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000 はじまりの話

 その光景を見た瞬間、ああまたこの夢か、と俺は思った。そう確信できるほどには、この一年間、毎日同じ夢を見ている。あの日の夢だ。俺が、最後の生き残り(勇者)となった日の。



   ◇ ◇ ◇



 はあ、はあ、とうるさい息づかいに俺は眉を顰めた。それは全力疾走したように荒く、そして目の前の光景を受け入れがたいと抗議するように、しきりに俺の喉から吐き出されていた。垂れた前髪から、ひと雫の汗が垂れて落ちる。ナイフの柄に添えた両手は、強く握りしめすぎて感覚がなくなるほど冷え切っていた。


(どうして……)


 俯いた俺のうなじを、海辺の強い日差しがジリジリと焼く。遠くで聞こえるのはカモメの鳴き声か。寄せては返す波の音に合わせて、沸き立っていた血液が徐々に凪いでいく。狭まっていた視界が広がる。ふと、澄んだ空が目に入った。美しい青空。ここ数日は雨が降っていたから、こんなにも美しく晴れた空は久々だ。けれどそんな感傷に浸っている余裕は俺にはなかった。


「どうして、こんなこと」


 何が面白いのか、思わず溢れた俺の言葉に、砂浜に身を投げ出して倒れ伏した男は笑った。乾いた笑みだ。空虚さのある、無気力な笑い声。この人は、こんな風に笑う人だっただろうか。もっと美しく、強く、生命力に溢れた人じゃなかったか。いつからこんな伽藍堂になってしまったのだろう。


(……いつから俺たちは、それに気づかなかったんだろう)


 俺たちのホームだった海辺の屋敷。普段は穏やかで白く美しい砂浜が、今この瞬間だけは、仲間の血肉で赤く染まっていた。辟易するほど晴れた蒼穹の下、みんなを斬殺した男の上に俺は跨っていて、心臓に正確に突き立てたナイフから、ドクドクと男の命が漏れ出していた。


「あ、はは……ッ」


 ここ数日間、男は——憂太さんは——何かを思い詰めているようだった。あれだけ行動的だった彼が、食事も取らず自室に引きこもっていて……俺たちは、昼夜問わずブツブツ呟いては物に当たり散らすような破壊音が漏れ聞こえる夜を何回か過ごした。一番彼に懐いていたカリンが心配してしきりに声をかけてはいたが、「放っておいてくれ」と憂太さんはとりつく島もなかったという。俺たちは俺たちで、これからについて話し合う必要があったから、それ以上気にかける余裕もなく、彼の言葉通りにした。その結果がこれだ。


(いや、そんなの、ただの言い訳か)


 突き放されて尚、俺たちは憂太さんから目を離すべきではなかったのだ。憂太さんが、思い詰める前に、最悪の決断をしてしまう前に、俺たちが、俺が、止められていればあるいは。

 最高のハッピーエンドになるはずだった旅路の果て。憂太さんは、この十年間苦楽を共にしてきた仲間を惨殺し、そして俺は自分の恩人という名の仇の心臓にナイフを突き立てている。


「クソッ」


 生まれた時から、あの狭苦しい山岳地帯で戦士になるべく育てられた俺は、仲間の中で誰よりも人を殺すのに慣れていた。慣れていたから、人の生き死にが関わる極限状態では、神経がおかしくなって精神に異常を来たす人間がいるっていうのも当然知っている。錯乱して、仲間に銃を突きつけてしまうような。


(だけど)


 それでも、こうなってしまった今でも、そういう人間と、憂太さんがどうしても結びつかないでいる。それは十年の旅路で、憂太さんがあの平和ボケの国(日本)で育ったとは思えないほど図太い精神の持ち主で、その美しい見た目に反して苛烈な人だってことを、俺が充分理解していたからだ。加えて憂太さんには、十年間決して揺らがない、強い目的があった。生きる目標がある奴は、本当に強い。絶対にこうする、っていう信念があればいざという時に迷わないし、土壇場でとんでもない力を発揮する。


(だからこそだ。なんでだよ)


 潮風が、憂太さんの柔らかい前髪を撫で上げて吹き抜けていく。長い睫毛がゆっくりと上下していて、それがなければまるで精巧に作られた人形のようだった。出会ってから今まで一度だってそんなことを思ったことはなかったのに、怖いくらい、今の憂太さんは俺の知っている憂太さんとは別の生き物のようだった。

 憂太さんの白磁のような長い指先が僅かに震えた。多分、脊髄反射のようなものだ。そこに憂太さんの意思はないとわかっていながら、俺は反撃を許さぬよう、間髪入れず刃先に体重を乗せた。かつて戦場で、敵は虫の息だと舐めてかかって、逆に返り討ちに合って死んだ仲間がいた。だからこそ、俺は決して、ナイフの柄からは手を離さない。目の前で息も絶え絶えの憂太さんに対して、内心で、「殺生を憎んで生きてきたあんたが、どうしてこんなことをしでかしたんだ……」と困惑しきっていたとしても、その刃先を横に捩って更に深く身体に突き刺す程度には徹底していた。習慣というのは本当に恐ろしいものである。


人殺しっての()は、何年経っても、人殺しなんだな)


 刃先が沈むのに比例して、組み敷いた憂太さんの青白い唇から血の泡が吹き出した。それは顎から耳の穴へとゆっくり伝って、入り損ねた血液がポタリと砂上に落ちる。呼吸がおかしかった。もうすぐ、憂太さんは死ぬ。


「どうしてだよ」


 答えは返らなかった。当然だ。心臓から肺を掠るように刺したのだからまともに話せるわけがない。それでも聞かずにはいられなかった。


「どうして、殺したんだ。俺たちは、仲間だったんじゃ、ないのか」

「ドゥ、ルガ」


 ザラザラと耳障りな声が鼓膜をつく。どこか遠くの方を眺めながら、憂太さんは俺の名前を呼んだ。ひゅうひゅうと肺から空気の漏れる音がする。ドクドクと血が流れ出て、白浜を赤黒く染めていく。鉄錆の匂いが強い。


「わたし、たちのせいで……もう一度……代理戦争が、仕切り直される」


 そうだ。数日前。神との交渉に失敗した、と天界から帰ってきた憂太さんは、能面のような顔を張り付けて俺たちにそう告げた。あの時もどこか疲れたような表情で、ただ静かに息を呑む俺たちを見ていた。


「そうだ。あんたがそう言った。俺たちが勝者を決めなかったから——誰も殺さず、みんなで生きる選択をしたから——神の代理として課せられた殺し合いが次の世代に持ち越されてしまったと。……でも、俺たち全員が力を合わせれば、次の信徒達も守り抜けたんじゃないのか? 今度こそ、誰も殺さずみんなが生き残れる道を、諦めずに探していれば」

「ドゥルガ」


 その声には、透き通るような強い意思が乗っていた。心を病んで錯乱したとでも言ってくれた方がまだ幾分かマシだった。けれどそんな風に呼ばれてしまっては、もう疑いようがない。こんなことに、俺は気づきたくなんかなかった。憂太さんはどこまでも正気で、憂太さん自身の意思で、皆を殺したのだと。しかし、それを確信させるくらい、憂太さんのその一声は実直なくらいに真摯に響きを持っていた。


「それでは、意味がない」

「……意味?」

「お前は、次の信徒がどう選ばれるのか……知らないから、そう言えるんだろう」

「何を言って……あんたは何を知ってるっていうんだ。何を見たんだ」


 憂太さんは悠然と微笑んだ。まろい頬についた仲間たちの血痕が、涙のようにつうと伝う。


「未来を予知する力があるのはあんただけだろ! 言ってくれよ‼︎ 仲間を殺してまで叶えたい未来って何だったんだッ」

「これでいい。この方法しか、ない」


 ひどく億劫そうに、憂太さんの薄い瞼が瞬く。視線はついぞ合わなかった。憂太さんは波打ち際の更に先、水平線の方を見つめ続けている。そこには何もない。ただ、血と臓物で染め上げられた砂浜と、陽光を反射して星のように煌めく水面があるだけだ。率先して羽目を外すルスランの笑顔も、それを嗜めるフョードルの小言も、今日みたいに晴れた日にパラソルを立てて読書をするナリの後ろ姿も、もう見れない。ここにはもう、俺と、憂太さんしかいない。そしてまもなく、俺一人の世界になる。

 日本人特有の闇夜のような黒曜石の瞳は、こんな惨状の中、それでも平素と変わらぬ輝きをもって虚空を見つめ続けている。次第にその眼球に浮かぶ羅針盤の刻印が銀色の光の屑となって、宙へと解けていった。ああ、死ぬのだ。信徒の証である刻印が消えていく。


「これで、いい。これで……」


 血の気の失せた薄い唇が、スローモーションのように言葉を紡ぐ。


「これで、ようやく、未来が確定した」



   ◇ ◇ ◇



 飛び起きた。心臓がうるさい。またあの夢だ。


「ふー……」


 俺は息を吐いて頭を抱えた。未だあの日の出来事は、毎晩飽きもせず夢に出ては、元より浅い俺の眠りを更に浅くする。そんな状態が、かれこれ一年以上続いていた。いい加減辟易している。毎晩、片時も忘れることは許さないとでもいうように苛んでくる殺人の光景にも、己の記憶力の良さにも。


(いや……これは罰か)


 手のひらを見遣る。あの人を刺し殺したナイフも、生温かい血液の感触も今はない。そう、ただの夢なのだ。どれだけ鮮明に思い出せたとしても、所詮は過去のことである。それでも、悪夢に飛び起きた夜は、いつだって手の震えが止まらなかった。


「はあ……」


 立てた膝に顔を埋める。しばらく深呼吸を繰り返していれば、徐々に引き攣ったような呼吸が元通りになる。慣れたものだ。こうも毎日のことだと嫌でもそうなる。

 俺は改めて顔を上げた。自分に言い含める。ここは自室だ。教会から当てがわれた俺の部屋。教会は、俺の今の職場で、俺たちのかつての旅のはじまりの場所でもある。


(憂太さん)


 心の中で呟く。あの日から一年が経った。明日、遂に二度目の降臨の儀が行われる。次の代理戦争が始まろうとしている。


「これでいいって、どういう意味だよ……」


(あんたが確定させたかった未来は、これ、なのか?)


 サイドテーブルの上に開かれた一冊の帳簿には、とある信徒の名前が綴られている。あの人の仲間なら、十年の旅路で何度も繰り返し聞いた名だ。


 ——梅原 晴一郎


 憂太さんの愛息子。憂太さんの希望で、生きる意味。あの人の子供が、これからこの世界にやってくる。俺たちのせいで、本来なら関わる必要のなかった呪われた殺し合いに、神々の駒として。


(……俺はどうしたらいい)


 答えは出ない。夜の闇に、返らない疑問が溶けていくだけだ。

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