X1X
東京の外れ、下町のスラムと呼ばれる一角は、夜になると決まって腐った湿気と排気ガスの匂いが混じり合う。コンクリートの隙間から雑草が這い出し、錆びた鉄骨の隙間を雨が叩きつける音だけが響いていた。
梅雨の終わり。
19歳の黒澤メイは、ビルの屋上から街を見下ろしていた。
黒いジャケットの襟を立て、膝上丈のプリーツスカートが風に揺れる。踵の高いブーツが濡れたコンクリートにカツンと音を立てた。彼女は傘を持たない。雨に濡れるのが嫌いではなかった。むしろ、肌に染み込む冷たさが、頭の中を静かにしてくれる。
ポケットの中のスマホが震えた。
画面に表示されたのは一文だけのメッセージ。
《標的:佐伯隆一、45歳、金融ブローカー。報酬:480万。場所:銀座8丁目、クラブ「ルージュ・ノワール」個室B-3。期限:今夜中》
メイは無表情で画面を消した。
480万。
これでようやくあのボロアパートを出られる。母親の医療費をもう3ヶ月滞納している。払わなければ、来月には追い出されるだろう。
それだけだ。
それ以外に、理由はいらない。
彼女は屋上の縁から身を乗り出し、隣のビルへ飛び移った。
スカートが翻り、一瞬だけ白い太腿が雨に光る。
下着はつけていない。
必要ないからだ。
クラブ「ルージュ・ノワール」の裏口は、ゴミ箱と酔っ払いの嘔吐物で汚れていた。
メイはヒールを鳴らしながら中へ滑り込む。
店員が一瞬だけ彼女を見たが、すぐに目を逸らした。
ここでは、黒いジャケットと短いスカートを着た女は珍しくない。
ただし、その瞳が死んでいる女は、少しだけ目立つ。
個室B-3の前で立ち止まる。
ドアの向こうから、低い笑い声とグラスのぶつかる音。
佐伯は今夜、取引相手を3人連れている。
全員、殺す必要はない。
ただし、邪魔をするなら別だ。
メイは静かにドアノブを回した。
鍵はかかっていない。
傲慢な男ほど、鍵をかけることを忘れる。
部屋の中は薄暗く、赤と紫の間接照明だけが蠢いていた。
佐伯隆一はソファの中央に座り、太った指で葉巻をくゆらせている。
左右に若い女を侍らせ、向かいの席にスーツ姿の男たちが緊張した笑顔を浮かべていた。
メイが入ると、全員の視線が集まった。
「…誰だ、お前」
佐伯の声は酒で濁っている。
メイは答えない。
ゆっくりと部屋の中央まで歩き、ヒールの音だけを響かせた。
そして、静かに言った。
「仕事だ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、佐伯が笑い出した。
「はっ! ガキが何の冗談だ? 出てけよ、邪魔だ」
メイは動かない。
代わりに、右足を軽く上げた。
スカートが捲れ上がり、白い肌と、その奥の暗がりが一瞬だけ露わになる。
誰もが息を呑んだ。
そして――
シュッ、という小さな音。
佐伯の額に、透明な液体が一筋、弧を描いて飛んだ。
「…?」
最初は誰も理解できなかった。
ただの水滴だと思った。
だが、次の瞬間。
佐伯の額の皮膚が、ジュッと音を立てて溶け始めた。
「う、うわぁぁぁっ!?」
悲鳴が上がる。
液体はただの尿ではなかった。
それは、強酸よりも遥かに貪欲な何かだった。
皮膚を溶かし、肉を抉り、骨にまで到達する。
一滴で、人の顔を半分溶かす。
メイはもう一度、足を上げた。
今度は左足を高く掲げ、スカートを完全に捲り上げる。
無防備に晒された秘部から、再び弧を描く黄金色の奔流が迸った。
佐伯の顔面に直撃。
目玉が溶け、鼻が崩れ、口が塞がる前に絶叫が途切れた。
彼の体はソファに沈み込みながら、肉が溶けて骨が露出し、みるみるうちに原型を失っていく。
残りの男たちが立ち上がる。
だが遅い。
メイはもう動いていた。
一歩踏み込み、片足を佐伯の隣の女の肩にかけ、もう片方の足で床を蹴る。
体が宙を舞い、逆さに回転しながら、再び放尿。
弧は鋭く、正確に二人の男の喉元を貫いた。
気管が溶け、血と尿が混じり合って噴き出す。
部屋は10秒で静寂に包まれた。
残った二人の女は震えながら後ずさり、壁に背を押し付けている。
メイはゆっくり立ち上がり、スカートを下ろした。
髪から滴る雨と、指先から滴る黄金色の残滓。
彼女は二人を見下ろし、静かに言った。
「…見なかったことにしろ。
それとも、溶かして欲しい?」
二人は首を激しく振った。
泣きながら床にへたり込む。
メイは佐伯の残骸を一瞥し、ポケットから小さなカードを取り出した。
黒地に銀の文字。
《Deadly Dymes》
裏面には、血で汚れた指で一言だけ書いた。
《合格》
彼女はそれを佐伯の溶けた胸に置いた。
そして、踵を返して部屋を出た。
外はまだ雨が降っていた。
メイは顔を上げ、雨に口を開けた。
冷たい水が舌に触れる。
ほんの少し、甘い。
「…次は、もっと高く売れる仕事が欲しい」
彼女は呟き、夜の街に消えた。
ヒールの音だけが、雨音に混じって遠ざかっていく。




