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第三話(騙す) 2

2.


 今度こそはきっと大丈夫。自信を持ってそう思いつつ、花に水をやる。胸の奥底から滲み出る嬉しさが込上げ、ついほくそ笑んでしまう。ふと、周りを見回す。

 ――良かった。誰もいないみたい。こんな浮かれた自分を見られたくないと思った。年甲斐も無くときめいているのだ。この年になり、訪れた春を逃すまいと願っている。

 さて、今日も約束の時間まであと少し。小一時間ほどもすれば仕事の帰り支度を整え、後は待ち合わせ場所へと向うつもり。

「紗江子、なにか良いことでもあるん?」

「え?」びっくりした。

 振り返ると腕を組んだ蒼井がすぐ側から声をかけてきた。今さっきまでそんな気配を感じなかった。

 蒼井は紗江子の勤める花屋の店長。紗江子より十五歳上で貫禄のよい体格をした容姿。その容姿と同様、見た目とあけずけなところが男顔負けで、更に付け加え世話焼きな女性だ。この花屋は私が高校のバイトからの長い付き合いで暇になると仕事で世話になっている。だから若い頃の私の事もよく知っている。

 やはり見られた?

「顕著だもんね。ほんと正直な人やわ、あいかわらず」

 蒼井は分かっていて茶化してくる。

「あ、いえ、そう、ありがとうございます」何にお礼返しているのかしら。まあ、いいわ。今はいや、今度こそは――。

 三十六歳を目前に控えた紗江子、花田紗江子。

 この年齢になるまで何一つ浮いた話が無かった訳ではない。十年ほど遡ると一度だけ結婚目前までいった事がある。その時のことを思い出すだけで胸が痛む。

 三年ほどの付き合った男、いや愛したと錯覚した男がいた。それが妻子がいたのである。男は妻子がいることを隠し続けており、その事について全く触れずでいた。気付かなかった私のせいでもあるが、隠して付き合った男も最低である。いやそれ以上にそんな男に騙された私のほうがもっと最低だわ。怒りも唾棄すべくもなく自分自身の不甲斐無さに 自責の念に駆られた。だからそれからは忘れることにし、何事もなかったかのように自分を貝のように気持ちを硬く閉ざして女であることを意識しないように心がけた。

「頑張ってね。紗江子の幸せが私の願いなのよ。いや、あなたのお母さんの願いでもあるの」

「ええ」

「幸恵姉さんが亡くなってもう、十八年になるわね」右手に持つ剪定ハサミをテーブルに置きながら店の軒先から遠くに見える空を見上げる。彼女は手を翳し、空を見上げる。五月の青い空にぽっかりと浮いた綿帽子に似た雲がどことなく人の輪郭に見える。その雲が二人を見下ろし、声をかけてきそうである。

「私、頼まれたのよ。あんたのお母さんに」蒼井はレジの側に歩み寄り、置いてあった新しい煙草の封を切りながら呟く。

 銜えた煙草に火を点け、薄く香るメンソールを一息吐き出す。

「紗江子にはやっぱり、お似合いの人がきっと必要だと思うのよ。こんな事を言うのは酷かもしれんけど、あの男が悪いの」あの男とは昔の記憶に残る男のことだ。「だってそうじゃない。詐欺紛いなことしてさ、あんたにどれだけ残酷な被害を負わせたのよ。まったく」ついぼやく蒼井がイラつく。少し不機嫌に煙草の灰を落す時、私のやり場の無い困った顔に気付くと我に帰った。

「あ、ごめん。言い過ぎたわね」蒼井はしまった、という顔つきで眉の上辺りを煙草の持つ左手の小指で掻いた。

「いいえ、私も悪いのだから。――仕方ない」

「悪く受け取らんよ。とにかくあんたにはさ、幸せになって欲しいのよ」もう一口煙草を吹かす「――けれど良かったわ、ほんと」蒼井は胸に手を当てる。心底思っているのが分かる。すると煙草の灰が落ちそうなることに気付き灰皿に灰を落す。

 はあ、お節介なところが偶に傷だけど、頼れる姉さん肌なところに昔から安心を感じる。

 そろそろ、自分も紛切ることが必要だ、と考えていたから今の蒼井の言葉は嫌でもなく、素直に受け入れることができる。時間が傷を癒してくれるたことも感謝している。

ふと、三ヵ月前ここでのやり取りのことが彼女に思い浮かんだ。


 三ヵ月前。

 勧められて来た結婚相談所のドアの前で短く小さく深呼吸をした。

 あの二人からやりくるめられたからである。だから、今ここに居る。

 さらにその一週間前の回想。

 山根が紗江子の勤める花屋へ出向いてきた。

「あら、いらっしゃいませ」

「ああ」

 笑顔で山根を迎えたのに店に入ってくるなり私と目を合わせないようにする素振りをなんとなく感じ取った。それによそよそしく山根が蒼井とさりげない目配せしているようにも感じられた。

 山根は暫く店内の花をうろうろしていた。なにも目的なく物色しているようだった。

 声をかけようとしたその矢先に山根に向って蒼井が唐突に話しかけた。

「あ、そうだ山根さんとこって確か結婚相談所だったよね?」わざとらしい質問を投げかける。

「あ、うん」そして咳払いをする。

「じゃ、山根さんとこって結婚を世話してくれるだよね」ベタな台詞を棒読みしているように聞える。それに山根さん、と余所余所しい。いつもなら山ちゃんと呼んでいるのに。

「そうだな」続けて煙草を銜えた山根課長が無理してうんうんと頷いている。

「あんた、もういいんじゃない?」蒼井が言う。

 誰に言っているのかしら?

「もう終わったことだからね。気持ちわかるけど、そろそろ、ね!」今度はわざとらしく紗江子に目を向ける。

 え! 私に言っているの?

「いえ、私は、もう……」両手が塞がっている紗江子はかぶりを振り、届いたばかりの花をショーケースに運び入れていた。

「なに言ってんの、ね!」煙草の火を消す山根に向って同意を求める蒼井。寸劇を終えた山根は困惑している気配もなく聞き流しているようだ。

 山根さんは時々、花を買いに来る。それも決まっていつも菊の花を買い求める。時には配達を頼むこともある。けれど今日はいつもの菊の花の前に向わず、うろうろしていたのはこういう訳だったのか。

「あ、うん。紗江ちゃん? そこのやつ」山根が指さしてショーケースの奥に並べてあるカーネーションをみて言う。やはりまだ浮ついているようだ。「なら、うちの若いもんに世話させようか?」キョロキョロした後、レジの横にある灰皿にさり気なく目を落とし、残る吸殻を指で弾いている。

「山ちゃん、頼むわよ、いい男をね。いや、誠実な男を。いや、裏切らない男を! いい!」蒼井が念をおす。

「あいあい、ところでメンソールでもいいんだけど、な」

 いつものように強請る山根さんだ。来る度、蒼井に煙草を漁る。素行がやっといつもの山根に戻っているようだ。それより、なに勝手に二人で事を進めているのだろうか?

紗江子はガラスのショーケース扉をゆっくりと閉めながら「あの、結構ですよ。私の事は。ありがとうございます。お気持ちだけでも……」閉め終わるとかぶりを振り、右手までも横に振り拒否するポーズを作る。

「紗江子、いいからいいから。あ、お金のことなら大丈夫! 心配しないで」蒼井は紗江子から視線を山根に向ける「ね! 山ちゃん安く負けといてね」山根と強引に話を進めようとする。どさくさに紛れて値引き交渉もしている。蒼井の気持ちはとても有難いし、お金のことを言っている訳ではないが、私の意見など全く聞き入れて貰えそうにないようだ。

 結局、その場で蒼井は強引ともいえる押しの一手。やはり最初から山ちゃんと仕組んでいたのだろう。どうもタイミングと話が早すぎる。山ちゃんも断ることもせず、ただ従うばかり。結局、蒼井のグイグイ押す勢いに負けてしまった。彼女の気持ちを無下に断ることも出来ず、顔を立てるつもりで行くだけ行ってみようと頷いた。


 翌週の土曜日『ハッピーパートナー』の事務所の前に紗江子はいた。

 小さく短い深呼吸をし、ノブに手をかけ恐々とドアを押す。

 中に入ると「いらっしゃいませ」。すぐに若い男が明るく出迎えてくれた。割と感じのいい男だ。仕立ての良い紺の縦縞柄スーツが様になっている。

 事務所へ入り、ドアを閉めると「こちらへ」と促され、カウンターの椅子に手をかける。恐る恐る椅子に着こうとした時、奥のほうから手を振る男が目に飛び込む。

「紗江ちゃん」山根が歯茎を剥き出し、ニッとする。

 山ちゃんだ。すぐに分かった。思わず半立ちのまま、笑顔で会釈する。

 若い男は私に名刺を差出し、自分があなたの担当で野呂だと言った。

 それからここでのシステムや今後の話を丁寧に説明してくれた。ガイダンスブックを捲るとすぐにコースと会費へと目が行く。思っていた以上の金額でびっくりしたけれど入会費はすでに支払って貰っている、と言う。蒼井がすでに入金を済ませているのだとすぐに分かった。有難迷惑といえばそうかも知れないが、今更ながら彼女の手際良さと世話焼きに腹立たしさというより、有難い気持ちになった。

 入会手続き五日後、『ハッピーパートナー』の事務所に出向き、数冊の男性会員ファイルブックの頁をパラパラと捲っていた。この会員として入会している男性は医者、自営業、弁護士、美容室オーナー、普通どこにでもいる会社員等などと幅広く、合わせるとおおよそ一五〇〇名近くの写真付き会員名簿である。野呂という若い男に薦められるまま。更にあれよあれよと事が進んでいくことの速さに気乗りしないと思うが断るタイミングを逃す。けれどとりあえず少しくらいはいいか、と。それに結婚相談所ともなれば、そうそう変な男性を紹介する訳じゃないだろうし、安心感はある。

 折角だからという気持ちになり、三冊目のファイルブックを何枚か捲ると一人の男性に目が留まった。不思議と目に留まる写真の男性は違和感も無く自然というか、前から知っていたというような人。もしかすると、この人? そう、直感めいたものを感じた。けれどそれとは反対に過去の不安が甦る。躊躇っていたが野呂という担当は私の視線を見逃さなかったようだ。彼は躊躇より直感をと。

 仕事とはいえ親切にここまでして貰ったことと自分の直感的めいた流れに任せ、とりあえずその男性と会うことにした。

 私の選んだ男性と私との調整役も彼が取り持った。

 一週間後、都内のホテルで初めてお互い知り合い、その後も男性と三回ほど会った。

 思っていた通り、二人でいると居心地が良い。だんだんと安堵感ともいえる空気が二人を包む。断りきれず出向いた結婚相談所で目についた男性。本当の本当。もしかして今度こそは――、直感めいたものだったが、今は液体が繊維に染み込むようにどうしようもなく押し戻せない。ジワジワと染み込むのをただ、じっと受け入れていく。


「いつまでニヤニヤしてるの? 早いとこその花、ラッピングして届けて頂戴。それとね――」まったくもう、といった口調だった。蒼井の言葉を訊き終わらず「はいはい、わかってます。じゃ、これもやっておきます。石川さん宅へ届けておきますよ。あ、これって山根さんのいつものですよね」

 店の時計がすでに四時半になろうとしていた。早いとこしなきゃ。

 紗江子は菊の花を手際よく包装し終えると、すぐに配達の準備を始めた。


 彼、私の姿をどう映るかしら、なんだか、少し若すぎるかもしれない。つい、店の人に勧められその気になりレジで財布を開いた。仕事を終え、先週末買ったばかりの薄桃色の無地のワンピースに着替え今日の待ち合わせ場所に立つ。

 夕方の六時を少し回ったところだがまだ明るい。五月の青い空、ほのかな新緑の香りが鼻をくすぐる。深く胸いっぱいに吸い込む。全てが紗江子にとって以前とは違う。

 何気に辺りを見る。横の視界に入るバス停。

 ん? やはり今日も居るようだわ。

 私が立つこの場所から少し先にあるバス停の横で空を見上げる若い女の子。歳は恐らく十代半ば位、制服を着ているわけでないので正確ではないが、高校生だと思える。以前からその場所に居たのかどうかも分からない。この待ち合わせ場所を使うようになって彼女の存在に気づいた。いつもバス停のあの位置で誰かを待っている。けれど彼女が迎えの車に乗ったのを見たことはない。

 これは私の勝手な思い込みかも知れないが、彼女の少し違う目つき、風貌が健常者ではないとすぐに分かる。だから、身内か施設の人間が迎えにくるに決まっている、と思う。

 彼女を見ていると今日も目が合った。

 私に向って笑っている。最初は思わず身を引いたが、何度か目が会う度に不思議と距離感も近くに感じたられたこともあり、そう驚きもない。それでも彼女の事、障害者と分かっていることで上手く振舞えずドギマギしている自分がとても恥ずかしい。 誰しもそれが本音のところだと一般的に思うのでは。

「え、なに?」

 あの子が私にむかって手を振り回している。親しそうに唇の両脇を引き上げヘラヘラと笑顔を作る。

「え?」あの子どうしたのかしら?

 行き交う人を避けながら目を凝らして彼女を見る。彼女の仕草、人差し指で私を指す。親指……、人差し指と人差し指を立ててあわせる……、小指を立てると指三本、それから小指を向ける。

 え、どういうこと? 

 彼女は首を傾げ、口元を緩め笑う。でもすぐに真顔になり何事も無かったかのようにして空を見上げる。暫くすると空を見上げてまま又、身振り手振りをする。さっきの仕草に似ている。

 彼女の表情が気になり、思わずつい彼女に向って歩きだしそうになった。

「紗江子さーん」遠く後ろから呼び止められた。

 声のする方へ振り返る。

 片手を持ち上げ、こちらへ走ってくる男の姿が見えた。私もつられ胸の辺りまで手を持ち上げ、ひらひらとする。まるで少女のように燥ぐ自分が急に恥ずかしくなった。辺りを目だけでキョロキョロして手を下ろす。

 男は手の届く距離まで駆け寄ると肩で息して微笑む。「すみません、遅れて。……はぁはぁ、待ちましたか?」待ち合わせ約束の時間、六時半。決して遅刻では無いが彼は必ずといっていいくらい謝る。

「さあ、行きましょう」男は大きく溜息をつき、息を整え、会話もそこそこ歩き始める。夕飯で予約しておいた中華レストランへと向う為に。

 その場を離れる間際に後ろへ振り返るとバス停の彼女はまだそこで空を見上げていた。両手をブランとして何事も無かったような顔つきで。いったい何だったのだろう。彼女の仕草が妙に気にかかって胸の中での疑問が消えなかった。

 レストランへはここから歩いて行けば十五分くらいでたどり着けるはず、と男は紗江子に話しかけてくる。行き交う人混みの中を彼が行く手を掻き分け、私の歩き易いように行く手を確保してエスコートする。それも適度な歩く速さで、とても気遣ってくれる。

 私が選んだ男性。黒岩康之。見た目、若く見えるが三十六歳、私と同じ年。相談所に登録したのも私より少し前のようだ。外資系の商社に勤めているらしく、主にアジア辺りを担当していると、訊いている。けれどなぜ、わざわざ結婚相談所に入会してまでも……。気にかかるし、不思議と思った。商社マンならそれ相当の女性を結婚相手を考えると思う。

 誰がみても彼の容姿は決して悪くない。少し見上げるくらいの長身一七六センチで、世の男の中では高い部類に入ると思う。髪は少し長め、全体を持ち上げ横に流している。両眉からすっと鼻筋も通っており、黒目もはっきりとしている。身に纏っている洋服も決して流行を意識することもなく自然である。

黒岩の話では忙しい仕事柄、自分を理解して貰える相手と巡り合えなかったらしい。それでも何人かとお付き合いしたとは訊いた。そんな彼をどう否定することはない。全く無いとは言えないが普通の上といったところだろう。

 ご両親は健在で九州の福岡で暮らしているらしく二人兄弟で弟さんがいるとも訊いた。弟さんの写真を見せて貰ったことがあるがあまり似ていない、と少し首を傾げた私に、言い難そうに彼の口から異母兄弟だと話した。

 私としては出来れば早い機会でご両親にご挨拶にお伺いしたい。一度、彼に気持ちを伝えておきたいけど、仕事の都合でなかなかタイミングが合わない。こんなことって、少し焦らないでおいたほうがよいのかしら。しつこくするのもね、ただね……。昔のあのときを思い起こすと安心しておきたい。たとえ結婚相談所の紹介とはいえ……。


「紗江子さん! どう?」唐突に黒岩が話しかけた。

「え」

「美味しいですか?」二人の横を通り過ぎる店員に気付かれぬよう紗江子に耳打ちをした。

「あ、ええ、とっても」スプーンからずりっと鱶鰭が落ちた。

「そうですか――」黒岩は紗江子の顔色を窺っている。なにか考え事をしている風に思えたらしく、紗江子に向って問いかける。

「あ、いえ何も」もう一度掬いなおそうとスープを掻きまわす。広い円卓を黒岩と二人並んで食事をする。微妙に距離があるものの回を重ねる毎に距離は縮じまる。

少しばかり早い時間のせいか、中華レストランには食事をする紗江子達以外、人はまばらだ。

「ここの中華ね、杏仁豆腐が抜群なんですよ。他のもまずまず美味いのですがね」店員に気付かれないように小声で紗江子へ話す。「杏仁豆腐が僕にとってメインメニューなんですがね。――最後のお楽しみと言う事で」

「ええ、でもこのスープ、鱶鰭でしょう! とっても美味しい」誉めながらもなかなか鱶鰭がスプーンに乗り切れず、スープだけを捏ねている。

「紗江子さん?」

「は?」

「いや、今日はなんとなく紗江子さんの様子が、すこし……」黒岩が少し顔色を曇らせる。

「なんでもないですよ、なんでも」紗江子はかぶりを振る。

 黒岩は一瞬、怪訝そうな顔をしたが「そうか、なら良かった。うん」一応、納得した風に言う。ほくそ笑んで私を見ているのが分かる。私の態度にほんの少しばかり怪訝そうだが、彼は一応納得した素振りでその場を流す。

 黒岩が軽く咳払いをして「どうも、僕は北京ダックやら鱶鰭なんていまひとつなんですがね」彼はまた小声で話を続けた。

「え?」

「あ、ごめん。ここへ予約までしておいて失礼ですよね」今度は聞き返さず左のこめかみをポリポリと掻く。

「あ、そんな事無いですよ。美味しいです全部、とっても。でも、黒岩さんお奨めのデザートを特に期待しておきます」残りの鱶鰭のスープにスプーンがコツコツと容器にあたる音がなおも響くが、紗江子は鱶鰭の切れ端を掬いながら微笑みを返す。

 次に出てきた食べ物はチャーハン、期待の杏仁豆腐はその次あたりかしら。


「やっぱり杏仁豆腐が一番でしたね」こそっと彼の耳元で呟いた。

「でしょ!」黒岩の声が大きい。レジで精算している中年の男がチラッと二人へ視線を向けた。またしても黒岩が咳払いをし、肩を窄め罰が悪そうな顔を作る。メインの料理よりデザートを誉められるのは店側としてこの会話は嫌な気にさせられるのかもしれない。けれど杏仁豆腐は抜群に美味しかった。私もそう思った。

「ご馳走さまでした」

「いえ、どういたしまして。さてと――。あれ? あ! え?」

「どうかしましたか?」黒岩が上着の懐を探っている。動揺が彼の顔に広がり、ズボンに何度も手を突っ込み、もう一度上着の両ポケットから内ポケットと全ての袋という袋を掻きまわしている。

「あ、いやね――」黒岩は腰を折り、薄暗い自分の足元の床を穴が開くほど見る。首を捻り起き上がるとさっきまで食事していたテーブルへ駆け出した。

 暫くすると紗江子の待つレジへ、俯き加減の黒岩が頭を掻きながら歩いてきた。

「はぁ――」

「もしかして……」

「え――、その、もしかしてです」

 慌ててポーチを開き財布を探る。「黒岩さん、大丈夫です。私が払います」紗江子はポーチから赤色の分厚い財布を取り出し、クレジットカードをレジの男に差し出した。

「申し訳ない」苦々しい顔で口も歪ませ、黒岩は本当に申し訳なさそうな態度である。

「大丈夫、大丈夫。ささ、もう出ましょうよ」紗江子は黒岩の腕を引き、店のドアを押した。二人を見送る男は顔色一つ変えないで目礼をしていた。

 その後の予定を取りやめようと言った黒岩だったが、紗江子が折角だから、とのやり取り後、近くの見晴らしの良いホテルで二人同じ紅茶だけを楽しんでその日の帰路に着いた。

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