王子が塔を降りる時
満月の夜だ。
城壁に囲まれた都市の中央、小高い丘の上に石造りの城がある。
城からは幾つもの塔が聳えている。その中でも一番高い塔の最上階に一人の少年が座って本を読んでいた。少年は明かりもつけず、月の光を頼りに本のページをめくっている。
少年は、夏の暑い夜でも涼しそうな灰褐色のゆったりとした麻シャツを着ている。塔の最上階は吹き抜けになっていて強い風が絶えず吹き込み、少年のシャツや本の薄い紙をぱたぱたと揺らしている。風はさらに少年の首元まで伸びた美しい銀色の髪をさらさらと流し、月光の中できらきらと光らせていた。
少年は透けるような白色の肌が印象的だった。体も華奢で、誰かが近づいて息をそっと吹きかけただけで消えそうな気がする。
風がたまに止むと、下の方から男女の笑い声やワルツの演奏がかすかに聞こえてくるが、すぐにまた風が吹きはじめて聞こえなくなった。
少年は、時々呼んでいる本に面白い部分があるらしく微笑むことがあったが、それはまるであどけない少女の笑顔のようだった。
塔の上の少年の孤独な平穏は、しかし不意に乱された。
だれかが塔を上ってきたのだ。こつこつと階段を上る音が少年のいる最上階まで届いてきた。しかし彼は本に読むことに夢中なのか、変わらずページの上に目を落としたままだった。
やがて足音が少年のすぐ側で止まり、
「こんばんは」と声をかけた。
少年はやっと顔を上げた。そこには、軍服のような厳めしい服をきた背の高い女性が立っていた。
その女性に対して、少年は地面に落ちた木の棒でも見るような、何の感情も読み取れない表情をして、
「ここにはワインもないし、ダンスの相手もいませんよ」
と言い、また目線を本のページに戻した。
しかし女性はそれで引き下がらなかった。
「パーティに出席できるような格好ではありません」
少年は顔を上げ、まばたきをして、今度は少し興味をもった様子で女性の姿を見た。
「見慣れない服装ですね」
「初めまして。私はマーガレットといいます。私は王家直属の騎士です」と言い、自分の服に目を遣って「パーティに出席できるような正装もこれとは別にありますが」と言って少し微笑んだ。それから、「これは騎士の普段着。仕事用の服です。これを普通王宮で着ることはありませんから、見慣れなくても無理はないのですよ。王子」
少年は「王子」という言葉を聞くと少し眉を上げて顔をしかめた。
「王子と呼ばれるのは嫌ですか?」とマーガレットは少年に尋ねた。
「お飾りですから」と少年は言った。「名ばかりの王子ですよ。ご覧の通り本を読むことしか能がない役立たずです」と肩をすくめてみせた。
「それにしても、夜なのに明かりなしで本が読めるのでしょうか」とマーガレットは気になって尋ねた。
「今夜は満月なので月の明かりだけで大丈夫ですよ」
そう言って少年は本を開いて見せた。ね、と少年はマーガレットに微笑んで見せた。それは儚げな笑顔だった。とてもその年ごろの少年が見せる表情とは思えない。それがマーガレットの心に強い印象を残したのだった。
マーガレットは特に考えもなしに、気まぐれでそこを訪れただけだ。「塔の上にいる王子」という王宮内に流れているその噂を思い出して塔を上ってみたのだ。本当にそこに王子がいるとは思わなかった。ほんの好奇心で声を掛けだけですぐ帰るつもりでいたのに、話しているうちに彼女はこの不思議な少年のことが気になり出していた。なんでそんな寂しくて美しい笑顔を浮かべるのだろう。
マーガレットは「また来ますね」と少年に言って塔の階段を下りていった。
少年はその後ろ姿を少しの間見ていたが、また何事もなかったように持っていた本の続きを読みはじめた。
次の日の夜も、マーガレットはまたやってきた。
少年は昨日と変わらない様子で本を読んでいた。
「ずっとここにいるのですか?」とマーガレットは尋ねた。
「夜の間はずっとここにいます」
マーガレットは少年の顔をじっと見つめた。そこに何かを求めるように。しかし彼女の期待するものはそこには現れなかった。
「どうしたんですか」と少年は不思議そうにマーガレットに聞いた。
「あ、これは失礼しました。えっと……」
マーガレットは何か言わなくてはいけないと思い慌てて、
「ちゃんと寝ていますか」
マーガレットはとっさにそう口にしたが、言ってから唐突で間抜けな質問だと恥ずかしくなった。しかしそれに王子は別に馬鹿にするような様子もなく、
「早朝に部屋に戻って寝ていますよ。昼間は特にやることもないですからね。私は暇なんですよ。名ばかりの王子ですから」と微笑んだ。
あ、これだと思った。それがマーガレットの探していたものだった。そしてその寂しい微笑みを見ると、マーガレットは胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚に襲われた。
「ずいぶん気ままな生活ですね」
自分の動揺を悟られないように、つとめて無表情で言った。
マーガレットはそう言ってから、自分の言葉がちょっと嫌みっぽく響いたかも知れないと後悔した。
「ええ」
しかし少年は彼女の言葉に気分を害された様子もなく、いつも通りにまた読書に戻った。
それから一週間ほどの間、マーガレットは塔の最上階を毎日訪れた。
二人はたまに言葉を交わすだけで、ほとんど無言だった。マーガレットは、立って塔からあたりの景色を眺めたり、ときに少年の近くに座ってぼーとしたりして過ごした。
少年は読書に夢中になってマーガレットがいることを忘れるのか、本のうちに楽しい一節を見つけて嬉しそうにふふっと微笑んだ。マーガレットはそれを決して見逃さずにそっと横目で見た。
マーガレットは少年の儚い笑顔に不思議なほど惹かれた。こんな少年にどうしてそのような表情ができるのだろう。美しくもあるが、悲しくもある。何かを諦めた人のような。
少年の方も少年の方で日が進むごとに、自分でも気づかないうちにマーガレットが来ることを期待するようになっていた。少年は、マーガレットが側にいることに慣れて、むしろ彼女がいることで安心した気持ちになるようになったのだ。
マーガレットには少年が周囲の人間に見てきた権力への下心や裏の顔を全く感じないし、彼女がいても少年が大切にしている静かな時間が壊されない。むしろ居心地がいい。少年は自分でも気づかぬうちに心を許すようになっていた。
もっともそれは少年の心の中でだけで、表に出すことはなかったので、マーガレットがそれに気づくことはなかった。
しかしそんな日々も一週間ほどで終わりを迎えることになった。
その日はマーガレットがいつものように階段を上って来たのだが、いつもの様子とは少し違っていた。
二人は塔の上で隣り合って座っていたが、今日は特別距離が近く、肩が触れ合うほどの近さだった。マーガレットは何かを考えているようにぼんやりとしていた。
彼女は昼間に騎士団の同僚と話していたことを思い出していたのだった。
「ピエール、第二王子について何か知っているか」
マーガレットは同僚の騎士ピエールの話しかけたのだった。
そこは騎士団の詰所になっている部屋だ。王宮に隣接した建物の一室で、王宮内で何かあったときなどに駆けつけられるように数人の騎士が待機しているのだ。小さな部屋で、ほこりっぽく、机や椅子はみな、使い古されたものばかりだった。
マーガレットは数日前に「塔の上の王子」の噂について王宮で働いている人にそれとなく話しかけて、その「王子」が第二王子であることを聞き出していた。しかし詳しく知っている人はいなかったので、その種のことに詳しそうな同僚に聞いてみることにしたのだ。
考えてみれば第二王子のことは不自然なほどに話題に上らない。もしかしたらあまり首を突っ込まない方がいい話題なのかも知れない。マーガレットは念のため信頼できる同僚であるピエールと二人になる機会をまって王子のことを聞いたのだった。
「珍しいですね。マーガレットさんが私に質問なんて」とピエールは呑気な様子で言った。
「ちょっと噂を聞いてな」
「『塔の上の王子』ですか」
「ああ」
「貴方ってそういう噂に興味を持つ方でしたっけ」
「いいだろう別に」
マーガレットは最近、第二王子と毎日会っていることは言わないでおいた。
「私もそれほど詳しいわけではないですが、少し前にクーデター未遂事件があったでしょう」
「うん、あったな」
今は亡き国王の父親、先代の王の側近だった者達が、現在の国王が進める改革に反発して王を追い落とそうとしたのだ。
「クーデターを謀った者たちは、次代の王に第二王子を据える計画だったのです」
「それはその者たちが勝手に考えていたのではないのか」
「もちろん当時幼かった第二王子自身が関わっていた訳ではありません。しかし第二王子の後ろ盾になっていた勢力がクーデターに関わっていました」
「その者たちを処分すればいいだけじゃないか」
「そう簡単にはいかないのですよ。王宮では周囲の人が何かをしたらその人がしたとみなされる。過去には仲の良かった王族の兄弟が勢力間の対立で殺し合いをしたこともあったそうです。本人たちはそんなことを望んでいないのに」
マーガレットは理解できない、というように首を振った。
「第二王子はそのクーデター事件以来表に出てくることはなくなりましたし、王宮でお見かけしたこともありません」
「そうか」
マーガレットはあえて感情を込めずに言った。少しでも気持ちを表に出すと、そのまま激しい感情があふれ出して止まらなくなりそうだったから。
「第二王子はなかなかの美少年らしいですよ。それで興味をもったんですか」
「いや、そういうわけじゃ」
ピエールはマーガレットの反応を見ていたずらっぽく笑った、それから少し真面目な表情になって、
「でもかわいそうですよね。勝手に他人の思惑で神輿に乗せられて、うまくいかなかったら放り出されて。人間不信になってもおかしくない。もう時間が経った今なら第二王子は、皆の前に出てこようと思えば出てこられるはずです。でも自ら姿を隠しているんです。もしかしたら、王宮の政治家や貴族とはもう一切関わりたくないのかもしれませんね」
「そうだな」とマーガレットは頷いた。
マーガレットは隣に座っている少年の方を気づかれないように見た。
昼間ピエールに第二王子の身の上話を聞いた時には、この優しそうな少年がどうしてそんな目に会わなければいけないのだろうと、強い怒りや悲しさを覚えた。しかしこうして隣に座っていると、彼女の胸にそんな気持ちは湧かなかった。
多分、本を楽しそうに読む穏やかそうなその少年が地上から離れた高いところにいて、そういう俗世のごたごたから遠く離れているように感じるのだろう。
しかし、いつも見せる寂しそうな笑顔がどこから来るのだろうかと考えると、やはり近しい人々に裏切られた経験からくるのではないかとも思う。もっともマーガレットはそんなに少年のことを知っているわけではないので、勝手な憶測なのかも知れない。
マーガレットは隣の王子のことをしばらく考えたあと、ふと我に返った。
こんな時でも少年のことが気になる。それは救いだな。
ここに来ていたのはもちろん少年に会いたかったのもあるが、それだけではなかった。自らの受け入れ難い過酷な運命を、この一週間ここに来れば忘れられたからだ。そう思うと、ある言葉がマーガレットの口をついて出た。
「ありがとうございました」
少年はマーガレットの方をじっと見た。まっすぐな目だ。
その目を見ると、自分の心のうちをすべて話してしまいたくなった。今日が最後なのだ、少しくらい自分のわがままを通しても許されるだろう。
「私の話を聞いていただけますでしょうか。あまり楽しいお話ではありませんが」
「いいですよ」
すこしも考える様子を見せずに、少年は快く返事した。
少年はいつも本を読んでいる。私の話はそのお話の一つにすぎない。マーガレットはそう思うことにした。そう思ったら、自分がたくさんのお話の一つになったような気がして、マーガレットは気が楽になった。
「私は明日からある仕事でこの王都を離れます。だからしばらくここには来られません」
マーガレットはそう言いながら、でもこのことを少年に話して何になるのだろうと思った。別に自分がここに来ているのは勝手に来ているのであって、来ても来なくても少年は気にしないだろう。
「そうですか」
少年はわかったというように頷いた。特段表情の変化はない。
「騎士団の任務です。最近南の山脈のふもとに竜が現れました。凶暴な竜なので、近くにすむ人に被害が及ばないようにしなければなりません。数人の騎士で協力して一定のラインより近づかせないように押し返すんです」
マーガレットは淡々と話すように心がけた。
「大変な作業ですが、大丈夫です。厳しい訓練を絶えた精鋭達ですから。怪我はするかもしれないけれど、必ず戻ってきます。そしてまたここに来ますから」
「そうですか」
少年はいつも通りの表情でまたそう返事した。でも心なしかいつもより優しそうな表情に見えた。それはマーガレットが話すべきことを話した安心感でそう見えたのかもしれない。
マーガレットが話し終わると、少年はまた開いたままだった手元の本に目線を落とした。
いつもと変わらない少年の様子が、マーガレットはありがたかった。
マーガレットは明日から竜の撃退に向かう。怪我するくらい、と少年には言ったが、実際は違う。ほとんど生きて戻ることは望めない。竜はこの世で最も強い種類の生物だ。この国でどうにかできるのはマーガレットたち王国の騎士団のメンバーしかいない。マーガレットは今回の作戦で中心的な役割を担う。全員が命がけなわけではない。しかし数人は身を危険に晒さなくてはいけない。そうしなければ撃退すら難しい相手なのだ。
国のため、国民のために自分の身を犠牲にすること。騎士団に入ったからには覚悟しなくてはいけない。それはわかっている。それでも不安になる気持ちをここに来れば忘れられた。
不安を忘れるだけならよかったけど、今日で終わりだと思うとやり切れない気持ちになった。もう少しだけ少年と一緒に過ごしたかった。少年といると、そういう思いが強くなってきた。
「どうせなら王子のために命を懸けたかったな……」
思いがけず口から出た言葉にマーガレットは自分でも驚き、口を手で押さえた。
マーガレットは立ち上がり、そこを離れようと思った。
これ以上少年と一緒にいると気持ちが揺らいでしまう。甘えようとしてしまう。マーガレットは振り返らないように歩きはじめた。少年の顔を見ると、足が動くなりそうだったから。
いつも通りだ。王子は後ろで静かに本を読んでいる。そして私は塔を降りて行く。さあ歩け私。
マーガレットがそう念じながら歩いて行くと、彼女の後ろで不意にぱたんと本を閉じる音がした。それに驚いてマーガレットの足は止まってしまった。
しまった。
マーガレットは足を動かそうとするが、力が入らない。後ろから、少年が立ち上がり歩いてくる音がした。
マーガレッが振り向くと、閉じた本を小脇に挟んだ少年が立っていた。
彼女が本を閉じた少年を見るのは初めてだった。
少年はマーガレットに言った。
「私の騎士を死なせに行くわけにはいきませんね」
「王子の騎士?」
「私のために命を懸けるんでしょう?」
そういって少年は微笑んだ。それはいつものように優しげではあるが、寂しそうな笑顔ではなかった。強さを奥に感じる笑顔だった。それからもっと驚くことを少年は言った。
「私たちで竜を倒しましょう」
「え……」
そんなことは無理に決まっているとマーガレットは思った。
しかし少年は自信に満ちた表情をしている。その少年は、まぎれもなく王子なのだ。忘れていたわけではないけれど、今までは物静かな少年といった方がいいように思えた。でも今は違う。堂々たる王子だ。その表情を見ると、もしかしたらその言葉も本当になってしまうような気もする。でも……
「信じられませんか? 私たちならきっとできますよ」
王子がそう言うと、王子の体から燃えるような光が発せられた。魔力が目に見えるほど多量に放出されているのだ。手をかざしてしまうくらい眩しい。とんでもない量だ。間違いなく騎士団の誰よりも、飛び抜けて多い。たしかにこれなら竜と戦うのに十分なのかもしれない。
長い間、これまで人の目を避けて、塔の上にこもっていた第二王子が自ら人前に出ようとしているのだ。単なる思いつきである訳はない。
他方で竜を倒すということは、誰もが無視できない大きな功績となる。王位継承の話など、権力争いの火種になることは目に見えている。
「いいんですか? この塔の上で本を読んでいる王子は楽しそうに見えました。もし竜を倒せたとしても、いろいろな思惑や争いに巻き込まれるかもしれません」
「今この本を読んでいたんですが」と王子は言って手元の本を持ち上げた。「それより気になるお話を耳にしました。でもその話はまだ途中までだったので、その結末が知りたくなったんです」
王子は自然体だ。いつもと変わらない読書の好きな少年そのままだ。でも、マーガレット達が悲壮な覚悟をもって臨もうとしている恐ろしい竜との戦いを読書と一緒にしてしまうなんて。自分たちの恐れが馬鹿みたいじゃないか。いやとても頼もしい。
「それに面倒なことがあっても私の騎士が守ってくれますよ。ね?」と王子は言った。
王子は、マーガレットが自分を守ってくれることを疑っていない、確信に満ちた表情をしている。
マーガレットは、目を瞑った。決めなくてはいけない。自分が犠牲になって竜から国を守るか。今まではそういう「お話」だと思っていた。でも目の前の王子は別のお話しを考えているらしい。王子とともに、自分は王子の騎士として竜を倒すという「お話」。王子はそっちの方が見たいようだ。王子がそう言うなら……いいえ、私だってそっちがいい。
マーガレットは跪いて、王子に忠誠を誓った。マーガレットは第二王子の騎士となった。
「さあ行きましょうか」
王子がそう言うと、二人は階段を降りはじめた。
まだ暗い夜のなか、塔を二つの影が降りて行く。二つの力強い足音が響いている。