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決断

 何もやる気がしない。起きる気力もない。ここ3日間、私はほとんど何も口にしていなかった。何も食べていないのに食欲がわかないのは不思議な感覚だ。

「優子。扉のよこにご飯置いてるからね」

 母は私がご飯を食べないとわかっていても扉の前に置いていく。その声かけが聞こえてすぐに玄関の扉の開閉音が聞こえてきた。仕事に出かけたのだろう。あの事件があり、私は自分で築き上げてきた全てを失った。文字通り、すべてだ。結婚、友人、職場、学歴、お金、人との信頼。      

 たかだか1週間足らずで、それらすべては私の手元から雲の子を散らすように消えていった。今更いくら手繰り寄せようと手を伸ばしても決して掴むことができない。今から積み上げることもできない。ゲームじゃないからやり直しは効かない。そう考えると、もう、このまま消えてしまってもいいような、そんな気がする。父に対する怒りや悔しさの感情はもう特になかった。もうそんな感情持ったって無駄だ。何もやる気の起きない、どうすることもできない、どうしようもなく布団の上でただ呆然とする自分にとってはどうでもよかった。

 我ながらに不幸な人生で泣きたくなる。こう言うと、世の中にはもっと恵まれない人たちがたくさんいると反論されることは分かっている。世間一般で言えばそうだろう。でも私は不幸だ。私の描く世界の中では、私はどうしようもなく不幸なのだ。

 こんな経験は人生で二回目だった。だけど前とは状況が明らかに違う。1997年1月17日。阪神淡路大震災で、全てを失った時には、私たちはまだ幼かった。何も知らなかった。すべて親に支えられて───。私はそこまで考えてハッとした。

 あの時、親だった人たち。何かを積み上げてきた人たちはどんな思いだったのだろうか。私と同じ思いなのだろうか。何もかも失って消えてしまいたいと、そう思っていたのだろうか。私は当時は小さかったからただ状況を理解することに必死だった。それ以外の人たちは?

 私はおもむろに布団から這い出ようとした。何日も寝たままの姿勢だったせいか、腕にうまく力が入らない。何度か試行錯誤しながらもテーブルに捕まりながら立つことができた。散らかった部屋を一歩一歩進む。リビングに置いてあるデスクに座るとパソコンの電源を付ける。慣れない手つきで検索バーに『阪神淡路大震災後 自殺者推移』と入れるとエンターキーを押し込んだ。暗い部屋の中、無機質な光で照らされる画面を見つめながらいくつかのサイトにアクセスしていった。そのうちの一つに、折れ線グラフでそれをデータ化しているサイトがあった。データによると、震災後2年3年してから自殺者数が急激に増加している。私はそれを見て、やっぱりそうだよね、と思った。そのグラフを見て安心している自分がいた。状況はどうであれみな何かに苦しんでいるのは同じだった。そう考えていると何かエネルギーのようなものが沸々と自分の中のどこからか湧いてくる様な気さえしてきた。

 あの頃はよかったなと昔のことを回想していると、私は高校時代に仲の良かった少年のことを思い出した。思えば高校時代の受験時期で辛い時になんでも相談をしていた。

 彼は確か、少し先の未来を見ることができると言っていたから───そこまで考えて、私はどうしてあの時に彼に相談するという案が思いつかなかったのだろうと不思議に思った。当時私はその少年のことが好きだった。なのにこの数年間すっかり忘れていた。過去の話をしなかったからではなく、少年のこと自体を忘れていた様な、そんな気がした。高校時代に体験したあの不思議な日々を思い出すと、少年に会うことができれば何か助けやアドバイスをくれるのではないかという微かな望みを抱いてしまう。あの時に聞けなかった疑問も今なら話をしてくれるかもしれない、あの時に伝えられなかった気持ちも伝えられるのかもしれない。ずっと引っかかっていた。なぜあの日、少年の声が聞こえたのか。なぜ私たちの元に現れて私たちを助けたのか。なぜ私に選択させたのか。

 それを聞くことになんの意味があるのかなんてわからない。ただ何かが変わるという漠然とした予感だけは確かにあった。

 私はその日から彼を探し始めた。

 少年と会うには彼の連絡先を知る必要があった。だが私は連絡先は持っていない。まずは何か知らないか、友人を当たることにした。一番仲が良かった夏美に早速メールを送った。

『ねえ、夏美。高校の頃の話なんだけど───』

 その日のうちに返事は届いた。届いたメールを読むと、私が期待していた返事とは全く予想外の返事だった。

『そんな人いたっけ?』

 ただ単純に昔のことすぎて忘れちゃったのかもしれない。優子ははじめそう思った。すぐに届いたメールに返信をする。

『ほら、冬に灘駅に亜子ちゃんと四人で集まって掬星台に行ったじゃない?』

 話せばすぐに思い出してくれるだろう。そう思っていた。だから会話を続けていくうちに、少しずつ頭の中が混乱していくのがわかった。

『うん。掬星台に行ったのは覚えているんだけど三人だったよ?』

 同時に幾つかの写真が添付されて送られてきた。その写真には、自分と夏美と亜子ちゃんが三人で写っている写真が何枚もあるが、少年の姿はどこにもない。焦って自分の写真フォルダを探すが、写真を撮るタイプではなかったためか、少年の写っている写真はなかった。自分の記憶違いなはずがなかった。確かにあの時のことは憶えている。夏美が忘れてしまったんだろうか。私は確認の為に亜子ちゃんへも連絡を入れることにした。

 目を疑うというのはこういうことを言うのだろうか。私は亜子ちゃんから届いた返信を見て何度も画面を凝視した。

『ごめんね、ちょっと思い出せないかも・・・』

 そんなことがあるだろうか。一緒に彼についての話もしていたし遊びにも何度か出かけた。その思い出を全部忘れているなんて。

 そんなことありえない。

 私は電話帳から高校の電話番号を引っ張り出すと高校へ電話した。

「卒業生の古田優子なんですが───」

「2003年卒業の生徒さんで、下の名前が、神様の神で、読み方が、しん、ですよね?そう言った名前の生徒はおりませんが何かの間違いではないですか?」

 事務の女性職員がうーんと首を傾げながらも資料をパラパラとめくる音が電話越しにも聞こえて来る。学校の資料にも記録がないなんてことがあるのだろうか。

「そんなはずないです。確かにいました。科学部の先生はいらっしゃいますか?」

 電話に代わって出たのはもう何十年も科学部の担当をしている教師だった。当然彼がいた年代にも被っている。教師は一通り話を聞いて唸った後に申し訳なさそうに言った。

「私は教え子の名前は忘れないたちなんだが、神と言った名前の人が部員にいた覚えはないな〜。特徴的な名前だからいたらすぐ気が付くはずなんだどねえ」

「そうですか。ご親切にありがとうございました」

「ごめんねえ」

「いえ、失礼します」

 私は電話を切り数秒考えを巡らせたのちに身支度を始めた。誰も覚えていないのなら自分の目で確かめるしか方法はない。なぜだかわからないが、誰もが忘れてしまっただけで、彼はまだこの世界にいるようなそんな予感だけはしっかりと自分の中にあった。そしてそれと同時に、これはもしかすると彼自身がやっていることなのかもしれないという可能性も考え始めていた。


 兵庫県に向かう新幹線の中で、ふと携帯の写真ファイルを遡って見ていた。私の記憶では高校の頃に彼とツーショットを撮ったことがなかったが、友達に混じって一緒に撮ったことは何度かあったはずだった。だがどの写真を見ても、彼の姿はない。写真の中から一人が抜けていればどこか不自然な写真になるはずだと誰もが思うだろう。だけどそんなことはなかった、夏美と彼と三人で撮ったはずの写真もクラスのでみんなで撮った写真も、それら全てが、まるで最初からそんな人物がいなかったかのような自然な画角で撮られていた。

 街に到着してからどこから探していくのか。それはまだ考えていない。時として、考えて考えて考え抜くよりも、行動に起こした方がいい道が切り開けることがある。今回の場合はそれだと直感で感じていた。というよりも、それしか方法がないと言った方が正しい。

 名古屋からは1時間もすれば兵庫県に行くことができる。新神戸駅に着いてから三宮駅まで行き、そこで電車を乗り換えると、まずは地元の最寄駅だった住吉駅まで向かった。

 私はその日、私が過去におとづれた場所を一日かけてほぼ全て回った。小学校、中学校、高校、周囲の公園、近所のスーパー。だけど、結局手がかりは何も見つからないまま1日目が終わりを迎えようとしていた。私は近くのビジネスホテルに荷物を置くと、最後に東灘の図書館だけ見ていくことにした。

 受付には、二人の主婦っぽい女性がいて静かに世間話をしていた。背の高いマダムと背の低いマダムだ。身長差があるので心の中でそう呼ぶことにした。パッと見た感じに和やかな雰囲気が伝わってきたので、私は最後にこの人たちに聞いて今日は終わりにしようと決めた。

 尋ねると他の人たちと反応は同じだった。分からない。そう言われて帰ろうとした時に背の高いマダムが呟いた。

「あの教会は?」

「ああ、あんなの都市伝説に決まってるわ」

 背の低いマダムは苦い表情をしたが、聞ける話は聞いておきたい。

「教会?教会がどうかしたんですか?」

 私が前のめりに質問をすると背の高いマダムは話を始めた。

「ええ、まあ冗談半分だと思って聞いて頂戴ね。三宮駅の上のほうに教会があるのよ。神戸バプテスト教会っていうキリスト教の教会なんだけどね。そこがずいぶん前からよね」

「ええ、多分2003年くらいじゃない?」

 背の低いマダムが相槌を打つ。

「そうそう。それくらいから突然閉まっちゃって。公式サイトには理由も何も載ってないのよ」

 背の高いマダムは目の前のパソコンをカタカタとなれた手つきで打ち込むとパソコンを私の方へと向けた。そこには教会のホームページが載っている。画面の真ん中部分には簡易的に「閉鎖しました」の文字が記載されていた。

「で、別の教会で、バプテストにいた牧師を見つけた人がいてね。その人が牧師に聞いたわけよ。なぜあの教会はしまったのかって。そしたら牧師も知らないらしいの。で、その人は教会の管理会社に電話したわけ。そしたら管理会社にもわからないって言われたらしいのよ。でもその人は諦めなかった。その人は次は市に電話したわけ。なんとなく展開がわかると思うけど、市の人も知らないって言うの。そしたらその人、どうしたと思う?」

「県に電話したとか?」

 私は適当に答えると意外な答えが返ってきた。

「いいえ、なんと教会の扉を夜にこじ開けて侵入しようとしたのよ」

「え?そんなことしたら」

「ええ、もちろん逮捕されるわ。でもその人は聞かなかったらしいのよ。その噂を聞きつけた野次馬もたくさんいてね。で、それでいざ壊そうと扉に手をかけた途端」

「何があったんですか?」

「その人壊すのをやめたのよ」

「考え直したってことですか?」

「普通はそう思うわよね?でもそうじゃないらしいの。なんというか、まるで、やる気というか熱意というか魂を抜かれたようになったって野次馬の人たちは言っていたわ。それからその人は一切教会の近くに現れなくなったそうよ。その場にいた人は、それが呪いだなんて騒いでいたけど真実は闇の中ね」

「貴重なお話ありがとうございました。私もう行かなくちゃ」

「あそこには近づかないようにね」

 個人的には行ったことのない場所ではあったが、こういう不思議な感覚は、身に覚えがあった。もしかしたらそこに彼がいるのかもしれない。私は直感的にそう思った。私は図書館を飛び出すとすぐに神戸バプペスト教会に向かった。

 三宮駅を出て北の方角。大まかな場所しか聞いていなかったが、教会はすぐに見つかった。シンプルだけれど綺麗な小さい教会だった。クリーム色の外壁に屋根は渋い赤色。建ってからまだ新しいのか外壁や屋根の色はくすんでおらず鮮やかだ。入り口はアーチを描いている丸みを帯びたドアだ。入り口の左右には縦長なアーチを描いた窓が左右対称についている。ドアの上の方には十字の柵がついた丸い小窓が付いていて、中央の屋根の上部には小さな見張り塔のようなものがある。4方向が見られるように開いているが、小さいスペースのため、人が入るために作られたものではないだろう。そして、その見張り塔の屋根の頂上にはキリスト教の十字架が建てられている。入り口付近には緑も植えられていて、住宅地によく馴染んだおしゃれな教会だ。街頭にやわらかく照らされている。

 正面の入り口は開いていた。どういうことだろうか。マダムたちの話では教会は随分前に閉まったと聞いていたが、その扉は開いている。最近再開されたのだろうか。勝手に入って怒られたら嫌だな。私はそう思うと周囲を見渡した。閑静な住宅地なためか人の気配はなかった。

 私は恐る恐るドアに近づいて中を覗いた。シンプルな作りだった。中央の通路を挟むように木の椅子が数列並んでおり通路をまっすぐ進むと、祭壇がある。どこにでもあるごく普通の教会だった。

 そして祭壇を見たところで私はハッとした。祭壇の前に誰かが立っている。背丈は大人よりもひとまわり小さく学ラン姿の男の子だ。男の子は私の気配に気がつくと後ろを振り返った。

「やあ。久しぶりだね。優子」

 私は知っていた。その声をその顔をその姿を。

「・・・神、くん?」

 私の正面に立つ男の子は紛れもなく高校の頃の記憶の中にある少年だった。最後に出会ったあの頃と何一つ変わらない。あまりの非現実的な体験に自分の目がおかしくなってしまった感覚に陥りそうになる。彼はそこに立っていることが当たり前だと言わないばかりに私の目をまっすぐ見据えていた。私は困惑して、いや、これが正しい反応なのかもしれないが、至極当然の質問を投げかけた。

「・・・あなたは一体、何者なの?」


 そう尋ねると彼は俯き加減に即答した。

「それは言えないよ」

「あなたが呼んだの?近くに住んでるおばさんはここは随分前に閉鎖したって聞いた」

「ああ、僕が呼んだ」

「どうして?」

「・・・」

 私には聞きたいことが山のようにあった。気づけば口が開いていた。それは一種の自分に対しての焦りの表れだったとも思う。

「思えばあの日からおかしかった。私たちが家で潰されていた時に急に選択の時だって言ったり、その後私たちの前にまた現れて、給料を上げるために人を操ったり、一体なんのために私たちに近づいたの?」

「それも言えない」

 どうやら質問には答えてくれないらしい。そのことがなんとなくわかってきて、私は次第に怒りが込み上げてきて、八つ当たりするように問いただしていた。その怒りは紛れもなく自分の人生の不甲斐なさによるもので誰の責任でもなく全て自分の責任であることは重々承知していたのだが、あまりにも冷静な少年の様子に感情を抑えきれなかった。

「なんでいま私の前に現れたの?街の人は怖がってた。教会が封鎖された、これは呪いだって」

「それも・・・言えない」

 このまま話していても意味がない。時間の無駄だ。私はそう思って踵を返した。

「何も教えてくれないのね。それならもういい。帰る」

 教会のドアを跨ぐ直前、少年が声を発した。

「わかった」

「・・・」

「話すよ」


 その後聞いた話はどれも現実離れしていてうまく飲み込むことができなかった。私は隣に座って真剣に話す少年の話をどこか遠いところから聞いているような感覚に襲われていた。少年の話はこうだった。少年には少し先の未来が見えること、彼自身これ以上は成長しないこと、他にも聞いていて頭を抱えたくなるような信じられない内容をずっと話していた。そしてそのどれもが本当は話してはいけない内容だと言った。

 少年の話によると、人には努力次第でどうにかなる未来と努力では回避できない未来があるらしい。私が地震のせいで家に押し潰されて死んでしまうというのは、どうやら避けられない未来のようだった、それを私たちは───

「それを僕らは、運命と呼んでいる」

 彼の役目は、死にゆく運命にある子供たちを他の犠牲なくそれぞれの人生の道に戻してあげることだと言った。ただ本来それを行おうとすると時空に歪みが生じてしまい、何も関係のない他人が災いに遭ってしまう。それをなくして人生の道を戻すとなると、それ相応の試練の多い人生の道が形成されてしまうらしい。試練のタイミングは人それぞれで早くに終わる人も入れば、極端に言えば死ぬまで続く人もいるとのことだった。そして私の場合は、その後者だった。

「じゃあ今の状況を乗り越えたとしてもまた次の試練が待ってるってこと?」

 私の質問に彼は黙って頷いた。

 今までの努力は無駄ではないと彼は言ったが、私にとっては無駄も同然だった。そんな言葉は気休めにもならなかった。まるでこの状況を生み出すために頑張ってきたようなものだ。父が家族ではなくなり、地震で全てを潰され、私はあの日、仮設住宅の狭い家の中で願っていた。ただ私が望む普通の幸せを手にしたい。思わず涙がこぼれそうになるのを堪えながらも私は自分の思いを口にした。

「私は、ただ結婚して幸せになりたいだけだった。私は、こんな不幸になるために生まれてきたんじゃない」

「あの地震は優子の人生にあった良い道筋さえも大きく歪める力があった」

 その言葉で、もうそれを手にすることができないんだと察した。彼は絶対に直接的な言葉を避けるが、きっとそうなのだろう。

「私は結婚して子供産んで幸せな老後を過ごすことはできないのね」

 その確認に彼はバツが悪そうに答えた。

「幸せの形はいくらでもある。ただそれを君が受け入れられるかどうか───」

「ううん、もう・・・消えてしまいたい」

 自分の口から発せられた言葉に自分自身も驚いた。何度か本気で思ったことはあったが口にするほどの言葉ではなかった。私は同時に、いつも人生についての相談をしていた少年だからこそ言えたのかもしれないとも思った。心を開いた彼だからこそ。

 少年はゆっくりと席を立つと一歩前に出て言った。

「消えることはできないけど、やり直すことはできる」

「・・・」

 私が彼の目を見据えると彼は話を続けた。

「僕ならあの時に戻すことができる。あの選択の時に───いや、優子が瓦礫の山に押し潰されて生きるか死ぬかの選択をする時に」

「そんなこと、できるの?」

 口ではそう言いながらも、私は今までの話からそれができることは分かっていた上に何となく理解もできていた。

「君がそう望むなら」

 私は思考を巡らせた。今回の事件で随分と心身が疲弊した。ご飯も喉を通らない。もう無理だというところまで追い詰められた。それがこの先何度も起こるのなら、いっそのこと、あの時に別の道を選択していればよかったのかもしれない。あの時を思い返すと、確かに幸せだった。もう一度あの頃に戻ることができて、そこで終わらせることができるのだとしたら、そんなにありがたいことがあるだろうか。そう考えていると私の決心はすぐに固まり、なぜだか気分が晴れやかになるようにさえ感じた。終わりが見えるというのはこんなにも心地いいものなんだろうか。

 私は彼に向き直る。そして、震えた声で言った。

「私、やり直したい。あの時の選択を」


 過去に戻るには色々と準備が必要らしい。彼は祭壇の後ろに隠し持っていたリュックの中から目隠しや幾何学模様の絵柄の大きな布などを引っ張り出して、何やら準備を進めているらしかった。私はその光景を見て、過去に戻るのって随分カジュアルなんだなと思った。彼にそのことを伝えると、そんな簡単なことじゃないと少し怒り気味で言われてしまったのでそれ以降は黙っている。準備する彼の横顔は随分と綺麗な顔立ちをしていた。あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくる気がした。学校終わりに階段下でよく話をした。過去のことや未来のことや人生のことについて。そして、私は少年のことを好きになったのだった。だが今思えば、この顔立ち、いや姿格好でさえも仮初の物なんだろうと思うと寂しい気持ちになる。

 その時、何となく、彼に過去の自分の気持ちを言おうと思った。

「私ね、あのころはあなたのことが好きだった」

 私の突拍子もない発言に少年の作業をする手がピクリと止まった。

「どうしようもなく好きで何回も告白をしようとしたんだけど、その度にタイミング悪く雨が降ったり、体調が悪くなったり、それも多分、全部君がやっていたんだよね」

 私が冗談まじりに話始めると、少年はじっと下を向いて謝った。

「あの時は、ごめん」

「ううん、いいの。全部あまりにもタイミングが良いから、今考えるとおかしくて」

 あまりにも真剣に受け止めてくれたのを少し悪く感じて、私は愛想笑いをした。少年は私の方を見た。その眼差しはいつになく悲しそうで真剣だった。

「・・・僕もだよ。僕も君のことが」

 そこまで言って、少年は口を止めた。

「・・・そう。その言葉、あの時の私に聞かせてあげたかったな」

「だけど僕は人とは違うから。だからこそ。優子には幸せになって欲しかった。でも───」

「いいの。本当に。いいのよ」

 少年にはきっと、私には到底想像もつかないような事情があるんだろう。そして私には私の抗えない運命があった。私たちは決して交わることのない運命だった。ただそれだけのことだ。


 数十分もすると祭壇の周辺には何やら仰々しく薄気味悪い、畳一畳ほどのスペースが出来上がっていた。プラスチックのパイプを使って四方向を囲い、幾何学模様の布をカーテンのように吊るしている。まるでスーパーマーケットにある占いコーナーみたいだ。

「よし、準備できた」

 少年はそのスペースの中央を指差して、私に座るように促した。私が正座をすると少年は私の後ろから目隠しをつけて説明を始めた。

「今からやることは魂の移動なんだ」

 少年の話によれば、私が過去に戻った後もこの時間軸の世界は進み、私がそもそも生まれてこなかった世界が続いていくらしい。そして優子の行く過去は、体感的には過去だが、実際は過去ではなく全く新しい未来だということだ。あまりよく理解できなかったが、この世界での母や妹や友人たちは私の存在を完全に忘れてしまうということは理解できた。そう考えると今までよくしてくれていた人に対しては名残惜しい気持ちがある。

「ねえ最後にちょっとだけ電話していい?」

 私は目隠しを上にずらして少年に頼んだ。

 電話をかけるとワンコールで出た。

「お母さん?」

 母は電話に出るなり捲し立てるように喋った。

「優子?あなたどこにいるのよ?一週間したら戻るってメールには書いてあったけど。ちょうど小春も遊びきてるし優子も早く帰ってきなさい」

「お母さん聞いて。私ね、やり直すことにした」

「やり直す?やり直すって何を?」

「それは言えないけど。ただ、ありがとね」

「何よ、突然」

 急にそんなことを言われて不審がるのも無理はない。あの事件が起こってから自分は母に世話をしてもらうだけしてもらって、何にも恩返しなどできていない状態だった。

「ううん、小春にもそう伝えて」

「誰?お姉ちゃん?」

 電話越しに母に話しかける小春の声がうっすらと聞こえた。私は電話を切って椅子の上に置くと、シートの真ん中に正座をして座り目隠しをはめ直した。今から死にに行くというのに、不思議と冷静だった。少年も念を押すように言っていたが、自分の中でも自殺とは違うという感覚はしっかりとあった。その感覚がなければ恐らくこんなことはしなかったように思える。私の場合は選択をやり直しに行くだけだ。それが正しいか間違っているかなんて、私にも、少年にも、多分、誰にも分からない。ただ、一つだけ確かなことがある。私は私であるということだ。地震に遭うのも運命ならば、ここで過去に戻る選択をするのもまた運命なんだ。

「じゃあ行くよ」

 少年が背後でそう呟くと、次第に意識が遠のいていった。視界が暖かい日差しのような光に包まれていく。すごくぼんやりとしていた。次第に目が慣れて目を凝らすと、その視界の先には私たち家族四人が立っていた。私の両親は手を繋ぎ合い、もう一方の手で私たちの肩に手を回している。なぜそんな光景が見えたのか、私には考える間も無く、次第に視界は狭まり、私の意識は遠のいていった。


 意識が戻っていくのを感じる頃には身体中に痛みが走ってきた。私は思わず歯を噛み締める。視界が暗い。起き上がろうと腕を動かしても身体が動かない。木材が身体の上に乗っかっていてびくともしない。

 過去に戻った・・・??

 隣からの呻き声にその疑問は確信へと変わった。

「こ、小春・・・」

 顔を反対側にゆっくりと動かす。パラパラと木屑が顔に降りかかった。小春も同じ様に横たわっている。額からは血が流れている。紛れもなくあの時と同じだ。

 左手は瓦礫に埋もれて動かせない。右手をゆっくりと伸ばすと小春の肩を揺すった。あまりの自分の身体の小ささに、それが借り物のような気がした。

「小春、小春、起きて」

「お姉ちゃん・・・」

 小春はゆっくりと目を開けてすぐにまた目をつぶってしまう。小春が助かるためにはあの時と同じ行動を取らなくてはならない。

「小春しっかり、助けが来るはずだから」

「お姉ちゃん、痛い、足が痛い、動かせない」

 小春は徐々に涙目になり痛みでシクシクと泣き始めた。小春の足が木材で押し潰されてしまっている。私は小春の意識を途切れさせないように何度も声をかける。

「小春、大丈夫、もうすぐお母さんが来てくれる」

 この時だった気がする。前回はここで、少年が声をかけてきた。だけど今回は何も起こらない。このままここにいれば、遅いが助けは来る。出血のひどい私だけ助からずに妹は助かる。少年は確かにそう言っていた。

「お姉ちゃん!」

 小春が不安から私の名前を叫んだ。

 私は右手でゆっくりと小春の頭を抱き寄せるようにすると、静かに耳元で囁いた。

「小春、おいで。大丈夫だから。何もかも全部大丈夫だから。あなたは強く生きて」

 私は意識が遠のく中、妹の頭を静かに撫で続けた。

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