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歪み

「お届け物です」

 優子がちょうどドラム式洗濯機に柔軟剤を入れようとした時にインターホンが鳴った。柔軟剤を洗濯機の上に置いて玄関の扉を開けると、そこには大きい荷物を両手で抱えている配達員の姿があった。

「こんにちは、古田優子さん宛てです。お間違いないでしょうか?」

「はい。そうです」

 こんな大きな商品を注文した覚えがなかったがサインをして荷物を受け取った。疑問に思いながらもリビングまで運び、送り元の名前を確認すると母からだった。私は去年の夏のことを思い出す。私の今現在住んでいる場所である愛知県の名古屋市で一人暮らしを始めたその年から、一年に二回、冬と夏に母から仕送りが届くようになった。冬にはクリスマスのプレゼントとして、そして夏には、

「またお中元、わざわざいいのに」

 中身を開けると黒豚ハムやソーセージ、生ハムがいくつも入った立派なお中元が入っていた。母のことだ。同居している彼が肉好きなのを知って選んだのだろう。すぐに痛まないように冷蔵庫にしまってしまおうと思ったが、せっかくなので彼に見せてからしまうことにした。段ボールを片付けているとインターホンが鳴った。

「ただいま」

 玄関を開けるとまるで疲れていない様子で同居人である悠人はにこりと微笑んだ。

「おかえり、悠人」

 私は悠人に軽くハグをすると母から届いた荷物を見せた。

「うわ!ありがとう、優子のお母さんからの誕生日プレゼントだ」

 感動してハムをまじまじと眺める悠人の隙をついてパッと寝室に潜り込む。今日は彼の誕生日でもあった。用意しておいたプレゼントを掴むと自分の背後に隠した。悠人はハムに夢中だった。どうやって食べようとかどのくらいのペースで食べようとかどのくらい日持ちするんだろうとか、とにかくハムに関する情報をスマホで集めている最中だった。

 そんな様子の人の邪魔するのは気が引けるが、自分がプレゼントを渡したいワクワクを抑えきれずに、彼の背中をトントンと軽く叩いた。悠人が振り向いても私はプレゼントを隠していた。何かを期待したのか、悠人の顔も綻ぶ。

「なになに?ニヤニヤして」

 この時間さえも愛おしく渡すのが惜しかったが私はついにプレゼントを目の前に差し出した。

「これ、誕生日おめでとう」

 悠人は私のプレゼントに驚いた様子で言った。

「いいの?ありがとう」

 彼は嬉しそうにプレゼントを受け取ると早速包装を破いて中身を取り出した。

「ネクタイだ!」

 宙に掲げて喜ぶ姿に、プレゼントを渡した自分でさえも嬉しくなる。

「いい色。明日から使うよ。しかもこれ」

 ネクタイの根本の部分をキュッと絞ったり、緩めたりしながら悠人はさらに喜んだ。こっちを見てニコニコする彼の代わりに私は続きを口にした。

「簡単に結べるでしょ?」

 あまり器用ではない彼はネクタイを結ぶのが苦手だった。朝から大苦戦する様子を何回も見ていたから結ぶのではなく絞るだけのタイプのネクタイの方が楽だと思ったのだ。

 簡易的だが、悠人の誕生日のパーティーを終えるとベッドに入った。枕元に置いてあるベッドライトの明かりを消すと優子は言った。

「今年はあまり豪勢にできずにごめんね」

 私の体調があまり優れないことから今年はいつもに比べて質素になってしまった。そのことを抱えながら次の日を迎えるのは少しもやもやしてしまいそうだった。

「いや、ケーキにネクタイに、十分すぎるくらい豪勢だったよ」

 優子はその言葉に心底ホッとした。

「それにハムも」

「そう!ハムもね」

 そう言いながら笑いかけてくれる悠人に、優子は笑顔を返した。

 すると、悠人は急にしゅんとした顔になった。

「でも、もう優子に結んでもらえなくなるのかー」

 悠人は冗談っぽく言ったが、冗談を言うということは、ほんの少しでもその感情が本人の中にあるからだと優子は分かっていた。

 ネクタイ一つにそんなことを思っていたなんてと考えると起き上がらずにはいられなかった。ベッドから上体を起こすと悠人の目をを見て真剣に言った。

「そんな、まさか、いつでも結んであげるよ」

 すると何故だか悠人は、ふふ、と笑って私の身体を抱き寄せた。

 私にとって、それはまるで絵に描いたような幸せの形だった。悠人とは大学を卒業して就職した事務の職場で出会った。同僚なわけではない。私がヘマをして廊下に資料をばら撒いてしまったところに運悪く鉢合わせてしまい、それを拾ってくれたのが彼との出会いだった。会社に商談で来ていたシステムエンジニアだと知ったのはそれから数日後にデートをした時のことだった。それからはトントン拍子でことが進んだ。付き合って同棲して、つい先日婚約指輪を渡されたばかりだった。

 その日の夜、お手洗いに起きると携帯にメールが届いていた。父からだった。2年ぶりほどの連絡に驚いた。驚きながらも、父と連絡をとる時には何故か、やめた方がいいのではないかと誰かに釘を刺されるような感覚に陥る。父からの連絡があるときは何かの頼み事のときがほとんどだった。大抵の場合はお金関係。でも、それでも私の父だ。弱冠の迷いはあったが、私は寝室を出ると、父からのメールを開いた。メールには一言簡潔にこう書かれていた。

『優子、頼みがあるんだが』


冬の寒い日だった。

『名古屋駅の宝くじチャンスセンターの前にいる』と書かれたメールを受け取ってから15分後、優子は名古屋駅をでたところで薄いジャンバーを羽織っている猫背気味な父の姿をようやく見つけた。

「お父さん」

「あ、ああ。優子。いたいた」

 声をかけると、父はいつも会っているかのようなテンションでしゃがれた声で返事をした。相変わらず、単語を一つずつ区切るような喋り方は昔と変わらない。

「遠くなかった?」

「ああ、ちょっとね」

 寒いのだろう。生返事をしながらも父はひたすら腕をさすっている。何か考えているのか、緊張しているのか、どこか浮き足立った様子に少し不安になる。重要な頼みごとなのは間違いないなとはすぐに察する。

「どっかカフェでも入らない?寒いし」

「そうだな」

 驚いたことに父が本題に入ったのは注文したコーヒーを手にして席に着いてすぐだった。温かいコーヒーを堪能する暇もなかった。

「最近はどう?仕事はうまくいってるの?」

 近況を聞こうという意図で質問をしたのだったが、父はゴホンと痰が絡んだような咳払いをして背筋をピンと伸ばした。腕は見えないが、恐らく学校の卒業式の時のように力強くグーにしているのだろう。

「ああ。そのことでちょっと相談があるんだ」

「何かあったの?」

「仕事でちょっとヘマしてしまってな、急に金がいることになった。だから金を貸して欲しい」

 お金の話になり急に小声になった父に少し安心しながらも金額を尋ねる。

「いくら?」

「400」

 あまりの金額の多さに思わず驚く。何故、万円を省くのかは分からないが確認のために聞き直した。

「400?400万?」

「ああ。そうだ」

 断言する父に少し辟易しながら、思わず背もたれに背中を預けた。貸せるのか貸せないのかの話は別にして、そんな大金が一度に必要な機会は普通に生活していれば、人生にそんなに存在しないだろう。高校生の頃、父とこっそり会い、お金を何度か貸したことはあったが、金額としては数十万円の話だった。今回の相談は金額が桁違いだ。

「そんな大金?何があったの?」

 もし貸すことになるのならば、当然知る権利がある。

 父は申し訳なさそうに説明を始めた。

「人を轢いちまった。自転車で。相手はもちろん怪我をして、それで、とにかく慰謝料を払わないといけない。運悪くその相手がヤクザの一味だったみたいで。早いとこ払わんと、俺は、殺されるかも知れん」

 人を轢いた。そう聞いた時には身の毛がよだつ感覚に襲われたが、幸いなことに怪我の度合いが軽く済んだことにほっとした。ただ、そういった事故の場合、普通なら保険がおりるはずだ。お金の相談をしてくる時点で内心では確信があったが、念のために確認をしたいことがあった。

「お父さん保険は?」

「ああ、払えなくて。入ってなかった」

「そっか・・・」

 父が何故こんなにもお金がないのか。それは父が職場を転々としていることに問題があった。母と結婚していた時に一度仕事を辞めて以来、辞め癖のようなものが本人の中でついてしまったようで、入っては辞め、入っては辞めを繰り返していた。当然、辞めた時期には会社の保険を受けることができないので、保険の手続きなども自分でしなくてはならなくなる。父のことだ。保険の手続きがめんどくさくてやらなかったのだろう。杜撰な会社もよくある。昔から必ず否定はするが、その浮いたお金をギャンブルに使ったに違いない。

「さすがに厳しいか?」

 父の催促とも思われる言葉を無視して思考を凝らす。

 結婚式の費用としてここ2年ほど、悠人と私で一緒に貯めているお金はあった。なるべく早めにあげたいという2人の思いもあり、ボーナスや日々の娯楽をこれまでに我慢してきた。2人がコツコツと1から積み上げてきたものだ。だが、父は返すと言ったお金を返さなかったことは一度もなかった。その点では信頼ができる人だ。昔からお金にはうるさい。

「貸せないこともないけど、私もその、使う予定があるから」

 その言葉を聞いて父の表情が変わった。

「いつだ?」

「正確にはわからないけど、来年の4月とかかも」

「それまでには必ず返す。ちゃんと何万円か上乗せして返すから」

 息を込めながらも力強く言葉を発する父は必死の様子だった。優子にとって、金額の上乗せなどどうでも良かった。きちんと貸した金額が、期日までに返ってこればそれでいい。

「返せるあてはあるの?」

 そんな大金を転職ばかりしている父半年で用意できるとは到底思えなかった。

「爺さんの実家を土地ごと売ることになってその支払いが来年の3月頭にはあるからその金からちゃんと返せる」

 私はそう言われて、駅前にあったおじいちゃんの大きな家を思い出した。確かにあそこを売りに出すとするのなら500万円以上はするだろう。その分で返してくれるなら───そこまで考えてもう一つの不安材料が頭をよぎった。

「でも・・・金額が大きすぎるし、一度彼に相談しないと」

 共同で貯めてきたお金だった。どうしてもその面はクリアにしておかないといけない。自分のお金だけなら返してくれる時期が多少遅れても良かったが、人のお金ともなるときちんと説明して理解してもらえるのかがわからない。だが、父の意見は違った。父は前のめりになって言った。

「相談なんてしなくていい。教える必要は何もない。優子が貸してくれて、俺はお金をその日までに必ず返す。だから、優子の彼氏にとっては何も起きなかったも同然だ。それに、もう俺には待ってる時間がない」

 確かに、父のその説得は理にはかなっていた。ただ、貸して、返してももらう。それだけのことだった。

「俺が今まで優子から金借りて返さなかったことがあったか?」

 そんなことは一度もなかった。それどころか、一度だけは3万円ほど上乗せして返してくれたこともあった。

「優子にしか頼めないんだよ。俺なんかに金を貸すやつなんてもうどこにもいない。ダメだったらもう、闇金にでも借りるしかない」

「闇金って、そんなことしたら」

「でも、お前がダメならそれしか方法がないんだ」

 正直に言って、残りの問題は、私がお父さんを信じるかどうかだった。でももしも返すのが遅れたら?もしも返してくれなかったら?もしも持ち逃げされたら───私は再び熟考したのちに、自分の決断に思わずため息を吐いて父の顔を見据えた。

「・・・わかった。貸してあげる」

 私は父を信じることにした。その言葉を聞いた時の父の顔はまるで神様を見るかのように恍惚とした表情をしていた。

「ありがとう、ありがとう」

 父は何度も頭を下げながら、私の手を握り締めた。周囲の目線が少し気になりながらも一番重要なことを念押しするように父に伝える。

「その言葉はもういいから、ただちゃんと今まで通り期日までには返してね」

「ああ、必ず返す」

 今まで一番勇ましい返事をした後「ここは俺が」とコーヒーまで奢ってくれた父は、その日の新幹線で兵庫県に帰った。振り込みは次の日に父の口座に振り込むことになった。返してくれるのは今日から数えてちょうど半年後に設定した。その日くらいには結婚式の段取りも決まり、支払いが数ヶ月後というタイミングだろうと、私は予想していた。

 ただ、運命というのは残酷なもので、その人がどんな幸せな状況だろうと、徹底的に潰しにかかってくる。まるで機会を測っているかのように日常に影を潜め、間違った行動を取ったものを容赦無く糾弾すると言った方が正しいのだろうか。私がそれに襲われることになるのは、まさにそれから半年後経った日のことだった。

 

 その日は、結婚式の最後の打ち合わせの日だった。結婚式の計画や段取りは予定通りに順調に進んでいた。予算はある程度決まっていたので、式場の確保やスケジュールの調整、友人や親族への招待状、二次会の設定なども、ほとんど私の希望通りに何事もなく決められていった。悠人は特にこだわりがなかったのもあり、かなり円滑に進んでいった。そしていよいよ来週には1ヶ月前の支払いを済ませるだけ、という段階まできていた。

 結婚式の支払いには前払い、後払い、当日払いの3パターンがあった。中間金といって、前払いの後に、支払い総額の半分を払わないといけないパターンもあるらしいのだが、この結婚式場はそのシステムではなかった。支払いのタイミングにはこだわりはなかった上に、事前に支払いだと特典が色々と付いてくると聞いて、私たちは事前支払いで申し込んでいた。

 今までの打ち合わせと変わらず、いつも通りに話を聞いていると優子の携帯のバイブレーションが連続で4回振動した。

「(誰だろう?)」

 こんなに連続でメールが鳴ることは滅多になかった。普段はあまり気にならないのだが、その時はやけに気になった。会社からの緊急の連絡だといけないと思い、優子は席を立った。

「どうかした?」

 悠人が振り向く。

「ごめんね。ちょっと、お手洗いに」

 優子は部屋を出ると、部屋から少し離れた廊下の方へと歩きながら携帯の電源をつけた。通知が来ている。表示を見ると父からだった。届いたメールの内容を読んで、私の背中にヒヤリとした寒気のようなものが走るのを感じた。

『優子まずいことになった』

『ごめん』

『お金返すの遅れるかも』

『本当にすまない』

 話口調と変わらないその淡々とした言葉遣いと悪気のなさに、優子は深いため息をついた。何があったのか、いつ返してくれるのか、そういった肝心なことは一切書かれていない。優子の頭の中に、沸々とした憤りが湧き上がってくる。優子はその勢いで父に電話をかけた。すぐに説明してくれないと困るのは優子だった。だが、何回コール音を鳴らしても出る気配がしない。1週間

日後には振り込みだというのに、その話はあまりにも急すぎた。せめて1ヶ月前に言ってくれれば、どうにかなったかもしれないものの、1週間ではどうにもならないことは目に見えている。もしお金を返すのが遅れたら、もし返してくれなかったら、もし持ち逃げされたら。父にお金を貸す前に死ぬほど心配していたことが急に現実味を帯びてきた。

『何があったの?電話して』

 何度かけても電話に出る気配がないので、優子は怒りや焦りで呼吸が荒くなりながらもをメールを送信した。これ以上できることは何もない。一度、深呼吸をして落ち着くと部屋に戻った。

「では説明はこれで以上になりますが、何かご不明な点などはございますか?」

 ちょうど全ての説明が終わった様子だった。結婚式場の担当者はにこやかな笑顔で優子たちに質問をした。

「いえ、特にありません」

 隣に座る悠人もにこやかに返事をした。

「私も特に」

 なんとか動揺を抑えながらも優子は笑顔を作った。

 

 とにかく父と話をしないといけない。まさか全額返せないというわけではないだろう。優子は焦りながらもそう思い込んでいた。少しでも、いや、貸した金額の半分でも返ってこればなんとかなる。だが、現実はやはりそんなに甘くはなかった。3日間、仕事の合間に時間を作り、色々な時間帯に何度も電話したが、やはり出なかった。それでもめげずに電話をかけ続けたが、4日もするとすぐに留守番電話に切り替わるようになった。

「もう!!!」

 優子は思わず携帯をソファに投げつけた。携帯はボヨンと跳ね返って地面に落ちる。カタンという虚しい音が部屋の中に響いた。

 もう消費者金融に借りるしかないのか方法がないかもしれない。そうして絶望に陥っていたとき、ふと母の存在を思い出した。そういえば、母はおばあちゃんから仕送りをしてもらっていて、そのためにおばあちゃんと頻繁に連絡を取っている。そしてそのおばあちゃんなら父と連絡が取れるかもしれない。どうしてもっと早く気が付かなかったのか。母からおばあちゃんに事情を説明したらこのいざこざのために仲介してくれるかもしれない。優子は急いで母に連絡を取ることにした。父と会っていたことを言うのは少し抵抗があったが、今は手段を選んでいられる状況ではないことは理解していた。

 母に電話をして、正直に今までのことを告白をすると、母は批判するわけでもそれ以上掘り下げるわけでもなく、すぐに協力をしてくれると言ってくれた。

「じゃあ、おばあちゃんにどこにいるかわからないか聞いてみるね」

「うん、ごめんね、お願い」

「何かわかったらすぐ連絡するから」

「うん」

 電話を切ろうとすると数秒の沈黙の後に母が言った。

「お母さんにもできることないかちょっと考えてみる」

「ありがとう」

 元は自分が撒いた種だ。自分でどうにかしないといけないというのはわかっている。だけど自分でどうにもならない時には人を頼るべきだ。今は後者だ。誰かに頼らないと解決はできない。

 母との電話を終えて出かける身支度を済ませると優子はすぐに家を出た。向かったのは近所の交番だった。警察に言えば、父にお金を返してもらえるようになんとか言ってもらえるかもしれない。そうでなくとも何か解決策を教えてもらえるかもしれない。わずかな可能性だったが、今はそれに頼るしかない。

 警察に行くと、まずは事情を聞かせて欲しいとカウンターに座らされた。対応したのは女性警官だった。優子はここ半年にあった父の出来事や父との関係性を事細かに話をした。女性警官は相槌をうってメモをしながらも親身に話を聞いてくれた。

「ちょっと待っててもらえますか?」

 いくつか質問を受けた後、女性警官はメモを持って裏の部屋に入っていった。扉を開けた時にチラッっと中が見えたが、奥の部屋には2人の男性警察官がいて、何やら忙しそうにしている。

 数分すると、女性警官は1人の男性警官を連れて優子の前に現れた。何やら渋い顔をしている。男性警官は申し訳なさそうな声で言った。

「ごめんなさいね。緊急ということなんですが、ちょっとそういうことはここで今すぐは対応はできないですね」

 優子はここで、はいそうですかと引き下がるわけにもいかず、なぜ対応できないのかを明確にしたかった。

「証拠がいるってことですか?」

 優子が問いかけると男性警察官はうーんと顎に手を当てて唸った。

「証拠〜というよりもですね。お金の貸し借りとかの民事的なことにはちょっと対応できないんですよね」

「ならもうこの件はどうしようもないってことですかね?」

「ここではそうですね〜。なので弁護士さん〜を雇って督促状を出したり民事裁判をしたりしないことには、その〜強制的といいますか、強制力を持った対応〜というのはできないと思います。ちょっとその分野は専門ではないので詳しくはわからないのですが」

 そう言われてしまってはどうしようもない。優子は渋々交番を後にした。

 交番を出る頃にはお昼の時間になっていたので昼食を取るためにカフェに向かうことにした。

 歩きながらも優子は考えを巡らせていた。警察官は弁護士を雇うしかないと言っていたが、弁護士を雇うのにはお金がかかるイメージしかない。それに、民事裁判などの大事にすれば、悠人にお金を勝手に貸したことは絶対にバレてしまう。そこまで大事にはできない。でも、督促状でも出さない限り連絡が取れないかもしれない。

 そんなことを堂々巡り考えているとポケットの携帯電話が鳴った。母からの何か確認の電話かと思い携帯を開くと、妹の小春からの着信だった。珍しいな。なんの用事だろう。小春とは年末やイベントごとの時には連絡を取るがそれ以外の時は滅多に連絡を取っていない。優子が電話に出ると、第一声は怒声だった。

「あれだけ関わるなって言ったのに!」

 小春のあまりの大声に思わず携帯を耳から遠ざける。

「小春?何をそんなに大声出して・・・」

 急に大声で怒鳴られていい気分のいい人間はいないだろう。優子は怒り気味に小春に尋ねる。

「お母さんから全部聞いた!何やってんの、このバカ!」

 私はその言葉を聞いて思わず額に手を当てた。まさか母が妹にまで説明をするとは思っていなかった。口止めをするのを忘れていた。小春には、学生の頃に感づかれて以来はもう父と会わないと言ってしまっていた。だが、実際は会っていた。優子がなんと言えばいいか頭を抱えていると小春は追い討ちをかけるように怒鳴った。

「お金どうすんの?!」

「今考えてるとこ。何かいい方法はない?」

 小春は優子のその言葉が気に食わなかったのか数秒沈黙したのちに呆れるように言った。

「何か方法はない?私に嘘をついた事を謝るのが先じゃないの?」

「そのことは謝る。本当にごめん。でも今はこの状況をどうにかしないと」

 許す許さないの喧嘩をしている暇はなかった。優子の必死さが伝わったのか、小春は電話越しにはあ、と大きくため息をついた後、自分の感情を押し込めるように言った。

「警察には行ったの?」

「警察はもう行った。証拠がないからどうにもできないって」

「弁護士は?」

「それも警察に言われたけどそんなお金も時間もない」

 やはり考えることは一緒だった。というよりも現実的な手段がそれしかないのだろう。

「じゃあもうお母さんの連絡待つしかないね」

 小春は諦めたように呟くと電話を切った。


「なあ、優子。結婚式のために作った通帳とカードどこにあるか知らない?」

 夕食の支度をしていると悠人が寝室から出て来て私に聞いた。きたか、と内心身構えたがなんとなく予想はしていたのであくまで平静を装う。

「お金引き出しに行くの?」

 一瞬だけ悠人の方を一瞥するとすぐに視線をフライパンに戻した。大事なお金だ。少しだけ焦っているように見える。私はあくまで何も知らない。ただチャーハンを炒めいているだけだ。自分にそう言い聞かせた。

「うん。もう来週までに支払わないといけないから式場の口座に振り込もうと思ったんだけど見当たらなくてさ。ほらこういうのって休みのうちにやっといた方が安心でしょ?」

 悠人はすぐ後ろの冷蔵庫から飲み物を取り出してコップに注いでいる。

「あ、確かにね・・・でも今日折角のお休みなんだし、まだ時間はあるんだから直前でもいいと思うけど」

 なんとか必死に怪しまれないような言い訳を言うと悠人は数秒止まった後に、

「そうかな」

 と呟いた。

「そうだよ。それに私その前日が休みだから私がやっとくよ」

 私が食い気味に言うと、悠人は納得した様子を見せた。

「そう?いいの?」

「うん」

「じゃあ、お願いしようかな」

 なんとか悠人にはバレることなくことを済ませなくてはならない。じりじりと迫るリミットに肝を冷やしながら、私は夕飯の準備を進めた。


「お母さん?どうだった?」

 次の日。母に連絡を取ると期待していた返事は返ってこなかった。

「おばあちゃんもここ数年連絡を取ってないから知らないって」

 私は思わず片手で頭を抱える。

「どこにいそうとか、そういうのは?」

「そういうのも何も知らないって、なんなら電話番号教えようか?直接聞いた方が───」

「それはいい。ありがとう」

 電話を切ろうとしたところで、母が声を挟んだ。

「優子?」

「ん?」

「もしあれだったらお金借りれば足りると思うから、そんなに思い詰めないようにね」

「うん、分かった」

 そんなことはできないと内心で思いながらも母なりの優しさだろうと思い、それ以上何も言わなかった。


「優子?お金はもう振り込んだ?」

 仕事から家に返って、開口一番に悠人からそう尋ねられて優子は驚いた。優子の認識が間違っていなければ、その話は昨日済んだはずだ。仕事のバッグをテーブルの椅子に置きながら優子は聞き返す。

「いいえ、まだ。前日に私が払う約束でしょ?」

「じゃあ、これはどういうこと?」

 あまりにもさらっとした口調でリビングのテーブルにポトリと置かれたその通帳は最後のページが開かれている。悠人が最後に印字されたであろう数字を人差し指でぐっと押さえた。そこには紛れもなく0という数字が記帳されている。その一つ前の数字の桁数からは考えられない数字だった。

「え?さあ、知らない。あなたがもう振り込んだの?」

 優子が言うと、そう来たかと言わんばかりに悠人の視界が上を仰いだ。

「優子。頼むよ。とぼけないでくれ。何か隠しているんだろう?ここ数日、明らかに君の様子がおかしいから見てみたらこれだ。何かあったなら今言ってくれ」

 勝手にお金を貸して、そのお金が返ってこなくて無くなったから結婚式はできない。そんなこと言えるはずがない。優子は意地でも隠し通す道を無意識のうちに選んでいた。

「本当に知らないって!なんでこの通帳のお金がなくなってるのか、見当がつかない」

 優子は机の通帳を手に取り上げてまじまじと眺める。

「そうか、じゃあ、明日警察に行く」

「そう。じゃあ私も一緒に行く」

「君は来なくていい」

 なんでこの人は私をそんなにも怪しんでいるんだろうか、優子はだんだんとその事実に腹を立てていた。

「いや、絶対行くわ。何も知らないもの」

「そうか。勝手にしてくれ」

 悠人は寝室の扉を荒々しく閉めるとその日そこから出てくることはなかった。


 翌朝。寝室の外から聞こえるバタバタと騒がしい音を無視するように毛布にくるまっていると寝室の扉が開く音がした。

「通帳どこやった?」

 あらかた寝ている人に話しかける態度ではない声量で悠人は寝転ぶ優子に向かって言った。寝たふりをしているのがバレているのか、起こしてでも聞いてやるという態度なのか、どちらにしても逃げられない。

「さあ、知らない」

 優子は口だけ動かして答えた。

「知っているはず」

 悠人はそう言いながら優子の寝ている場所へ近づくと彼女の身体をグワングワンと揺すった。

 それには優子もイラッとしてすぐに毛布を跳ね除ける。

「知らないって。昨日どこかにしまったんじゃないの?」

 優子が視線をあげると、悠人は疲れた表情で立っていた。

「なあ、結婚式にはもう友人や会社の人、家族や親戚の人も招待しているんだ。頼むから正直に話してくれ」

「知らないって言ってるでしょ?」

「じゃあどうしてそんなに他人事のような感じなんだよ」

 その言葉には優子も思わず言葉が詰まった。隠すことに精一杯で、知らない知らないの一点張りをして、お金がどうなったのか、これから2人でどうしなくてはならないかについて一言も心配していなかった。何も言葉が出ない。その様子に、悠人は諦めたように肩を落とした。

「何があったか知らないけど、お金が振り込めないんじゃ、結婚式はなしだな」

 悠人が部屋から出たところで、優子はすぐに携帯に手を伸ばした。少しでも可能性があるのならすべて試すべきだ。今更引き返すことはできない。優子はすぐ母におばあちゃんの携帯番号を教えてほしいと連絡を入れて、家を出た。


 車が赤信号になったところで母から教えてもらった電話番号に着信をかける。携帯をスピーカーに切り替えるとすぐにおばあちゃんが電話に出た。

「もしもしおばあちゃん?ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「ああ、優子。なんかあったかい?」

 いつも通りの優しい口調だった。優子は、数日前に小春に言われたことが本当でないで欲しいと祈りながらもまじまじと質問を投げかける。

「お父さんと連絡が取れないの。何か知らない?どこか行きそうな場所とか職場とか」

「さあねえ。あんたのとこのお母さんからも聞かれたけどわたしゃなんも知らんよ」

「そう。実はちょうど今仕事終わったところで、今からおばあちゃんの家に寄っていい?連絡が取れないから何かお父さんの部屋から手がかりを探そうと思って」

 数秒の間があった。

「そりゃだめよ。散らかってるから」

 優子は息を呑んで次の言葉を言った。

「・・・散らかってても構わないわ。だってただのお父さんだから」

「ダメって言っとるじゃろうが!」

 あまりの態度の豹変に優子は驚いた。おばあちゃんが声を荒げるのは初めて聞いた。優子はぼんやりと数日前の小春との会話を思い出していた。


『おばあちゃんがお父さんを匿ってるかもしれない』

『え?おばあちゃんが?』

『うん。たまたまおばあちゃんの家の近くを通った時に、家に入っていくのを見かけたの。何年も会ってないからお父さんだって確証はないんだけど』


 怒鳴ってからすぐに電話を切られてしまった。もう一度かけるが繋がらない。それが答えだった。優子は裏切られたかもしれないという悔しさを押し込めながらもおばあちゃんの家に向かって黙って車を走らせた。

 到着して家の少し手前に車を路駐するとそこから玄関の監視を始めた。時間は昼過ぎだった。父が帰って来るのが何時だとしても何時間でも張ってやると覚悟を決めていた。全額返ってくなくてもいい、せめて半分でも取り返したかった。

 張り込みを始めて1時間後。1人の男性が優子の車とは反対側の歩道から歩いてきた。帽子を目深にかぶり、両手はポケットに入れて俯き加減に歩くその姿は、すぐに父だとわかった。手首にはスーパーで買ったであろう買い物袋をぶら下げている。父はおばあちゃんの家の玄関の鍵を開けるとそのまま中に入っていった。今まで散々雲隠れしてきた父をいよいよ問い詰めることができる。そう思うと収まっていた怒りが沸沸と湧いてきた。買ってきていた飲み物とサンドイッチを急いでビニール袋に仕舞い込むと、すぐに車から飛び降りて急いで玄関に向かった。

 迷いはなかった。優子は玄関の引き戸をガラガラガラガラと勢いよく開け放った。

 優子が玄関の扉を開けた音に父は驚いて後ろを振り向いた。父が状況を理解するのは早かった。優子の顔を見た途端に表情が曇る。

「優子、なんでここに?」

「早くお金返して」

 優子が詰め寄って冷たい言葉を放った。父はぐっと苦虫を噛み潰したようにリビングから顔を覗かせていた自分の母をきっと睨んだ。

「わたしゃ何も言っとらん!」

 居場所を言ったなと責める父の目に耐えられず叔母は癇癪を起こすように叫んだ。だが優子にはそんな親子喧嘩を黙って見ていられるほどの心の余裕はない。

「ねえどこにあるのお金」

 ドスの聞いた声で父に問いただす。父もなぜか毅然とした態度で答える。

「金は返せん」

「半分でもいいから、今持ってる分だけでもいいから返して、ちょっとはあるでしょう?」

「ちょっともないから返せん」

 父のそのあまりにも呆気からんとした態度に思わず優子は怒鳴った。

「約束したじゃない!」

「それより、おばあちゃんに聞いたのか?事前にここに入っていいか?」

「聞いてないけど、それが何?」

 居場所を特定された犯人探しをしようとしている父に、優子は虫唾が走った。今はそんなことが問題ではなかった。なんとしてもお金を返してももらわなくてはならない。

 数秒して、父は口をモゴモゴとさせた後に、急に得意げになったような表情になった。

「俺は母さんとは離婚してるから無断で入ると不法侵入になるぞ」

 その言葉に優子はあまりの無責任さと悔しさで玄関に置いてあった木のバッドを手に取った。衝動的な行動であったため、優子にとってはそれが何であるかは問題ではない。この大馬鹿な父を一度でいいから殴ってやりたかった。

「・・・この、クズ!!!」

 バッドを振り上げると優子の耳には遠くで叔母の小さな悲鳴が飛んでくるのが聞こえた。優子はそのままバッドを父に向かって振り下ろした。父は咄嗟に買い物袋を手から離して、右手の前腕でバッドを受けた。ドスという鈍い骨の音が鳴る。その衝撃と同時に走った腕の痛みに父の頭の血も昇った。

「てめえ、馬鹿野郎が!」

 優子の二の腕付近を両腕で掴み上下に揺さぶる。優子が恐怖で押し負けそうになった時、思い出したのは父との思い出だった。

 幼少期に公園で一緒に遊んだ時、屋台で母がダメだと買ってくれなかった綿菓子をこっそり買ってきてくれた時、高校受験の相談に乗ってくれていた時。

 そんな思い出全部まやかしだったんだ。全部、嘘だったんだ。優子の恐怖はすぐに裏切りの怒りへと転じた。父を至近距離できっと睨み返すと、自身の頭をクッと引いて父の鼻を目掛けて頭突きした。痛みにうろたえる父親の足を右足で引っ掛けると胸のあたりを押して後ろに突き飛ばした。鼻の痛みのせいで涙目になっていて視界が悪いのか、父はそのまま尻餅をつくように地面に倒れた。鼻からは血が出てしまっている。

 2人してその状態のまま睨み合っていると、パトカーのサイレンの音がだんだんと近づいてきた。叔母が警察に通報したのだろう。父は鼻を抑えながらも表情は一切変えずに、ただただ優子の顔を眺めていた。

 その後、駆けつけた警察官によって優子の身柄は拘束された。

 不法侵入と傷害罪の容疑で勾留された優子に突きつけられた父からの示談条件は、今までに貸したお金はすべて善意で譲渡したものだと認めることであった。今までに貸してきた金額と罰金額を比較すると決していい条件だとは言えなかったが、今後の勾留と刑期を考慮すると、示談を飲むこと以外に優子に選択の余地はなかった。

 周囲の説得によって優子が示談飲んだその日の午後、優子は留置所から釈放された。

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