001 エルフの魔導士
代理戦争、というものがある。
天界に棲まう神の代わりに、人間を使って行われる争いのことだ。その勝者には何でも望みが一つ叶えられ、またその勝者を選んだ神には、天界を好きなように変遷する権利が与えられると言われている。
信徒、と呼ばれる者たちがいる。
代理戦争の駒として、地球という惑星から選ばれた人間達のことである。彼らは、運命の女神・フォルトゥーナの力をもってこの新世界に転移せられ、与えられた能力や魔法を駆使して生存競争を強いられる。
代理戦争における信徒の勝利条件は、ただ一つ。全ての信徒を殺し、最後の一人となることだ。
◇ ◇ ◇
「に、庭師様……?」
細い少女の声に、俺は宿舎棟の廊下を行く足を止めた。反射的に腕時計に目を走らせる。朝の五時だ。掛けられた声に聞き覚えはあったものの、会うには早い時間でもある。
「ララ」
振り返った先、銀の髪を陽光に煌めかせて、エメラルドのようなまあるい瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。その普段から大きな瞳が、更に驚いたように見開かれていて、
(驚かせたか)
足元に視線を落とす。バックルの沢山ついた軍用ブーツが目に入った。昔から愛用している靴だ。歩くと僅かにカチャカチャと音が鳴ってしまうが、丈夫で悪路にも強く脱げにくい。足音はしていただろうし、気配も消していたつもりはなかったんだが。
立ち止まったことで、歩く度に規則的に鳴っていたその馴染みの靴音がなくなると、早朝というのも相まって、途端に静寂が周囲を包んだ。目の前の宝石のような緑の瞳を見返しながら、そういえば昔、お前は足音がしないから無言で近づかれると驚くと、なんとも理不尽な理由で親友に揶揄されたことがあったことを思い出した。自分ではそうでもないと思っていたのだが、呼びかけられた時の彼女の声も僅かに震えていて、相当にびっくりさせたのかもと少しだけ反省する。
「おはよう」
「お、おはようございます、庭師様!」
リ・ララノア。整った容姿と高い魔法適性を持つエルフ種の若き天才魔導士だ。ちょうど自室から出てきたところなのか、半開きの扉から不自然な角度に身体を傾けている。
(そうか)
普段は意識して女子部屋のある宿舎階は通らないようにしているから忘れていたが、ここはちょうど彼女の部屋の前だったらしい。こんな朝早くに音もなく——もちろん俺にはそんなつもりはなかったが——男に部屋の前を彷徨かれては、そりゃあびっくりもするだろう。考え事をしていたせいで、うっかりしていた。
「悪い。驚かせたな」
ララは、俺の声に慌てた様子で身なりを整えてから、「とんでもありません」と小さく笑う。部屋の奥から澄んだ風が吹き抜けてきて、ララの白いブラウスをそっと膨らませていた。切り揃えられた短い髪が絹のようにサラサラと揺れていて、そこから覗く尖った耳がピクピクと上下する。
「今日は良いお天気ですね。晴れて良かったです」
「そういえばそうだな。ここ数日はぐずついていたし、この辺りの天候は変わりやすいからな。晴れているのを見るのは久々かもしれない」
「はい。せっかく目が覚めましたし、ちょうど良いから外で鍛錬でもしようかと」
そう言うララは確かに普段と違って、ブラウス一枚にスカートというラフな装いだった。その若草色の膝丈スカートは、教会専属の魔導士の証でもある。汚れ仕事の多い庭師と違って、表の仕事を主とする魔導士には、定められた制服があった。
「制服? 今日は休みじゃなかったか?」
「はい、そうだったんですけど、午前中に降臨の儀があるので」
「ああ」
降臨の儀。代理戦争の駒として神々に選ばれた信徒達が、新世界へと転移してくる儀式のことである。十一年前、俺も同じようにこの世界へとやって来た。
(……もう、そんなに経つのか)
俺たちの約十年に渡る代理戦争は、憂太さんの死を以て一年半ほど前に幕を閉じた。勇者となった俺は、殺し合いから解放された喜びに浸れるわけも、のうのうと平和を享受することも出来ずに、気づけばまたこの地へと戻ってきている。全てのはじまりの地・選徒教会に。そして数週間前から、次世代の信徒達が、やり直しの戦争をするべく、次々とこの教会に舞い降りてきていた。
「今日が二回目。三回目は?」
「まだ何も。一回目の降臨の儀からかなり開きましたし、また二、三ヶ月後くらいでしょうか」
「しばらく落ち着かないな」
チチチチチ、と窓の向こうで鳥の鳴き声がした。俺は再び腕時計に視線を落とす。皆が起き出して来る前にやる事がある。あまり悠長にもしていられない。
「じゃあな、ララ。また降臨の儀で」
「あ、あの」
「ん?」
「まだ始業まで時間がありますし……その、せっかくこんな時間にお会いできたので、よろしければ一緒に、散歩でも」
彼女とはそこそこ長い付き合いではあるが、そんな風に誘われるのは初めてのことだったので、俺はびっくりして踏み出そうとした足を止めた。どこか緊張した面持ちでこちらの様子を伺っていたララは、そんな俺の様子に何を思ったのか、
「す、すみません! 突然……で、でも、こんな機会、滅多にないと思うし」
先輩、いつも忙しいから。そう言って俯くララに俺は懐かしい気持ちになる。
(先輩って呼ばれたの、久々だな)
そもそもララとの出会いは、まだ俺が信徒で仲間と一緒に旅をしていた頃まで遡る。紆余曲折あり、結果的にララは棲家を失ったが、俺たちの戦団が後ろ盾になる形で魔法学校へ無事進み、いつの間にか天才魔導士と呼ばれるまでになっていた。そしてどこから聞きつけたのか、唯一の生き残りである俺を追う形で選徒教会に来たと言う。
(……こういうところだけは、趣味が悪い)
ララのそれを指摘したことも、彼女のその感情に名前を付けさせたこともないけれど、その正体が何であるかを鈍くはない俺は悟っていた。
僅かに頰を高揚させたララは、分厚い絨毯の上でローファーの爪先を跳ねさせていた。普段の隙のない仕事ぶりからポーカーフェイスの印象が強い彼女ではあるが、こういう時は、とてもあどけなく愛らしい少女然としている。ララは長命種なので、実際は二十五を迎えた俺よりゆうに歳上ではあるのだが、長命種ゆえの心身の成長の緩やかさから、人間種換算だと十四、五といったところだという話も聞くし、あながち幼げな印象は間違いないのだろう。
「あー……」
好意的に思われていることは、少しだけ重荷だ。俺は首の後ろを掻いた。何と言ったものか。そんな風に思われるほど大層なことを彼女にしてはいないし、無条件で慕って貰えると驕るほど、真っ当に生きてはいない。この両手は血に染まっているし、未だに悪夢を見ては飛び起きて震える夜を何度も過ごしている。自分の罪と向き合う勇気もなく、逃げてばかりの——
(駄目だ)
いけない、これ以上は。また昨晩の夢の残滓に浸っている。俺は努めて頭を振った。
「悪いが、やることがあるんだ」
「あ、そう、ですよね……すみません」
期待の眼差しがあからさまに翳ったのを見て、俺は、ぐっと息を詰めた。
「いや、その……」
何かを言い募ろうとすればするほど、小さな肩が追い打ちをかけるように更に下がる。
「あー……いや、クソッ。頼む。黙っててくれ」
罪悪感に耐えかねて、俺はとうとう隠し持っていた帳簿を見せた。昨晩、神官の部屋に忍び込み、勝手に拝借して来た神託の記録だ。こんな朝早くに、宿舎棟の廊下を歩いていたのはこれが理由である。悪夢に飛び起きて以降寝付けない夜はままあるが、普段ならランニングでもして気を紛らわせていた。今日それをしなかったのは、皆が起き出して来る前に、それを執務室に戻して証拠隠滅を図るつもりだったからだ。
「し、神託の記録⁉︎」
「しー‼︎ 静かに」
「……せ、先輩。それは神の声を聞く神官にしか、目を通すのを許されていない代物ですよ」
「わかってるわかってる。だから勝手に拝借したんだ」
どうしても知りたいことがあったのだ。先の天啓の日——代理戦争に選ばれた信徒の情報が神官に知らされる日——たまたま神官達が話しているのを小耳に挟んだのだ。曰く、『罪人の子』が来たると。
(天界におけるタブー……罪人とされたのは憂太さんだけだ。その子供が、信徒に選ばれたと聞いて、それが事実か確かめる必要があった)
「どうして……別に盗み見なくても、どちらにしろ今日の降臨の儀でわかることなのに」
その通りである。ただ知りたいだけならばそれで良かったのだ。神託の記録の盗難は重罪である。見つかれば俺は、良くて無期限投獄、運が悪ければ即刻死刑もあり得た。それでも、一刻も早く確かめたかった。知ったところで何が出来るわけでもない。ただ、本当にあの人の子供なのか、それだけが知りたかった。
「先輩が」
ララの顔色は悪かった。それを見て、言わない方が良かったか、と逆に後悔する。誘いを断る罪悪感に耐えかねて余計なことを喋ってしまったかと。
「先輩が、ただの好奇心でそんなことをしたんじゃないって、ちゃんとわかってます。だからこそ不思議なんです。先輩みたいな聡明な人が、そうまでしなければならない理由が、今回の降臨の儀にはあるってことですか?」
その質問の答えを俺は持ち合わせていなかった。だってこれは、ひどく個人的で、それでいてひどく衝動的な行動だったからだ。確かに普段の俺はこんなことをしでかしたりしなかっただろう。侵すリスクに対してのリターンが見合っていない、こんなことを。
「俺は……」
俺はどうしたかったんだろう。もし本当に、憂太さんの息子が信徒に選ばれていたとして、別にそんなこと、俺には関係のないことなのだ。確かに俺たちの選択のせいで、無用な代理戦争が開戦しようとしているのだろう。選ばれた信徒は殺し合いを強いられる。気の毒だ。でもそれはかつての俺たちだって同じだった。本当の悪は、神、なのだ。きっと。
(別に、何を言われたわけでもないしな)
憂太さんは死ぬ間際、これでいいと繰り返し溢していた。なら、これでいいのだろう。憂太さんは予知の女神の信徒だった。彼には神の加護で、常に先の未来が見えていた。その彼がこれでいいと言うのだから、俺が何かをする必要はない。
(——本当に?)
憂太さんの息子が信徒だとして、何だと言うのだ。他の信徒たちと何も変わらない。だけど、どうしても、胸が騒ついて仕方がない。俺が勇者になったのは——憂太さんが俺を勇者にしたのには——何か意味があるのではないかと。あの人は苛烈な人だった。目的のためなら手段を選ばない人だった。そんな人が、仲間と、自分の命をベットしてまで掛けた未来に、俺が一枚噛んでいるのだとしたら。
「——わかりました」
言い淀んだ俺の姿がララの目にどう映ったのかはわからないが、そう言うララは、いつもの少女然とした雰囲気から一転、王国屈指の魔導士としての、凛として落ち着いた風格を纏っていた。
「神託の記録には、無断で閲覧した者を炙り出す細工がしてあります」
「は?」
「貸してください。——ここ。ページの隅。変色しているのがわかりますか?」
古い紙の右下にインクを一滴垂らしたような黒い滲みが出来ていた。大きさは一センチもない。記録を取る時に誤って垂らしてしまったと言えば違和感ないくらいの、小さなシミだ。
「この世界のすべての生命体は、その種族に関わらず、生まれながら体内に、魔力の源となる魔素生成器官を保持しています」
「エンバーバルの『魔法解剖学』か」
「はい。彼曰く、魔素は血液に乗って循環していますが、非常に粒子が細かく、また揮発性が異様に高いと。だから、細胞壁を透過して体表に出てきてしまうんです。微弱な磁場のように、こう、身体を覆う膜のように」
ララは、ブラウスの上からそっと自分の腕を撫でた。
「これはどんなに訓練を積んだ熟練の魔法使いであってもコントロールすることができません。そして魔力量が多ければ多いほど、表面に漏れ出る魔膜の量も増えてくる」
「……つまり?」
「神託の記録は、定められた者以外が触れた時、その魔膜に反応して変色するようになっているんです。この小ささなら、絶対に気づかれず、閲覧者がどこのページを見たのかがはっきりわかります。そして僅かに残った魔素から犯人まで辿れる」
俺は思わずハンズアップした。恐れ入った。書庫には鍵が掛かっていたし、記録の保管場所にはたしかに仕掛けがあったものの、訓練を受けた者ならそう解くのはそう難しくない代物だったのはそれが理由か。盗まれたらページに仕掛けた魔膜の痕跡から、無断閲覧されたらその炙り出しから、不届者が特定できる。だから、そこまで大層な場所にしまい置く必要がない。
「なるほど、舐めてたな。……それで? お前は何でそんなことを知ってる。お前だって神官じゃないだろ?」
「それは、この魔法を構築したのが私だからです。考案者が詳しいのは当然です」
「……なんだって?」
「先輩、私、新世界に十人しかいないと言われる神聖魔導士の一人ですよ? 昔みたいな、いつまでも何にも出来ない子供じゃないです。この選徒教会にだって、天上の栄誉とされる信徒教育の指導担当として雇われてるんですからね」
ぷん、と拗ねたような様子を見せてから、ララは硬い表情を和らげた。
「だから、先輩、これは貸し一です」
小さな貝殻のような白い手が、表紙の厚紙をそっと撫でた。ピリ、と走る魔法の気配。微弱で、言われて意識しなければ気づかないほどに高度に溶け込んだ魔法。
(これは……わからないな)
元々俺はそこまで魔法が得意なタチではないしな、と思わず苦笑する。伏せられていたララの緑の瞳が俺を見るのと、俺が詰めていた息を吐き出すのは同時だった。
「……お前も共犯になるぞ」
「だから、これは貸しです! 今度こそ、ぜぇったい、お散歩してお茶会してもらいますからね!」
掛け直してくれたのだ、ララは。不備がないかと、パラパラと捲る爪の先、昨晩俺が見ていた『花と花冠の王』のページには、先ほどの滲みは跡形もなく蒸発して真っさらになっていた。無断閲覧者がいた証拠は、すっかりなくなっていた。
「……さんきゅ」
その言葉に、ララは花開くように笑った。
「はい!」
窓の外に目を向ける。雲ひとつない晴天の下、青々とした草原が一面に広がっていた。遠くには灰色の塀。教会を一周ぐるりと覆うそれは、一見して重要組織としての防犯意識に見えるが、その実、信徒達がこの教会から脱走しないようにするための檻だ。
「先輩?」
「いや、なんでもない」
視線を戻して手を出す。そろそろ本当に返してこなければ。時刻は六時に差し掛かろうとしていた。神官の始業は七時だ。時間がない。
「先輩、行ってください」
「ララ?」
「これは私がお返ししておきます。私なら、もし神官に鉢合ったとしても、魔法のメンテナンスで言い訳が立ちますから」
「お前、さすがにそれは」
「良いんです! さあ先輩、行ってください。また降臨の儀で」
ペコリ、とお辞儀をして、ララは軽やかに廊下を駆けていった。その小さな背中を目で追っていれば、彼女はスカートの裾を翻しながら数メートル先でおもむろに振り返って、
「——約束、忘れないでくださいね」
そのあまりの真剣さに、俺は思わず吹き出してしまった。




