二部 第三十九話
あれから大変だった。
ニーナが起きるまで待っていたのだが、彼女は目を覚ましてもかなりの情緒不安定な状態にあった。
とにかく僕は兄さんの遺体から離れようとしないニーナを苦労して引きはがし(もう一度気絶させた)、さらには未だ目覚めぬカルティアの体を引きずってなんとか今日の寝床だけは確保する。
「ふぅ……」
村の跡地にとりあえず雨露をしのげるだけの寝床は作成できた。ニーナとカルティアをそこに横たえ、僕は再びあの場所に戻る。
「敵がいなくなってもこの村には何もなし、か……」
村という原型を留めていないその光景を見ても、何も感慨がわかない。
ただ、胸の奥で何かが軋んでいるような感覚はあるが、簡単に無視できる程度のものだ。
「……兄さんの遺体、埋葬しないと」
本来ならニーナも一緒にやるべきなのだが……今の彼女にそれを期待するのは酷だろう。
「本当に正しいのかな、これは……」
自分の決断に自信が持てない。兄さんの埋葬だけはいくらニーナが拒んでも、加えてやるべきではないかと思っている自分がいるのも確か。
「…………埋めよう」
長い間黙考し、やはり僕一人で埋葬することを決意する。そして、動かなくなった兄さんの遺体の前にかがみ込む。
「兄さん。髪、少しもらうよ」
腰の裏側に差してある守り刀を抜き、髪を一房切り落とす。
「体はここに埋めるけど……。せめて遺髪だけでも故郷に帰すから……」
確か兄さんの国では火葬が流儀だった。それに僕も兄さんの体を腐らせたくはないので、燃やすつもりだったからちょうどいい。
「とりあえず……」
この雨が止むまで兄さんのお墓を作っておこう。燃やすのはその後だ。
「ってそれだとニーナが目を覚ますかもしれないな……」
またニーナを泣かせる羽目になるだろうが、それでもこればかりは見せてやるべきだろう。兄さんとのお別れだけは。
……目をそらしたって兄さんが死んだ事実は変わらないんだ。人がすぐに立ち直れるほど強くなくても、見ないときっと後悔する。
そこまで考えてから、僕は両手を胸の前で組んで眠るような姿の兄さんに目を向ける。
「…………っ」
ダメだ。弱音を吐くな。今は僕しかいないんだ。僕が兄さんの代わりにみんなを守るしかないんだ。
爪を手の平に食い込ませ、痛みで気を無理やりそらす。
「……ふぅっ」
深呼吸一つで気持ちを切り替えられるというのは、存外悪い特技ではない。
そんなことを考えながら、僕は黙々と兄さんの眠る予定の穴を掘り続けた。
「ん……ぅ」
ニーナが目覚めたのは、穴を掘り終えてから五分も経たないうちだった。
「目が覚めたの?」
僕は雨に濡れてしまったローブを乾かしながら、ニーナに視線を向ける。さすがに笑顔を向けられるほど心に余裕はない。
「うん……、兄さんは?」
「……っ」
寝ぼけている。
頭はすぐにそう答えを出したが、目の前のニーナが何も知らずに言った言葉に僕の胸が欠けた刃で強引に貫かれたような激痛を感じる。
「あ……」
ニーナは僕の痛みに堪える表情で覚醒したのか、目に光が戻る。
「ね、ねえエクセ。あたしさ、ちょっと嫌な夢見ちゃったみたいなんだ。兄さんがあいつに殺されるっていう……悪夢。え、縁起でもないよね。あはは……」
「…………」
何も言えなかった。夢だと信じたい気持ちも痛いほどわかるし、兄さんの死を信じたくない気持ちも十二分に理解できる。
「……ちょっとこっちに来て」
現実を見せる、という意味ではないが、僕はニーナの手を掴んで歩き出していた。
「え、エクセ……? どうしたのよいったい」
ニーナは戸惑いながらも大人しく僕に引かれていく。だが、兄さんの遺体を安置してある場所に近づくと、急にその足が止まった。
「エクセ、ごめん。なんか気分が悪くなってきた……。この先、何かあるの?」
「……あるよ」
ニーナが休みたいと言外に言っているのをあえて無視し、僕はひたすらに進む。途中で彼女が本気で嫌がり始めたが、そこは男と女の力差で何とかした。
「ちょっと……離してよ! いい加減にしないとこっちも怒るわよ! あたしは気分が悪いって……!」
言ってるじゃない、と続けるつもりだったのだろう。しかし、それは目の前に存在するものによって止められることとなる。
「……少し不恰好だけど、組み方自体はちゃんとしたからよく燃えると思う」
そう、それは兄さんの遺体を安置した、木の棺桶。急造でこしらえたからかなりちぐはぐではあるが、物を燃やす役目はちゃんと果たしてくれるだろう。
「やめて……」
「幸い、雨も今は止んでるし僕の魔法もある。すぐに燃えるよ」
「やめてよ……」
ニーナがイヤイヤをするように頭を振るが、僕は無視して話を続ける。
「……これから、兄さんの火葬をしようと思う。ニーナにも見ていてほしい――」
「やめてってば!!」
「どうしてこんなことするのよ!? どうして……あたしにこれを見せようとするの……!!」
ニーナが涙を振り撒きながらその場に崩れ落ちる。その涙をぬぐってやることは――できない。
「…………ニーナ」
「あんたはどうしてそんな冷静なのよ! 兄さんが死んだのよ。それなのに何で涙の一つも流さな――」
「ニーナ!!」
「あ……。ごめん、なさい……」
ニーナの金切り声に負けないくらい大きな声を出すと、ニーナは怯えたように謝って前言を撤回する。
「いや……ニーナの気持ちもわかるから」
兄さんの死を認めたくない気持ちは僕にもある。兄さんの体が今にも動きそうな気さえするくらいだ。
「……あたしにこれを見せるって、どういう意味があるの? 察しはつくけど、一応聞いておきたくって」
「……悲しいけど、兄さんの遺体をこのままにしておくことはできない」
人間は生命活動をやめてしまえば、ゆっくりと朽ち果てるだけだ。凍らせて保存することも一瞬は考えたが、兄さんを眠らせた側としてはやるのがはばかられた。
「だから、ニーナが泣こうが喚こうがこれだけは見せておきたかった。……僕たちが、兄さんに別れを告げる時は今しかないから」
もう少し日を置くこともできなくはないのだが、雨が降ったばかりで湿った体は容易に腐り始めるだろう。せいぜい一日がいいところだ。
「そう……そうよね。塞ぎ込むのはいつまでだってできるけど、兄さんが綺麗なうちにさよならを言えるのは今だけ……」
「…………どうする? ニーナが本当に見たくないなら離れていてもいいけど……」
「冗談でしょ。あたしが散々嫌がったのにここまで連れて来ておいてそれはないわよ」
ぐうの音も出ない言葉に反論できなかった。
「あはは……それもそうだね。……火、つけるよ」
僕の宣言にニーナは何も言わずうなずく。
片手に魔力を集中し、小さな火球を作り出す。攻撃範囲や大きさを求められていないため、通常通りに放てる初級魔法だ。
それをゆっくりと棺桶に近づけ、ほんの少し触れさせる。密度が高過ぎて下手に扱うと木が溶けてしまうのだ。
僕の注意も功を奏して、兄さんの入った棺桶は炎が弾ける音を乗せながら燃え始める。
「…………」
「…………」
僕もニーナも何も言わず、ただ静かにそれを眺めていた。
――さようなら、兄さん。
兄さんのお骨を埋葬し、遺髪を丁寧に布で包んでから僕たちは休むことにした。なんていうか、今日はもう動きたくなかった。
未だ眠り続けるカルティアと、今のところは静かに寝ているニーナを置いて僕は兄さんの墓前に向かう。
中途半端に火葬したが、その後の墓の様式までは知らなかったため、簡素に木の枝を十字に組み合わせたもので間に合わせている。
兄さんの愛刀である波切は墓の前に横たえて安置してある。
「……兄さん、さっきぶり」
僕は墓の前まで歩み寄り、静かな心持ちでそれを見下ろす。
「ニーナはどうにか落ち着いたみたい。少なくとも、兄さんが生きてるって思うことはなくなったはず。カルティアには……後で話すよ」
感情が僕以上に平淡な彼女なら、話すのもかなり楽に進むだろう。
「…………」
たったそれだけの報告で一気に話すことがなくなってしまう。僕はしばし黙り込み、ケジメをつけるべき気持ちを言葉に纏めようとする。
「……兄さんの残したこと、僕が全部やってみせるから。タケルのことも決着付けるし、あの剣もキッチリ破壊してくる。それにニーナも守って、カルティアも守るよ。女の人は優しくすべき……兄さんの言葉だよね」
まるでそこに兄さんがいるかのような言葉を投げかけているのだが、どんどん声が詰まっていく。
「……だからっ、この刀、少しでいいから……借りるよ」
涙がこぼれるまで秒読み段階になっているにも関わらず、僕は屈み込んで波切を手に取る。兄さんの愛刀であるそれは――すごく重かった。
「重い……」
兄さんが背負っていた重み。それを今度は僕が引き継ぐ。
その途方もない事実に足がすくみそうになり、同時に兄さんがいなくなったという事実が今まで以上にのしかかってきた。
「くっ……ひくっ」
ダメだ。泣いちゃダメだ。兄さんの代わりになる以上、僕は誰よりも強くなければならない。誰よりも強く毅然として、ニーナたちを守らないといけない。
今まで以上に強くなって、タケルよりも強くなって、自分の意思を貫けるだけの力を何が何でも手に入れる。
強くなるから。だから、今だけは。
「あ、ああぁ……」
涙を流すことを許してほしい。最初で最後にするから。誰もいないこの時だけにするから。終わったら、僕は立ち上がるから。
――お願いだ。泣かせてくれ。
「ひぐっ、うっ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっ!!」
兄さんの墓の前にうずくまり、喉の奥から声を上げて泣き叫ぶ。誰の目もはばからず、兄さんが死んだ瞬間から溜め込んでいた涙を全て出し切る勢いで涙を流す。
そして、泣き止む頃にはあれほど胸を埋め尽くしていた激情は影を潜めていた。
「……はぁ」
鼻をすすり、涙の跡をぬぐってから空を仰ぐ。
「……これで僕が僕であるのはおしまい」
今までみたいな兄さんの影に隠れるようなことはもうできない。これからは僕が矢面に立ってみんなを引っ張る必要がある。
魔導士廃業だな……、と思う。後衛でみんなを守ることはできないし、三人の中で前に出て戦うこともできるのは僕とカルティアくらいだ。カルティアに任せておくのも悪い気がする。
三ヶ月ほど前にティアマトでロゼと交わした『魔導王』になる約束はどうやら守れそうになかった。
「僕は――誰にも負けない魔法剣士になってみせる!」
それが、兄さんの墓前で決めた誓いとなった。