二部 第十九話
怪しいとは思っていた。
確かに村があれば煙が立つのは当然だ。家事をするために火は絶対になくてはならないものだ。
だが、それにしたってかなり近づかなければわからないような細い煙が何本か立つくらいのはず。遠くから見てもわかるような黒々とした煙が立つのはあり得ない。
――そう、それこそ村全部を焼き尽くさない限り。
「これは……」
兄さんが一縷の希望を断ち切られたような声を出すが、僕とニーナは反応できなかった。
「ぐっ!? うぶっ、げぇっ!!」
「げほっ、げほっ、げほっ!!」
焼き滅ぼされた村を見た瞬間、内蔵全てがひっくり返ったような吐き気に襲われ、僕たちは地面にへたり込んで嘔吐を繰り返していた。
「お、おい、二人とも大丈夫か!?」
「大丈夫……なわけ……ないでしょ……がはっ!?」
ニーナよりはマシな僕が何とか答えるが、それも途中で込み上げてくる嘔吐感で途切れてしまう。
「ごほっ、げぇっ!!」
ニーナに至ってはひどいもので、すでに血反吐すら吐き出している。この場所に居続けたら命に関わるんじゃないかと思うくらいの吐き方だ。
「ニーナ! ……クソッ!」
兄さんもニーナの状態をヤバいと判断したのか、首筋に当て身を食らわせて意識を強制的に断つ。
「エクセ、お前は自分で立てるか!? オレはちょっとニーナを村の見えない場所に置いてくる!」
「……何とか……なると思う」
胃の中のものを全部吐き出したら少し楽になった。僕のトラウマは血反吐を吐くようなレベルではないということらしい。
……ニーナのあんな姿を見せられた以上、僕のトラウマはかなり浅いものであると思うが。
「そうか! この辺にモンスターの気配はないから、少し休んだらお前もオレに合流してくれ。オレはニーナを看てるから」
「……わかった」
ニーナを担いで歩いていく兄さんを見送り、僕はゆっくりと立ち上がる。口の中に酸味に似たような胃酸の味を感じるのが不快だ。
何度か地面に唾を吐いて口の中の胃酸を少しでも薄める。ローブの裾で口元をぬぐってから、僕は村の方へ向かって歩き出した。
(キツイけど……、今しか探る機会はない)
ニーナの様子ではとてもじゃないが、三人揃っての探索は無理だ。この村を見ただけで情緒不安定になりかねない以上、誰か一人はニーナの見張りに必要となる。
まあ、ここで最適なのは浅いとはいえ同じトラウマを持つ僕なんだろうけど……。僕も知りたいことが数多くあった。そのためならトラウマに触れることも致し方なし、と思っている。
これでも知的好奇心はかなり旺盛な方なのだ。それで支払う代償が自分の身一つで何とかなる範囲なら、僕はほぼ何でも差し出すだろう。
「ぐっ……」
あれだけ吐き出したにも関わらず、まだ何かが込み上げてくる。正直、これ以上はニーナと同じで血反吐しか吐けない。
炭化した家らしきものを眺め、しばらく吐き気をこらえる。
眺めてばかりじゃ何もわからない。知りたければ調べろ。でないと知りたいことが知れない。
「くっ……」
自分にそう言い聞かせながら瓦礫をどかす作業に入る。どかすと言っても、かなり手ひどく焼かれた家は軽く触っただけで崩れるほど炭化しているため、あまり重労働ではなかった。
これなら何とかなるかもしれない。そう思った瞬間だった。
――炭化した人の腕が出てきたのは。
「――っ!? あ……はっ」
喉の奥から引きつった声が漏れ、もう何もないと思っていた胃から呆れるほどの酸が吐き出される。その色は――赤かった。
「くそっ……」
僕もあまりニーナを気遣える立場じゃなさそうだ。というかニーナがこれを見たらどんな反応をするのか、想像するだけでも恐ろしい。
「急ぐか……」
ここまで苦痛という代償を支払っている以上、何も収穫なしではこっちの気が済まない。
無理やり思考を前向きに変えてから、僕は再び探索を開始した。
「……ぶはぁ!」
探索を始めて三十分ほど。僕は村の広場らしき場所で寝転がっていた。
ダメだ。探せど探せど遺体ばかりで手がかりになりそうな情報は何も見つからない。
せめて死因の特定ができるだけでも相手が使う武器を絞り込めるため、有益な情報なのだが……、さすがに今の状態でそれはできなかった。
というか死体を見つけただけで吐いてしまうのだ。そんな僕に死体漁りをやれとか、完全に拷問だ。
「僕一人で何とかなると思ってたけど……、見通しが甘かった……」
それにあまり時間をかけ過ぎると、兄さんが戻ってきてしまう。トラウマ直撃しながらも探索している僕を見たら、まず間違いなく兄さんの鉄拳が飛んでくる。非常に痛いのでそれは遠慮したい。
「戻るか……」
ここで諦めるのは非常に悔しいが、僕一人で探しても情報は得られそうにない。散々無茶した身で今さらだが、体を労ろう。
「ほぅ、どこへだ?」
そう考えて気だるい体を起こした瞬間、後ろから聞き慣れた声がした。
「……えっと、魂の還る場所?」
とりあえずそれっぽいセリフでごまかそうとする。しかし後ろから感じる威圧感は微塵も揺らがない。
「ふぅん、それはどこにあるのかなー?」
マズイ。肉食動物に捕食される寸前で弄ばれる草食動物の気分だ。わかりやすく言えば絶対強者に虐げられる弱者。
「……みんなの心の中に一つずつ」
「じゃあお前の心の中に還ってろ!」
金槌のような重さを持った拳が僕の頭に容赦なく落ち、一瞬だけ本当にお花畑が見えた。
「いったぁぁぁ……、殺す気!?」
気絶しなかった自分を内心で褒め讃えながら兄さんに無駄とわかっている抗議をする。
「やっかましい! 少し休んだらオレと合流しろと言っただろうに……! お前だってトラウマを抱えてんだろ!? 見てみろよ、お前の顔を鏡で! ひどいことになってんだぞ!」
僕の抗議はすさまじい剣幕による説教であえなく霧散する。しかも本気で心配されていたみたいだからバツが悪い。
「その……ごめんなさい」
「……これから何かする時は一言誰かに言え。お前自身がなんてことのないように思ってても、こっちには心配なことってあるんだからな」
「わかりました……」
この前もニーナに無茶するなと言われたばかりの身だから本当に肩身が狭い。いや、反省はしてるんだよ? 後悔はしてないけど。
「わかったならニーナのところに戻ってろ。あいつももう落ち着いてる」
うん、とうなずこうとしたところで兄さんの顔が苦虫を噛み潰したようになっているのに気付く。これは……何かある。
「ただ……、あいつ、相当落ち込んでるんだ。どうもこの前のあれは虚勢だったらしい。オレも慰めようとしたんだが……、あれは同郷のお前じゃなきゃ難しい」
いや、正直それは僕でも手に余る。ニーナの抱えている感情は僕の予想を遥かに越えていた。その時点で僕にできることなんてたかが知れている。
「それでも、だ。それでもあいつを立ち直らせる可能性があるのはお前だけなんだよ」
考えていることを正直に伝えたところ、兄さんからそんな言葉が返ってきた。
そうだった。確かにニーナの感情は同じ境遇である僕でも推し量れないほどのものだったが、それでも一番近いところにいるのは僕だ。
「……やれるだけやってみるよ。僕もあんなニーナは見ていたくないからね」
前みたいに強気で僕をどんどん引っ張っていく彼女に戻ってほしい。いや、引っ張られるのは男として忸怩たるものがあるけど。
「ん、頼む。オレは少し調べておくから」
さっそく瓦礫を撤去し始めた兄さんに手を振って、僕はニーナのいる場所へと歩き始めた。
兄さんに言われた通りの場所に、ニーナは膝を抱えて座っていた。
「……ん、エクセ?」
僕が近づくと、足音だけで僕を特定したニーナが振り返らずにつぶやく。
「うん。……隣、座っていい?」
「……あたしの場所じゃないんだから、誰かに許可を求める必要なんてないわよ」
そりゃそうだ。
「じゃあ遠慮なく……」
「でもダメ。今のあたし、人に見せられる顔じゃないから」
どっちだよ、と突っ込みを入れそうになったがグッと堪える。彼女の情緒が不安定なのはここに来る前からわかっていたことだ。
「んじゃ、背中合わせに座る」
「……ん、それならいいわ。あたしの顔を見ようとしたら殺すからね」
実に滑らかに紡ぎ出された殺すという言葉に本気の殺意を感じた。ちょっと怖いもの見たさで見てみようと思っていたのだが、自重しよう。そんな下らないことで死にたくない。
ニーナの背中に僕の背中も預け、双方向から体重をかけ合う。
「……あんた、一人で調べてたでしょ」
「何の話?」
「ごまかさなくったっていいわよ。別に責めるつもりはないわ」
というか僕が村を調べていたのは確信してるんだね。幼馴染だけあって僕の行動を読み切っている。
「それにしても……あんたもサラッとウソつくわよね。あんな何でもないことのように話されたら兄さんでもごまかせるんじゃない?」
「あはははは」
とりあえず笑っておく。顔色一つ変えずにウソをつけるようになったのはいつ頃からだろうか。
「んで、あんたはあたしに下らないバカ話させるためにここに来たわけ?」
「ニーナがそれを望むんならそれでもいいよ。ぶっちゃけ、ニーナがいつもの調子に戻れるなら過程は割とどうでもいいから」
あくまで割と。さすがに許容できる範囲は存在する。
「……それって見方を変えれば私のためにどんなことでもします、って意味に取れないかしら?」
「そう?」
考えたこともない見方だ。そして僕の答えを聞いたニーナは本気で呆れたため息をつく。
「本心からの優しさで言ってるみたいだから手に負えないわね……。それにしても、あんたと話してると気持ちが楽になるわ」
「それはよかった。僕も来た甲斐があるよ」
もともとニーナを慰めるというか気持ちを盛り上げるために来たのであって、それさえ果たせたのだから僕としては満足だ。
「……ねえ、あんたはあれを見て大丈夫だった?」
「全然。ちょっと調べるたびに吐きまくった。頭じゃ憶えてないはずだけど、やっぱ体が覚えてるんだろうね」
その頭にしたって忘れているというより封印した、と言った方が近いだろう。最近、何か重要なものを忘れている気がしてならないし。
「……正直に答えて。あたしは――あそこに行けると思う?」
「無理だね。ニーナのトラウマは確実に僕より根が深い。僕だって血反吐を吐くくらいなんだよ? ニーナじゃ錯乱してもおかしくない」
ひょっとしたら命に関わるかもしれないし、そうでなくてもニーナを連れて調査するのは無理があり過ぎる。彼女の体調を考えれば当然のことだ。
即答した僕にニーナはビクリ、と体を震わせたのが背中越しに伝わる。ショックでも受けているのだろうか。
「エクセ……。あたし、ダメだね……。焼け落ちた村を見ただけであれなんだよ? もし本物と出くわしたら……あたし、絶対に倒れる」
だろうね、と僕でも容易に想像できる未来予想図だった。
……正直、掛ける言葉が見つからない。なんて言えばいいんだろうか、僕にはわからなかった。
(情けないな……)
何か言うべきだというのはわかっている。だが、何を言えばいいのかわからない。下手な言葉で余計に傷つけてしまう可能性だってある。
その考えが僕を尻込みさせ、口を閉ざさせる。バカ話のネタもとうに切れてしまった。
気まずい沈黙は、兄さんが戻ってくるまで続くこととなった。