X2X
雨は止まなかった。
東京の夜は、ネオンが濡れて滲むと余計に毒々しく見える。
黒澤メイは、銀座の裏路地を抜け、地下鉄の階段を降りた。
濡れたブーツがコンクリートに黒い足跡を残す。
ポケットの中のカード――《Deadly Dymes》――が、指先に触れるたび、微かな熱を帯びている気がした。
合格。
あの二文字が、彼女の人生を切り裂いた。
いや、正確には、切り開いたのかもしれない。
終電間際の電車は空いていて、座席に座るなり、メイは目を閉じた。
頭の中に、佐伯の顔が溶けていく映像が繰り返し再生される。
皮膚が剥がれ、脂が溶け、骨が白く覗く瞬間。
嫌悪も、罪悪感もなかった。
ただ、淡い満足感だけが胸の奥に沈殿していた。
――簡単すぎる。
彼女は小さく息を吐いた。
これが「才能」というものなら、世の中はもっと馬鹿げている。
電車が揺れるたび、スカートの下の素肌が冷たいシートに触れる。
下着を着けないのは、単なる習慣ではない。
あの液体を出す瞬間、布が邪魔になる。
一滴の遅れが、命取りになることもある。
スラムの最寄り駅に着いた頃には、午前二時を回っていた。
ボロアパートの階段はいつもより暗く、壁にカビの臭いが染みついている。
三階の自室のドアを開けると、母親の咳が聞こえた。
「…メイ?」
薄暗い部屋の隅、布団に横たわる母親が、弱々しく顔を上げた。
メイは無言で近づき、母親の額に手を置いた。
熱はない。
ただ、肺が腐っていく音だけがする。
「今日も遅かったね…」
「仕事だよ」
嘘ではない。
これからは、本当の仕事になる。
メイはジャケットの内ポケットから、厚い封筒を取り出した。
中には現金――今日の報酬の半分、240万円。
残りは振込で後日。
彼女はそれを母親の枕元に置いた。
「…これ、病院代。
あと、家賃も払っといて」
母親の目が揺れた。
「こんな大金…どこから…?」
「気にしないで」
メイはそれ以上何も言わず、部屋の隅にある小さなクローゼットを開けた。
そこに、昨日までとは違うものが掛かっていた。
黒いジャケット。
同じく黒のプリーツスカート。
踵が10センチ近い、漆黒のヒールブーツ。
そして、胸に銀のバッジ。
三日月と髑髏が交差したマーク。
Deadly Dymesの制服。
いつ届いたのか。
鍵をかけたはずの部屋に、誰かが入った痕跡はなかった。
メイは静かに着替えた。
新しい布地は体に吸い付くように馴染む。
スカートの下は、もちろん何も着けていない。
鏡に映る自分は、昨日より少しだけ鋭く見えた。
翌朝――といっても、昼過ぎ。
メイは指定された場所へ向かった。
渋谷の雑居ビル、地下二階。
表札もない、ただ「D.D.」とだけ刻まれた鉄の扉。
ノックする前に、扉が勝手に開いた。
中は意外に広かった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、赤と黒の照明。
中央に大きな円卓。
そして、そこに座る三人の女。
一人は、長い黒髪をポニーテールにした、21歳くらいの女。
派手なメイクに、唇だけが血のように赤い。
彼女は足を組んで座り、爪を眺めながら言った。
「遅いわね、新入り。
待たせるなんて、失礼にもほどがあるわ」
声は甘く、毒を含んでいる。
隣に座るのは、ショートカットの明るい茶髪の女。
20歳くらい。
目が大きく、笑うと八重歯が見える。
彼女は手を振って叫んだ。
「やっほー! あたし、ミミ! 三ツ木ミミ!
よろしくね、メイちゃん!」
最後に、眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の女。
髪は肩までで、黒のストッキングが長い脚を強調している。
彼女は静かに微笑んだ。
「高本リナ。
よろしく」
メイは無言で部屋の中央に立った。
三人の視線が、彼女の全身を舐めるように這う。
ポニーテールの女――おそらくリーダー格――が立ち上がり、メイの顎を指で持ち上げた。
「黒澤メイ、19歳。
昨夜の佐伯隆一、完璧な仕事だったわ。
溶けっぷりが芸術的だったって、監視映像見た子が言ってた」
彼女はにやりと笑う。
「私は茅ヶ崎マヤ。
このDeadly Dymesの、事実上のトップよ。
まあ、正式にはギルドマスターじゃないけどね。
あたしたち三人は『3M』って呼ばれてるの。
Maya、Mimi、Mei――これからあんたもその一角になるわけ」
マヤは指を離し、くるりと回って自分の席に戻った。
「で? あんたのスキル、見せてくれる?」
メイは一瞬だけ目を細めた。
そして、ゆっくりと右足を上げた。
スカートが捲れ、太腿の内側が露わになる。
三人は息を呑んだ。
次の瞬間――
シュッ。
円卓の中央に置かれたグラスに、細い黄金の糸が弧を描いて落ちた。
ガラスが、触れた瞬間に白く曇り、ジュッと音を立てて溶け始めた。
中身の液体がテーブルに零れ、黒い焦げ跡を広げていく。
ミミが目を輝かせて手を叩いた。
「すっごーい! 酸っぱい匂いする!
あたしのより強烈かも!」
マヤは鼻を摘まみながら笑った。
「下品だけど、効果的ね。
あんたみたいなのが欲しかったのよ。
うちのギルド、最近ちょっと地味だったから」
リナが静かに言った。
「報酬は成果主義。
ランクが上がるごとに、依頼の単価が跳ね上がる。
今はまだFランクだけど、昨夜の仕事で一気にCまで上がったわ。
次はBを目指しなさい」
メイは足を下ろし、スカートを直した。
「次は、いつ?」
マヤが封筒を投げてよこした。
「今夜。
三人同時依頼。
あんた、ミミ、あたしでチーム組むわ。
『3M』の初仕事よ」
封筒を開けると、三枚の写真と詳細。
標的は、いずれも政界裏で暗躍する人間たち。
報酬合計、2100万円。
一人700万。
メイの瞳が、初めてわずかに揺れた。
――700万。
これで、母親をいい病院に移せる。
彼女は封筒を閉じ、静かに言った。
「…了解」
ミミが飛びついてきた。
「やったー! メイちゃんかわいいー!
これからよろしくね!
あたし、うんちで殺すから、見ててね!」
マヤがため息をつきながら笑う。
「下品な子たちばっかり…
まあいいわ。
今夜、渋谷の廃ビルで落ち合うから。
遅刻したら、溶かしてあげる」
メイは無表情で頷いた。
扉を出る瞬間、背後からマヤの声が追いかけてきた。
「そうそう、忘れてた。
うちのギルドのトップは、別にマスターじゃないの。
本当の支配者は、もっと上よ。
Leonard Damion――
あの人に認められたら、初めて『本物』になれるわ」
メイは振り返らなかった。
ただ、心の奥で、その名前を刻んだ。
Leonard Damion。
まだ知らない。
その男が、すべてを操る黒幕であることを。
外に出ると、雨がまた降り始めていた。
メイは顔を上げ、冷たい雫を浴びた。
「…楽しみだ」
彼女の唇が、ほんの少しだけ、弧を描いた。




