第7話 閲覧記録開封(鍵を握るのは誰だ)
鍵って、だいたい事件を呼ぶ顔をしている。
小さくて、冷たくて、無口で、それでいて「こっち来い」と目で言う。
……目? 鍵に?
うん。胃には見える。胃は優秀だ。困った方向に。
「閲覧記録を開くには、鍵が要る」
文書室管理官のハーゼルさんは、生徒会室の入口で淡々とそう言った。
そして視線だけで、机の端を示す。
そこにあるのは、生徒会の鍵箱。
規則に守られているはずの、規則の弱点。
副会長が、いつもの柔らかい笑顔で言った。
「鍵は規則通りに管理していますよ。ご安心ください」
……「規則通り」。
この言葉、気持ちいい顔をしているのに、だいたい例外の入口だ。
私は一歩前に出た。
「開けます。でも、その前に」
白紙を机に広げて、ペン先を置く。
「鍵を使うなら、鍵の運用から記録します」
クラウディアが目を丸くする。
「鍵の……記録?」
「はい。鍵を使った瞬間から、記録が荒れる可能性が出ます。荒れる前に整えます」
ミレイユが無言で紙を引き寄せ、罫線を引いた。
まっすぐ。均一。美しい。胃が拍手。
「保管者」
「取り出し時刻」
「立会い者」
「返却時刻」
「署名」
私は項目を書きながら、きっぱり言う。
「ここで雑にすると、相手の思うつぼです」
副会長が少し困ったように笑う。
「そこまで厳密にしなくても。生徒会は信頼で成り立っていますから」
「信頼を守るために、記録するんです」
私は同じ笑顔で返した。笑顔は武器。胃を守る盾。
副会長は言葉を続ける。
「閲覧記録を開くのは混乱を招きます。噂が広がれば、学園の名誉が」
「噂が広がるのは、曖昧だからです」
私は即答する。
「曖昧を減らす。記録を増やす。そうすれば噂は自然に静まります」
副会長の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
すぐ戻る。戻るけど、固まった事実は消えない。
レオニス殿下が短く言った。
「開ける。立会いは私が担う」
部屋の温度が一段落ちる。
副会長のまつ毛が、ちょっとだけ動いた。
「殿下……」
「生徒会の権限だ。冤罪を止めるのは生徒会の仕事だろう」
殿下の声は低い。
低い声は、雰囲気を黙らせるのに向いている。便利。
私は鍵箱を見た。
鍵箱は無言だ。事件の顔で無言だ。
「では、鍵の保管者は」
ハーゼルさんが言い終える前に、副会長が滑らかに手を伸ばした。
「こちらです。私が預かっています」
鍵箱が開く。小さな金属音。胃が嫌な音。
私はすぐに「鍵運用記録表」に視線を落とす。
「保管者、副会長。取り出し、今。立会い、殿下、私、ミレイユ、ハーゼルさん」
ミレイユが無言で署名欄を差し出した。
副会長が一瞬だけ躊躇して、さらりと署名する。
そのペン先が、少しだけ強い。
筆圧って、感情を隠せない。
◇◇◇
廊下を歩きながら、私は鍵を布越しに持った。
素手で触ると胃が怒るからだ。胃は繊細。繊細な権力者。
「鍵って、だいたい事件を呼ぶ顔してますよね」
「顔はありません」
ミレイユが真顔で返す。
「あります。胃にはあります」
私が言うと、クラウディアがぷっと吹き出した。
殿下は息を一つ吐いた。笑ったのか堪えたのか、ぎりぎり判定のところ。
文書室の扉が開く。
紙と規則の匂いが、すっと鼻の奥に入ってくる。
ハーゼルさんがカウンターから出て、奥へ案内した。
保管庫の前。封。鍵穴。
「ここです」
私は鍵穴より先に、封を見る。
「開ける前に外観記録。封の状態、位置、傷、埃。触る前に書きます」
クラウディアが目を丸くする。
「そこまで?」
「そこまでです。ここで雑にすると、相手の思うつぼです」
私は同じ言葉を繰り返した。
大事なことは二回言う。胃が覚える。
ハーゼルさんが、ほんの少しだけ頷く。
この人は手順が好きだ。匂いで分かる。規則の匂いが同じ。
記録を終え、鍵を回す。
小さな手応え。
扉が開いた。
中から現れたのは、分厚い閲覧記録簿だった。
紙の匂いが強い。規則の匂い。胃が震える匂い。
「……では、閲覧記録です」
ハーゼルさんが言った。
私はページをめくる前に、宣言する。
「閲覧記録は単体では詰みません。照合で詰めます」
ミレイユが、もう照合表の用紙を出していた。
さすが。胃の味方。
「日時、閲覧対象、閲覧者名、立会い、備考、修正跡」
私は声に出して項目を並べる。
声に出すと、雰囲気が勝手に暴れにくい。雰囲気は音に弱い。たぶん。
最初のページ。
私は一秒で、指を止めた。
「……空欄」
閲覧者名の欄が、空白になっている。
さらに別の行。
上から書き直した跡。インクの色が微妙に違う。
「修正跡もあります」
クラウディアが顔をしかめる。
「でも、修正は訂正印が必要なはずでは」
ハーゼルさんが淡々と答える。
「必要です。二重線で消して、訂正印、修正者署名。それが正式です」
私はページを指で軽く叩く。
「必要なのに、ない。つまり、例外処理です」
副会長が背後で、静かに息を吸ったのが分かった。
音が小さいほど、胃は拾う。胃は余計に優秀。
「例外処理は、誰が承認できますか」
私が聞くと、ハーゼルさんは別の薄い冊子を出した。
「代理閲覧の規定があります」
私は受け取り、該当箇所を読む。
「代理閲覧には承認者サインが必要」
そして閲覧記録簿に戻る。
空欄の行。備考欄。そこに短い略号がある。
生徒会内でしか使わない、役職者の略号。
これ、知っている人しか書けない。
私は指を止めたまま、淡々と言った。
「名前じゃなく、承認の“権限”が見えました」
クラウディアが小さく息を呑む。
殿下の声が低く落ちる。
「内部の権限者だ」
副会長が穏やかな声で言った。
「憶測は危険ですよ。空欄があるからといって、意図的だと決めつけるのは」
「決めつけません」
私は即答する。
「だから照合です。嘘は一箇所じゃ済まないので」
殿下が静かに頷く。
「続けろ」
ミレイユが照合表に時刻を整列させ始めた。
その速度が早い。胃が追いつかないくらい早い。胃、がんばれ。
「照合対象は三つ。文書室の入退室記録。鍵運用記録表。生徒会の在室情報」
ハーゼルさんが入退室記録を出し、クラウディアが生徒会の会議記録を開く。
私は閲覧記録と照合表の間を往復する。
そして、見えた。
空欄の時刻。
文書室の入退室記録に、該当者の記録がない。
つまり、受付を通っていない。
でも、閲覧記録には残っている。
矛盾。
矛盾は、穴。
「受付を通ってないのに、閲覧したことになってる」
私が言うと、副会長が柔らかく笑う。
「受付の記入漏れでは?」
「記入漏れなら、立会い者が焦ります」
私は冷静に返した。
「でもここ、立会い者欄も崩れてる。修正跡もある。焦りか、意図か。どちらにせよ“偶然”の顔はしてません」
副会長の笑顔が、少しだけ薄くなる。
薄い笑顔は胃に刺さる。胃が痛い。
殿下が短く言った。
「次は、鍵の運用だ」
鍵運用記録表を見直す。
取り出し、返却、立会い。全部書いてある。今の分は、きれいだ。
「……過去の鍵運用記録は?」
私が聞くと、ハーゼルさんが淡々と言う。
「文書室側の鍵は文書室で管理。生徒会側は、生徒会です」
つまり鍵の話は、生徒会の中に戻る。
鍵って、ほんと事件の顔。
◇◇◇
文書室を出て、廊下の端。人がいない場所。
紙の匂いが薄くなって、代わりに冬の空気が混ざる。
殿下が足を止めた。
私も止まる。ミレイユは一歩後ろ。クラウディアは少し離れて周囲を見る。見張り役みたいに。
殿下が低く言う。
「君の手順は正しい」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、殿下は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ声の角度が変わる。
「だから、君に預ける」
「……何を、ですか」
軽くない言葉が来た。胃が構える。胃、警戒。
殿下は目を逸らさずに言った。
「代理閲覧の承認に関わる情報。運用の弱点。誰がどこで例外を作れるか」
心臓が一拍遅れる。
胃は先に落ちた。落ちたけど落ち着いてない。落ちたまま暴れてる。
「それ、軽くないですよ」
「軽い顔で奪われるものほど、重い」
殿下の言葉が妙に刺さる。
刺さる場所が胃じゃない。胸の方。困る。
「……殿下」
私が呼ぶと、殿下はほんの少しだけ息を吐いた。
「……セシリア」
名前を呼ばれた。
短いのに破壊力がある。
胃が「手順外」と叫んでる。うるさい。
「君は、雰囲気に押し切られない」
「胃に押し切られるので」
「それは違う」
殿下が小さく言って、口元をわずかに緩めた。
笑った。たぶん笑った。ぎりぎり笑った。
私は視線を逸らして、手順に戻す。
「……預かった情報は記録して、必要最小限で使います」
「それでいい」
殿下の声は低いまま、でも少しだけ温度が上がった気がした。
胃は落ち着かない。恋は手順外。
◇◇◇
中庭に出た瞬間、空気がざわついていた。
人が集まっている。掲示板の前。
視線が飛び交う。噂の速度で。
「生徒会が文書室を荒らしたんだって」
「権限の乱用?」
「セシリアが無理やり開けたらしい」
「怖……」
……ほら。
雰囲気が勝ちに来た。断罪ムードの得意技。
副会長が中心に立っていた。
いつもの、優しい笑顔で。
「皆さん、落ち着いて。生徒会としても混乱は望んでいません」
言い方が上手い。
上手いから危ない。
クラウディアが前に出ようとして、私は袖を掴んだ。
「今、声を張ったら負けます」
「でも!」
「雰囲気に押し切られると危ないです」
私は一歩前へ出た。
深呼吸。胸じゃない。胃に向けて。
「事実だけ言います」
ざわめきが少しだけ止まる。
止まってくれると助かる。雰囲気に押し切られると危ないので。
私は紙を一枚取り出した。
さっき作った、公式掲示文の下書き。
「文書室の閲覧記録を確認しました。立会いを置き、鍵の運用を記録し、必要な範囲だけを確認しています。目的は、誰かを断罪することではありません。冤罪を止めるためです」
ざわめきが別の形で揺れる。
断罪の揺れじゃない。情報の揺れ。こっちの方が安全。
「個人名は出しません。出すと雰囲気で断罪が始まります。だから、記録で進めます。必要な情報は、必要な手順で、順番に確認します」
副会長が柔らかい声で言った。
「ですが、皆さんが不安になるのも当然です。だからこそ慎重に」
「慎重にするために記録します」
私はかぶせた。
「曖昧のまま“丸く”すると、相手の思うつぼです」
空気が少しだけ固まった。
副会長の笑顔が、また一瞬だけ固まった。
固まる回数が増えている。胃が元気になる。単純。
殿下が前に出る。
「生徒会としての正式な調査だ。私が責任を持つ。解散しろ」
低い声が雰囲気を割る。
人が少しずつ散っていく。
噂は、情報に弱い。よし。
◇◇◇
生徒会室に戻り、鍵を返却する。
鍵運用記録表に返却時刻を書き、立会いの署名をもらう。
整った。整うと胃が少し救われる。
ハーゼルさんが鍵を受け取る直前に、ふと眉を動かした。
「……鍵の摩耗が違う」
「え?」
私は反射で覗き込む。
鍵の歯の角。小さな傷。確かに擦れ方が均一じゃない。
ハーゼルさんが鍵穴を見て、淡々と続ける。
「鍵穴の内側にも癖がある。これは、別の鍵の癖です」
背筋が冷える。
胃が嫌な音を立てる。
「鍵は二本じゃない」
ハーゼルさんが容赦なく結論を落とした。
「少なくとも、もう一本ある」
私は思わず言った。
「鍵が増えるの、胃に一番悪いです」
ミレイユが真顔で頷く。
「同意します」
殿下の声が低く落ちる。
「複製だ」
空気が、紙より乾く。
複製鍵。つまり、内部の誰かが、いつでも閲覧記録に触れられる。
副会長が穏やかな声で言った。
「そんなはずは。鍵は厳重に」
「厳重に、例外があるんです」
私は静かに返した。
「例外があると、そこから鍵が増えます。相手の思うつぼです」
殿下が私を見る。
その目が言っている。「次の手順」を。
私はペンを握り直した。
重い。責任が重い。
でも、この重さは私の味方だ。記録は嘘をつかない。
「複製鍵の入手経路を洗います」
私はフロー図の余白に、新しい項目を書き足す。
「鍵の複製ルート」
「鍵の保管例外」
「複製を許した管理の穴」
殿下が低く言った。
「行くぞ、セシリア」
「はい、殿下」
相手の逃げ道が一つ減った。
でも同時に、相手の手札が一枚見えた。
鍵は増えた。
胃には最悪。
手順には最高。
つまり、勝てる。




