5話 水平線と転生
目の前の広大な海が目を包む。
両手は少し上げられ人の温もりを感じていた。左手は少し細く艶やか。右手はがっしりと勇気がある手をしていた。
「今日で私たちも天国へ行けるのね」
「あぁ、メセット様が私たちを導いてくれる」
酷く頭痛がする。
自分はさっきまで駅のホームにいたはずだ。あの強い光は、電車のヘッドライト…
この頭痛は電車が当たった時の…
頭が急速に回転し情景を流した。
「マドフ、あなたも苦しみから救われるのよ」
酷く頭痛がする。
何故だろう知らない記憶が頭の中に流れてくる。
母の温もり、父の慈しみ、両手に伝わる悲しみ。笑顔、涙、苦しみ、怒りに他にも様々な感情が急速に頭の中に入ってきた。
両親が苦しんできた生活が海面に反射している。時に頭を下げ、懇願する様子。教会に行ってお祈りする後ろ姿。誰かに殴られる痛み。海面は全てを映し出していた。
それでも、自分に向けられた両親の感情はとても優しく愛されていた。
「マドフ、泣くな。これから先は笑い合おう。どこかにある、ムード大陸を目指して」
自分ではない誰かの記憶が涙を誘い頬をつたっていた。自分はマドフではないのに、マドフという海面に映る自分のことを否定できない不思議な感覚。体験をしていないはずなのに、確かに残る経験の記憶。
「さぁ、行こうか」
「はい。三人一緒にムード大陸に、誰もが笑い苦しまず、悲しまず、美しく…なにもかも」
母が泣くたびに父が泣き、自分がなく。どうしようもなく悲しくなり泣いてしまう。
父が一歩。母が一歩。それに釣られ自分が一歩。
冷たい水が裸足の温度を吸いっとっていく。引いた波と一緒に細かな砂が足の指先を撫でる。一歩、一歩、歩くたびに水平線が近くなっていく。
足首まで水が届くと次第に前へ進みづらくなる。それでも、一歩、一歩、進んでいく。
「寒いよ」
雪がパラパラと降り始め、乾いた風が頬を叩く。
「寒いね。でも、大丈夫、次第に暖かくなるさ」
一歩、一歩、また進み始める。
両親の手が次第に強く握られ震え始める時には、水は腰にまできていた。隣の両親を見るとまだ、水は膝の上程度。
「お父さん、僕が先に死んでしまう」
「あぁ、直ぐに追いつくよ」
一歩、一歩、また水平線へと近づいていく。
「お母さん、怖い、お父さん助けて」
口元に水が入ってくる。しょっぱく咽せてしまうが直ぐに新しい波が口元を覆う。苦しい。ただ、ただ苦しい。じわりじわりと自分の命が削られていくのがわかる。自分が電車に轢かれた時はどんな感じだったのだろうか。これ以上の苦しみがあったのだろうか。
口まで入っていた水が次第には鼻にも入り始め、息ができなくなり始めた。両手にぎゅっと力を込めるが父も母の足を止めなかった。一歩、一歩、水平線が近づいてくる。
水平線を最後に見たのは日が沈む瞬間で、海面に反射し強い光が目を包んだ。
「にいさん、にいさんこの人息してないよ?」
「息してないってことは死んでるんじゃないの?」
「いえ、にいさんとても死んでいる人には見えないのです」
「そんなこと 俺たちにわかるわけなくない?」
微かに声が聞こえる。
「にいさん、いいから見てください」
波の音と砂を歩くざらちとした音、誰かの声。暗闇の中でも確かに聞こえた。
「やけに綺麗な顔立ちだな。でも、カーキ残念ながら息はしてないみたいだ」
「そうですか、流石に息をしていないのなら死んでいますよね」
「あぁ、死んでるな。まぁ、そんなことよりもう直ぐ日が沈むんだ火をつけよう」
「はい。燃える葉っぱを取ってきます」