三部 第三十五話
異体内部に入って、まず最初に思ったことは気持ち悪い、だった。
「足元がおぼつかない……」
何だか肉塊を踏んでいるかのようなブヨブヨとした感触。下手に踏み込んだら弾けそうで怖い。
「それより後ろ後ろ! 外の異片が追いかけてきてる!」
ニーナの悲鳴とも取れる叫びで、僕はすぐさま現状を思い出して走り出そうとする。
だが、走り出す前に突入に使った穴が急速に閉じ、外部から異片が戻ってくるのを防いだため不要となった。
「え……?」
「どうなってるの……?」
これの意図がまったく読めず、僕とニーナは困惑したように顔を見合わせる。僕の隣に立っていたカルティアも同じ顔をしていたため、考えていることは同じらしい。
「どうして異片を中に入れなかったわけ……?」
ニーナのつぶやいた言葉は、僕たち全員の疑問を代弁していた。
「……とにかく、奥へ進んでみよう。幸い、道はあるようだし」
丁度良く人間が歩ける程度の広い通路がある。僕は先頭を切って歩き出した。
後ろからニーナとカルティアがついてくる気配を感じながら、僕はある種の確信を抱いていた。
(あいつの余裕……つまり僕たちは――舐められてる)
十中八九、外にいた異片を中に入れなかったのも都合よく人の通れる道があるのも、全てタケルの余裕だと考えればつじつまが合う。
あいつがどんな形であれ、この奥にいる。それだけは間違いなかった。
胸の奥にある怒りとも殺意ともわからない、けど確かな激情を燃やしながら僕は歩く速度を上げていった。
「で、結局異片には出くわすのか……」
翼を持ち、牙を生やした悪魔のような形相の異片が、見た目と釣り合わない刀を握って薙ぎ払ってくる。
斬線の軌道に割り込ませるように右腕を掲げ、その部分にクリスタルを纏わせる。即席の盾だ。
ピキリ、とクリスタルの盾に亀裂がいくつも走るが、壊れるまではいかなかった。
「シッ!」
盾に刀をめり込ませたまま、滑るように懐に入り込んで左拳を突き上げる。
肉の塊に腕を突き入れるような感触のあと、何もない空気を左手が掴む。その手にはクリスタルの爪が装着されていた。
「この程度で僕は殺せない!」
もう地上で階段を登っている時から月断流を使う異片には会いまくっているのだ。対処法の一つや二つ思いつく。
「まったく、本当に実戦向きの性格してるわよね、あんたは……っと!」
ニーナはニーナで、的確に首を狙った急所攻撃を連発して着実に異片を仕留めている。
「ですが、この状況でマスターの成長は嬉しい限りです。――私たちの生還確率が上がるのですから」
カルティアは薙刀を縦横無尽に、それでいて僕たちに被害の出ないように巧みに捌きながら豪快に薙ぎ払っていく。見ていて清々しいくらいだ。
「みんな、ここは一気に突破するよ! 時間を掛けないでいこう!」
両手にクリスタルの爪を纏わせ、刀を振るうのとはまた別の感覚で両腕を動かす。やはり刀を持つのとは違って腕が軽い。
三人で一塊となり、通路を塞ぐ異片を全て倒して僕たちは広い場所に出るまで走り続けた。
しかし、そんな快進撃も広間に出た時点で終わりを告げる。
「チッ……」
ある意味予想通りと言えば予想通りだが、実現されては打つ手がない代物でもあった。
――広間が異片で埋め尽くされていたのだ。
「これは……ちょっとどうする?」
ニーナが状況の不味さに冷や汗をかきながら指示を仰いでくる。そんなもの僕が聞きたい。
「《終焉》……はダメだ。この位置で放ったところで決定打にはならないし、下手に空間を広げて敵を増やす可能性がある」
そんなことになったら本末転倒もいいところだ。そして同じ理由で規模の大き過ぎる伍刀や四刀なども使えない。
周辺への損傷を最小限にして、なおかつ異片どもを効率よく排除できる方法は……、
「私がこの場に残って、敵を引きつけましょう」
様子をうかがっている異片を睨みつけながら思索を行っていた時、カルティアが一歩前に歩み出た。
「か、カルティア!? ちょ、冗談でしょ!? こんな場所に一人残るなんて自殺行為よ!」
ニーナが掴みかかるような勢いで反対するが、僕はすぐに反論ができなかった。
(……認めたくはないが、おそらく最善の一手だ。カルティアの意見を取りやめさせるには、もっと効率のいい作戦を考えつく必要がある。でも、今の僕には……)
思いつかない。カルティアの言葉が最善であると認めている自分がいる。
「……マスター。ご決断を」
ニーナが僕の方に冗談だよね? という視線を向けてきているのがわかる。いや、これはどちらかと言うとすがるような視線だ。
「……十分だ。十分だけ頼む」
しかし、僕はその視線に込められた意味をわかっていながら裏切った。
「――全力で遂行します」
僕の苦虫を噛み潰したような顔で頼むと、カルティアはニッコリと微笑んでその命令を引き受けてくれた。
……チクショウ、そんな顔しないでくれ。僕はお前を死地に送り出そうとしているただの卑劣漢なんだから。
「エクセ!? どうして――」
何か言いたげなニーナの腕を掴み、カルティアの方を一瞥してから、一気に広間の中央を走り抜ける。
途端、周囲から異片が殺到してくるのがわかるが、全て無視する。
「マスター。私を信じて下さり、ありがとうございます」
「……十分だからな! 十分が過ぎたらお前も僕たちを追いかけてこい! いいな!?」
振り向かないで叫び、僕は再び狭い通路に入るまで足を止めずに広間を駆け抜けた。
広間を駆け抜け、通路に入ってから消耗してしまった体力を回復しようとペースを落とす。
「……エクセのこと、怒ろうとしたんだけどなあ」
すると、今までずっと手をつないでいたニーナの方から苦笑らしき気配がした。何だか出来の悪い弟になったような気分だ。
「でも、エクセはこういうの嫌いだもんね。ちょっと疑っちゃった」
ごめんね、と後ろからささやくようにつぶやかれる。その言葉を聞いて、僕も少しだけ言い訳をさせてもらうことにした。
「……そりゃそうだよ。一人残すっていうのは兄さんのことを連想させる」
あの時は足手まといだったから戦線から退いたけど、もし無理をしてでも戦っていたら兄さんは死ななかったかもしれない。今でも時々考えてしまう意味のない仮定。
ゆえに誰かを囮に使うという作戦は、否応なく兄さんのことを思い出させてしまうものとなってしまっている。
だが、その嫌っている手段を不可抗力とはいえ、僕は取ってしまった。
だからどうしたというわけではないが、取ってしまった以上、立ち止まらずに彼女のくれた時間を利用させてもらうほか、選べる道はない。
「でも、使ったからには最大限使うよ。もう何があっても足を止めずにタケルの元まで駆け抜ける。途中にいる異片はどうしても邪魔な奴のみ倒す。それ以外は無視」
「わかったわ。……早いとこ迎えに行ってあげましょうね」
ニーナの優しい提案に、僕は迷いなくうなずいた。
「……それはそうと、そろそろ着くよ」
「どこに?」
「最深部」
「わかるの?」
こともなく答えた僕に、ニーナが怪訝そうな顔を向ける。だが、わかるものはわかるのだからどうしようもない。
「わかる。……ここにいても皮膚が粟立つんだ。すぐ近くにタケルがいる」
耳を澄ませば奴の狂気じみた笑い声すら聞こえそうなほどだ。
「……そう、なんだ。……行きましょ」
言葉少なに、ニーナは先へ進むことを促す。僕もうなずいて、再び歩く速度を速めた。
道中現れた大して強くもない異片を何体か蹴散らすと、行き止まりに当たった。
規模はさっき僕たちがいた広間よりもさらに広く、ちょうど月断流の人間同士が全力で戦っても大丈夫な程度だ。
そして部屋の奥部分には、異体の核のようなものが心臓のように拍動を続けている。色合いもここだけはグロテスクな薄緑ではなく、綺麗な赤色をしていた。
まるで血の色だな、と思いながらその場に立ち止まっていると、その核の付近から一人の男が僕たちの前に姿を現す。その姿は――
「タケル……!」
異体の肉塊が全身を構築している、タケルの姿だった。
「久しぶりだね、エクセル」
タケルは僕が倒した時とまったく変わらぬ声音で言い、ニーナの方には一瞥すらくれない。
「……やっぱり生きていたか」
「生きていた? 違うね、僕は生まれ変わったんだよ! 見てくれよこの体! 通常の人間は異体を身に纏わせて生きてはいられないのに、僕だけは違う! これが選ばれた人間の証拠でないわけがない!」
いや、通常の人間は異体を身に纏おうという発想自体浮かばない。
「……お前、使っていた刀はどうした?」
タケルの戯言は果てしなくどうでもいいから聞き流し、こちらの知りたい部分だけを聞いてみる。当然、体はいつでも戦闘に入れる体勢のままで。
「ああ、それならあそこの核になったよ。どうやら僕の刀は人間のエネルギーが欲しかったが、動けない状態だったらしい」
その状態の異体に目をつけて刀の形に加工したのは当然人間だけどね、とタケルが続ける。
……昔の人は何を考えてあんなものを刀にしたのやら。
「だからと言って、僕の武器がなくなったわけじゃない。僕の武器は――」
タケルが何もない地面に手をかざすと、異体の体自体が蠢いて一振りの刀をタケルに手渡す。
ただ、見た目は道中に出くわした異片たちが使っていた歪な形をしていたが。
「お前たちが立っている場所全てだ」
「…………なら、僕の武器は――」
兄さんから受け継いだ波切を抜き、左手にクリスタルの刀も持つ。
「兄さんの想いと、世界の魔力全てだ」
「それくらいでないと、僕と張り合えないだろう? ……兄さんと僕、そして君との因縁に決着をつけようか」
タケルが静かに腰を落とし、抜刀術の姿勢を取った。
「上等だ。……兄さんとの誓い、果たさせてもらう。ニーナ、下がってて」
これから始まる戦いは今までで最大規模のものとなる。ニーナの入れる余裕はない。
「……今は了解。でも、チャンスがあったら入るからね」
そう言ってニーナは通路の方まで下がっていく。
「ああ、ついでに余裕があったらカルティアの方を助けてやって。それでも余裕があったら僕を助けてほしい」
「……絶対、勝って」
ニーナの言葉に無言でうなずく。
後ろの気配が遠ざかっていくのを感じながら、僕はタケルに双剣を構える。
「邪魔者はいなくなった。お互い、用意は万全。なら、必要な言葉は一つだけ。違うかい?」
「……その通りだ。同意してやるよ」
お互い腰を落とし、つま先に体重をかける。
「異体・タケル」
タケルがそう言うと同時に、僕に向かって音を置き去りにした速度で接近を始める。
「魔法剣士・エクセル」
僕も名乗りを上げてから、天技・影走りを使って真正面から対抗しようとして――
『――勝負!』
お互いにぶつかり合い、最後の戦いを始めた。