第一話(派閥争い) 1
のっけから少子化問題を引き合いに本社の専務が息巻くキャンペーン企画会議から始まる。実はこの駿平の出席する会議は人事を巡った会議が目的らしい。
負けたほうがM&Aをされた子会社への出向が決まるらしく、兄の常務との攻防争い。そんな勢いの会議の中、ぶっ倒れてしまった専務……。
1.
『一.二五』会議資料の見出しの数字。――ふむ、やはり今この時代を映し出しているな。
『二十八歳』、平均年齢。そんなものか? ――そうだろうな。
野呂駿平は小声で頷き、配られた会議資料の頁を捲る。
「えー、と……」「うーん」澤田専務はいつもの捻り出す口調から始まる。
専務は長い前置きから本題に入り、念仏を唱えるかのようにたっぷりと話が続く。つい居眠りしそうになる。仕事に対して粘り強い信念も持ち合わせているが、見た目は何処にでもいる普通の物静かな中年のおじさんといえる。冷静で威厳を感じさせない、生真面目で事をあまり語らない人柄から普段の専務は高慢さを感じさせない重役である。だからといって社員から慕われるほどのではないようだ。それは社員との距離感はいつも一定の距離を感じさせる。
駿平は気にもかけずボールペンを手の上で回した。日頃の癖で緊張感ない時などはさらに軽く貧乏揺すりし、つい無意識にクルクルと回している事が多い。専務のような口調で話す人物を前にすると得てしてよく回転するものだ。
それにしても今日の会議資料はとても分厚いな。いつもの薄っぺらな資料で無く、かなりなようだ。会議資料の厚みを横から覗くとゆうに二センチくらいはありそうだ。よくもまあ、ここまで纏めあげたものだ恐いいるよ。時間をかけ莫大なデータを基に具に調査され、そこから精細に分析された資料。
資料に目を落し、何気にパラパラと頁を捲る。
肩で短く溜息をつく。
何枚か捲るとふとある頁に目が留まる。眼鏡のつるを押上げ目を凝らす。折れ線グラフと棒グラフの入り混じったデータと分析表に釘付けになり、興味をそそられた。
欧米のイギリス一.七一、フランス一.八九、ドイツ一.三四、アメリカ二.〇四で回復基調、一方、ご近所の東アジアでは韓国一.一九(いずれも二〇〇三年数値)、中国一.八〇と日本と同様に一貫して下降をたどっている。二〇〇六年、日本一.二五を最低としてそれ以後、微増だが僅かに上昇している。しかし、二〇〇七年さらなる低下。避けがたい状況のまま減少。今のままでは近い将来一.〇〇を割り込んでくる可能性も否定できない。
と、言うことは日本だけじゃなく人類規模の深刻な問題だ。駿平はぶつぶつと周りに聞こえない程度の小声で頷きながら資料の頁をさらに捲る。
どのデータも将来希望が乏しい。どれもこれもが横ばいから減少へと下降を辿るようだ。所々のデータの細かい注釈文字を睨む。これは! 貧乏ゆすりが止まる。このデータは使えそうだな。目を凝らし、回していたボールペンでアンダーラインを引く。
『バシッ!』不意に叩く激音が部屋に響く。耳を劈く稲妻に撃たれたような音。虚を衝くその音に思わず駿平は肩を尖らせ、背筋が幾分か伸びた気がした。データの注釈文字にアンダーラインをしていたところ、真っ直ぐに引いたラインがとんでもない場所まで伸びてしまった。
「いいかね! 諸君」意気軒昂というより、恫喝ともいえる専務の声が響き渡る
駿平は慌てて視線を持上げ、専務に顔を向ける。周りの出席者一同もほぼ同時にその声のする方向へ目を向ける。当然、専務に向けて一極集中する。
どうしたのだ、珍しい。いつもの専務らしからぬ穏やかな口調から一変した。
二ヶ月に一度のペースで行われる企画会議は、ダラダラと時間が流れ時折、ヒソヒソ声や物音が耐えない騒然とした会議なのだが。今日は何故か少しばかり様子が違うようだ。
バシャと水を撒いた後のように会議室一面に緊張の空気が張る。
張詰めた空気の中、何気に参加者へ視線を向ける。するとお行儀良く整列したはずの大半、いや全員ともいえる参加者が視線を落し、顔を伏せ始めた。見回して確認した訳ではないが、恐らく俺以外全員が不思議と息が合う同じ行動だ。
駿平は顔を専務へ向け直し、目だけを動かし左右を見渡す。
取り残され浮いている。どういう訳か俺以外の全員は示し合わせたかのように行動が同じだった。まるで画一化されたおもちゃの人形のようだ。真面目に向き合っているのは俺だけのようだ。何故だ?
壁時計を見ると十時を少し回ったところ。会議が始まって、まだ十分と経っていない。なのに何故この会議を無視した全員の態度。磯崎課長の議題説明を含んでも専務の話はまだ始まったばかりでダレる時間でもないはずだ。
伸びた姿勢のまま少し想像した。もう一度チラッと参加者を一瞥して、専務へ視線を向ける。――気まずいな、この空気。
会議室の正面、ホワイトボードに貼られたスローガン。その横にある、どデカい百インチのスクリーンに手元の資料と同じデータがプロジェクターからの青色光線で投影されている。
いつになく専務は力説して話を続けている。
駿平はゆっくりと視線を落とし、資料を見た。いや見ているフリ、さすがにボールペン回しをしている状況ではなさそうだ。
――ふと気付くと専務の話が中断していた。
思わず専務を見る。話を続けている専務がどうやら異変に気付いた。一瞬、顔色を変えていたが、冷静さを保とうとしているようだ。じっと会議室を見回し、浮いている俺一人に感づくと視線を投げ返してきた。駿平は直視することを避け、それとなく視線を逸らす。
どうか、何事もない事を――。内心ハラハラしていた。
すると、どういう訳か何事も無かったかのように専務が再び話を始めた。なぜ、専務はここにいる連中に一言でも言わないのか? 連中の態度に一喝くらいは。
再び、バシッ! バシッ! とスクリーンに響く連打の音。言葉にしない分更に大きくなった様な気がするが。
全員が一瞬首を竦める。皆、顔を上げるが不自然に目を合わせないようにしている。
妙に居心地の悪い、駿平のお尻がムズムズし始めた。口にはしないが専務、相当怒り捲くっているようだ。堪えて会議を進めている態度、隠し切れず露だ。
「うんん!」短く咳払いをして専務は話を続ける。「二〇〇六年の世界全体現況報告書によるとのワーストが香港〇.九四。続いてウクライナ一.一三、スロバキア一.一七と他 国の事態は深刻窮まる。我が国日本はまだまだ最低じゃないが、この数字をどう見る! え!」戸惑いながらも全員に問うように言い放つ。
「……」相変わらず全員は無言。当然、駿平もその場にいる全員と同じ状態といえる。
ここにいるスタッフ。各支店、支部、関連組織のスタッフ総勢二十名ほどの人員が召集されたこの会議。全員誰もが俯いたそのままの姿勢だ。
張り上げる声の専務に絡まないように会議室に座る全員が、また資料に目を落とした。目を伏せたままの再び姿勢を維持している。相変わらず、貝のように無言のままだ。日頃になく専務もこれだけ大声を張り上げていることで萎縮しているのだろう。けれどどこか不自然だ。
さらにバシッ、バシッと連打する。その度に駿平の背筋ビクンとする。
いったい何? 何んだ、専務の気負った態度。
専務の手に持つ棒のような物をよくよく見る。気付かなかったがそれは五十センチほどの背中掻き具。連打しない時、背中掻き具を弄んでいた。というより捻り曲げ震えていた。スクリーンを破らんばかりの怒りが背中掻き具に篭る。日頃そんな物持ち歩いていなかったように思えたし、今日はやはりどこか違う。
「世界経済の堕落! 先行き不安による人生の将来設計、無計画!」バシッ! 相変わらず会議室に響く乾いた打撃音。
「……」全員は誰も目を合わせようともしない。響く音にすら驚きもせずひたすら資料に目を落とす。
スクリーンを叩く専務。スクリーンが揺れて投影されたデータが一瞬歪む。「我々の使命は、地球の繁栄と栄華、それに、子孫繁栄――」と言いかけたところで息が切れる。
専務は深く一息ついてから背中掻き具を持ち直してコツコツと肩を叩く。深く溜息をつくと気持ちを持ち直したようで、なおも続く専務の説明、と言うより演説、いや弁論大会といえる。これって営業会議なのか?
「えー、さてさて――」急に言葉に衰弊を感じられる。
「ところが、ここ最近中国の国家成長が著しく目覚しい。むろん日本も同じく景気はさほど悪くない。しかし……」と言ったところでもう一度肩を落した。息切れる専務。だが、少し俯いていた専務は不意に顔を持ち上げると右手にギシギシと握りこぶしがプルプルと振るえる。そして力を振り絞って再び息を深く吸う。「日本の男女、なんてザマだ? 二十代、三十代の男女の層に意欲がみえない。弛んでいるのか? 弛むのは呆けた老人の落ちた頬と中年ばばあの下っ腹だけでいい! この現況を打破する為にも!」
『バーン!』と振り翳した拳を下ろし、目の前の机を叩く専務。
その勢いで机の資料とその横のマーカーペンが吹っ飛んだ。
俺はもうこれでもか、というくらいに伸びきっても伸びきれないほどの背筋が計ってはないが恐らく三センチは伸びたと思えた。多分。
「……」これまた全員の無言。
駿平はスキを盗んで横に座る一人一人をおずおずともう一度、観察してみる。ここにいる全員、これだけ専務の様子を目の当たりにすれば相当萎縮していると思ったからだ。
だが、唖然とする。
駿平が思っていた態度と反する状況だった。出席者の大半の行動に呆れる。
ぎこちなくモタモタする者もいるし、目が泳いでいる奴。腕を組み資料に目を落としたまま考え込んでいるフリの奴もいる。何故かしきりに首を傾げ電卓を叩くフリをしている者。鼻を穿る奴。こっそり携帯電話を覗きメールチェックして親指を動かしている者。これだけの中で船を漕ぎ眠りに落ちていりそうな者。それ以外は、メモを取り何やら手帳に書き込んでいる。とにかく出席者一同の頑なに専務と顔を合わせる者は居ない。これだけ大声を張り上げる専務を尻目にここに居る連中に心底本当に呆れてしまう。専務の無視している態度が露だ。おいおい何もそこまで。あからさま過ぎないか? バリアを張り巡らし目に見えない隔絶された専務との大きな壁。いや攻防だ。こいつら皆、度胸ある奴ら?
ここまで徹底する目の前の奴らに俺も合わせるべきなのか。その場の空気を読むというより、どう振る舞って良いのか分からず視線は窓へ向けたままだ。どうするよ? こいつらと同じ穴の狢、同類、反抗者……。いや、この状況ではあるがここにいる連中と一緒にはなりたくない。けれど知らんぷりはできない。
気を取り直しておずおずと専務の顔を見る。とにかくしきりに駿平は頷く。
会議室上段で専務は語気を強め唾を飛ばす。なおも話を続ける地球規模の課題について。今度は資料を振り翳し、しきりに机にバンバンと叩きつける。分厚い資料が蒟蒻みたいにペロンペロンとしている。
企画部の岩見が言っていたことをふと思い出した。同期であるとても油断ならない奴だが、時折洩らす内容が結構深い情報源となる。
ここに居る連中はすべて常務派に寝返ったのか? いつもなら会議の席でどうでもいい事をモタモタと話すパッとしない澤田専務だが、今日の会議ではあからさまに違っている。なんで気付かなかったのだろうか。そういえば常務も一緒に参加する会議なんて始めてだな。専務と常務二人の仁義なき攻防。
俺のいる事業部『ハッピーパートナー』。まあ、早くいえば結婚相談所みたいなものだ。この事業部は澤田専務が取り纏める部隊だ。
パートナーとなる幸せな男女。そのままで分かり易い事業部隊。けれどそういう呼び名は古臭いし、今時、そんな呼び方はしない。
『ハッピーパートナー』の事業は、立上げてまだ三年だ。軌道に乗っているのかどうか分からない。この世に二種類の人間、男と女。子孫継承の遺伝子、そんな屁理屈を捏ねた言い方は良くないが、結果として『結婚』を理想と掲げているが、金儲けに間違いない。それには理屈が必要である。
『ハッピーパートナー』を配下におく、本社『モリエ ハナ』は歳も五十後半のでっぷりした達磨体系の女社長が興した会社だ。付け加えると副社長は旦那である。どうみても大木に泊る蟷螂のようといえる。
やり手の女社長は、ブライダル協会の専務理事も勤める。一代でこのブライダルビジネスを関東、大阪、仙台、北海道、名古屋、福岡、それと沖縄の七拠店。販売代理店、契約店舗まで合わせると一五〇店舗にまで構えるほどに成長させた。社員数は、ブライダル事業と結婚相談事業『ハッピーパートナー』を含むと一三五〇名を抱える。年に一回のブライダルショーを渋谷の二流ホテルを貸しきって行う。ブライダルビジネスで有名で一世風靡した『ジョー高沢』セコイ男。この男がプロデュースしたブライダル衣装を専属として、我が物顔で威張っている。社員の陰口では、セコイ男。紐同然に社長に媚を売るいけ好かない男として知られている。
先月、二流会社、スタッフ総勢で八八〇名ほどの会社をM&Aした、と社内でのアナウンスがあった。偉そうにいえない。うちも二流に毛が生えたようなものだ。
買収された会社の経営陣は当然全員解任。その為、子会社の経営を建て直しの命令が急務勧告された。当社の責任者となる人物が専務クラス以下の連中、各セクションの部署を統制する。その辺りの流れからして当然の適任者は本社の派閥争敗者に自ずと任されると社員も読んでいる。
だから今日の会議で問う結婚相談事業の本キャンペーン企画の成功か? それとも失態か? 専務の采配に掛かっている。それをハイエナのように見据えてスキあらばこれ見よがしと常務は黙ってみている。現在の妥当な線として、専務か常務か何れにせよ子会社の責任者、社長に座り臭い飯を食わなきゃならない。所詮、本社からの追い出し。這い上がっても将来は絶たれる。その時にはすでに役員も入れ替わる。挙句の果てには、行き場のないポストが待っているだけだ。
女社長の息子、専務と常務だ。まさに一家眷族の会社だ。次男の専務、長男の常務。兄弟の役職が逆な事は実力の差が歴然としていた。日頃は物静かでパッとしない専務、だが見かけと違い手腕を問われる大きな仕事や結婚相談事業を今までこなしてきた。だから社長はどこかしら次男の専務を買っている。
兄の常務は役職が下になる。当然、それなりの大役をこなす事はない。この先任せられないし、経営者なんて不安この上ない。よってM&Aした会社の社長の座となるのだと誰もが読んでいる。言うなれば、社長を補佐する専務と常務との小競り合い。恐らく、常務はわが身の危険を察知し、専務への攻防だ。敵意剥き出しを露にする兄、弟へ万難を排した宣戦布告だ。その気配に気付いた専務。企画部の連中も専務に捲くし立てられ期限ギリギリまで缶詰状態で仕上げたに違いない。この企画も専務直々での立案であるらしい。それも相当の入れ込みである。
だからか、あれほどの勢いで相当息巻いているのが分かるがこの求心力のなさ、それに強硬なまで甚だしく無視する連中。一部のアホな出席者を除いて恐らくここに居る大半が間違いなく常務派なのだろう。どうやって手なずけたかは、俺の頭ではそこまで分からないが専務は最近体調を崩して病院通いと岩見から訊いたことがある。何れ専務の体力も限界があるとの見方なのだろうか?
得々と続く専務会議――。
しかし、専務の話は分かる。今や全世界規模の問題であるに違いない。温暖化や高齢化も政治経済の失墜。どれをとってみても今後の社会は課題が山積みである。確かに厚労省は晩婚化晩産化が一番の原因と言っているが、そもそも本当に結婚をしたいだけなのか、それとも子供が産みたいのかという問題が大きいのでは? 過去の理想的家族というのは崩壊しているといえる。結婚による自由の拘束、経済的苦悩やらで結婚するメリットがなくなっている。どの国をとっても少子化が深刻な問題となっているだ。結婚しても明るい未来はあるのか? 非正規雇用社員の多くは生活の不安を抱える。ワーキングプワー問題も老後の介護や年金問題も以前と先が見えない社会に誰しも、のほほんとしていない。そんな青臭い化石じみた考えはすでに崩壊でいる。
そんな事より俺は目標数字を達成すればよいのだ。専務企画のキャンペーンを自分の所属に卸せば良い。関係無い訳ではないが今、ここで少子化の問題定義を問いている事より、立案企画したキャンペーンの成功。会員数を獲得し、目標をクリアして高成績を収めればいい。結婚の二文字をなんて俺にはまだ無縁だ。
こんな広く深い話よりもっと詰める内容があるのではないのだろうか。いったい専務の言いたい本キャンペーン企画の話は何処に行ってしまったのか?
手首を返し、腕時計をチラッと見る。十時三十五分、専務が話し始めて既に三十分は経過している。
いい加減にスケールダウンした話にしてくれないものだろうか。勢いのあまり話しが大きいままだ。何が言いたいの理解できなくなってきたぞ。ボロボロになりかけの資料を片手に息巻いて滔々と話す専務。話が前後しても要領得ない話になっても止めはしない。
相変わらず専務は渾身の力を振り絞り、ギシギシと歯噛み、目ん玉をひん剥いた形相で息巻いて捲し立てる。あれじゃ、ぶっ倒れるのじゃないか。
はぁ、疲れる。専務の気迫も忘れ、気付かれぬように駿平は溜息を落す。見た目俺も回りにいる連中と同じように見えるのだろうか。
昨晩もホテルで行われたうち主催のお見合いパーティで運行係と司会の補佐を急遽させられ狼狽した。慣れない補佐を任され、ドギマギしながらもなんとか乗り越えた。幸いに会場に来られた全員が二度目、三度目と参加でもあり、回も重ねていたお陰で事無く三時間ほどの立食パーティを終わらせた。クタクタな上、朝からのこの会議。とても疲れる。
「おい! そこのやつ! 何故だと思う?」バシッ!
突然、専務に名指しされた。思わず身を引き、息を呑む。
宙を見上げ、窓から見える遠くの景色を見ながら頭の中で昨日の考え事をしていた駿平が専務へと何気に目を向けるとバッチリ目が合う。専務は目を剥いて背中掻き具で俺を指差している。すると他の全員が同時に視線を向けてきた。あたりをキョロキョロ見廻しているとダメ押しされた。
「おまえしか居ないだろう。」
「え、俺ですか?」駿平の声が裏返る。――やはり俺か。
「ああ、そうだ。君しかおらんだろ。名前は?」専務は背中掻きの柄側で駿平を指す。すると背中掻きが消えた? いや、力尽きたように握る背中掻きをダランと落す。
あれ、専務。どうした? おかしい。顔色が悪そうだ。専務に気を取られていると何か一つ、突き刺す光り? 感じる何か――。
目にチカチカと光線らしきものとすぐに分かった。
その突き刺す光が胸の辺り、一センチほど赤く丸いスポットが揺れている。思わず窓の外を見た。標的にされた俺の額、照準は隣ビルの屋上から向けられたものなのか? 狙いを定められたターゲットのように。
殺し屋? 俺を狙われている? まさか――。
俺は怨みを買う覚えは無いが、この商売は時として人を崖から突き落とすようなこともある。いやいや、それでも俺にそんな怨まれるほどの甲斐性はない、はずだ……。しかし、多少の心当たりあるとも思える。
「おい、聞いてるのか?」バシッ! 生気を失いかけているような専務の声が聞こえた。
視線を戻すと目にキラリと刺さる光線。眩しい! 手で遮る。
今度は自分の手の平に赤い光。
室内を素早く探る。するとその放つ光の発信源がやっと分かった。常務が手に持つプロジェクターの電子レーザーライトペンの光線。それも赤いスポットが揺れている。
危ねー、そんな物、人に向けるな。何考えてるんだ常務! この唐変木! 腹の中で毒づく。
「おい、お前さっきからどうした?」
「あ、はい。私ですか?」動揺を隠し切れず裏返ったままの言葉を飲み込み、冷静を出来るだけ装い、自分を指す。
「何度も言ってるだろうが」
駿平の行動に不審を抱く。その不審な行動の原因が常務の悪戯と分かると横目で睨みつける専務。目で恫喝する。
常務は電子ライトペンの光線は止め、首を横に振りそっぽを向く。
その仕草を睨む専務の口がへの字に歪み、鼻の孔が一段と大きくなる。会議室の室内照明が専務の額を照らす。薄く不毛地帯と化した一帯にネットリと汗が滲む。専務との距離はあるが、ものの見事に窺える。
気を取り直して右眉を吊り上げ駿平を睨む。本人は鋭い視線で睨んでいるのだろうが先ほどの気迫がまったく無いし鋭さが失せていた。
「ところで君、名前は? ん? どこの部署か?」駿平を遠くから見下ろすように言う。
「野呂です。東部支社の野呂駿平です」
「ノロ?」専務は間を置いてから思い出した「あ、山根君のところの?」眉間に皺を寄せ訝しげに訊く。
「はい?」それがなにか?
「いや、なんでもない。まあ、いいから言ってみろ! さっさと答えろ!」バシッ!
やべ、訊いてなかった。思わず俯く駿平。つい、横の連中と常務の悪戯に気を取られ、あれこれと会議とは関係ないことを考えていた。
――つい訊き直した「で、何を?」駿平はすっとぼけた間抜けな返事を返してしまった。
『バスッ!』専務の背中掻き具を机に叩きつける。いったい、そんなに憤慨しなくても。唇を歪めガキみたいに切れそうな振る舞い。大の大人が勘弁してくれよ。
まいったな。これ以上、下手ないい訳や切り返しをすれば尚悪い。当たり障りのない返答しないとな。しかし、今日の専務はいつもと違う。いや、もともとそんな人だったのかもしれない。ドロ臭い営業畑で築きあげた自前論を振り翳す時代の先駆者は俺の言葉を遮るかのようにかぶせてくる団塊の世代の頑固親父を絵に描いたみたいで、高度経済成長時代の化石人間といえるのかもしれない。
その横でこの会議をおちょくっている常務は知らん顔して腕組している。どこか遠くの空を見るように窓に視線を向けている。
「だから、日本のこの数字をだな……。『1.25』この出生率の実態だ。おい! お前何を聞いていたんだ? え! 俺の話を訊いていなかったのか?」専務が擦れる声で言う。
「え、いえ……、その……」なんと言うか、『1.25』の実態がどうしたと言うのか?
しどろもどろに言葉を探す。
「ええい! もう、いい!」バシッ!
専務は俺をバッサリと吐き捨てるかのように切り捨てた。勝手に匙を投げるなよな。更に自分の敵を作るのか? 大袈裟な所作、専務の顔が赤らみを帯びている。それも赤黒い形相に歌舞伎役者のようにも見える。
「とにかくキャンペーンだ。いいか!」パシッ! 心なしか響く音が弱くなったような気がした。「今回のキャンペーンは今までにない企画だ。詳細はこの後、部長の方から説明をして貰う。まあ、とにかくだ。結婚しないことには少子化問題も解決しない。そこが当社の社会責任とも言える。練りに練って今回は、……した。し、た……」
やっとキャンペーンの話になってきたか。
しかし、変だ。専務、なにか様子が変だ。俯き、溜息を着いて椅子を掴む。掴む手がプルプルしている様子が見て取れる。
テーブルにあるミネラルウオーターのボトルを傾けグラスへ注ぐ。一息ついてグイっとミネラルウオーターを飲み干す。それからネクタイを緩める。背を伸ばしもう一度、手に背中掻き具を握ると背中を掻く。荒い息遣い。肩で溜息をもう一つ着くとかぶりを振り、気を取り直した表情を見せる。
「はぁ……、さて、どこまで話したかね、それから――」まだ、話すつもりか? そろそろ部長と交代するのか、と思った。こちらも溜息がでそうだ。
資料に目を落とそうとした。突然、床に響く物音。一同が揃って音のする専務へと目を向けた。
専務は俯いてテーブルに両手を着く。先ほどより息遣いが荒い。形相も違う。背中掻き具が床に転がっている。先程の顔つきより醜く明らかに変だ。
側にいる部長がそっと耳打ちする。
「おお、そうだった。うん。はぁ……」
体を起こす仕草も今までとは違い、どう見ても異常だ。青ざめている。さっきまで息巻いて矢継ぎ早に話す専務の額に脂汗が滲むのがここからでも見て取れる。
「さて、いいかね。手元の資料に……」「うっ……」と、そこまで話したところでまた椅子に手をかける。胸に手を当て抱きかかえるようにしたかと思うとドサッと鈍い音をたて、床へ座るというより膝を突き倒れこんだ。
「専務!」
「専務! どうされました? 専務! 専務!」側にいた部長が慌てて詰め寄る。
会議室が揺れる。全ての視線が一斉に上段へ向けられる。辺りが騒然となる。
すかさず駿平も周りの社員も駆け寄る。
息苦しく唸る専務の形相が赤鬼のようになる。悶えて口をパクパクとして焦点の合わない目線。全身が硬直し顔は引きつり、痙攣し始めた。悶えておぞましいほどの形相で口元は涎まみれになっていく。
散々、息巻いていた専務。あの会議室に轟くほどの大声で一時間ほど力説していた挙句、ぶっ倒れてしまった。
横で慌てふためいている課長は手に持っている資料でバタバタ狼狽して扇ぐ。
常務もうろたえる仕草、声を荒げて大音声で叫ぶ割には妙に嘘っぽい。心配の欠片もない嘘の言葉、歓喜のお叫び、作り声で芝居そのもの。
取り巻きの部長と課長二人に抱きかかえられるように専務は連れ出された。おいおい、そっとしておかなくて良いのか? その場で横にして救急車を呼んだほうが――。
会議室が揺れたと思っていたが、実はそうでもなかった。その場に居たのは駿平を含め三人ほどの社員。常務を含め他の連中は驚きと言うより、席に着いて冷ややかな視線の奴、コソコソ話でニヤリする奴、鼻を穿る奴、中には一瞥だけして資料に目を通す奴、携帯電話を見ている者もいる。とにかくどいつもこいつもその姿に呆れるどころか心底軽蔑する。
本社ビルのロビーに横付けされた救急車へ担架で運ばれる澤田専務。心配しているというより、参加者一同も追いかけロビーに野次馬みたいに集まる。そして救急車を取り囲む。
サイレンの音をたて、野次馬を掻き分け、救急車が発車する。ビルを曲がり、本通りへと勢いよく消えた。
見送るその中の一人、常務は腕を組み肩が揺れる。それとなく横顔をチラッと窺うと唇が攣り上がりうっすらと含み笑いを浮かべ、ほくそ笑んでいるように窺えた。
はぁ、溜息をつく。自信失いな……。この会社長く勤めて行くことに嫌気差しそうだ。
「よう!」
いきなり背後から呼ばれる。声のするほうへ振り向くと岩見がズボンのポケットに手を差し込み立っていた。
「少し、いいか?」
まてよ。腕時計を見ると会議が始まるにはまだ時間があった。あの騒動の為、会議が一時休憩となったのだ。
「ああ、いいけど」駿平は頭を掻きながら背中を見せ歩く岩見の後に続く。
ロビーの一角に設けられた喫煙室で石見と二人、ロビーを行き交う通りの見えるカウンターに並んだ。本社ビルの裏側に面した一角の為、ほとんど人通りがない。時折、社内の人間が横切っていく程度だ。喫煙室を見渡してみても誰一人いない。本社も最近禁煙となり、この喫煙室でしか吸えない。男性社員も最近禁煙者が多いと訊いた。それに仕事や会議の合間も態々、ここに来て吸うのも面倒だから利用する者は少ないようだ。
窓の外を横目に見ながら、おもむろに取り出したピースを咥えると岩見は勧めてきた。
「いや、俺はいい。最近、メンソールに変えたから」
「そうか……」
駿平が懐から、ウィンストンメンソールをボックスから取り出すと、岩見がライターの火を差し向けてきた。軽く吸込むと脳天まで煙が行渡る。俺は胸にニコチンが廻る、というより脳みその隙間を駆け抜ける煙と思う。更に深く思いっきり吸込む。するとクラッと眩暈がする。
高校に入学した時からこの軽い眩暈を一種の恍惚的陶酔感。繰り返し求める中毒感を症状に溺れている。やはり脳天だ。
紙コップに注がれたコーヒーを一口啜り、灰皿へ灰を軽く落としもう一口吸う。
わざわざ呼び出しておいて何も話そうとしない岩見。カウンターから見えるロビーを見遣りながら煙草を燻らせるだけだ。何か言いたいことがあるならと。業を煮やした駿平が切り出す。
「しかし、常務の奴、今頃裏で大笑いしているのかな」駿平は揶揄して言う。
「ああ、そんな感じだな」煙草の灰を落しながら岩見は小声で呟く。
「おまえ、どっちに付いているんだ? 聞くまでもないだろうが」駿平はなに気に聞いてみた。
「俺か?」自分を指さす。
「専務派なんだろ」当然のように駿平は言う。
「俺は別にどっちでもいい。派閥なんて性に合わない」肩を窄める岩見。
「え、そうなのか? 企画の連中は専務派に属しているんじゃないのか?」
「そんな、有る訳がない」
「そうか、悪い。そんな風に見ていたんじゃないからな、気を悪くしないでくれ」
「いいか、こんな事で派閥争いに巻き込まれ、コバン鮫のようどちらかに張り付く。そんなの愚の骨頂だ。なんでそんなことを気にして先行きを決めるアホとは違う」岩見は少しムッとした顔から鼻でフンとすると冷ややかに言う。一口吸うと煙を吐き出す。「むろん、おまえもそうだろ」吸いさしを灰皿に捻じ込む。
「ああ、まあな」駿平も頷き言葉を返す。別段、興味がないがそれなりの顔つきで虚勢を張る。確かにと言っていいほど気にしていなかったし、これからも気にするつもりはなかった。
「ところで山根課長、元気か?」
「ああ、何か?」
「いやな、変な噂を訊いたんだが……」
「え?」
「ここだけにしておいてくれ。実は――」
課長がどこかの組織? 暴力団? 裏の組織? とにかく変な奴らとの付き合いがある、と噂されている。もし、何かあれば教えて欲しい。本社直々に表立って調査する訳にはいかない。
岩見は上層部から内偵の命を受けている。しかし、本当だろうか? そんな風なおやじじゃないと思うけどな。
岩見は湯気も立たないほどのコーヒーを一気に喉に流し込むとその紙コップを屑籠に放った。そのまま手首を返し、腕時計をみやる。
「それだけだ」
「そうか……、課長がね」
「ああ、そうだ。お前も気を付けろよな。じゃ、俺行くわ」
「あ、ああ。いやちょっと待ってくれ!」
「何かあったのか?」歩き始めた岩見が首を捻る。
「あ、いやいい」口ごもった。
「そうか、じゃまたな」さらりと背広の裾を翻し喫煙室のドアを押す岩見。
「ああ」駿平は浮かない顔で一人、届きそうにないくぐもった声で答える。
喫煙室のガラス窓の前をシャキッとした足取りの後姿で過ぎていく岩見の背中を少し疎む視線で追う。
――あいつ、さゆりさんと付き合っている。そのことが今でも引っかかる。分かっているが拭い去れない苛立ちもある。そのことをつい訊こうと喉もとまで言葉がでかかったが飲み込んだ。
あいつの口から本社営業二課のさゆりさんと付き合っている事を聞かされた時は、相当面食らった。
入社後、すぐに岩見と二人同じ部署に配属され、外回りへと先輩に連れられヘトヘトになるまで回った。それでも、帰社した営業の疲労感を一変に吹き飛ばす。彼女の慰めのような囁きの声。一瞬にしてまた、外回りしても良いかも、と思うほどである。彼女は、誰もが頷くほどの容姿と気品が漂っている。しかし、臆面にはさらさら出さない女性ときた。営業部のマドンナ的存在だ。恐らく、同課の営業は大抵がそう思っていたに違いない。
ところが、どういう訳か岩見とくっ付いていたとは。よりによって、何故同期の岩見なのか? 先輩を含む二課の営業は誰一人とこの事は悟られていない。偶々、岩見のアパートに行った時、彼女の贈り物に気付いた。
さゆりさんとの事、岩見はワザと俺に示唆してきた。その示唆はいわゆる見栄ってやつだ。けれど大丈夫。あのさゆりさんが岩見と? 彼女のきまぐれに違いない。まあ、それ以来俺としては、岩見がいずれ振られるのを高見見物という事でそ知らぬふりしていた。
だからといって岩見を落としいれるほど落ちぶれてはいない。そこまで腐ってない。チャンスは平等に廻ってくる。物にするかどうかがその人間の厚みだ。さゆりさんが愛想尽かすに決っている。決して悪い奴じゃないが女好きだ。だから、黙っていてもいずれ破局が訪れる――。多分、恐らく、なんとなく。いや、そうに決まっている。それを思うとイライラする。
二人のその後を探りたかった。付け加えて専務と常務のことをもう少し訊きたかった。
それを訊いたところでどうなる訳でもない。これ以上訊いても同じ事だと思うと、どうでもいいような気もした。しかし、あいつも派閥争い露のこんな会社に居ることって、どうなのか? 駿平は肩を竦めて溜息をつくと煙草を揉み消す。
勝ちを意識するあまりにブッ倒れた専務はダムの決壊と同じく、ああなっては事実上の敗北を意味する。
喫煙室の壁にかかる時計を見ると十一時になろうとしている。「ヤバ!」駿平はコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に投げ込むと会議室へと急いで向かった。
本社の企画会議、年末会員加入キャンペーンの施策説明を部長が二時間ほどかけて話した。その後は各支部からの責任者全員に現況報告させた。あの専務の騒ぎがあったにもかかわらず専務不在でも会議は進行し、終わったのはすでにどっぷりと日が落ちた夕刻だった。一日をかけて行われた会議、緊急中座した専務をよそにビッチリと行われた。
その後、常務は会議室に姿を現さなかった。すでに陰で画策を張り巡らせているのか、いや恐らくゆっくりと一席設けているかも知れない。一抹の不安を抱え駿平は会議室を後にした。
会議室を出て直ぐに手首を返し腕時計の針に目を落とす。十八時三十五分。もうこんな時間か。
ここで電車に飛び乗り事務所へ戻れれば、明日朝からの営業会議の資料作りと今日の会議資料報告を同時に出来そうだと考えた。そのほうが二回に分けてやるより良さそうだ。
駿平は足早に中央エレベータに向い、閉じかける扉を割って乗り込む。軽い無重力を体に受ける。数秒後、足が地に着く感覚。扉が左右に割れるとエントランスホールへと降りる人に揉まれエレベータから排出された。
目の前に帰宅を始めている社員を掻き分ける。雑踏へと思い駆け出そうとした時。見覚えのある後姿が目に飛び込む。
山根課長?
そういえば、今日は責任者会議もあったのだ。山根課長、本社へ出向いていると訊いていたが、まさか同じ時刻にばったりとここで遇うとは思いもしなかった。
ここで捕まれば、一杯付き合わされる。一杯ならまだしも、この前は偉い目にあった。一杯、たかが一杯の焼き鳥屋で三十八本もの串を平らげるし、挙句の果て財布の中身は千円ぽっち。俺の財布から支払っておいた。呑みに行くなら、自分の懐具合を弁えてから誘ってくれ。上司だろ! そんな上司何処にもいない。化石みたいな課長と付き合ってられない。
とにかく、貰い癖が抜けない人間だ。
気付かれぬよう踵を返し、その場から一目散に裏口へ踏み出そうとしたが、ふと石見の顔が浮かんだ。けれど今はいい、駿平は逃げるように電車を乗り継いで事務所に戻った。