一部 第五話
ドアを蹴破った僕が真っ先にしたことは口元を押さえることだった。
「うっ……!?」
下水道の中も相当ひどい臭いだったが、この中とはまるで違う。この臭いを嗅いだ後なら、下水道の臭いがお花畑の臭いと勘違いしてもおかしくないほどだ。
下水道は汚物などの臭いがひどかったが、ここに流れている空気は――
――これ以上ないほど濃密な死臭だ。
血と臓物の臭いに死体の腐った臭い。嗅覚が正常な人間なら目まいさえ感じているところだ。あらかじめ下水道で慣らしておいてよかったと心から思う。
そんな空間で一人、何やら石造りのベッドらしきものに向かっている男が一人いた。
「…………」
僕は何も言わずに杖を構え、体を低くする。
間違いない。目の前にいる男。あれが――僕の敵だ。
「……おかしいなあ」
僕の前にいる男がゆっくりと胡乱げに振り返る。
何の変哲もない容姿で、黒いローブもちょっと寒がりの人が着ていると思えば雑踏でもあっさり見失いそうな顔だ。
ただ、目が違う。目に宿った光が――狂気に満ちていた。
僕はティアマトに入るまでは五年ほど旅を続けていた。そのため、盗賊たちとの交戦経験もあるし、殺人経験だってある。逆に目の前まで刃が迫ってきた経験だってある。
命のやり取りをしている相手は往々にして目の輝きが常人とは遥かに違う。もっとギラギラとした生の渇望に満ち溢れている。
(でも、こいつはそれでもない……! 死、そのものを楽しんでいる……!)
もっとわかりやすく言えば死への探求心に溢れている、といったところか。
「新しい実験材料か? だったらちょうど良い。試したい魔法があったんだ……」
僕に向かって話している感じではない。むしろ少し声を大きくした独り言を言っているようだ。
「……あいにく、あんたのおかげで何人もの人間が帰らぬ人になっているんだ。裁く、なんて大層なことを言える身分じゃないけど……倒させてもらうよ」
それに向こうが抵抗さえすれば、こちらの殺人も正当防衛になる。そもそも、すでに何人も殺しているような輩に情状酌量の余地などなく、今死ぬか後で死ぬかのどちらかしかないんだけど。
杖を棒術で使うように低く構え、体もさらに低くする。突撃しようとしたその時、
「そこまでですわ! このわたくしが来た以上、非道な真似は許しません!」
ロゼが後ろの方からやってきた。
「さあ、今すぐお縄についてわたくしをこのような場所からサッサと連れ出し――ってエクセ!? あなた、どうしてここに!?」
「こっちのセリフだよ! ロゼこそ何で――しまった!」
さすがに予想しなかった事態だったので、僕も慌ててしまい男から意識をそらしてしまう。
その隙を見逃さなかった男はそこらにあった壺をこちらに投げつけ、奥に逃げ出してしまった。
「このっ!」
杖の石突きで壺をかち割り、急いで追いかけようとするが、割った壺の中身がロゼにとってキツイ物であることがわかり、足を止める。
「これは……これは……」
それは――子供の生首だった。
顔を苦痛にゆがめ、目は虚空を見つめるそれは悲惨の二文字に尽きた。死体などをある程度見慣れている僕でさえ、目をそらしてしまうほどだ。
「……ロゼ。君も知ってると思うけど、死霊術師は対人破壊魔法の探究者。だったら、これは彼らにとって当たり前のことなんだろうさ」
僕だってあまり見ていて気持ちの良い物じゃない。こういうのに耐性のないロゼならなおさらだ。
「でも、どうやってここまで? 確かに道中の敵は僕が倒したけど……」
道中にも生首やら死体やらはあったはずだ。ここまでショックを受けるのも何だかおかしい。
「……魔力の残滓を辿ってきたのですわ。あなたの使っているオパールの燐光は常に魔力を放つタイプですから……」
ロゼは顔を真っ青にさせながらも、気丈に僕の質問に答える。それを聞いて、彼女は一切の戦闘をせずにここまで来たことを理解する。
しかし参った。確かに僕は燐光を出しっぱなしにしてたけど……。それの残滓なんてほんのわずかなはず。マジックトラップなど目じゃないくらいに。それを辿ってきたということは――
(天才、ね……)
いるところにはいるものだ。僕だってできないわけじゃないが、ロゼほどの精度は望めないだろう。
「……わかった。ロゼ、君はいったん戻って衛兵を呼んで。僕はこのままあいつを追いかける」
その方が良いだろう。彼女はとてもではないが戦える状態ではないし、何より一般人は現場から遠ざけるのが鉄則だ。
「あ……。ま、待って!」
ロゼは放心状態になっていたのだが、僕の言葉に反応して追いすがるようにローブの裾を掴んでくる。
「待たない。時間がない」
この下水道は出入り口も無数にある。あいつの逃げた先に出口がない可能性なんてあり得ない。
「わたくしも行きます! このような非道、許すわけにはいきませんわ!」
「一歩間違えれば僕も君もこうなるんだよ! その辺わかってるの!?」
僕は部屋のそこかしこに存在する遺体を見ながら叫ぶ。これは遊びじゃないのだ。命と命のやり取りではいかなる信念や決意も生きてこそ発揮されるものであると嫌でも学ばされる。
支払う代償は自分の命か、殺人への罪悪感か、その二択である。
「それは……!」
あえて厳しい一面を叩き付けてみる。最悪の展開としてはあり得るけど、僕だってみすみすそんな窮地に陥る真似はしないし、それでもロゼだけを逃がすことくらいできる。
「……きっと、ここでわかっていると言えばあなたはわたくしを問答無用で追い返すのでしょうね」
「…………」
図星だ。でも早くしてほしい。こっちは時間が押してるんだ。
「それでも……ここで引いたらわたくしは彼に屈したことになります! それは、それだけは! 認められません!」
要するにあの死霊術士に負けることになるのが嫌、という理屈か。
「……やれやれ」
彼女の正義感もここまで来ると筋金入りだ。ある種の潔さすら感じる。
そして、彼女にここまで言わせた僕の負けでもある。今の彼女を無理やり退けられるほど、僕は器用な舌を持っていない。
「急ぐよ! 僕が先行するからロゼは魔法で援護お願い!」
「――っ!! ええ、向けられた期待には応えますわよ!」
なんだって僕が前衛なんて務めなきゃ……。僕だって魔導士なんだけど。
心の中で愚痴を漏らしつつ、僕たちは犯人の消えた道を辿り始めた。
「あいつはどこへ!?」
「こっち! 地面に血の跡がある!」
おそらく、あの部屋の地面に流れていたおびただしい血液をあいつはほったらかしにしていたのだろう。ブーツに残った血液が微量ながら残っており、その色を辿ればおのずと犯人に行き着く。
「それとロゼ、念のために《探知》使えない!? 僕、あれは修得してないんだ!」
正確に言えばあれ“も”習得してないんだけど、これは言いたくない。
「わかってましてよ! すでに使っていますわ!」
……バレてた。
クリスタルとは、魔力が極限まで凝縮して質量を持つに至ったもの。つまり、これを作るには複数で無理やり圧縮させるような技術が必要になる。
それを一人で行えるということは、僕の魔力収束は神懸かり的なものがあるということと同義で――致命的な弱点の裏返しでもある。
「クリスタルを作れる代わりに通常魔法に対する適正は絶望的……。それがあなたですわ。わたくしが半年前からあなたを見ていて気付かないとでも?」
正論だ。半年の付き合いをしていて知らない方がおかしい。でも……。
「一応、隠してたんだけどなあ……」
この欠点のおかげで落ちこぼれ扱いされる時も少なくない。僕自身、直そうとはしたのだけど、変な癖がついても困るから三ヶ月ほどで諦めてしまった。
「そもそも、あなたはわたくしがいなかったらどうやって後を追うつもりだったのです。もう姿は見えなくてよ?」
「その時はその時で《身体強化》使って追いかけてたよ!」
確かに僕は魔力を外へ向けるのが果てしなく不得手だ。その代わり、魔力を内側に向ける――身体強化にはすさまじいまでの適性がある。
まとめてしまうと――僕は他の魔導士が当たり前に使う魔法のほとんどが使えなくて、逆に周囲があまり使わない魔法に関しては恐ろしく得意という偏った魔導士なのだ。
とにもかくも、ロゼが《探知》を使ってくれたおかげで僕たちは死霊術師の居場所を容易に割り出すことができた。
「……こっちですわ! 結構速い!」
ロゼの先導に従い、僕は足を速める。さすがにこの状況ではロゼを前に出さざるを得ないのだ。その方が何かと動きやすい。
幸い、この道を死霊術師も通ったのか、ゾンビたちの歓迎はなかった。あれ、理性がないから動く存在を手当たり次第攻撃するんだよね。しかも同族意識があるのか、仲間は攻撃しないという嫌らしい奴だ。
僕はロゼの翻る金髪が下水道内でもまぶしいな、と思いながらロゼの後ろを大人しくついていく。
しばらく走ると、別れ道に差しかかった。ロゼは迷いなく右を選んで走り出したため、僕も特に疑うことなくそれに追従した。
「……え? 魔力の反応が途切れてる……?」
「は? それってどういう――っ!?」
ロゼの言葉に僕が疑問を投げかけようとしたが、その前に脳が反射的に体を動かしていた。
体が自分の意志とは別物のごとく動き、ロゼの体を片手で抱えて下水に跳び込む。
もちろん、着水するのは嫌なので足元にクリスタルを作って即席の足場を作って、だ。
「い、一体何をなさるんですの!? あそこには何もありませんでしたわ!」
対岸に着地した僕を肩に抱えたロゼが責めてくる。
「…………」
だけど、僕にも上手く説明ができない。頭がヤバいって指令を出してきたのだって対岸に渡り切ってからなのだ。
「強いて言うなら……経験者の勘、かな。ハッキリとはわからなかったけど……あそこはヤバい」
僕の言葉に呼応するかのように、先ほどまでいた場所に魔法の光が通り過ぎる。
「惜しい、実に惜しい! 今のは新作の拷問魔法でぶつかっていれば私の知るありとあらゆる苦痛がいっぺんに、それでいて死なない程度に襲いかかる代物だったのに!」
僕たちに向かって言っているというより、自分の言葉に酔っている感じだった。そして僕とロゼはあの魔法を受けなくてよかったと心から思っていた。
「まあいい。まだまだ魔力はある……。君たちは新鮮で体力も有りそうだからね。有能な実験体になりそうだ」
死霊術師は僕たちに魔法の光を纏わせた腕を向けてくる。
「…………ロゼ、下がってて」
僕も覚悟を決めた。相手の攻撃は怖いけど、食らわなければいい。そもそも、戦闘を望んでいたのは僕だ。
ならば、ここで逃げるのは自分の選択から背を向けることになる。そんなことをしたら、僕は兄さんに合わせる顔がない。
「僕はみすみす実験体になるほど甘くはないよ。……ロゼに手出しはさせない」
誰にでもなくそう言って、僕は相手に死霊術師に向かって駆け出した。