第15話 来賓控室(握手は承認じゃない)
来賓控室の扉の前は、空気が違う。
廊下なのに香りがする。絹が擦れる音がする。笑い声が、壁の向こうでふわっと膨らんでいる。
そして、そのふわっとしたものほど、油断すると骨に刺さる。
(控室は“舞台裏”じゃない。“決めさせる部屋”だ)
握手で了承したことにされる。
笑顔で同意したことにされる。
頷きで責任を負わされる。
私は胃のあたりを押さえて、息を整えた。
(握手は承認じゃない。笑顔は同意じゃない。頷きはサインじゃない)
言い聞かせるように唱えたら、背後から元気な声が飛んできた。
「セシリア、顔が真剣すぎる!」
クラウディアだ。礼装は完璧、姿勢も完璧。なのに眉がピクピクしてる。つまり同類。
「真剣でいい。ここは胃に悪い」
「控室って、胃に悪い匂いするよね」
「する」
隣でミレイユが無表情のまま、机に紙束を置いた。紙の角が揃っているだけで、呼吸が一段楽になる。
「来賓対応チェック表。面会記録票。署名依頼票。贈答品受領票。入退室記録。簡易議事メモ」
「好き。今の“好き”は仕事の好き」
「それ、殿下の前で言わないでね?」とクラウディアが即ツッコむ。
「言わない。胃が死ぬ」
私は紙束の一番上を指でトントンと叩いた。
「今日のルール、短く言うね」
クラウディアが背筋を伸ばす。ミレイユは最初から伸びている。
「面会は面会記録票から。文書は署名依頼票から。贈り物は贈答品受領票から。出入りは入退室記録。口約束はしない。決めたなら、紙に残す」
「……うん。胃が生きるための呪文だ」
「呪文じゃなくて手順」
「手順って呪文みたいなものじゃない?」
「胃に効くなら、だいたい呪文」
そんな会話をしているうちに、靴音が近づいた。
空気が一段、固くなる。
「入るぞ」
レオニス殿下が来た。
いつも通り静かなのに、通ったあとの廊下が勝手に整う。そういう種類の強さがある。
殿下は私たちの前で立ち止まり、扉の向こうを見た。
「来賓の数は多い」
「多いですね」
私が答えると、殿下は短く頷いた。
「今日の窓口はセシリアだ」
その一言で、空気の軸が一本立つ。
クラウディアが「うわ」と小さく口を押さえた。私の胃も「うわ」と言った気がする。
「決定事項は記録する。例外はない」
殿下がそれだけ言って、扉に手をかけた。
(よし。窓口が固定された。これだけで台本のやり口が一つ死ぬ)
私は紙束を抱え直した。紙は盾。紙は枠。紙は、雰囲気より重い。
◇◇◇
控室の中は、柔らかい。
柔らかい椅子、柔らかい笑顔、柔らかい言葉。
でも柔らかいほど、骨が見えにくい。
入った瞬間、香水がふわっと来た。胃が反射で小さく鳴く。やめて。
来賓の中でも目立つ一人が、殿下に近づき、満面の笑みで手を差し出した。銀髪をきっちりまとめた侯爵夫人。声も笑顔も、やけに滑らか。
「殿下、本日はご多忙のところ。さあ、例の件、もうご了承いただけたということで」
来た。
握手で既成事実を作るやつ。
殿下が手を伸ばすより前に、私は一歩だけ前へ出た。動作は小さく、言葉は平らに。
「面会は面会記録票からです。要件を一行でお願いします」
私は机の上に面会記録票を置いて、ペンも添えた。
侯爵夫人の笑顔が一瞬だけ止まる。
「おや。堅いねえ」
「堅い方が誤解が減ります」
笑顔のまま圧をかけてくる相手に、私は笑顔のまま枠を返す。
ここで枠を崩した瞬間、雰囲気に押し切られる。押し切られたら、相手の思うつぼです。
侯爵夫人は「まあいいわ」と軽く笑い、面会記録票を覗き込んだ。
「要件は簡単よ。学園の備品の調達。来月の式典で必要になるから、王太子殿下の名で推薦状を」
「承りました。要件は『式典備品の推薦状』。詳細、続けてお願いします」
私は淡々と書く。開始時刻。来賓名。同行者。同席者。
紙に落ちると、相手の言葉が少しだけ遅くなる。遅くなると、嘘は入りにくい。
書き終えたころ、侯爵夫人は殿下に向き直って、握手の形を崩さず言った。
「では殿下、了承ということで」
殿下が口を開く前に、私は面会記録票の「決定事項:なし」に丸をつけて言った。
「決定は議事メモに残してからです。いまは要件の確認中です」
侯爵夫人の笑顔の角が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「若いのに、手順が好きなのね」
「忙しいほど、手順が必要です」
殿下が横で短く付け足した。
「例外はない」
空気が少し冷える。冷えた空気は、拍手の代わりに考える。これは良い冷え方だ。
◇◇◇
次に来たのは、紙だった。
来賓側が、いかにも“公式っぽい”文書を取り出して、さらっと机に滑らせた。
「では、ここだけお願いします。サインは殿下の分だけで」
来た。
読む時間を与えず、署名で縛るやつ。
私は文書に触れず、代わりに署名依頼票を差し出した。
「署名は署名依頼票が先です。文書名、版数、要点、立会い、保管番号を記入してください」
「そんな……形式は後でいいでしょう?」
相手の声が少し上がる。
上がった声は雰囲気を呼ぶ。雰囲気は相手の味方を増やす。
だから声を抑えた。静かに言う方が、空気が暴れない。
「後回しにすると、言った言わないになります。だから今、紙に残します」
来賓が唇を噛む。
その瞬間、殿下が短く言った。
「版数がない文書には署名しない」
来賓は笑いで誤魔化そうとした。
「殿下はお忙しいでしょう。細かいところは後で」
「忙しいほど、記録です」
私が平らに返すと、クラウディアが横で頷きすぎて首が折れそうになっていた。
ミレイユはすでに署名依頼票の「提出時刻」欄にペンを置いて待っている。怖いほど頼れる。
来賓は渋々、署名依頼票に書き始めた。文書名、版数……で手が止まる。
「版数など、いちいち……」
「書けないなら、署名できません」
私は要点欄を指で示す。
「要点は三行までで大丈夫です。三行書けない文書は、署名に向きません」
相手の目が細くなる。
でも、ここで引かない。引いたら終わる。
結局、相手は版数を書き、要点も書いた。
書かせた時点で勝ち。紙が入口に戻った。
◇◇◇
次の刺しは、人の“目”だった。
控室の隅で、使用人風の人物がひそひそと誰かに言うのが聞こえた。
「……今の書類、セシリア様が隠したように見えました……」
来た。
“誰かが見た”で空気を作るやつ。
そして、泣き役も来る。
「……こ、怖かった……」
涙目の生徒が、曖昧な声で、曖昧な指を私に向ける。
この曖昧さが狙い。泣けば詳細が消える。
私は近づきすぎない距離で、柔らかく言った。
「大丈夫。今、確認します」
生徒は震える指で言う。
「あの人が……書類を……」
ここで否定しても雰囲気が育つだけ。
だから私は“枠”を出す。
「誰が、いつ、どこで見たか。面会記録票に追加します」
ペン先が紙に触れる音は小さい。でも強い。
曖昧な言葉が欄に入った瞬間、曖昧さの逃げ道が減る。
「あなたが見た時刻は?」
「……えっと……たぶん……」
「たぶん、は残せません。時計を見ましたか」
「……見てない……」
「では、前後の出来事で思い出しましょう。お茶は出ていましたか」
「……出てた」
「そのお茶を持ってきたのは誰ですか」
生徒の視線が、使用人風の人物にちらっと向いた。
その一瞬が、紙の上で光る。
◇◇◇
そして、贈り物が来る。
控室前の廊下が少し混んだ瞬間。
誰かが通った気配。
気づいたら、私の足元の近くに、小さな高級そうな箱が置かれていた。
箱は、よくできている。
高級な箱は、それだけで罪の匂いがする。
来賓がわざと大きめの声で言った。
「お納めいただけたようで何より」
周囲の視線が「受け取った?」に寄る。
寄った瞬間、雰囲気が勝つ。雰囲気が勝つと、相手の思うつぼです。
私は箱に触れない。触れたら入口が増える。
代わりに贈答品受領票を取り出して、机の上でペンを走らせた。
「受領していません。いま“未受領”として記録します」
来賓が目を丸くする。
「未受領? 目の前にあるのに?」
「目の前にあることと、受け取ったことは別です」
私は贈答品受領票の「発見時刻」「発見場所」を書き、立会い欄を指差した。
「持ち込み者、時刻、発見者を入退室記録と照合します。経路が確認できるまで開封もしません」
クラウディアが横で小声で言う。
「セシリア、かっこいい。胃が震える」
「胃は黙ってて」
ミレイユが入退室記録の束を静かに差し出した。
私はページをめくる。箱が置かれたと思われる時間帯。
そこに、穴があった。
担当として記録されていない出入り。
しかも「控室担当の交代」が口頭だけで行われている形跡。
(口頭交代。責任が消える入口)
私はすぐに言った。
「交代は紙で。今から交代記録を作ります」
使用人風の人物が、わずかに身じろぎする。
「あなた、今の時間帯、どなたの指示で入りましたか」
「……控室の担当が……」
「担当の名前は?」
「……」
沈黙。
沈黙は、紙の前では弱い。
殿下が一歩だけ前へ出て、低く言った。
「答えろ」
空気が、ひとつ落ちる。
落ちた空気は、箱を“贈り物”ではなく“物証候補”に変える。
◇◇◇
来賓が、最後の強いカードを切ってきた。
「私は見た。皆も見た。君が受け取ったように見えた」
格で押すやつ。
“偉い人が見た”が証拠扱いになる空気。
私は正面から否定しない。枠に入れる。
「証言として記録します。証拠とは別です」
「証言が十分だろう!」
「証言は、時刻と場所が一致して初めて強くなります。いまは一致していません」
来賓が言い返そうとした瞬間、殿下が短く言った。
「証言だけで裁かない」
その一言で、控室の空気が少しだけ引く。
引いた空気の中で、私は淡々と処理を続けた。
贈答品受領票の扱い欄に「受領しない(未受領)」を丸で囲む。
保管先を「管理机」にし、保管番号を空欄のまま残す。
「経路が確認できたら番号を入れます。確認できないなら返却です」
箱は、箱のまま弱くなる。
弱い箱は、罪になりにくい。
◇◇◇
控室が静かになった瞬間、私は面会記録票を見返した。
そして、気づく。
来賓が口にした言い回し。
使用人風の人物の言い回し。
涙の生徒の言い回し。
妙に似ている。
同じ“型”の匂いがする。
(裏で指示してる人がいる。同じ言い回しが多すぎる)
私は贈答品の包装紙を目だけで追った。
控室の備品印とは違う、見慣れない印。管理番号もない。
「これは持ち込みです。控室備品ではありません」
たった一行の事実が、控室の“雰囲気”を剥がす。
剥がれると、残るのは紙と時刻と人の動き。
そこには嘘の居場所が少ない。
◇◇◇
控室の外。管理机。
私は必要な事実だけを紙にまとめた。
長い説明はしない。公開の場で長話は危険。雰囲気に飲まれる。
短く、事実だけ。
殿下が議事メモに目を通し、短く承認した。
言葉じゃない。紙で承認した。これが強い。
「よくやった」
その短い言葉で、背中の緊張が少し解けた。
解けた瞬間、胃が「今だ」と主張し始める。やめて。
◇◇◇
片付けの廊下。人が引いて、音が軽くなる時間。
私は深呼吸して、胃のあたりを押さえた。
緊張が抜けると、体がまとめて請求書を出してくる。
胃は特に請求が早い。
殿下が私の横に来て、周囲に聞こえない声で言った。
「無理はするな」
短い。
短いのに、胸の奥が勝手に熱くなる。
心拍がまた勝手に走りそうになる。
「……はい」
反射で答えてから、遅れて照れる。
照れたら胃が元気になるの、なんで。
少し後ろからクラウディアが追いついてきて、ニヤッとした。
「今の、近かった」
「近くない」
「近い」
「近くない。廊下が狭い」
「広いよ」
ミレイユが無表情で言った。
「体調、記録しますか」
「しない!」
即答すると、クラウディアが吹き出した。
「そこは早いんだね!」
「早い。これは早くていい」
そのとき、職員が封筒を抱えてやってきた。
「次の招待状です」
封筒は、また派手だった。
金の縁取りが元気。封蝋が「重要です!」の顔。派手な紙ほど、危ない。
私は封筒を受け取り、角を揃えて机に置いた。
角が揃うと、心が揃う。胃も少し静かになる。
「……次は、もっと空気が派手だね」
クラウディアが遠い目をした。
「胃、逃げる?」
「逃げない」
私はペンを握る。握った瞬間、呼吸が整う。
「入口は増やさない。増えた入口は入口に戻す」
ミレイユが淡々と言った。
「確認の流れ、作ります」
「うん。まず、確認の流れを作る」
殿下が短く頷いた。
「行くぞ、セシリア」
「はい」
呼ばれるのが自然になってきたのが、一番怖い。
でも、怖くないふりは得意だ。紙があるから。




