第4話 赤い手袋、蝋の匂いが濃すぎ問題
放課後の講堂って、だいたい二種類に分かれる。
片方は、青春の音がする。
楽器の調律。合唱の合わせ。舞台の台詞。誰かの笑い声。
もう片方は、埃の音がする。
古い板の軋み。倉庫の箱が擦れる音。使われない幕の、ため息みたいな揺れ。
今日の講堂は、完全に後者だった。
「……空気、茶色い」
私が言うと、隣でミレイユが淡々と頷いた。
「はい。吸い込むと肺が怒る種類です」
「肺も怒るのね。胃だけじゃないのね」
胃に優しい世界を希望します。申請窓口どこ。
舞台袖。赤い幕の匂いが濃い。
そこに古い木箱の匂いと、防虫香の甘さが混ざる。たぶん、この“甘い匂い”が、あの手紙の候補だ。
そして、ここにいる王太子。
レオニス・アルブレヒト殿下は、暗がりでも姿勢が崩れない。
こういう人は、椅子がぐらついても体幹で水平を作るタイプだ。たぶん。
「ここが講堂の小道具倉庫だな」
「はい。赤い幕の近くで、“赤い手袋”が落ちていたって証言が出たので」
私はできるだけ平然とした声を作る。
証言の話をすると、空気がざわつく。今日は空気を増やしたくない日だ。
「手袋は、すぐ見つかると思うか?」
「台本なら、角を曲がった瞬間に光ってます」
言いながら自分で嫌になる。
台本って言うと便利なんだ。便利だから腹が立つ。
レオニスが、ほんの少し眉を動かした。
「光っていないなら?」
「……現実です。厄介」
ミレイユが無言で布を広げた。
素手で何も触らない準備。世界も見習ってほしい。
倉庫の棚は箱、箱、箱。
小道具のラベルは雑。字が薄い。紙が剥がれている。
こういう場所に、台本は喜んで住み着く。
(講堂の管理、穴だらけだな。穴に台本が住む)
私は棚の下を覗き込み、箱の裏へ手を伸ばしかけて、止めた。
埃が舞う。鼻がむずむずする。胃もむずむずする。むずむず大会開催中。
「セシリア」
レオニスの声が落ちる。
「無理はするな」
「命令ですか」
「……要請だ」
ずるい。
要請って言われると、断ったら私が悪いみたいになる。
違う、悪役令嬢なんだから私が悪いはずなのに。仕様が変。
そのとき。
ミレイユの手が止まった。
「お嬢様」
「なに」
「見つかりました」
早い。
世界はミレイユに追いつけない。
彼女が指したのは、小道具箱の裏。板の隙間に、赤い布が挟まっている。
赤い手袋。片方だけ。指先が少し固い。
「……赤い。はい。赤い」
自分で言って、自分で思う。
(こういうのが“見つかる”の、サービスが過ぎる)
でも証拠は歓迎。
歓迎しつつ、手は出さない。出した瞬間、台本に「触ったね?」って笑われる。
「触る前に、書く」
私は証拠保全箱を開けた。
箱は、小さな儀式の音がする。
蓋の蝶番。紙の束。封印紐。署名欄。
この音を聞くと胃が少し落ち着く。人は儀式に弱い。
「発見場所。講堂舞台袖、小道具倉庫、箱の裏。
発見者、ミレイユ。立会い、殿下と私」
ミレイユが布越しに手袋をつまみ、私は状態を観察する。
内側が少し湿っている。
そして匂いが、鼻に刺さった。
「……蝋の匂い」
レオニスも一歩だけ近づき、距離を保ったまま言う。
「蝋片もある」
指先の縫い目に、薄い固まりが付いていた。
蝋の欠片。赤い幕の埃とは違う、硬い感じ。
私は記録用紙に書く。
状態:赤い手袋(片方)。内側に蝋様の匂い。指先に薄い固着物。
備考:防虫香の甘い匂いが周囲にあり、匂いの混在可能性。
匂いは、嘘が混ぜやすい。だから最初に書いておく。
後から「最初から匂いがした」って言われると、空気が勝つ。空気は胃に来る。
「封印は、蝋を使わない」
私は言った。
ミレイユが当然のように頷く。
「封印紐で封じ、署名で締めます」
「そう。蝋が出てきた現場で蝋を足すと、混ぜられる」
レオニスが小さく息を吐いた。
「君の“先に整える”癖は正しい」
「癖って言わないでください。悪い習慣みたいに聞こえます」
「悪いとは言っていない」
「じゃあ褒めてください。胸が少し回復します」
レオニスが一瞬だけ黙った。
「……よくやっている」
……はい、効いた。
胃じゃなくて胸が回復した。厄介な回復だ。
封印紐が締まり、署名が並ぶ。
箱の蓋が閉まる。
嘘が少しだけ居心地悪そうになる。
「次。ログです」
「台帳だな」
「はい。台帳は命です」
横でミレイユが小さく頷く。
あの人、本気で台帳に魂が入ってると思ってる節がある。
◇◇◇
講堂の管理担当は、顔が四角い先生だった。
規則が四角いタイプの四角さ。
「講堂の鍵と台帳は、学園の命です」
開口一番、それ。
学園、命が多すぎない? 命が渋滞してる。
レオニスが淡々と言う。
「閲覧のみ。写しを取る。立会いをつける。持ち出しはしない」
「……殿下」
先生が渋い顔をする。
権限が、渋い顔を黙らせる音がした。便利すぎて怖い。
私は横で小声で言った。
「殿下の権限、台本が嫉妬しそうです」
「嫉妬されても困る」
「困ってください。私の胃が公平になります」
先生が台帳を出してきた。分厚い。古い。
そして、ところどころ空欄がある。空欄は台本の入口。
私は紙に線を引き、講堂用のチェック表を作る。
時刻/入退室者/目的/持ち出し備品/返却確認。
欄を作ると、空欄が目立つ。目立つと、急に恥ずかしくなる。空欄は恥を知らないけど。
「赤い手袋は、誰が使うんですか」
先生が言う。
「幕の扱い。舞台転換。照明の調整。火を扱う演出の際にも」
火。
蝋。
はい、繋がりそう。
「管理ルールは?」
「返却箱に入れる。点検は……担当生徒が」
担当生徒。便利な言葉。便利な言葉には穴が開く。
ちょうどよく、舞台係の生徒が呼ばれてきた。
部長格の女子。手が荒れている。幕を引く手だ。
「赤い手袋は共用品です。左右揃いで一組……のはずです」
「“のはず”が入った」
私は即言った。
言った瞬間、自分が嫌になる。嫌だけど止まれない。胃が。
舞台係の女子が目を泳がせる。
「忙しい時は……箱にまとめて……」
「つまり、誰でも取れる?」
「……はい」
犯人の範囲が広がる音がする。
でも、広がるだけならまだいい。怖いのは“内部者しか知らない情報が外へ漏れる”ことだ。
私は封印箱を机に置いた。
「この手袋、内側に蝋の欠片が付いてました。
講堂で蝋を扱う場面、具体的に教えてください。推測じゃなく、見たことがある範囲で」
舞台係の女子は少し考えた。
「小道具箱の封を蝋で止めることがあります。古い箱は、勝手に開かないように」
「ろうそく演出は?」
「リハはします。でも、今週は……」
言いかけて止まる。
止まる場所には理由がある。
「今週は?」
「……先生に止められて。危ないから」
危ない。
つまり、蝋の痕跡が出るのは通常じゃない。
「昨夜、蝋を扱った人を見ましたか」
私は言葉を渡さないように気をつけて聞いた。
舞台係の女子は首を振る。
「私は見てません。昨日は片付けが早く終わって」
「入退室記録には?」
先生が台帳をめくった。
指が途中で止まる。
「……ここが空欄です」
はい。入口が開いた音。
私はその空欄を指差した。
「この空欄が、台本の入り口です」
扉の近くに、いつの間にかクラウディアが立っていた。
腕組み。眉間に皺。正義の顔。
「講堂を調べているのですか」
……早い。
(まだ公表してない。誰が伝えた)
胃の奥が冷たくなる。
情報が漏れている。台本の予告が、現実の足音を立てている。
レオニスはクラウディアを見て言った。
「必要な調査だ」
「それは分かります。しかし、証人は泣いているのですよ。あなた方は――」
「泣かせるために調べているわけではありません」
私はできるだけ穏やかに言った。
「泣かせたのは台本です。私たちは、泣かせないためにログを見てます」
クラウディアが口を開きかけたが、レオニスが先に言う。
「手順に従う。記録に従う。感情で決めない」
クラウディアの視線が揺れた。
正義の炎が、ほんの少しだけ方向を探している。
舞台係の女子が、ぽつりと言った。
「……これ、脅迫の手紙の紙質に似てる気がします」
空気が一瞬止まった。
「どの紙?」
私が聞くと、彼女は倉庫の棚から厚い白紙の束を出した。
「プログラムの試し刷り用の上質紙です。つるっとしてて、破れにくい」
つるっと。厚い。
条件一致。
そして周囲に甘い匂い。
「防虫香ですか」
先生が頷く。
「紙を虫から守るために。講堂は古いからね」
甘い匂いの候補、確定。
蝋の匂いと混ざると、あの“手紙の匂い”になる。
(つまり、脅迫状は講堂の備品ルートで作れる)
レオニスが短く言った。
「紙の数を確認する。抜けがあれば、持ち出した証拠になる」
先生が渋い顔のまま頷く。
渋い顔は、権限の前で動く。
私はチェック表に追記した。
講堂備品:上質紙(防虫香保管)。昨夜使用記録確認。
赤い手袋:共用品。管理雑。蝋痕跡。
空欄:入退室記録に穴。
穴が揃ってきた。
穴が揃うと犯人が落ち着かなくなる。落ち着かないと余計な動きが出る。そこを掴む。
……その前に。
「礼拝堂点検ログと講堂ログ、同じ線に並べます」
私は言った。
先生が首を傾げる。
「礼拝堂?」
「点検があったんです。立会いが“生徒会の誰か”っていう、便利な表現付きで」
クラウディアが眉をひそめる。
「あなたはいつも、言い方が……」
「悪役令嬢なので」
私は即答した。
クラウディアが黙った。納得したのか、諦めたのかは分からない。
◇◇◇
生徒会室に戻ると、黒板が恋しかった。
黒板がないなら紙で殴る。
私は大きめの紙を広げ、時間の線を引く。
十九時、二十時、二十一時。
その上に、礼拝堂点検の写しと、講堂の入退室記録の写しを並べた。
レオニスが礼拝堂の写しを机に置く。
「点検は十九時台。立会いは“生徒会”とだけある」
私は紙の線の上に、礼拝堂点検の時刻を書き込む。
「講堂の方は……」
講堂記録には空欄がある。
でも“リハの片付け”の時刻は書かれている。書かれている部分は、こういうとき正直だ。
「ここ、二十時前後に幕を畳んだって記録があります。
その作業は二人必要。誰がいたか、確認できますか」
舞台係の女子が頷く。
「はい。私と、もう一人です」
「もう一人は?」
「副会長の……」
そこで彼女が止まった。
空気がぴしっと固まる。言ってはいけない名前を言いかけた顔。
私は心の中で舌打ちした。
(台本、やっぱり内部者を絡める気だな)
レオニスが冷たく言う。
「名前を」
舞台係の女子が小さく言った。
「……生徒会の、副会長です。講堂の設備に詳しくて……」
クラウディアが息を呑む。
「副会長が……?」
私は紙の線に、講堂の二十時前後の作業を書き込む。
そして礼拝堂点検の時刻を見る。
もし副会長が礼拝堂点検の立会いもしていたなら。
同じ時間帯に講堂で幕を畳むのは無理だ。
「……同時刻に二箇所。無理ですね」
私は淡々と言った。
「どちらかの記録が嘘。
もしくは“立会いは別の誰か”なのに、便利な表現で隠してる」
クラウディアが言う。
「それは、推測では」
「だから、次は本人に確認します。
推測のまま断罪しない。推測のまま擁護もしない。
記録で殴って、本人の言葉で締める」
クラウディアが何か言いかけて、飲み込んだ。
正義の人は、記録で殴られるのが苦手だ。殴るのはいつも感情だから。
私は紙の端に小さく書いた。
情報漏洩:講堂調査が外に漏れている。
漏洩ルート:生徒会内部の可能性。
書いておく。
書くと怖さが減る。怖さが減ると、胃がほんの少しだけ仕事をサボれる。
「セシリア」
レオニスが私を呼んだ。声が、いつもより低い。
「少し、来い」
私は一瞬だけ迷った。
台本の予告が頭をよぎる。『殿下が隠していることを暴く』
この流れで二人きりは、台本が喜ぶ。
でも。
レオニスの目は台本じゃなく現実を見ている。
私は立ち上がった。
「……はい」
◇◇◇
廊下は静かだった。夕方の光が斜めに入り、床に長い影を作る。
この時間帯の影は、嘘を映さない。嘘はもっと明るい場所が好きだ。
レオニスは足を止め、私に向き直った。
「私の印が絡む可能性がある」
……きた。
台本の予告に似ている。でも中身が違う。これが現実。
レオニスは左手の指輪を見せた。
王太子の紋。細かい彫り。線の癖。
続けて、小さなケースを出す。承認印の見本。
「鍵の貸し出し、点検の承認、緊急の閲覧。
私の権限が動いた証拠には印が残る。
偽造されたら、私が関与したように見える」
刻印の線は綺麗すぎるほど綺麗で、逆に癖が少ない。
つまり、偽造されたら“癖”で見抜くしかない。
「……先に言ってくれて助かります」
私が言うと、レオニスの目がわずかに細くなった。
「君に渡すのは危険だ。だが、渡さない方が危険だ」
合理的。怖いくらい合理的。
でもその合理性の中に、私を共同責任者として扱う温度がある。
私はそれがちょっと怖い。怖いのに嫌じゃない。胃が怒る。
「殿下、信頼って言葉、辞書で引いてから言いました?」
口が勝手に軽口を叩いた。
怖いとき、私はこうなる。悪役令嬢の防御反応。
レオニスは小さく息を吐いた。
「……黙れ」
「はい」
返事をしたのに、心の中が少しだけ暖かい。
胃ではない。胃はいつも通り冷たい。
「偽造されるなら、印の違いを証拠にして逆に炙る。
君の手順でやれ」
「はい。手順で殴ります」
「物騒だな」
「文学的表現です。胃が」
「胃は関係ないだろ」
「あります。全部胃です」
◇◇◇
生徒会室へ戻ると、空気が妙に動いていた。
誰かが焦っている。
焦りは匂いで分かる。甘い匂いじゃなく、鉄の匂い。
クラウディアが立っている。
そして、いつの間にか役員が増えている。
つまり、情報が漏れて、集まった。
「講堂で手袋が見つかったのですね」
クラウディアが言う。
……確定。
(誰が言った)
私は笑顔を作りかけて、やめた。
笑顔は台本の餌になる。今日は餌をやらない。
「どうして知ってるんですか」
静かに言うと、クラウディアが胸を張る。
「風紀委員は情報網があります」
「情報網、便利ですね。穴だらけですけど」
「あなたは本当に……」
クラウディアが言いかけた、そのとき。
舞台係の女子が小声で言った。
「副会長に……殿下が講堂を調べてるって言われて……」
……はい、出た。
生徒会室の空気が一瞬だけ凍る。
レオニスの視線が鋭くなる。
「副会長が?」
舞台係の女子が慌てて首を振った。
「ご、ごめんなさい! 私、勝手に言っちゃ……」
「謝る相手が違う」
レオニスの声は低いが、怒鳴っていない。
怒鳴らない方が怖い。台本も黙る。
私は机の上の紙を指差した。
「情報漏洩、確定。
これで“協力者が裏切る”が、現実の足音になりました」
クラウディアが眉をひそめる。
「あなたは、誰かを疑っているのですか」
「疑う前に、順番があります」
私は言い切った。
「誰が、いつ、どこで、何を知ったか。
それを時系列に置いて、矛盾する人を呼ぶ。
疑いは、その後」
レオニスが頷いた。
「その通りだ」
内心で小さくガッツポーズした。
胃はガッツポーズするとつる。やめて。
そのとき、扉がノックされた。
ミレイユが、いつもの無表情で入ってくる。
布を挟んで、紙を持っている。
「お嬢様。届きました」
……嫌な予感が、胃の奥で跳ねた。
ミレイユが机に紙を置く。
私は触らない。布越しに、端だけをめくる。
封がある。
封の刻印。
見た瞬間、背中が冷えた。
「……殿下の印に、似てる」
完全一致じゃない。
でも似せている。人を刺すための形。
レオニスが紙を覗き込み、目を細める。
「似せ方が雑だ」
「殿下、それ褒めてます?」
「褒めてはいない」
「ですよね」
封の刻印は、線の太さが違う。角の丸みが違う。
癖がある。癖は嘘を吐けない。
私はゆっくり息を吐いた。
「台本、殿下を犯人役にしたいみたいですね」
クラウディアが息を呑む。
「殿下が……?」
「違う」
レオニスが即答した。
その硬さは、空気に負けない。
「なら、逆にする。印の違いを証拠にして、犯人を炙る」
……そう来た。
私は口角が上がりそうになるのを、指で押さえた。
悪役令嬢がニヤニヤすると、台本に「ほら悪役」って言われる。腹立つ。
「やりましょう。手順で」
レオニスが私を見る。
「無理はするな」
「命令ですか」
「要請だ」
またそれ。ずるい。
でも今日は従う。従う方が台本が嫌がる。
私は封印箱を抱え直した。重い。
でもこの重さは、私の味方だ。
ミレイユが静かに言った。
「お嬢様。封の刻印、講堂の古い保管箱の封と、線の癖が似ています」
……はい。やっぱり世界はミレイユに追いつけない。
私は頷いた。
「なら、次は講堂の“封”を洗います。
誰が、いつ、封を触ったか。
そして誰が、殿下の印を真似できる距離にいたか」
レオニスが低く言う。
「炙り出す」
クラウディアが、ようやく言葉を絞り出した。
「……あなたたちは、どこまで行くつもりですか」
私は笑わずに答えた。
「最後まで。
台本が誰かを泣かせるために書かれてるなら、私はそれを破ります」
胸が少しだけ熱くなる。
胃じゃない。胃は冷たい。
胸の熱さは厄介で、でも悪くない。
レオニスが短く頷いた。
「行くぞ、セシリア」
「はい、殿下」
台本の敵が、またひとつ増えた。




