第三話(騙す) 1
若い頃に恋に破れた女が相談所に紹介された男性との恋に悩む。
山根課長の知り合いである紗江子は勤めている花屋の店長、蒼井から半ば強引に結婚相談所に行かされた。そこで紹介されたその男は紗江子に胸に響くものを感じた。満更悪くない。
しかし、幾度か会う毎に男の正体を紗江子は薄々感じ取る。実はその男、とんでもない犯罪者、詐欺師。女から金を巻き上げる為に偽って『ハッピーパートナー』に登録し、接近してきたようだ。紗江子はその男と何度もデートを繰り返す。深く愛していく反面、更に胸騒ぎが胸に広がる。
ある時、男の本性に気付いた紗江子は自分で気持ちの決着をつけ、向った待ち合わせ場所。又、騙されたと心では思う。まさか、そんな人物を相談所から紹介されるとは思ってもなかった。ただ、本当に信じたくない気持ちが交差する。
ところがそこで待ち伏せていた駿平と課長。山根が男の本性を伝えようとてきたが、紗江子は驚きもせず、それを払い除けるように気丈に振舞う。
またしても敗れた恋。ささくれた気持ちにさせる恋だらけだが、やはり本当の恋を探して生きる方がましだと、次へと気持ちを向ける。
何故、課長は紗江子の待ち合わせの場所や時間までも知っているのか?
1.
「その後お変わりありませんか? ――いえ、そうですか……。良かった。」
「では……。え? いえ、とんでもないですよ。――ありがとうございます。頑張って下さいね。……あ、いや無理せず上手くお互いの気持ちを育んでくださいね。……じゃ、吉報をお待ちしておりますよ。――あ、すみません。またプレッシャーな言い方でしたね。何かあれば言ってください。それでは失礼します」
駿平は受話器を置くと安堵の溜息をつく「良かった……」つい言葉が漏れた。最近、色々と仕事での悩みを抱え物憂いと思っていた。それに営業成績も思うように上がらない矢先のこの電話は少し気が晴れる。手元のクリアファイルを開き、一枚のスナップ写真を指で摘まんで眺める。そこには男と女二人が微笑ましく並んで写る写真。
眺めて「うんうん」一人頷く。
見入っている駿平の横を通り過ぎる藤沢に気付き、顔を持ち上げ少しテンポがずれたが駿平は声をかけた。「藤沢さん、どうです? やっぱ、この二人お似合いでしょ? ほらこの前登録した……」
藤沢は差出した写真に一瞥をくれただけで過ぎていく。そっけない態度だ。
な、なんだ。この人は。相変わらず不遜で無愛想、全くもって鼻持ちにならない。言葉の一つやふたつくらいしても良いものを。だいたい、よくもこの仕事をやってられるものだ。
「よ!」背後からの声。
呼び掛けられた声のするほうへと体を捻る。
ズボンをズリ上げながらニッと歯茎をむき出して笑うおやじ。
課長だ。はあ……。
珍しく声をかけられた。
だが、いつもの顔で、いつもの仕草、決まって指を二本突き立てる。が、駿平の顔の様子をみるとすこし気まずそうに指を曲げる。それもくさい芝居だと分かっている。
駿平は課長を一瞥しただけで、何事も何も見なかったことにしようと体を捻り、自分の机に向う。写真を元の位置に帰しそのクリアファイルを引出しに終うとパソコンのモニターに目をやる。拘らないほうがいい。
課長は咳払いを一つ。「なあ、どうしたよ、駿平」
背後から機嫌をとる嫌な猫なで声が聞こえる。はあ……、げんなりする。
「怖い顔しちゃってさ、なんだなんだ。え?」
「いえ、なんでもありません」モニターに向ったまま、平たい声で振り返りもせずに答える。すると課長が駿平の首に腕を巻きつけ「まあまあ、そんなイラつかない、気を静めてさ。こんな時は、胸一杯に行き渡るモクが俺たちを癒してくれる。な、と言うわけでいつもの一服」そう言いながら、耳元になま暖かくヤニの漂う息を吹きかける。
俺は別にイラついてなんかいない。いや、イラつく? イラつかせるその原因はあんただろうが。
駿平の肩に漂うヤニの匂い。すぐに課長の腕が解ける。
はあ……、溜息をひとつ落す。まあ、いいか。あの藤沢の態度に気分転換で一息つくか、このおやじならまだましだ――。
面倒くさそうに駿平は「はいはい」と返事をする。すると返事が帰ってこない。振り返ると中年おやじはすでに事務所の出口のドアノブに手をかけ、右手をひらひらとする。気色悪くこっちこっちと手招きをする。いったいあんたはどんな神経してるいのか底がみえない。とってもマイペースだ。あの女、藤沢といい、課長といい、まったくもって理解不能である。それを考えると深い沼にズボズボと体が埋まっていく気分だ。とてもイラつく!
やはりイラついている。
結局、項垂れたまま出口へと向かう。そんな駿平をみてアカンベーをするいつもの奈津美をいつものように睨み返す。いったい俺に対して何の意味があるのか分からないが毎度の光景だ。俺の優柔不断な態度に業を煮やすのか、お門違いだろう。
「どうだ、忙しいか?」踊り場の手すりに両肘を乗せ、空を見上げる。
「はあ……」さっきの電話でいい気分だったが、藤沢の存在と課長の登場で逆戻りだ。
「はあ、じゃねーだろ」駿平へと振り返ると眉間に皺を寄せる。
「ええ、まあ」溜息交じりの返事をした。
「それも違うだろ! はい! 頑張ってます! だろ?」駿平を覗き込む。
「はいはい」
「そうそう、で?」頷きながら駿平を見遣る。
「で?」
「だから……、さ」ニャっとした目つきで二本の指を空に浮かぶ雲へと突き刺し、駿平の反応を待っている。
はいはい、まったく本当にもう。しょうがないおやじだ。渋々懐から煙草を取り出す。
「ところで、課長」駿平は課長の銜えた煙草に火を点けながら訊く。
「なんだ?」
「なんで、藤沢さんて、いつもああなんですか?」
「彼女、何かあったか?」課長は目の前に漂う煙を扇ぎながら聞き返す。
「いえ、いつもですね。藤沢さん、自分担当の会員、それも大半の会員さんをいつも私に押し付けるんですよ。まったく参りますよ。挙句の果て尻拭いまで。それに日頃の協調性のなさと無愛想、それにですよ……」
「はいはい。なんだそんな事か」惚けて頭をボリボリ掻く。鬘で頭皮が蒸れるのか時々ボリボリと掻く。
「『なんだ、そんな事』は、ないでしょう! とても問題です。このままでいいのですか?」ますます語気を強める駿平。
「そうか。――まあ、な」顎を突き出し、所々の髭を毟る。課長の鼻穴からもわもわと吐き出される煙。課長の目が遠くをぼんやりと見遣る。
課長は暫く考えに耽る。
そんな考えるほど何か訳ありかよ。
「藤沢は、バツ一だよ」
それがどうした?
「もうかれこれ五年になるかな」煙草を深く吸う。
「――なんだったら、おまえに薦めようか? 姉さん女房ってのもいいぞ。それに営業成績にも繋がるし」ニヤニヤと歯茎を出して笑う。
一人でうんうん、と反芻している。
「結構です」
おいおい、いい加減にしてくれ。悪い冗談だ。腹の中で毒づく。それにバツ一が? だからどうしたというのだ。
横で眉間に皺を寄せ、目を剥き、顔を歪ませる駿平に気付いた課長が肩を竦める。
「冗談、冗談。本気にしちゃいかんな。――ま、しかしな、彼女の才能には驚かさせるよ、まったく。直感、とか言ってたな」言い訳というより宥める課長。「本来、ビジネスには理論、数字や裏づけがあってこそ成果があるんだ。だがこの世界、男と女。理屈じゃ上手くいかない。ピンとくるもんがある。藤沢は男と女、こと恋愛に関してピンとくるようだ。そう、ピンとな。そのへんはお前の下半身と同じだ」チラッと横目で駿平の股間を見る。「まあ、まだまだ分からんだろうな、お前には」もう一口煙草を吸うと膨らませた鼻穴から煙が噴出す。ふと思い出したように「そうそうある週刊誌だったかな、『生命の不思議:』とかいう記事があったな。元々、母親の腹の中にいる胎児は、みんな最初は女なんだ。命が脈打つ時、男か女かに形成される。生命の不思議だな。まあ、お前も俺もピンときたくちのほうだな」
だから、バツ一とどう関係があるのだ?
首を傾げる駿平に気付く課長。
「すまん。話が逸れた。要は結婚してしまえばこの商売の結果は成功だ。だがな、その後離婚する者だっている。だからな――」トントンと煙草の灰を落す。
「……」駿平は黙って課長を見据える。
「ともかく、彼女は女だがピンとくるらしい。不思議にピンと。成婚率という数字より、成婚後のフォローにまで気を使っているところも、恐らくピンとくるのだろうな」鼻と口から煙が湧き出る。
『ピン』がしつこい! それは分かるが胸糞悪い。納得はいかないし、大体日頃の態度といい、無責任さが気に食わない。
「おまえ、結婚させれば終りと思ってないか? すこしでもそんな気持ちでいれば、紹介された二人に失礼だぞ」駿平に視線を向け、諭すように釘を差す。その視線を駿平は逸らす。
売上主義のこの会社。競争原理の世の中では仕方ないことではあるが、確かに課長の言う通りかもしれない。
「この業界、ビジネスライクだけじゃない。本来ビジネスには、『落としどころ』ってえのがあるんだよ。上面の考えだけではおしまいだ。これから、ということが不足しているのだ。これ! といった二人を直感的に判断して、いけると思ったら無闇にお節介しない。むろん、最初のお膳立てやそこまでは手をかけるがな。ちなみにあいつ、いや彼女、あれでも面倒見よくてとても優しい女なんだ」
そんな! 到底思えない、あの女が。いや、待てよ。課長の言葉は鵜呑みできないが、他の人には決して見せない仮面の裏にある一面なのかも知れない。でもな――。
首を傾げ両腕を抱え込む駿平。
「そうそう、お前の日頃の態度を見ていると昔の自分を思い出すな。熱く正義感を振り翳すところ。それと、大雑把なところもな」
要らん世話。それに正義感を振りかざす? 俺もこの年齢になるとこんなおやじになるのか。全然、有難くない。それに俺は大雑把な性格じゃない。アヤと暮らしている時も部屋の掃除だってまめにしているし、下駄箱、風呂、洗面台と小まめに綺麗にしているし、それに……。
「ところでおまえ、辞めようなんて思っちゃいないだろうな?」駿平を見上げ唐突に言う。
一瞬ビクついて見下ろすと課長の細い黒目がいつもと違う。鈍く光る黒目に睨まれる。時折、突き刺すような鋭い目でこんな視線を投げかけてくる。この時ばかりはよく分からん。仕事中にはまったく見せない圧倒的な視線を。
しかしそうだな、課長の言うとおり確かにうんざりしている。特に最近はあれこれ考える。
課長は肩を窄めた駿平を見据える。口を歪め、渋い顔つきのまま顎の髭を毟る。「いっ」痛みで小声を洩らす。「まあな、元気ねーしよ」目を逸らしてもう一口煙草を吸う。
俺の態度が顔に出ているのだろうか? 確かに迷っていた。というのも本当にこの仕事、性に合っているのだろうか、と自分の中でいつも杞憂してやる気がなく自棄になっていたところもある。そんな風に見ているのか――。
「俺は辞めさせんぞ、お前を」駿平を指差す。「いいか、この仕事をなめるなよ。俺たちのやってる仕事は人と人を取り持つ仕事だ。それもでっかい仕事。そう、愛だ。一番遣り甲斐ある仕事と思わんか? 人は物じゃない、感情がある。誰でもいいって訳じゃない。だからビジネスライクじゃだめなんだ。成婚に辿りつくまでは思うように行かない。だがな、百人、いや一万人のうち、一人でも結ばれれば良しとするくらいの考えじゃなきゃ持たんぞ。みんな違うんだ。その一組が結ばれる。又、別の一組が結ばれる。沢山の男と女の幸せの数だけ喜びを味わえる。そんな男と女の背中をそっと押してやるのが俺たちの仕事だ。結ばれない男と女は幸せじゃない、とは言わん。きっかけやチャンスすらない人がゴロゴロしている。だからな、そう考えればとても意味のあることを任されてる。いいか! そこんとこ、お前にはとことん教え込む」
課長の言わんとすることが分かるが、そこまで心底素直に頷けるにはまだまだだ。もっと時間かかるのかも知れない。駿平はその場で首を縦に振って一応分かった風に頷きやり過ごして訊いていた。
「おい、駿平!」
背筋がピンと伸び、同時に声のする方向へ振り返ると奈津美が腕を組み、仁王立ちしている。いつからその場に居たのかは分からないが、目を剥いてこちらを睨んでいる。
「電話!」、「花田さんから」
クラクラとした。その呼び捨てはないだろう。何怒っているんだ? 突っかかるところは相変わらずだ。それにつけても俺のことをいつも呼び捨てだ。例え社歴が俺より少しばかり長いからといってもな。 ――毎度のことなので疲れてとても言い返す気にもなれない。はいはい、と事務所に戻る。
事務所に向い歩きながら、つくづく言い返す根性のない自分が弱く嫌にもなる。
何気に振り返ると課長は、もう一本の貰い煙草に火を点けていた。すぐに口からと鼻から煙が吐き出される。その鼻に栓をするかのように指を突っ込み穿る。捏ねるように穿る。一瞬、こちらの視線に気付くと指を鼻に突っ込んだまま一瞬固まるが、歯茎をニッと剥き出し何事も無かったように鼻を穿った手をあげて振る。
いったい課長は何が言いたかったのか? 藤沢のバツ一と男と女のビッグな愛と仕事がどう関係があるのだ? やっぱり、会社を辞めようかな。課長のあの台詞、説得力ないな。
「痛て!」立ち止まっていた駿平の後頭部を奈津美が叩いた。