幸せ
小春が目を覚ました時、そこは病院だった。真っ白い天井が見える。身体の背中側にふんわりとしたベッドの感触がした。
「(助かったんだ)」
小春はゆっくりと上半身だけ起こすと周りを見渡した。小さな病室には8つのベッドが並べられていた。こちら側に4つ、反対側に4つ。小春が寝かされたのは扉を入って一番右奥だった。すぐ左には、知らないお婆さんが眠っていた。小春の身体にはいろいろな管が付けられているが無事なことに無事だったことに小春は安心した。小春の右足には硬い包帯が巻かれている。骨折した人がよくしているやつだ、小春はぼんやりと自分が骨折をしたんだと理解した。力を入れようとするとピシリと鋭く痛む。
部屋にかけられた時計を見ると午後21時過ぎを指していた。
お姉ちゃんはどこだろう?
小春は不安に襲われた。ベッドに寝かされている人の顔を順番に確認してみても姉の姿はなかった。最後に家にいた時は一緒にいたはずだった。
小春はゆっくりと起き上がり、机のそばに置いてあった松葉杖一本を手に取った。もう片方の手には点滴スタンドを持ちながら部屋を出る。
部屋を出た途端、母の玲奈が小春に抱きついた。
「よかった。小春。よかった。本当によかった」
泣きながら小春を抱きしめる玲奈に小春は尋ねた。
「お母さん。お姉ちゃんはどこ?」
すると母は口をキュッと結び、わんわんと大声で泣き始めた。小春は一言も姉がどうなったのかを母から聞いてはいなかったが、なんとなく、お姉ちゃんはいなくなったんだと思った。
リーーーン。
軽やかな鐘の音が室内に響き渡る。優子の仏壇の前に置かれているりん棒を静かに起き直すと、小春は仏壇に向かって静かに手を合わせた。仏壇に飾られている写真は、優子の遊んでいる姿や笑顔の写真ではなく証明写真のようなものだった。当時保管していた写真は全て瓦礫の中に埋もれてしまい、唯一残っていたのは、市が保管していたもの一枚だけだった。そこには小春の記憶にはない小さな姉の姿が映し出されている。
「小春、そろそろ行こう。お母さんが待ってる」
小春は廊下に立っている旦那である伊吹の方を振り返ると笑顔で頷いた。
兵庫県には一年に二回、お正月と夏のお盆休みに帰省することしている。帰ってきて二日目の朝。1日目に優子のお墓参りは済ませたため、二日目の今日は母と小春と伊吹の三人で掬星台に行く約束をしていた。滞在自体は4日間なのでかなりのんびりと過ごせる。勤務先の東京には、高校を卒業して、会社に就職するタイミングで引っ越しをした。小春は25歳になり、東京で仕事をしている。あの震災から、姉の優子が亡くなってから、実に20年が経とうとしていた。
掬星台に着いたのは12時前だった。この観光地は夜が混むためにその時間は避けて動きたかったために家を早く出た。予想していた通り、ひと気は少なかった。掬星台の見晴らし台について早々、母は気を使って一人で回るからと行ってどこかへ行ってしまった。小春と伊吹はありがたくゆっくり景色を見て回ることにした。掬星台からの眺めは何度見ても息を呑むほどに素晴らしかった。
これ以上の絶景を知らないな、小春は景色に圧倒されながらも頷いた。
すぐ隣で伊吹はしきりにその景色に感動してわあと感嘆の声をあげていた。小春はその様子を見てなぜだか自分のことのように、この街の景色を誇らしく思い、思わず頬が上がった。
その時だった。
『小春早くー!』
自分の右後ろから姉の声が聞こえた気がした。慌てて振り返るとそこには、幼い頃の優子が、ちょうど向こう側から展望スペースの方へと走ってきていた。その後ろから焦りと興奮の混じった表情で駆けてくるのは、幼い頃の小春だった。
『お姉ちゃん待ってー!』
「・・・!?」
あまりにも鮮明なその光景に小春は目を疑った。幻でも見ているのだろうか。一度目を擦り、再び目を凝らして見ても、そこには紛れもなく小さい頃の優子と小春がいた。二人は小春が立っている場所から少し離れたところで足を止めると、街の景色をニコニコしながら眺め始めた。小春は二人にゆっくりと近づいて行った。あまりにも顔が似ている。小春が近づく気配に気がついて、二人は顔をあげて不安げな顔をした。
「お姉ちゃん?お姉ちゃんなの?」
小春が思わず質問をしても答えは返ってこない。黙って小春の顔を伺っている。
その途端、小春の目の前に誰かが割り込んできた。30代40代の主婦の人だ。二人の母親だと思わしきその女性は小春の前に立ち塞がると、怪訝そうな顔をして言った。
「あの、どちら様ですか?」
小春はその声を聞いてハッとした。
私は一体何を・・・
改めて目の前を見ると、そこには小春の知らない少女が二人、母の後ろ側で怯えるように隠れていた。
「あ、ごめんなさい」
小春はすぐに頭を下げて謝るとすぐにその場を離れた。ベンチに座って一息つく。あれはあまりにも鮮明な映像だった。だが小春の記憶では、優子と掬星台に来た記憶はない。あるとするならば、よく遊んでいた近所の公園の渦森台展望公園だった。今の不思議な体験は、まるで優子が自分のことを呼んでいるような気がした。渦森台展望公園には地震があって以来行っていない。あの場所が残っているかも知らない。今までの帰省では、絶対に行くことがなかった場所だ。小さい頃の嫌な記憶を思い出しそうで避けてきた場所だった。
「私ちょっと寄りたいところあるから先に帰ってて」
夜ご飯の買い出しやなど全ての用事が終わって家に到着したところで、小春は運転席に座る伊吹と後部座席に座る母に告げた。その言葉を聞いて母が後部座席から顔を覗かせる。
「何か買い忘れ?今から寄ればいいのに」
「ううん。一人で行きたいの。ありがとう」
伊吹を母と二人きりにしてしまって悪いが、古田家にはもう何回か来ているので、うまくやってくれるだろう。小春は買い出しを名目に一人で車を発進させた。
母の住んでいるアパートから十分も走らせると見覚えのある道路に出た。渦森台までの道はほとんど坂道だった。小春は何年も踏み入れることのなかったその懐かしい景色に、しんみりとした気持ちになった。自身でほとんどの家屋が倒壊したものの、要所要所に名残は感じることができた。そこから5分ほど坂道を走らせると展望公園の前に着いた。住宅街なので駐車場がなかったため、小春は道路脇の大きなスペースに車を停めた。そこから、公園の中にある階段をいくつか登ると、展望スペースまで歩いた。小さい頃に登った時よりも疲れを感じて、小春は体力の衰えを感じた。あの頃の古びたフェンスは取り替えられて綺麗になっていた。花壇には誰が植えて世話をしているのか、綺麗な花が列を成すように咲いている。その視界の端に人影があった。小春と同じくらいの年だろうか。その男性は花壇の前に設置されたベンチでじっと景色を眺めている様子だった。
疲れたので座って眺めたかったが、急にベンチに座るのはおこがましいことなので小春はなんとなくそこから少し離れたところでフェンスに近づいて街を見下ろした。そこにはあの頃と変わらない大阪湾の港町の景色が広がっていた。ついさっき見た掬星台からの景色と比べると、迫力は劣るがまた違う良さがある。人が少なく、地元の人しかやってこない穴場のような感覚が、一種の優越感のようなものを感じさせるのかもしれない。
小春がしばらくその景色を眺めていると隣から声が聞こえてきた。
「いい眺めですよね」
隣をみると先ほどまでベンチで座っていた男性が、小春よりも少し右側に立っていた。容姿を一言で表すとするならば、まさに爽やかな青年といった風貌だった。その口ぶりから女性だから声をかけたという後ろめたい気持ちは一才感じられず、ただこの景色の感動を誰かと共有したいだけのように聞こえた。
「ええ、ほんとに」
小春は全くその通りだと思った。
「僕のおじがこの景色が大好きだったんですよ。よく近所の子供たちを連れて知識自慢をしていたらしくて」
「そうなんですね」
「優しい叔父だった。何よりも子供が大好きで奥さん思いで」
小春の好意的な態度を感じ取ったのか、青年は嬉しそうに語り始めた。小春にはどこか悲しさも含んでいるように感じた。
「あなたのおじいさんもあの地震で?」
そう尋ねると、青年は少し驚いたようにはじめて小春の方を向いた。その反応を見てあまり深入りしない方がよかったかと、一瞬戸惑ったが、青年は無言で頷くとすぐに口を開いた。
「いや、震災では生き延びたんですけど、その数年後に脳梗塞で。ヘビースモーカーだったんだです。隠れて吸っていたらしくて。奥さんでさえタバコを吸ってることに気がつかなかった。」
「そうなんですね」
話していると自然とお互いに敬語ではなくなっていった。なんとなく同世代の人間だとお互いに感じたのだろう。
「あなたも誰かを亡くしたの?」
「うん。私は姉を・・・」
「そうか。辛かったろうね」
「でも、もう平気。20年も前だから」
やけに静かだ。さっきまでは子供たちの喧騒が聞こえてきたのに、今は二人が黙ってしまえばなんの音もなくなってしまう静けさがある。風ひとつ吹いていない。確か震災の日もこんな奇妙な静けさが辺りに漂っていた気がする。小春はこの青年と話し始めてから一つだけ気になっていて聞きたいことがあった。昔の朧げな記憶を手探りで思い出しながら言葉を繋いだ。
「あなたのおじいさんかわからないけれど、私も一度、ちょうどあの震災の日、近所のおじいさんと渦森台に登ったんだけど、その時に聞いた蝶の話を今でも覚えてるの」
「蝶?」
青年は驚いたような表情を見せた。
「ええ、確か名前は───」
「「アサギマダラ」」
小春と青年は同時にその蝶の名前を口にした。
思わず顔を見合わせる。
どうして知っているのか、小春は不思議に思った。すると青年は興奮して捲し立てるように言った。
「おじが好きだった蝶の名前だ。すごい。こんな偶然。おじは震災の日の午前中にここに来たって言っていた。被災した後も一緒に登った子供たちが無事だったのかしきりに心配していたんだ」
「・・・だとしたら、すごい偶然ね」
あまりにも偶然すぎることに、小春は鳥肌が立った。
「もしそれが本当なら」
青年はベンチに置いてあったリュックを勢いよく拾い上げると興奮気味に言った。
「おじがその時に撮った写真が残ってるかもしれない。もしかしたらそこにあなたのお姉さんが載ってる写真があるかも。うちすぐそこだから家の前まで来て」
小春は黙って頷くと、青年の小走りする背中を追いかけた。
青年の家は、立派な西洋風の一軒家だった。昔はよくあった瓦葺き屋根の家はもう少ない。震災によって建築の基準が大幅に見直されたせいだった。両親と住んでいるのだろう。白いタイルのようなもので敷き詰められた駐車場には車が2台停めてあった。小春が歩道で立って待っていると、青年が玄関から顔を出した。玄関を出たところの階段の下で手招きするので、小春は2台の車の隙間から奥に入って行く。そこにはベンチがあり、青年と小春はそこに並んで座った。
「これで全部。この中に写ってる?」
青年は古いお菓子の缶の蓋からビニールに入った写真を20枚ほど取り出すと小春に手渡した。写真を一枚ずつパラパラとめくっていく。写真には、青年の叔父と奥さんが映る写真や叔父が子供たちと一緒に映る姿が撮られていた。どの写真も歯を見せて笑っている訳ではなかったが、その柔らかそうな表情から、叔父がどんな人物だったのか伝わってくる。
何枚かめくっていくと小春はその手を止めた。その中の一枚に、小春自身と優子が写っている写真があった。まさにあの日、掬星台に行く道中で撮られた写真だった。自転車を押す叔父さんの近くには小春と昔友人だった妙子がいて、その少し後ろには姉と少年が写っている。その小春の様子を見て、青年は見つかったことを察した。青年が黙って見守っていると、小春は震える声を絞り出すようにゆっくりと呟いた。
「これ、お姉ちゃんだ。私の知ってる、お姉ちゃんだ」
写真を見つめながら、思い出すように呟いている。
「家が潰れちゃったから写真が全然なくて、私・・・だんだんお姉ちゃんが私の記憶から消えていくんじゃないかって怖くて」
小春は口に手を当てる。彼女の目にはじわりと涙が滲んだ。青年は「辛かったね」と小春の背中を優しく摩った。
帰り際、青年は小春に優子が写っている写真を手渡した。
「よかったらこの写真持って行ってよ」
小春は驚いた。それは青年や彼ら家族にとっても、叔父を思い出すための大事な写真であるはずだからだ。
「え?いいの?」
小春は思わず聞き返した。
青年は一瞬考えるように黙ると、やがて優しい笑みを作って言った。
「いいんだ。爺ちゃんだってきっとその方が喜んでくれる」
小春が家に写真を持ち帰ってテーブルで眺めていると伊吹が覗き込むようにして写真を見た。
「なんの写真?」
小春は伊吹に見えやすいように写真を少しだけ持ち上げた。
「昔のお姉ちゃんの写真。震災が起こる日のお昼過ぎ。すぐそこの渦森台展望公園ってとこに近所のおじちゃんと登ったの。さっき偶然そこの息子さんと会って、写真をくれたの」
「へえ〜、それはすごい偶然だし、よかったね」
伊吹は東京生まれ東京育ちだ。被災はしていない。ただ過剰に反応しないのは彼なりの優しさなのだろう。小春は伊吹のそんなところを好いていた。
「この子かっこいいね」
伊吹がそう言いながら指を差したのは、あの美形な顔立ちの奇妙な少年だった。小春はその時の夕方のことをなぜだか鮮明に覚えている。
「なんか引っかかるんだよね」
小春は顎に手を当てて思い出すように言った。
「何が?」
「この子、ちょうど別れ際に変なこと言ってたの」
「変なことって?」
「なんか選択の時が来るって」
「何それ」
当然の反応だった。話している小春でさえも意味はわかっていない。
「さあ意味はわからないけど、今まで楽しく遊んでたのに急に真剣な目つきになって言ったの」
「こんな小さい子供がそんな難しい言葉使う?」
「どうだろう。気のせいかな」
「気のせいじゃない?わかんないけど」
伊吹はそう言ったが、小春は昔からそのことが気に掛かっていた。その時はあまりの気味悪さに固まってしまって、優子が庇ってくれたことを小春は覚えていた。
そしてその直後に地震が発生した。
それに、なぜ姉が助からずに自分が助かったのかもよくわからない。昔からずっとなんとなく少年に手がかりがあるような気がしてならなかった。どうしても引っかかる。小春は一人リビングで思考を凝らした。
確か、名前は、しん。
小春はすぐに少年に関する情報を集めようと資料集めを開始した。帰るまであと二日はある。タンスから保育園や幼稚園の資料を引っ張り出すと、後ろに掲載されている電話番号に片っ端から電話をかけていった。姉と少年は同い年だった。それを頼りに周辺の保育園と幼稚園をリストアップして電話をかけていった。
「そんな名前の生徒さんが在籍していた記録はございません」
周辺の全ての保育園や幼稚園に在籍の記録はないと言われた時には、何かがおかしいことを小春は確信した。記録がないなんておかしい。
小春は灘図書館まで車を走らせた。もしもあの後震災で亡くなっているとするならば死亡者名簿に載っているはずだった。しん、という名前は珍しいから目立ってすぐにわかるはずだ。小春は震災後の新聞を片っ端からめくっていった。すると1995年1月18日からの3日間、新聞に死亡者名簿が載っているのを見つけた。急いで順番に目を通していくが、しんという名前の子供が亡くなってる記録はどこにもなかった。
結局何の手がかりも見つからなく小春が落胆していると、後ろから肩をトンと叩かれた。振り向くと、図書館の職員さんが立っている。随分と背の高いマダムだ。彼女はにっこりと笑って言った。
「申し訳ございません。もうそろそろ閉館のお時間ですのでご協力お願いいたします」
図書館を出ると夏の生暖かい空気が身体を包んだ。
調べられる時間は、明日を合わせて1日半。その期間内になんとかしてあの少年の手がかりを見つけなくてはならなかった。ここまで調べているが、小春の心の片隅には、ただの思い違いなのかもしれないという思いもあった。ただ、何かおかしいという確かな違和感だけが小春の足を動かしていた。
まさかの方向に状況が動いたのは次の日の朝方だった。
「優子のお墓参りに行ってきてくれない?」
部屋にいた優子に母が言った。
その言葉に小春は思わず眉間に皺を寄せた。
「一昨日行ったじゃない」
そう返すと、母は再び言った。
「優子のお墓参りに行ってきてくれない?」
二回目の母の言葉を聞いて小春の身体に身の毛がよだった。いままで生きてきてこんな感覚は初めてだった。声は紛れもなく母の声なのだが、その一つ一つのイントネーションや表情の些細な動きに感情がこもっていない。まるで誰かに脅迫されていてその台詞を言わされているような不気味さがこもっていた。小春のことを見つめる目が据わっているのもよりそれをより際立たせている。
小春は母の横を黙って通り過ぎて伊吹のいるリビングに入った。伊吹はちょうど昨日の買い物の荷物を整理しているところだった。
「来て」
小春が伊吹の手を引っ張る。
「え?ちょっといま片付けてるんだけど」
「いいから」
片付けを続けようと抵抗する伊吹の目を鋭い目で見つめると、彼は何かを察したのか黙って2人で母の横を通り過ぎると玄関の外に出た。
「喧嘩でもしたの?」
伊吹が尋ねる。
「お母さんの様子がおかしい」
小春は答えた。
「どういうこと?さっきまでいつも通りだったけど」
「わからないけど、またお墓参りに行ってくれって言われたの、一昨日行ったばかりなのに」
「何か忘れ物でもしたんじゃない?水かける桶とか園芸用のハサミとか」
普通はそう考えるだろう。だが明らかに違和感がある。
「じゃあどうしてそう言わないのよ」
伊吹は小春の言葉に、確かに、と訝しげに頷いた。
「さあ。どうしてだろう。お母さんに直接聞いてみようか」
「いいからとにかく着いてきて」
小春は家にもう一度入ろうとする伊吹を引き止めて手を引いた。胸騒ぎがする。絶対に何かおかしなことが起こっていることだけはわかった。あの目は、もしかしたら少年と関わりがあるかもしれない。そう思うと、わからないものへの恐怖が込み上げてくる。一人では不安なので伊吹も一緒についてきてもらうことにした。
車でお墓まで向かい、駐車場に停めると車を降りた。小春が先陣を切って歩いているとふと後ろから伊吹の足音が聞こえないことに気がついた。振り返ると、駐車場の車の前でなぜか立ち止まっている伊吹の姿があった。小春は首を傾げながらも車まで戻る。
「どうしたの?忘れ物?」
小春が尋ねると伊吹は首を横に振った。
「ごめん。ここからは君1人で行ってほしい」
「どうしたの?急に」
急いでいるというのに何を言い出すのだろう。小春は疑問に思った。
「分からないけど、ちょっと用事を思い出したんだ」
「用事ってなんの?」
小春の口調が段々と強くなる。
「・・・さあ分からないけどとにかく何か用事がある気がしてならないんだよ。とても、うーん、そうだな、緊急の用事」
「お墓参りするだけだから、5分もかからない。早く行こ」
「5分もかかると間に合わなくなる。それくらい重要な用事なんだ」
急に曖昧なことをつらつらと述べて帰ろうとする伊吹の態度に小春は苛立ちを覚えた。
「変なこと言ってないで───」
そこまで言って、小春はある異変に気がついた。伊吹の目が据わっていた。小春を見る目が、まるで小春の先にある何かを見るように漂っている。伊吹は、ついさっきのおかしかった母と同じ目をしていた。伊吹は相変わらず言い訳を捲し立てている。
「自分でもおかしなことを言ってるのはよくわかってる。でもどうしてもここから先には行けないんだ。とても大事な用事があるから」
小春は息を呑むと慎重に言った。
「・・・わかったわ。先に帰ってて。私1人で行くよ」
小春はそう言ってその場を後にした。ここまで来ると小春の中にもある種の確信が芽生え始めていた。どこの記録にも残っていない少年。彼だ。彼が何かしてるんだろう。そして私には1人で来いと言っている。少年のことを調べ始めたらすぐに母がおかしくなり、伊吹まで母と同じ目をしていた。優子のお墓に行けば彼がいる。その確信があった。姉の死の真相を知ることができるかもしれない。気がつくと、小春の足取りは早くなっていた。
辺りは妙に静まりかえっていた。不気味な静けさだった。風も木も土も、まるで生きているもの全てが息をとめているように音がしない。
そこに1人。ただ1人動くのを許されているものがいた。優子のお墓の前に立つその姿に、小春は見覚えがあった。紛れもなく写真に写っていたあの少年だった。優子のお墓を見つめながら立っている。あまりの恐怖に足が震えているのに気がついた。今すぐにでも帰ってしまいたかったが、ここまで来て話を聞かずに帰るわけにもいかない。それに少年が妙な力を使って家に帰してくれるかも定かではない。
小春は深呼吸をしたあと、後ろから静かに近づいていった。
「あなたね。私をここへ呼んだのは」
背後から声をかけてもピクリとも動かない。少年の後頭部に目がついているのだろうか。小春が来ているのがわかるような余裕ある佇まいをしていた。
「あなた何者なの?・・・お母さんと伊吹を早く元に戻して」
返事のない背中に小春は何度か声をかける。
すると、
「君には一人で来てもらう必要があった」
少年が呟く。
「遅かれ早かれ、君は僕の存在に違和感を持ち、真実に近づいてくる存在になっていた。不思議なものだね。君といい、君のお姉さんといい、僕の力が及ばない人はなかなかいないよ」
少年は振り返り、小春の顔を見て軽く微笑む。
「一体何を言ってるの?」
小春にはイマイチ話が掴めない。
少年は仕切り直すように言った。
「真実を話しに来たんだ。君のお姉さんが、優子が亡くなった真相を」
小春は少年の言っていることをすぐに飲み込むことができなかった。
小春の目の前に立つ少年は、今までに起こったことを捲し立てるように話している。内容を一つ一つ飲み込もう、理解しようとするが心の処理が追いつかない。なんせ現実味が全くない話だったからだ。
少年の話によれば一度お姉ちゃんは生きる選択をして、そこから人生を歩んでいった。少年と再会して高校に入り、大学を卒業して社会人になった。一度は幸せを掴みかけたものの消えた父親にお金を貸していてそのトラブルで全てを失い、孤独に苦しんだ。
頭の中で考えて理解しようとすればするほど、それがでっち上げられた話なのではないかという疑問と、そうではないかもしれないという思いが交錯して、混乱してくる。
それで、この少年はその全てを見守っていて、優子に過去に戻るチャンスを与えることができた。そして───
「そうしてあの日、君のお姉さんは自ら死の道を選んだんだ」
少年はそう締めくくったが、優子は辟易していた。そんな話、にわかに信じられない。
「どうしてそんな出鱈目を言えるわけ?」
優子の口調が強まっても少年のまじめな口調は変わらない。
「生きる選択をした未来の中で彼女は生きることに苦しんだ。彼女は全てを失い、自分で、もう一度、あの選択の時へ戻りたいと言ったんだ」
「説明はいらない。そんな映画みたいな話。信じると思ってるの?私の姉は、あの地震で家の下敷きになって死んだのよ」
そう訴える小春の目からは思わず涙がこぼれそうになる。今まで散々姉の死と向き合ってきた。どうして姉が死ななければならなかったのか。どうして自分だけ生き残ったのか。それを、自分達と生きていくよりも死を選ぶなんて、あまりにも悔しくて信じられなかった。
そしてその様子を見ていた少年は、涙ぐむ小春に向かって、やはり冷静な口調で告げた。
「信じられないなら本人に直接聞いてみるといいさ」
「何を言ってるの?」
その途端、少年の立っている場所が徐々に眩い光を放ち始めた。小春は眩しさに手のひらで目をグッと覆った。
そして、
「小春」
自分の名前を呼ぶ一言に小春は驚いた。初めは、また掬星台の時のように幻聴が起きているんだと思った。だが、目を覆う手をゆっくりと離していくと、その疑いは徐々に溶けていった。小春の目の前には、優子がいた。年齢こそ社会人になった頃の優子だったが、小春にはすぐにそれが自分の姉だとわかった。小春はの抑え込んでいた感情が涙と共に溢れ出してくる。
「・・・お姉、ちゃん?」
その問いかけに優子はコクリと頷いた。
「小春。突拍子もない話だからすぐに信じろとは言わない。でもこれだけは言わせて、私は私の人生に最善の選択じゃなくて、私が幸せだと思う選択をしたの」
小春は泣きながらも、直接疑問をぶつける。
「死ぬことが、死ぬことが幸せだって言うの?」
「違うよ。私はあの時一度生きる選択をした。でも、生きてみて、あの時以上に、小春とお母さんと何事もなく暮らしていた時以上に幸せを感じる瞬間がなかったの。いえ、一度はあったかもしれない。でも手にしたと思ったら、すぐに失ってしまった」
優子は悲しそうな顔でうなだれるように下を向いた。
「お姉ちゃん、何を言ってるの?私やお母さんはいるじゃない」
優子にとって自分という存在はそんなにも重要ではないのだろうか。小春は悲しくなり思わず反論をする。優子はそういうことではないという風に首を横に振ると小春の質問に、直接的な答えは返さなかった。
「彼が言うには、あの震災で、私の人生の道が全て崩れてしまったみたいなの。この不思議な現象を目の当たりにして、小春も少しは感じるでしょ?彼が只者ではないことを」
先ほどから何も言わずにただじっと優子の後ろに立っている少年に目を向けた。表情も一切変えずに、黙ってことの成り行きを見守っている。まるで、これからどうなるかも、全て知っているかのように。
小春は今まで、姉が不幸に亡くなってしまったという事実に苦しんだ。そしてそれなのに自分だけ生きているという事実にも苦しんだ。だからこそ、小春は最後に、一番聞きたかったことを聞いた。
「それで、いまお姉ちゃんは幸せなの?」
小春の問いかけに優子は笑顔で答えた。
「ええ。幸せよ。天国ってものはなかったけどこうして好きだった彼と一緒に過ごすことができてる。あまり詳しく話せないけど他の子たちもいるし楽しくやってるよ」
あまりにも幸せそうなその表情に、小春の感情が込み上げる。本人がそういうのだから、小春にはそれ以上問い詰めることも、その必要もなかった。
「私は、私はお姉ちゃんがずっと苦しんで亡くなったと思って、私だけ生き残って、それで」
「小春、こっちへきて」
優子は小春を抱き寄せると頭を撫でながら言った。
「何もかも大丈夫だから」
どこかで聞いたことのあるその言葉と、何十年ぶりの姉の体温の温もりに小春は身を寄せた。失ったものは取り戻すことはできないが、その傷を認めて前に進むことはできる。
もう行かないと、後ろに立つ少年が優子に声をかける。
「また会える?」
小春が不安そうに聞くと、優子は小春の肩をしっかりと持って目を見て言った。
「うん、きっとまた会えるよ」
そして再び、眩い光が小春の目の前で光を放った。その光は優子と後ろにいた少年を包み込んだ。小春は頑張って目を開こうとしたが、段々と光は強くなり、目を開けられないほどに光は強くなった。光が収まったと感じて目から覆う手を離した頃には、少年と優子は姿を消していた。
外では風が吹き、夏の緑を揺らしている。丘の下からは少年たちが遊んでいるのか、活発で元気な声が呆れるほど真っ青な青空に響いていた。
あの不思議な日のことは今もまだ鮮明に覚えている。あれから一度も少年と優子は小春の前に姿を現すことはなかった。
60年後。
東京都内のある病院の一室で一人の高齢女性がベッドで横たわっていた。ベッドを取り囲むようにしているのはその家族だろう。男性二人に女性が二人。皆それぞれ神妙な面持ちで女性の目を見つめている。その中の一人の旦那さんだと思われる高齢男性は横たわる女性の手をグッと両手で優しく包み込んでいた。院内の看護師が何やら慌ただしく動いている。ベッドサイドに置かれているモニター心電図の数字は徐々に小さくなっていた。緊迫した雰囲気が漂う。医師や看護師数人が部屋に入り、何やら家族に対して話をしている。その話が終わると、家族は順番に女性の耳元で最後の挨拶を始めた。それが終わると、女性は何も喋らず、ただ頬をゆっくりと持ち上げた。
そして───、
光を感じた。暖かい光だ。
小春は暖炉の火にかざすように手を前にゆっくりと差し出した。
白い光なのにポカポカと暖かい。ここは一体どこだろう。周りを見渡すと、そこには真っ白な空間が地平線の向こう側まで続いていた。人の気配はどこからもしなかったが、自然と不安は感じない。むしろそこには暖かい布団に丁寧に包まれるような安心感が漂っていた。瞼が落ちてきそうな気持ちの良い暖かさにゆっくりと浸っていると次第に光の奥の方から誰かが歩いてくるのが見えた。
誰だろう。ぼんやりとしてよく見えないが、目を凝らしていると段々と鮮明にそのシルエットが映し出されていく。小春はそのシルエットに見覚えがあった。自然と笑顔になる。そこには、優子がいた。歳は若いが学生ではない。大人になった優子の姿だった。優子は小春の前で止まると黙ってその手を差し伸べた。小春はじっとその手を見た。小春は何やらしばらく考えるようにした後、しっかりとその手を取った。そうして初めて、小春は自分がどうなってしまったのかを悟った。
「どうだった?小春の人生は」
「幸せな人生だったよ。どこから話そうかな。そうだ、あのね───」
二人は手を繋ぎながら、光の向こう側へゆっくりと歩みを進めた。