一進一退
ピ、ピ、ピ、ピ。
残高照会の画面には10月の給料が表示されていた。何度見ても見慣れない金額だった。優子は週に2日3日で稼いだ20万円ほどを銀行のATMからおろして封筒にしまった。外に出ると肌寒い晩秋の風が肌に触れた。冬だからか16時30分なのに外は随分と暗くなり始めている。昨日までは上着はいらなかったのに、今日になって気温がかなり低くなった。冷たい空気に耐えられず、マフラーを口元で巻き直すと帰路についた。
あれから、バイトの回数は随分と減らした。土日に働くだけで社会人のような金額が手元に入ってくるようになったから働く時間を減らすことができた。空いた時間は、今までできなかった勉強時間を取り戻すために使った。そのおかげで、5教科の点数はぐんぐんと伸びていった。担任の教師からは個別面談で、神戸大学を目指せるかもしれないとも言われた。
「ただいま」
「おかえり。今日は早いのね」
家に帰ると玲奈が台所で夕飯を作っているところだった。
「うん。今日はちょうどテスト返しだった」
「どうだったの?」
優子はリビングに高校の鞄を置くと中からテストを取り出して机の上に広げた。
「あら、80点以上ばっかり。すごいじゃない!」
「先生も、これなら神戸大学目指せるかもって」
玲奈は優子に肘をぐいぐいと押し当てた。
「なに?」
「やったじゃない。あれだけ下の大学を勧められてたのに、ギャフンと言わしてやったわね」
「何それ。そんなんじゃないよ」
優子は否定したが、玲奈はなぜだかニヤニヤとしたままだった。
玲奈の体調は万全とまではいかないものの、徐々に回復し始めていた。今までの生活に戻るためにと、働く時間も少しずつではあるが増やしていた。
テストを眺めている母のポケットの携帯が鳴った。パッと取り出すと、画面を数秒眺めた。するとなぜか留守番電話に切り替えてテーブルに置いた。
「出ないの?」
「ああ、いいの。知らない番号だったから」
玲奈が居間のテーブルで食器を準備していると携帯がまた鳴った。優子が手を洗いながらテーブルに置いてある携帯のモニターを覗くと、『文枝』父方のおばあちゃんの名前が書いてあった。
「お母さん、おばあちゃんから電話」
優子が知らせると、玲奈は投げやりな口調で返事をした。
「ああ、置いといて」
「出ないの?」
「うん」
母が時々、叔母と口論になっているのは見かけたことがあった。眠れなくて夜遅くまで起きていると居間の方から母の怒りの声が聞こえてきていたことが度々ある。話している内容は、大体がお金のことや私たち姉妹のこと、あとは私の父親のことだった。昔は何も思わなかったが、この年になって、養育費、親権、そういう言葉の意味がわかるようになってきて、口論している内容を盗み聞いていると少し嫌な気分になる。
「お姉ちゃん今日バイト?」
小春はリビングで勉強しながら優子に聞いた。
「ううん、違うよ。なんで?」
「いや、別に」
「何それ」
最近やたらとバイトがあるのかないのか小春が聞いてくる。お金のことを心配しているのか何なのかいまいちよくわからなかった。優子も筆記用具とテキストを机に置いて勉強を始めた。
あのことがあって以来、しんくんとはしばらく会っていない。結局、どうやってあんなことをしたのか。彼が何者なのか、分からないままだった。友人に話しても意味がわからないことを言ってると思われることは目に見えていた。いくら親しい友人でもオカルトじみたことは理解し難い。わたしだったらそうだ。
ただ、お金のことを気にしないでいいようになってからテストの点数が上がったことや家の心配を必要以上にしなくて良くなったことにはとても感謝していた。せめて、そのお礼とひどいことを言ってしまったことを謝りたかった。
翌日、優子は授業終わりに科学実験室に向かった。自分の中で気持ちが固まったタイミングを逃してしまうと、言えなくなってしまうことが目に見えていたからだ。数回だけノックをして中に入ると、少年の姿があった。どうやら他の人はいないようだった。
「ちょっとだけ、いいかな」
少年は無言で頷くと、優子と向かい合って座った。
優子は、久しぶりに話す少年に緊張しながらも膝の上で拳をギュッと握って決心をして話を始めた。
「その、あの時はひどいこと言ってごめん。わたしちょっと混乱してて」
申し訳なさに優子が俯いていると、少年はあっさりと許してくれた。
「ううん、いいんだ」
「すごくありがたいことなのに、わたし、ちょっと怖くなって」
「無理もないよ」
「だからその」
お詫びに何かできることはないか、優子はそう言おうとした。
だが、
「お母さんは元気になった?」
少年は優子の母親の容態を心配した。いいことをしてくれた人に対して、最悪な態度をとってしまったことで、少年に怒られることはある程度覚悟していた優子は、少し拍子抜けした声になりながらも答えた。
「うん。おかげさまで。ありがとう」
「そうか、それならよかったよ」
少年は優子の方を見て頬を上げて笑った。
少年のその飄々とした態度に優子は疑問を持った。まるで、何もかもこうなることがわかっていて、全て答えを用意していたかのような、そんな余裕さえも少年から感じた。
「その、なんていうか、生まれた時からそういう力があるの?」
「うん。ちょっとだけど不思議な力がある」
あまりにも現実離れしたことに優子は少し戸惑い気味になる。
「そうなんだ。それって、すごいね」
「例えば、少し先のことをが見えるんだ」
「未来ってこと?」
「うん。もうすぐ帰ってくる部員の町田はそこの椅子につまずいてこけて、それを隣で見て笑っている鵜飼は何もないところでつまずいてこける」
「え?」
ガチャン
勢いよく科学実験室の扉が開けられると部員の町田と鵜飼が部室に帰ってきた。
「続きやろうぜー、ってうわ!!!」
町田は通路に置いてあった椅子につまずくと、そのままこけてしまった。
その様子を見ていた鵜飼は、ゲラゲラと腹を抱えて笑っている。
「お前バカだなー、って危ねっ!!!」
だが、その鵜飼も何もないところでなぜだかつまずいて、町田と同じように転んでしまった。町田はここぞとばかりに鵜飼に指を刺して笑い転げている。
少年が数秒前に言った事がまさに現実でそのまま起こったことに、優子は唖然としていた。少年は特に誇らしげにいうわけでもなく、このくらいは普通だと言わないばかりにいつもと変わらない口調で言った。
「こんなふうに」
優子はいつも通りに東灘の図書館での勉強が終わると筆記用具を片付けて外へ出た。18時を過ぎていたため、すっかり暗くなっている。夜の街灯を頼りに寒さで身体を縮こませながらも自転車に跨って家に向かった。
自転車に乗りながら優子は考え事をしていた。少年は、優子みたいに理解がある人は初めてだと言った。力を使えば、色々なアドバイスがあるからいつでも相談して欲しいとも言ってくれた。正直、今の優子には心配事だらけだ。大学受験のことや母親と叔母のこと、父親のことや小春の進学のこと、将来のことを考えると不安しか湧いてこない。だから、そう言われた時、嬉しかった。何でも1人で抱えてしまう性格だが、頼もしい味方ができたような気がした。あまり無理を言ってはいけないけれど、これから少し相談しようかな、優子は交差点で信号待ちをしながらも、夜の空を見上げた。真っ暗な空は曇っている。だけどその雲の切れ間には一粒だが小さく輝く星がひっそりと顔を覗かしていた。
家に着く頃には時刻は19時を過ぎようとしていた。さむいさむいと両腕をさすりながら家の玄関に入ると、温かい空気に身体が安心した。この時間に帰るといつもなら母がすぐに夜ご飯を温め直してくれるはずだったが、母の姿がなかった。
「小春、お母さんは?」
荷物を片付けながら、居間で勉強をしている小春に声をかけると素っ気ない返事が飛んできた。
「さあ」
優子は機嫌が悪いのかなと首を傾げつつも、用意されていた夜ご飯を電子レンジで温め始めた。電子レンジの前で温め終わるのを待つ間、優子は玲奈のメールアドレスを選択して『買い物?』と送信した。待っている数分の間、何となく話をしたくなり小春に再び声をかける。
「勉強は順調なの?」
「別に」
小春のどこか素っ気ない態度に優子は心配になった。
「小春、何かあったの?」
小春は勉強の手を止めると顔を上げた。
「別に。ただ、お姉ちゃん、何か隠してることあるでしょ?」
その質問に優子は動揺した。アルバイトのお給料が異常に上がっていることに気がつかれてしまったのかと思った。
「何かって何?隠してることなんてないよ」
「何かって、それは、何かだよ」
「なにそれ」
どこかおかしいとは思っているが、それが何かはわかっていない様子に、優子は隠し通すことを決めた。
「お姉ちゃん最近変だもん。バイトは週に一回か二回しか入ってないのにお金はあるし、学校終わってもこそこそどっかへ行って全然帰ってこないし」
小春にも話をしたかったが、少年からは他の人には言わないで欲しいと口止めされていた。母なら何かとごまかせる自信はあったが、小春をごまかし通す自信はなかった。優子はせめて少年と再会したことは言うことに決めた。
「実はね───」
話が一通り終わると、小春はそうなんだと拍子抜けした様子でソファにどさりと座った。
「いったい何を隠していると思ってたの?」
優子が尋ねると小春は言いづらそうにもごもごと答えた。
「えっと・・・夜の怪しい仕事かと」
バシン!
「いたっ!何すんの!」
優子は反射的に小春の肩を叩いた。大学受験を控えた高校生がそういう軽率な行動をとると思われていたことの恥ずかしさ、突拍子もないことを考える小春に呆れて、思わず叩いてしまった。
「わたしがするわけないでしょ?この、バカ!」
「そんなに怒らなくても・・・」
小春は叩かれた肩を手でさすって困惑していた。
それからというものの、優子は少年に色々なことを相談するようになった。少年の力は奇妙なものであったが、優子には抵抗はなかった。少年のアドバイスはやけに的確で言われた通りにこなしていけば失敗することがなかった。優子は気になることはどんどん聞いた。効率的な勉強の仕方や家族の健康面でのアドバイス。叔母の膝が悪いことを伝えたときには食べるもののアドバイスを受けた。
そしてその中で、
「父親にはもう会わないほうがいい」
とも少年から警告を受けた。
そのことがよくないことを将来的にもたらす可能性があることも知らされた。そのことに関しては優子自身も責任を感じていた。
あの日、仮設住宅で暮らす優子たちのもとへと現れた父親が諦めて帰るとき、父はバックミラーに移る優子の姿に気がついた。父親は車を止めて優子のもとへと向かった。
「優子」
急に抱きしめられた優子は少し驚き不思議な気持ちだった。数分話したのに、父は優子に一枚のメモ用紙を渡していた。父の今の住所と電話番号だった。父は優子にバレないようにしまっておいて、どうしても困ったことがあればいつでもおいでと告げてその場から消え去った。
父との関係は良くないとそう言われたのなら断たなくてはならない。優子はしばらく黙って考えた後、少年に言った。
「・・・そう。それも近いうちにどうにかする」
優子は自分たち家族の問題点が次々と改善していくのを体感できて嬉しかった。ただ、ふと不思議に思ったことがある。どうして私たちにはそんなことをしてくれるだろう。
優子はある日、そのことを少年に聞いた。
「他に知っている人はいるの?」
優子が尋ねると少年は言った。
「いないよ」
「どうして?」
「ほら、他の人はこの力を使って宝くじを当てて欲しいとか、お金を増やすにはどうしたらいいか、とかそういうことばかり聞いてくるから。気が滅入るんだ。それをするのっていくら僕でも簡単じゃないから」
「そっか」
優子もそれに関しては妙に納得がいった。今までにそういうことを自分から頼んだ覚えはない。そういう能力があると知っていても、億万長者にして欲しいなどは考えないタイプだ。
「地震とか災害が来るときも、わかるの?」
「・・・ある程度はね。でも、分かっても教えたりはできない。1人の運命を変えてしまうと、いろいろな人の運命が変わっちゃうから。それに、誰も信じないよ」
地震が何日か後に起こるからここにいたらダメだから引っ越しなさいと言われても信じる人はいない。信じてもらう術もないだろう。知っていて何もできない辛さとかもあるんだろうかと優子は考えた。
「どうして私たちには親切に教えてくれるの?」
優子がそう聞くと少年はどこか遠い場所を見るような目をして答えた。
「さあ、どうしてだろう」
約束の日の夕方頃、灘駅に集合した夏美と亜子と優子と少年は軽く挨拶だけ済ませると早速掬星台へと向かうことにした。掬星台へは、駅からはバスとケーブルかーとロープウェーを乗り継いで行く。バスは、坂バスと呼ばれるバスを利用する。灘駅の南側の階段を降りてすぐのところで優子たちはバスを待った。
「掬星台なんて何年ぶりだろう」
「わたしも」
夏美と亜子が楽しそうに話すのを優子は2人の後ろでぼーっと眺めていた。
「大丈夫?」
「・・・ああ!うん」
隣にいる少年が心配そうに優子に声をかけた。
受験前最後に友人たち四人と掬星台に登る。もちろんそれ自体が今回のメインの目的ではあった。ただ、優子にとっては少し違った。
旅行の数日前、優子が自分の少年のことが好きだという気持ちを夏美と亜子に相談した。
「告白するなら受験前の方がいいんじゃない?」
「ちょうど今週末掬星台行く予定あるしね」
2人の応援は心強いしありがたかった。だけど、それと同時に、いざ告白しようと決めてしまうと行く前から緊張してしまい、純粋に楽しむことができなくなっていた。何だか自分だけが、少し遠い場所から自分たちを眺めているようなそんな錯覚に陥ってしまう。
坂バスは定刻通りにやって来て、バス停にゆっくりと停車した。
優子たちは、普通のバスよりもひとまわりコンパクトなバスに乗り込むと乗車賃210円を支払って席に座った。摩耶ケーブル下バス停までは約25分かかった。
バスを降りると虹の駅行きのケーブル線を使い、さらに高所を目指す。バス停の目の前にある摩耶ケーブル駅までの上り階段を登り、540円のケーブルカーとロープウェイの往復チケット購入して乗り場に向かう。ケーブル線の乗り場には『日本三大夜景 摩耶山掬星台へ』と書かれた大きな看板が設置されていた。普段は乗らないケーブル神ーに夏美と亜子は興奮していた。虹の駅手前に差し掛かるとかなり急な斜面に差し掛かる。車内ガイダンスによると、どうやらスキージャンプの角度と一緒らしい。
ケーブルカーを降りると、次に乗るのはロープウェイ。通称『摩耶ビューライン』だ。ちょうど日が沈んでる時間だった。オレンジ色の暖かな光が山の木々の中へと差し込んでいる。進行方向とは逆の方角を見ると、瀬戸内海の青々とした海が、夕日でオレンジ色に染められていた。
「今日は天気がいいから綺麗な夜景が見れそうだね」
「だね〜」
2人は普段通りのテンションだ。気を使ってくれているのか、時々少年にも話を振って話を盛り上げてくれていた。掬星台が近くにつれて優子は自分の心臓の鼓動が早くなっているのに気がついて、不安を閉じ込めるように手をぎゅっと握った。
山頂に到着する頃には辺りはすっかり暗くなっていた。駅から出るとちらほらと人の姿がある。1000万ドルの夜景と称される景色が数秒後には見られることを考えると、まだ景色を見てないのに、想像するだけでワクワクした。その気持ちはみな同じようで、心なしか足取りが早い。広場の歩道は紫外線でのライトアップがされており、まるで天の川のように綺麗に輝いていた。広場を抜けると柵が見えた。柵の手前には手を繋ぐ親子や寄り添うカップルの姿が何組か見えた。優子は友人と来ていることを忘れ、景色を見たい一心で足を前に進めた。そして、柵に辿り着き、優子の目に飛び込んできたのは壮大な絶景だった。
神戸の東側から大阪までを一望できるその景色は何ものにも例え難いほどの絶景だった。夜の暗闇の中で輝くその街は、まるで満点の星空のようにキラキラと息づいている。街の白い光がふわりと全体を包み込むように夜空に滲んでいた。何度も何度も違う場所に目を移す。その度に違う輝きがその場所で輝いていた。あちこちから綺麗という声が聞こえてくる。掬星台にいる人たちは、街の明かりに黒く浮かび上がっている。それもまた幻想的だった。そのことを夏美や亜子に言おうと我に返って横を見た。だが周りには誰もいなかった。もしかしてはぐれたのか、慌てて周囲を見渡すが、暗くてよく見えない。優子はみんなを探し始めた。1人真っ暗な場所に取り残されて、不安で悲しくなる。
「夏美ー、亜子ちゃん、しんくん」
小声で呼びかけるが不安に満ちた小さな声は周囲の雑踏にかき消されてしまう。
ドシン!
「ごめんなさい!」
誰かにぶつかった。そう思った途端に肩をガシッと掴まれた。
「優子?」
恐る恐る顔をあげると、暗闇の中にじんわりと少年の顔が見えた。
「しんくん。よかった」
「よかった。探したんだよ」
優子はその聴き慣れた声にほっと安心して思わず腕をぎゅっと掴んだ。
「夏美と亜子ちゃんは?」
「2人はお手洗いに行くって」
「そう」
「あそこに座れる場所あるから座って待とうか」
2人は少しだけ段差のある場所に横並びに座った。街並みを眺めながら少年は優子に言った。
「手を伸ばしたら星がすくえそうだ」
優子はそのセリフに驚いて少年の方を見た。
「昔の人が言ったセリフだよ。この夜景を見てね」
少年は照れ隠しをするように優子に説明した。
「それで、掬星台」
改めて眼下に広がる景色を眺める。あの光の粒の一つ一つに人の営みがあって、みんな普段と変わらない毎日を送っているんだ。そう考えると自分だけがその日常から出られているような気分になる。
「わたしの家あのへん」
優子は自分の家の方面を指差した。
「あのビルの近く?」
少年は見当違いな場所を指差した。
「全然違うよ。もっとこっち」
優子は少年の人差し指をクイっと少しだけ違う角度に向けた。あまりにも自然に触ってしまったことに自分でも驚きながらもすぐに手を離した。
「ああ、あの川のあたりね」
少年は笑いながら街を眺めている。綺麗な目だ。優子はそう思った。そして、今なら言えそうだと思った。なんで今なのかはわからない。周りにちらほら人はいるし、心の準備もしなかったけれど、今なら言えそうだと優子の直感がそう言っていた。
「しんくん」
「何?」
優子は呼びかけると少年は優子の方を見た。もしかしたらこのことによって今の関係性が終わってしまうかもしれない、そのことも考えたが、何より告白しないと後悔が残りそうだった。優子は勇気を振り絞って体の向きを変えた。そして、夜の冷たい空気を吸い込んで言葉をゆっくりと紡いだ。
「しんくん、あのね、わたし、ずっと前から───」
───ポツポツポツポツ。
「雨?」
「雨だ」
周囲からざわざわとした声が聞こえてくる。優子は言いかけた言葉を飲み込んだ。確かに、雨だった。雨が降り始めた。雨はだんだんと勢いを増していた。だけど、優子には雨なんてどうでもよかった。せっかくのいいチャンスが。
1人考え込んでいると少年が動こうとしない優子に声をかけた。
「優子、雨宿りできる場所に移動しよう」
「・・・うん、そうだね」
雨宿りできるスペースには人だかりができていた。こんな場所じゃあもう告白を切り出すことはできない。
「夏美ちゃんと亜子ちゃんいたよ」
少年が指を刺す先には、2人の友人の姿があった。四人は合流して雨予報が明日まで続いていることを確認してから帰ることにした。
帰りの電車で揺られながら優子と夏美と亜子はじっと駅に着くのを待っていた。少年は三宮駅の方面の電車に乗り帰っていった。
「優子、どうだったの?」
「夏美ちゃん」
優子に声をかける夏美に、亜子はやめときなよというふうに言った。
「でも・・・」
優子の態度や表情を見て、2人はよくないことが起こったことに薄々感づいていた。それでも夏美は優子の口から話をちゃんと聞きたかった。
「・・・告白する前に雨が降ってきて、それで今回はタイミング逃しちゃった」
優子は2人の顔を見てへへへと苦そうに笑った。
「そっか」
「次はうまくいくよ」
掬星台に登ったあの日以降、勉強にバイトと忙しい日々がまた始まった。それがわかっていたから、恋人になってメールや電話で話をできたらどれだけ心強いだろうと考えていたが、どうやら現実はそう甘くはないらしい。少年とはあれ以来、ほとんど会っていない。
本格的に冬の寒さが始まった頃、2学期末のテスト結果が返却された。テストの点数自体は上がっていたが、志望校の過去問を解いていると間違いだらけで、このままでは受かるのが難しいのではないかと優子は不安を感じていた。
「優子なら大丈夫よ」
母や教師のそんな励ましの言葉でさえ、鬱陶しく思える。自分は大学受験したことないくせに簡単に言わないで欲しい、と。そしてそう思ってしまう自分の性格の悪さに、また落ち込んでしまうのだった。
そんな冬のある日、炬燵に入ってテレビを見ている小春が言った。
「お母さんお姉ちゃん!これ今年も行くよね?」
「なあに?」
キッチンで夜ご飯の支度をしていた玲奈は手を止めてテレビを覗き込んだ。優子も勉強をしている手を止めて自然とテレビの前に集まった。テレビでは地元の行事である神戸ルミナリエの特集がやっていた。
「ああ、神戸ルミナリエね。もちろんよ」
玲奈はもう年末ね、としみじみしながら言った。
神戸ルミナリエとは震災の年から始まった大規模なイルミネーションで、開催は14日間。阪神淡路大震災の犠牲者への鎮魂と震災の記憶を後世に語り継いでいくことを目的に開催されている。また神戸復興のための魅力発信や集客の役割も担っていた。本来なら一回きりのイルミネーションの予定だったが地元の社長らの奮闘により第二回以降の開催に漕ぎ着けたらしい。毎年12月、優子たちは家族で神戸ルミナリエに行くことが恒例行事になっている。
「何日に行く?」
小春がスケジュール帳を開いて自分の空いている日付を確認している。優子は今年は行くつもりはなかった。自分のことで精一杯で1分でも多く勉強の時間に費やしたかったからだ。
「私は今年はやめとく。受験だから」
「えーーー?」
優子がそう言うと小春は残念そうに炬燵の上に沈みこんだ。
「普段みっちりやってるからいいじゃない。1日くらい息抜きしないと頭パンクするよ」
「でも・・・」
母のその考えに一理あるとは思って一瞬迷った優子に、小春が最後の背中の一押しをした。
「そうだよ、お姉ちゃんの大好きな蟹鍋もあるよ」
蟹鍋というのは、神戸ルミナリエの屋台で販売しているズワイガニの温かい鍋だ。一杯800円のその鍋はとても美味しく、毎年食べるのが恒例になっていた。
「そこまで言うなら・・・」
渋々言うと、小春は喜んで言った。
「よし!じゃあ何日行くー?」
12月12日。よく晴れた日だった。何かいいことが起こるんじゃないか、そんな風に思えてしまうほどに雲ひとつない快晴。あの日も、こんな空だったっけ。優子は夕日が沈んで深い青色に染まる、しんとした空を見上げてそう思った。
「お姉ちゃん早くー」
夜の大空の視界に、小春の声が耳に響いた。JR元町駅のロータリーにはもう17時だと言うのに、普段よりも多くの人がいた。視線を下げると流れる人混みの中で立ち止まる母と妹の姿が見えた。開催から6日経った今日でも地元の人たちや観光客で賑わっている。優子は小走りで2人の元へと駆け寄った。
「ごめんごめん」
神戸ルミナリエは毎年大混雑することもあり大規模な交通規制と警備が行われている。ルートは一方通行とする順路が設定されていて、歩行者はJR元町から東に向かい、元町郵便局を過ぎたところで少し南下して仲町通りからメイン会場である東遊園地に歩いて徒歩15分で向かう。東遊園地は名前こそ遊園地とついているがかなり大きな公園だ。テーマパークとは違う。会場周辺の道路では、開場時間の前後に車両通行止などの交通規制を実施するため、東遊園地から近い三宮駅の方から南に行って横道から入ることはできなくなっていた。とにかく駅からの正規ルートでないとイルミネーションが堪能できないというわけだった。
「もう点灯始まってるのかな?」
「どうだろうね。これだけ人いれば付いてるんじゃない?」
イルミネーションの点灯時間は17時頃となっており正確に決まっていない。平日だと18時頃、土日だと17時頃には点灯されるイメージだ。必ずしもその時刻ジャストに点灯されるわけでなく、混雑状況に応じて早めに点灯されることもあった。点灯の瞬間を見たいのなら、30分前には会場に着かなくてはならない。。優子たちは、たった一度だけ1時間前の16時に来た年があったが、その時間でもすでにすごい人数の人がいたのをよく覚えている。街の並木にはクリスマスも兼ねてのゴールドのイルミネーションの光が灯されていた。
仲町通りに差し掛かる手前でデパートの大丸が視界に入った。
「あ、大丸のこのライトアップいいよね」
ピンク色に照らされたデパートを見上げながら玲奈が言った。
「そうかな、わたしはメイン会場の方が好き」
「なんでピンク色なんだろう?」
「意味なんてないんじゃない?」
隣で母親にツッコミを入れながら歩く小春は寒そうにマフラーに鼻先を埋めている。ご立派になったもんだ。優子は自分の意見をビシバシと言う小春を見てこっそりと笑った。
仲町通りに入るとそこからメイン会場の東遊園地までは一直線だ。イルミネーションの展示は約300メートル手前から始まる。寒さに耐えながら十分ほど歩くと、イルミネーションの入り口の明かりが見え始めてきた。歩く人たちがざわつき始めるのもこのあたりからだった。
「お!あれじゃない?」
「ベーコーべは明日?」
「神戸牛は食べないかんよ」
観光客だろうな。優子は歩きながらも耳に入る家族の会話を聞いていた。賑やか五人家族の後ろでは、おばあさんとおじいさんが何も喋らずにただ黙々と歩いている。小さく細い仲町通りに、色々な場所から、色々な人が、色々な思いを持って、一直線に同じ場所を目指している。
初めて、ルミナリエに来た時、私は泣きながら仲町通りを歩いた。なぜ泣いたのか、明確な理由は思い出せない。色々な感情でぐちゃぐちゃになっていたんだと思う。
イルミネーションの入り口であるフロントーネ「歓喜の門」が近づいてきた。高さ21メートルの大きな光の門だ。緑色がベースに赤や黄や青を入り混ぜた華やかな幾何学模様はイタリア人のアーティストがこの行事のためにデザインしてくれたものだった。
門をくぐって歩いていると、所々に学生のボランティアの人たちが募金箱を持って立っている。100円募金と呼ばれているその活動は、神戸ルミナリエが今後も開催できるように資金を集めるためのものだった。名物はひかる募金箱だ。お金を上の募金口から投入すると、お金はスルスルと、アーチを描きながら降下していく。同時に募金箱の中のアーチのお金を運ぶレーンが光るというものだった。子供たちが興奮しながらお金入れていた。優子や小春は、初めの頃は光る募金箱に入れていたが、数年経つと大きな募金スペースでお祈りをしながら復興の願いも込めて500円玉を入れるようになった。
30メートルほど進むと、西と東に二つの門が立っており、そのまま仲町通りの最後の約270メートルまでにわたって光のトンネルが続いている。
パンフレットには、仲町通りガレリア「宇宙のリズム」と記載されていた。約270mのストリートに合計21基のアーチが設置されている。周囲からはバッハやベートーヴェンなどのクラシック曲が編集されたようなオリジナル曲が、皆を歓迎するように心地よい音量で響いていた。
私たちはそれらの光のゲートに導かれて東遊園地の真ん中付近に位置する広場に到着した。そこには、息を飲むほど大きい綺麗な電飾が真っ暗な夜の街に浮かび上がっていた。スパッリエーラ、イタリア語で壁のバックボード、つまり椅子の背もたれやベッドの頭の付近の板などを意味するその装飾作品は「生命の円」と名付けられていた。あたたかな光で人々を包む大きな光のサークルは、直径42m最高部20mの円形に配置されていた。メイン会場なだけあって迫力が他とは段違いだった。
「ふわああああああ」
その景色を噛みしめるような声が色々な場所から聞こえてくる。
「綺麗」
優子と小春と玲奈はその光の輝きの真ん中でしばらくの間、静かに、ただ立ち止まって上を眺めていた。優子はこんな時、他の人が何を考えているのかが気になる。雄大な景色を前に人は何を思うのだろう。私はただこの景色を笑って見られるような幸せが欲しいと思った。震災の余波に苦しまず、勉強に悩まず、お金に悩まず、普通のお父さんがいる。このイルミネーションのようにキラキラと温かい幸せが───
「募金もお祈りも終わったし、そろそろ外の屋台見てみよっか。お腹減ったでしょ?」
玲奈が横に立つ2人に笑いかけた。
「そうだね」
「うん」
メイン会場以外にも、東遊園地の噴水広場には、噴水の半円のアーチに沿うようにメイン会場とは違う形のスパッリエーラが展示されている。ダイヤの形の宝飾が5つ並び、まさに光の宝飾だった。光は大きな噴水広場の水面にも反射して何とも幻想的な空気を作り出している。小道には、オリンピックの時に使用するトーチのような形の装飾が等間隔にいくつか建てられている。
優子たちはそれらのイルミネーションを横目に東遊園地の外側に出た。外側の路面には出店が何個も立ち並んでいる。スタンダードなたこ焼きや焼き鳥、焼きそばにベビーカステラに加えて、神戸牛のビーフシチューやズワイガニ鍋など珍しくて美味しい屋台も出るため、毎年とても賑わっていた。
「これおいしいんだよね〜」
優子は店主のおじさんからズワイガニの鍋を受け取ると温かい容器を大切そうに両手で包み込んだ。蟹鍋にはズワイガニの足と小さな甲羅がいくつか入っていて足の中の身は向いて食べる必要がある。優子はそれよりも、蟹の出汁がきいたスープが好きだった。コクリと一口飲むと、喉を伝って胃の内側からポカポカと温めていくこの感覚も好きだった。
「来てよかったでしょ?」
隣で一緒に立ちながら蟹鍋を食べる小春がボソリと呟いた。
「うん」
───「優子、これ食ってみろ。うまいぞ」
優子の頭の中に、父親の声が思い起こされた。数少ない父との思い出でよく覚えていたのが近所のお祭りの屋台での思い出だった。普段はケチな父親だったが、その時だけは、冷やしキュウリやお好み焼きそばなどをビニールいっぱいにぶら下げて優子に食べさせてくれていた。優子は持ってくる度に、嬉しかった。屋台に来るとなぜかその記憶が蘇ってくる。もう、そんなことは起きるはずがないのに。
───「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
小春の呼びかけに優子はハッとした。塞いでいた耳をいきなり離したように遮断されていた周囲の音が耳に入ってきた。
「何?」
呼びかけに答えると袖をグイッと引っ張られた。されるがままに通路の端っこに寄せられる。
「人が通るから邪魔になるよ」
優子が自分の立っていた場所を見ると、小さな荷台を押している男性が謝りながらも人混みの中、荷物を押して運んでいた。
「ああ、ごめん」
「お姉ちゃん大丈夫?」
ぼーっとしていた優子を心配して小春が声をかける。
「うん、平気」
「ただ、思い出したの。お父さんのこと」
「なんでいきなり?」
「もし普通にお父さんがいて、お金にも困らずに普通の生活だったらどんな幸せだったんだろって」
「今は違うの?」
「違う、そういう意味じゃない。私が言いたいのは・・・」
優子が口籠もっていると小春が厳しい口調になって言った。
「お姉ちゃんその、お父さんにはもう会わない方がいいよ」
「え?」
「こっそり会ってるの知ってるけど、お母さんが言うにはあの人に関わるとお金の問題が起こるって、だから」
優子は小春がどうして知っているのかと聞こうとした途端、視界の奥、屋台で賑わう人混みの中に少年の姿を見つけた。
「そう。そうね」
小春の話を聞きながらも見失わないように目で必死に追う。視線が忙しなく動く優子の様子に小春は怪訝そうに聞いた。
「お姉ちゃん、真面目に聞いてる?」
話の続きを静止させるように両手を目の前に出すと、優子は小春に無言で自分の分の蟹鍋を掴ませると言った。
「うん。聞いてるけど、ちょっとまた後で聞く。先帰ってて」
「え?どこいくの?ねえ、お姉ちゃん」
突然の姉のおかしな行動に戸惑いながらも小春はお母さんに渡してと押しつけられた蟹鍋を両手で持ち直してため息をついた。
優子は走り出しながら、自分がなんで走っているのか自問自答していた。しばらく会っていなかったが、なんでこんなにも話したいんだろう。なんでこんなにも心臓が高鳴るんだろう。冬の空気がそうさせるのだろうか。イルミネーションの雰囲気がそうさせるのだろうか。いや、これはきっと───、
「しんくん!」
屋台の人混みを避けるように歩く少年の耳に優子の声が届いた。少年は自分の名前が呼ばれるのを聞いて後ろを振り返る。そこには、ハアハアと白い息を出しながらも笑顔を見せる優子の姿があった。
優子は勢いで会いに来てしまったことを、歩きながらも少し後悔した。自分の計画性のなさにうんざりする。近況の話をしたものの、それ以外に何を話せばいいのか分からなくなっていた。2人は静かに、イルミネーションを眺めながら、ただただ歩いた。だがその静かに何も言わない時間でさえも優子は心地よく感じていることに気がついた。そして、その瞬間、優子は少年のことが好きな気持ちを再確認した。今度こそ、今この気持ちを伝えてしまいたい。そう思った。
「ねえ、しんくん、私ね」
優子は自分で驚くくらい自然に告白を切り出そうとしていた。周りに人がいるからとか、時期的にどうだとか、何も気にせず、ただ自分の正直な気持ちを伝えないと、後悔すると感じたからだ。この気持ちは嘘偽りない。もし何も言わないで終わってしまえば、この気持ちの行き場所がなくなってしまう。
だが、そう切り出した途端、また、雨が降ってきた。周囲の人は皆小走りで屋根のある場所に移動を始めている。
まただ。また、タイミングが。どうしてこんな。
「優子、大丈夫?」
雨に濡れながらも俯いていた顔を上げると少年が優子の顔を覗き込むように見ていた。
「うん、雨宿りしよ」
このまま、あの時のように諦めてしまっていいのだろうか。優子は少年の後ろを歩きながら自問自答した。タイミングタイミングって、自分が逃げる言い訳を必死に探しているだけではないんだろうか。結局、私に根性がなかったんだ。失敗したら友人関係が壊れるんじゃないかとか、受験シーズンだから勉強に支障がでるとか、全部言い訳だった。優子は自分自身が嫌になった。でも、今度は。今度こそ。雨なんかに邪魔させない。優子はフーッと息を吐いて呼吸を整える。そして、意を決した。彼女は雨に濡れる少年の右手首をぎゅっと掴んだ。
少年は驚いて足を止めた。数秒の間、雨の音だけが周りに響いた。
「どうしたの?早く行かないと風邪ひくよ」
少年は心配そうに声をかけるが優子はその場から動こうとしない。ただ腕を掴みながら下を向いて押し黙っている。
「しんくん、私しんくんのことが」
優子は下を向いたまま言葉を続けていた。彼女自身もわかっていた。顔を見ないと、だめだ。ゆっくりと顔を上げる。少年の吸い込まれるような目を優子は正面から見据えた。
そして───
ギュルギュルギュル。
優子の内側で何かが蠢くように彼女の胃が突然悲鳴をあげた。お腹の激しい痛みに優子は思わずその場でしゃがみ込んだ。
「優子?!大丈夫?」
「う、ううう」
お腹が身体をうねらせるほど痛い。さっきの蟹鍋が胃に響いたのだろうか。優子は必死に両手をお腹に当てて痛みを押さえ込もうとする。少年は自分の着ていたコートを脱いで優子の肩にかけると背中を黙ってさすった。
数分して、胃の調子が落ち着いてくると2人は帰路についた。優子の家のアパートのチャイムを鳴らすと、母親が出た。
「優子?どうしたの?」
「ちょっと・・・」
騒ぎを聞いて駆けつけた妹が、姉の肩をとって部屋の奥へと連れて行った。
「突然胃の調子が悪くなったようで」
優子の友達か彼氏だと思わしき人物が現れて、玲奈は動揺していた。
「あの、これ。市販薬は飲んでいるので徐々に落ち着くといいですが・・・」
黙っている玲奈に、少年は手に持っていたビニール袋を差し出した。玲奈が中を覗くと、ビニール袋には市販の胃薬が入っている。渡し方からして優子本人が買ってきたものではないことはすぐに察した。玲奈は濡れている少年の姿にハッとした。おそらく優子を庇ってここまで送ってくれたのだろう。
「どうもありがとう。あなたもびしょびしょじゃない?ちょっと休んでいったら?」
「いえ、傘も買えたので僕はすぐ帰ります。お気持ちだけで嬉しいです」
少年の謙虚な態度に、娘を介抱してくれたせめてものお礼にと、玲奈は踵を返して台所と洗面所に向かった。
「ちょっと待ってね!」
「僕は、特に何もないので、大丈夫です」
ドタバタと家の中を駆け回る玲奈に少年は何かしてくれるだろうということを察したのか、遠慮するように声をかける。
その声を無視するように、玲奈は持ってきたタオルといくつかのお菓子と飲み物を、小さなエコバッグに入れて少年に半ば強制的にもたせるようにした。
「これ、持っていきなさい。返さなくていいから」
「そんな。悪いですよ」
少年は袋の中身を見て一瞬、遠慮がちに言ったが、
「せめてものお礼よ。受け取って」
どうしてもという母の様子を見て、ありがたく受け取った。
「・・・ありがとうございます」
少年はご迷惑をおかけしましたと最後に頭を下げると優子の家を後にした。
少年と母が話している間に、小春は優子を寝室に寝かしつけていた。
「ごめんね。突然いなくなって」
優子は自分勝手だった自分の行動を素直に謝罪した。自分がやられたら間違いなく怒っているはずだ。いや、小春も怒っているに違いない、と優子は思った。
「いいから休んで。お風呂すぐ沸かすね。お腹が落ち着いたら入りな」
「ありがとう」
それなのに優しくしてくれる小春に、優子は感謝と同時に申し訳なさを感じた。自分が誰にも言わずに、こそこそと父に会っていることを小春は知っていてそのことでずっと心配してくれていたのだ。
「小春・・・もう会うの止めるね」
部屋から出そうになっていた小春の背中に、優子は声をかけた。その言葉を聞いて、小春の身体が一瞬ピクリと動いた。
そして、小春は優子の方を振り向かずに、
「うん」
とだけ呟くと寝室の襖を閉めた。
「しんくんとはどうなったの?」
人がいなくなるのを見計らっていたかのように、教室から最後の1人が出ていくと夏美は自分の机で書いている進路希望調査用紙からは目を離さずに、さりげなさを装ってボソッと呟いた。
そのことに関して優子は正直何も話したくはなかったが、応援してもらった身として報告はする必要があった。
「・・・あれからは別に」
濁した返事に夏美は聞き返す。
「・・・別にって?」
「何もないってこと」
優子は友人に、神戸ルミナリエの日にあったことに関しては詳しくは喋っていない。あの夜景のようなことがもう一度起こっただけだから言う意味もないと感じていた。あの日、二回もタイミングを逃してしまった。結局、これも廻り合わせというか人と人との運命というか、人生というのは思う通りには行かないように神様に仕組まれてるみたいだ。
優子の様子を察して、夏美が悲しそうに呟いた。
「そう・・・あれだけ仲良かったのに。残念ね」
「ほんと」
優子はそう言いながら、自分の進路希望調査用紙を見つめた。第一希望には神戸大学の名前が書かれている。正直受かるかはわからない、ギリギリのラインだった。第二希望は関西大学。正直レベル的に、どちらとも落ちる可能性はある。だが優子は、これだけ頑張ったのだから、この二つの大学以外は行く意味がないと考えていた。それだけ自分の頑張りに自信とプライドを持っていた。最後の第三希望の欄に斜線を引くと、机にペンをコトンと置いた。
その音を聞いて、優子の方を見ていた夏美が仕切り直すように声を上げる。
「よし、出し行こっか」
受験の期間は突然くるわけでもなく、じわりじわりと忍び寄ってくる。そしてその恐怖は受験が近づくほどに大きくなるのだ。その怖さと焦りに苛まれながらも私は家と高校と図書館の往復の生活を半年以上も続けた。
そして来るセンター試験当日。猛烈な寒波が直撃したその日の朝は、文字通り、凍えるような寒さだった。受験会場に向かう誰もが、明日にずらせないのかと怒りを覚え、そしてその怒りは目の間に鬼気迫るセンター試験の恐怖にそれどころではなくなるのだ。学生生活を含めると2年半。その年月のほとんどを勉強に費やしたと言っても過言ではない。その費やした年月、過去の思い出、それぞれに生きたこれまでの歳月のすべてがこのセンター試験にぶつけられる。
だからこそ、高校で受け取った合否通知のハガキをめくろうとする優子の手は小刻みに震えていた。ハガキをめくると中に結果が書いてある。第一志望である神戸大学の結果がそこに記されている。優子は1人で、芦屋川の業平さくら通りの橋の花壇にちょこんと座っていた。ハガキを受け取るとすぐに高校で見る人、家族と見るために足早に帰る人、色んな人がいた。他の生徒たちと同じように合格発表を開ける場所は優子にとっても重要だった。優子の中で、感情が乱れる様子を学校で表すわけにはいかないので、高校は選択肢になかった。母と妹と一緒にようと思っていたが、考えたくもないが受からなかった時の空気を考えると到底開けられる自信がなかった。結果が決まっているのは分かっているが、開けてこの目で見るまでは自分の人生の分岐点は見えない。
冷たい空気で何度も何度も深呼吸をすると寒さで悴む右指に力を込めて、目を逸らしながらゆっくりとめくった。めくり切ってから恐る恐る視線を右に右にと慎重にずらす。そして、最後にパッと前面を見る。
『不合格』
そのデータで入力された無機質な文字はまるで鋭い刃物のように優子の心を刺した。外的要因の寒さとは違う、高熱が出た時と同じような寒気が優子の身体に駆け巡った。あまりにも無慈悲なその文字の羅列を漠然と眺めながら優子はただひたすらに、自分の制服の袖で目から溢れ出る涙を拭い続けた。
優子の涙が枯れて日が暮れる頃、家に帰ると、扉の前ではいい匂いがした。落ち込んでいるのにもかかわらずいい匂いだと少し心が踊ってしまう人間の生理的欲求に優子はうんざりした。ドアを開けて飛び込んできたのは母の明るい声だった。
「ああ、おかえり!寒かったでしょ?ご飯いま丁度できたよ」
「ただいま」
奥のテーブルからは小春が顔を覗かせた。
「お姉ちゃんやっと帰ってきた。お腹空いたー」
小春は冷蔵庫からお茶を取ってテーブルに置いた。
優子はマフラーを取ると、暖房で温められた空気が身体を包み込んでくと同時になんとも言えない安心感にも包まれていった。小春が席に着いたのを見て優子も自分の席に腰掛けた。
今日が合格発表だと言うことを忘れているのだろうか。優子はすぐに結果を聞きに来ない母と小春を訝しげに見ながらも手を合わせる。
「いただきます」
そう言った直後だった。急に目の前がふかふかのボアで包まれる。
「もごっ・・・な、何?」
優子は玲奈の腕を自分の顔から引き剥がすようしたが、ぎゅっと再び力が込められた。お腹にカイロでも貼っているのだろうか、優子の背中にはポカポカと温かい感覚が伝わっていた。
「よく頑張ったね」
その言葉を聞いて優子はハッとした。母や妹は合格発表のことを忘れていたわけではなかったのだ。冷静に考えれば、家族の重大な発表を忘れるはずがなかった。その一言は優子の心に刻まれた深い傷をじんわりと塞いでいった。数時間泣いて枯れたと思っていた涙が不思議と再び溢れ出してきた。嗚咽を母の腕のボアで抑えながらも優子は悔しさと闘うように手に力を込めた。
小春は何も言わずに、優子の涙が引くまでその様子をじっと見守っていた。涙が収まり、母も無事に優子から解放されたところで、
「食べないの?」
小春は何事もなかったかのように問いかけた。優子は涙で赤くなった目で笑いながらも今日一番元気な声を出した。
「食べよ」
それから1ヶ月が経ち、無事第二志望の関西大学には合格することができた。合格とわかった日の夜の感情は複雑だった。ようやく終わったという開放感と、受かったという嬉しさと、第一希望に受からなかったという悔しさ、これから大学での生活が始まるというわくわく感、これからどうなっていくんだろうという漠然とした不安。色んな思いが同時に押し寄せてくる。ただ一つ確かなことは、私は自分の幸せに向かって一歩前に進むことができたということだ。
あの少年と最後に会ったのは、卒業の1ヶ月前だった。少年は県外の大学に行くことが決まったらしい。場所がどことかは詳しく聞いていない。金銭面でのお礼をきちんと伝えたのが最後、それっきり少年とは会わなくなった。不思議な人もこの世界にはいるんだなと、私は去っていく少年の背中を見て思った。まだ好きな気持ちはないことはなかったが、タイミングや状況が大事だから、恋愛は難しいものだ。その気持ちも数年すれば消えてしまうこともわかっている。
アルバイトの最終日は、皆が合格と卒業を祝ってプレゼントや花束をたくさんいただくことができた。ありがたい環境を用意してくれた山本さんに感謝の電話をすると、山本さんは電話越しに「立派になったね」とワンワンと泣いてしまった。もちろん、母や妹も盛大にお祝いをしてくれた。そして、それから大学に入り、約6年の歳月が流れようとしていた。