分なほどの間があり、黒岩が椅子に座りなおし姿勢を改めて言う。
「ありがとうございます。本当に隆志の仕出かした事にあなたまで巻き込んでしまって――。本当に申し訳ない」テーブルに頭を擦りつけ礼を言う黒岩。
「黒岩さん。止してください。いいじゃないですか、私の気持ちです。ただ――」
「はい?」
「返して貰う……、で良いですよね? 一応として」
「わかっています。当然、責任もって。まったくもって本当に本当にすみません。困っていました。いま持ち合わせがなくてね。私の口座は全て定期預金でして、すぐにお金の工面も明日の出張で隆志に渡すことも出来なくて――。本当にどうしようかと困り果てていたのです。でも、本当に良いのですか? 隆志とも会ったことがないのに――」一気に話を続ける。
「弟さんはなら、この前写真を見せてもらったから大丈夫です」
「あ、そうでしたね」
「ところで、相手の方は?」
黒岩は唇をひと舐めする「暴力団の関係者みたいですね」舌打ちをして弟の失態を恥じている口ぶりである。
「じゃ、警察ヘは?」
「はあ」黒岩はかぶりをふる。「行けてないですね」
「――実は、隆志も高校に上がった頃、グレてましてね。今じゃ全然普通の会社勤めですが、まあ、そんなこともありどうしてもなかなか警察には行きたがらないんですよ。それに最初は相手の素性が分からなかったみたいで、話しているうちにどうやら暴力団かそういった筋の相手らしい。拗れるのを嫌がり、どうやらお金で話をつけるように脅されてですね……」
「脅されて……、ですか? でも、なおさら警察のほうへ届けたほうが……」
「私もそう、言っているのですが、隆志もなかなか聞かなくて、強情な奴で困っています。それに私へ頼りたがらないのです。腹違いと言う事もあり、あいつの立場からして。だからなおさら私も隆志にはしてやりたくて……」
深く触れないほうがよさそうな気がした。まだ、私には分からないことがある。今は彼の気持ちを分かってあげたい。