ぼわぼわさん
ぼわぼわさん…オリジナル妖怪。人の髪をぼわぼわさせる。名前はべとべとさんのパクリだと思われる。
妖怪を見たことがあるか、ですか。
妖怪というと、河童とか天狗みたいな?
うーん……。
多分、一般的な妖怪じゃないんですけど、それでもいいなら。
ぼわぼわさんって、知っていますか。今、SNSでちょっと話題になっている、人の髪の毛をぼわぼわにしてくる妖怪。あれのほとんどは多分、単に寝癖がついているのを、勝手に妖怪のせいにしているだけなんでしょうけど。
でも、私は会ったことがあります。
あれは、私が小学生の頃の話です。
当時私は京都市内の北の方に住んでいました。中心部と違い、あの辺りは自然がそのまま残っていて…まして何十年も前のことですから、見渡すところ山と田んぼばかりでした。
今思えば贅沢な自然の中で、毎日暗くなるまで遊びました。
虫を捕ったり、ミミズで魚釣りをしたり、かくれんぼに缶蹴りに鬼ごっこ…。
時には、自転車で隣町にまで遊びに行きました。
おおらかな時代でしたね。どれだけ遠くに遊びに行っても、少しばかり危険な遊びをしても、叱られた記憶はありません。
ただひとつの決まり事を、守ってさえいれば。
……。
私の家の裏手には、山がありました。山頂まで子供の足で30分ほどの小さな山です。階段…と呼べるほどのものはありませんでしたが、山頂までの道も整備されていて。
特に危なくもなさそうな普通の山なんですが、その山に登ることは、その地域全体で禁止されていました。
子供だけでなく、大人でさえも。一種の禁足地ですね。
不思議だったのは、一定数登ってもいい人間がいることでした。私の父がそうでしたし、隣の家のおばさんや、近くの寺の住職も大丈夫なようでした。
特に父なんかは花や掃除道具を手に提げて、毎日のように山に登っていました。
好奇心が湧いて後をつけようとしたこともありましたが、父も用心深く周りを見ていたのでしょう、いつも気づかれてこっぴどく叱られました。
ここには怨霊がいるから駄目だとか、理由をつけられてね。
もっとも、そんな子供だましの文句では、私の好奇心を抑えることなどできませんでしたが。
あれは、晴れた冬の日だった気がします。
前日から降り続いていた雪が止んで、外はひどく静かでした。道にも畑にも雪が積もって、辺りは一面の銀世界でした。
父や母は雪かきに出ていたのか姿が見えず、私は家の窓からぼうっと外を眺めていました。
その地域で雪が降るのは珍しくありませんでしたが、その日は晴れていたこともあって、溶けかけた雪が一段と美しく輝いていました。
ぽすっと、何かが窓に当たりました。
砕けた雪の破片と、窓ガラスを伝う水滴を見て、私は雪玉が投げられたのだと理解しました。
見ると、近所の友人が、満面の笑みで手を振っているのでした。
白状しますと、私はその友人のことが好きでした。
当時は、男の子は男の子と、女の子は女の子と遊ぶのが当たり前の時代でしたが、その子は我々男どもに混じる、紅一点の女の子でした。
真っ直ぐにのびた綺麗な黒髪を後ろで結び、白い頬を紅潮させて手を振る友人。
私は慌てて外に出ました。
しばらくは家の前で遊んでいました。けれどもすぐに雪が泥交じりになってしまって、私達は新雪を求めて家の裏手に回りました。
ふかふかの白い雪と、雪に彩られてどことなく神秘的な、禁足地への入り口。
ふと、気がつきました。
おそらく山頂に至る山の入り口。そこに、足跡があるのです。
思わず友人と顔を見合わせました。
雪を踏んで山頂に向かう足跡。そして、おそらく同じ靴の持ち主の、山から下る足跡。友人の大きな瞳には、隠しきれない好奇心が宿っていました。
「ねえ、行ってみない?」
囁くようにそう誘われて、私の胸にいくつかの打算が生じました。
ひとつは、この可愛らしい友人の前で、頼りがいのある男でありたいということ。もうひとつは、最高の共犯者を得たということ。彼女が目に涙を溜めて謝れば、大抵のことは許されると、私は知っていたのでした。
それに、足跡のある今ならば、道を迷うこともないでしょう。
それで、私達は山に足を踏み入れました。
案外と、登りやすい山でした。
最初こそドキドキしていた私達ですが、あまりに何の変哲もない山なので、次第に飽きてきてしまいました。途中で喋ることも尽きて、まるで義務のように、ただ黙々と山頂を目指しました。
山頂は、開けた台地になっていました。
木々のない空地に、真っ白な雪が静かに光っていました。
その中心を裂くように続いていく、一筋の足跡。
その先には、石碑がありました。
おそらく足跡の主が掃除をしたのでしょう、周囲の雪は取り払われていて、そこだけが別空間のようでした。
思わず一歩を踏み出した私の後ろで。
私の後ろを着いてきていた友人の、小さな悲鳴が響きました。
それで、私は振り返って……。
……。
そこから先は、あまり思い出したくありませんが。
白い雪の絨毯の上に、ぽたりと赤い液体が落ちました。それから追いかけるように、細くて黒い、紐のようなものがパラパラと。
それが血と髪の毛だと理解して、私は視線を上げました。
視線の先で、友人の髪の毛が、逆立っていました。
いや、そんな生易しいものではありませんでした。まるで、見えざる誰かが、友人の髪の毛をめちゃくちゃに引っぱって、頭皮ごと引きちぎっているような……そんな有り様でした。
友人は、半狂乱でした。
なんとか逃れようとしているのですが、一歩踏み出そうとすると髪を掴まれ、引き戻されてしまうようでした。
私は真っ白な頭で、友人の手を握り、駆け出しました。
背後でブチブチと髪がちぎれる嫌な音がしましたが、構う余裕はありませんでした。
走って、走って、走って。
ただひたすらに足跡を辿って、転がり落ちるように下山しました。
懐かしさすら感じる我が家の前で、私はやっと友人を振り返りました。
彼女の様相は、一変してしまっていました。
あの綺麗な黒髪はほとんどが無残に毟り取られており、剥き出しになった頭皮からは、じわじわと新しい血が滲んできていました。少し残っている髪の毛も、まるで握りつぶされたかのように、ぐしゃぐしゃと曲がってしまっていたのでした。
後から聞いたのですが、あの石碑のあった場所は、平安時代に、貴族の女性が自殺をした場所なのだそうです。
好きな男から容姿を嘲笑われ、世を儚んで自殺した場所なのだそうです。
高校の国語の授業で習ったのですが、平安時代の女性の美しさの条件というのが幾つかあって。
そのうちのひとつに、長く真っ直ぐな黒髪であること、というのがあったそうです。
それを聞いて、腑に落ちました。
容姿を嘲笑われたその女性は、きっと癖っ毛だったのでしょう。生まれ持ったその髪ゆえに好きな人に愛されず、死後も悲しみのなかにいたのでしょう。
そんな中に、黒く長く、美しい髪をした友人が現れた。それも、男連れで。
……いくら子供とはいえ、気に障ったのでしょうね。
ああ、えっと。
そう、ぼわぼわさんの話でした。
今流行っているぼわぼわさんですが、最初の投稿は山の中からされているんです。山に登ったら、急に髪がぼわぼわになった、とね。
…はは、そう、お気付きの通り。
一緒に投稿された写真を見ましたが、間違いなく地元の山でした。
なんでも、数年前に入山禁止が解けて、観光客でも誰でも山に登ることができるようになったようです。それが何故かは知りませんが、少なくともあの頃のような被害は出ていないみたいですね。
可愛らしい名前までつけてもらって。
……。
あの辺りは今、田んぼが埋め立てられて住宅地になっているそうです。山自体にも、立派な遊歩道が設置されたと聞きました。
私達がトンボを追いかけたあの畔道も、魚釣りをした小川も、今はもう消えてしまったそうです。
夜になれば自分の手すら見えなくなったあの道にも、しっかりと街灯が設置されています。
時代に流されて、人も、場所も変わっていく。
あの怨霊も、例外ではなかったということかもしれませんね。
え?
またあの山に登ってみたいか?
そうですね、おそらく私はぼわぼわさんのターゲットにはならないのでしょうが…それでも、嫌です。
だって、思い出したくないですから。
友人の髪を握り、
恨めしそうに手の中で潰して、
駄々をこねるように振り回し、引きちぎろうとする。
恐ろしい顔の女を、思い出したくは、ないですから。
あ、友人ですか?
そうですね、今日は寒いので。
家でシチューでも作って、待ってくれていると思います。