表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

少年

 兵庫県神戸市。御影高等学校。

 ここに入学してもう2年が経つ。優子は窓側の席で雲ひとつない晴れ渡った外の景色を眺めながら考えにふけていた。

 震災からもう8年半か。時間が流れるのは早い。よく誰かが全ては時間が解決してくれるなんて言うけど、とりあえず街や人の見てくれだけは本当に解決したから、時間の流れというものは、大したものだ。街の人口は震災前ほどに増加していた。だけどあの震災で消えてしまった文化や栄えるはずだった情景はもう帰ってこない。人々に刻まれた心や身体の傷も、完治することはないだろう。そういう意味では完全な復興なんて存在しないとわたしは思う。

「───田、古田、おーい古田優子!」

 自分の名前が教師から大声で呼ばれて優子は我に返った。大空の空想から現実の小さな教室にグインと意識を引っぱり戻された優子は、自分が授業中に問題の答えを聞かれていたことに気がついてすぐに立ち上がった。

「は、はい!」

「答えは?」

 数学教師の上村は優子をじりじりと追い詰めるように厳しい表情で問いかけた。聞いていないから答えが分かるわけがない。人を貶めようとする人間の悪魔の様な表情と、クラスの視線が集中していることにあがってしまい上手く考えることができなくなった。適当な答えを言って間違えたときに余計にひどく怒られることは目に見えていた。優子は腹を決めて正直に答えることにした。

「すみません、わかりま」

 そこまで言いかけた時、頭の中に数式が浮かんだ。『tanC=3』急に何かを思い出すようにパッと浮かんだ。不思議な感覚だった。その数字が間違っているかなんて微塵も気にならなかった。その数字が正解だという謎の確信があった。

「いやえっと、tanC=3」

 教室内は、何も聞いていなかったはずの優子が正解を言ったことにざわついた。

「ああ、それで、正解だ」

 上村は優子が突然正解を言ったことに驚いてうろたえた。優子自身も何が起こったのかいまいち理解できないまま静かに席に着いた。

 上村は、次回からは一回で返事をするように、とだけ言って授業に戻った。なぜだか私の身の回りではこういう不思議なことが時々起こる。

 授業の終礼のチャイムが鳴ると生徒たちは帰宅の準備を始めた。優子は提出が一日遅れてしまった課題だけを机に残してそれ以外の荷物をカバンにしまった。

「優子ー今日あこちゃん家に寄って一緒に勉強しない?10時過ぎまで家に誰もいないんだって」

 そう言って優子の背中の方からひょいと顔を出したのは友人の夏美だった。みんなからはなっちゃんと呼ばれていた。肩くらいまでのサラサラとした髪は少し茶色がかっている。明るい性格で男子からモテるタイプの彼女は優子と表面上の性格こそ違うものの、根が真面目で勉強熱心な点で優子と意気投合した。御影高校の制服は、少し地味で古風だと言われている。紺色のブレザーにバックベルトが付いていて、プリーツのスカートは校則で膝下の長さと決められていた。そんな制服でもかわいい夏美にはよく似合っていた。

「いいね、けどちょっと出さなきゃいけない物あるからそれ出してきてからでもいい?」

「もちろん」

 夏美はにこりと満面の笑みを浮かべた。

「あこちゃんと待ち合わせだけしちゃったから下駄箱で待ってるね」

「うん、出したらすぐ行くね」

 夏美と亜子ちゃんは高校一年の時からの友人で、付き合いはもう2年にもなる。高校生活最後の夏休み前のテスト週間ということもあり周囲はみんな気合いが入っていた。御影高等学校に通う生徒たちは頭のいい人が多い。基本的に勉強嫌いな人は見たことがなかった。頑張り次第では、一般的にすごく頭の良いとされる神戸大学にもいくことができる進学校だ。大学入学をした1年次から大学進学の話を学年主任から厳しく話され始める。あくまで数字としてだが、学力がこの高校よりも低いとされる高校では、大学の話が出てくるのは2年生の時からだということを噂で耳にしたことがあった。

 優子は職員室まで行き、遅れてしまった現代文の課題を提出した。下駄箱に向かう途中、2階の窓の外から聴き慣れた声が飛んできた。

「優子ー!」

「優子ちゃーん」

 窓下を覗くと夏美と亜子が優子に向かって手を振っているのが見えた。

「いまいくー!」

 優子は手を振り返しながら下駄箱に急いだ。現代文の先生とは普段から仲がよかったため、世間話が長引いてしまった。お互いの、お勧めの小説の話が盛り上がった。

 下駄箱から靴を取り出して履いていると二人が下駄箱の入り口まで戻ってきていた。

「おっそーい」

「ごめんごめん」

 夏美は冗談ぽく優子を注意する。

「大丈夫?課題は出せた?」

 心配そうに優子に問いかけたのは亜子だった。穏やかな表情で小首を傾げている。ふわふわとした髪がより優しそうな雰囲気を強調させている。

「(女神・・・)」

 遅れたにもかかわらずその優しい言葉をかけてくれる亜子に、優子は心の中で感謝した。亜子のそういうところが優子は好きだった。

「うん、なんとかね」

 だが、安心して笑みを作った途端に重大なことを思い出した。

「あ!いけない!歴史の課題教室に置いてきちゃったかも」

 床の木の板にカバンを置いてガサガサと中を漁るがどこにも課題が見つからなかった。

「なさそう?」

「教室じゃない?」

 二人は優子のカバンを上から覗きながら呟いた。提出期限まではまだ数日あったためそんなに急ぐほどのことではなかったが、せっかくみんなで集中してやるのならば課題は片付けておきたかった。

「どうせなら今日やっときたいからちょっと取りに行ってくる」

「明日じゃダメなの?」

 夏美の問いかけに優子はきっぱりと答えた。

「ごめん、先行ってて。すぐ追いつくから」

 優子はカバンを持ち上げると教室に向かって急ぎ足で向かった。

「じゃあゆっくり歩いとくねー」

 待っていた二人は結局優子を置いて亜子の家に向かうことにした。


 優子は申し訳ないという気持ちで校内を小走りしていた。途中、大きな連絡通路に差し掛かったところで彼女は考えた。

「(こっちから言ったほうが近いかも)」

 校舎の中の連絡通路を使って教室へ行くよりも、途中にある一度だけ外を通る連絡通路を使ったほうが近いということはなんとなく知っていた。ただ普段は少し汚れているために使いたがる生徒は多くはなかった。

 優子は通路を右に曲がり連絡通路に出た。普段は通ることのない12号館を抜ければ自分たちのクラスのある3号間だ。丁度その時、ひとつ向こう側の通路に、12号館に入っていく人影があった。整った顔立ちの短髪の学ランを着た少年。

「あの人、何処かで見たような・・・?」

 優子は見覚えがあるような気がしたが、用があったのでそのまま12号館を通り抜けて3号館へと急いだ。


 亜子の家には5分遅れで到着した。家の中に入ると、亜子と一緒で物腰柔らかさそうなお母さんが出迎えてくれて部屋まで案内してくれた。

「よし、じゃあ、はじめよっか」

 夏美の掛け声で幕が開けた勉強会は、全員一切喋ることなく、黙々と数時間続けられていた。この2人が勉強熱心さには優子はいつも感心していた。勉強をしている最中、優子は何度も集中が途切れて物思いにふけることがあった。

 その中で、数時間前に見かけた男の子の事をふと思い出した。

 一番奥の連絡通路から12号館に入っていったということは、12号館に用事がある生徒だろう。12号館がどの学科の生徒だったか、レクリエーションの時に説明は受けたが、優子はあまりよく覚えていなかった。勉強中に悪いと思ったが、どうしても気になって優子は2人に問いかけた。

「ねえ、12号館ってどこの学科だったか覚えてる?」

 ローテーブルを取り囲んで勉強をしている夏美と亜子は勉強の手を止めて顔をあげた。

「ん?」

「うーん、確か理系の棟じゃなかった?」

 夏美はシャーペンを顎に当てるように思い出しながら言った。

 優子はあの少年が理系で何を学んでいるのだろうかと疑問に思いながら呟いた。

「理系か」

「どうして?」

「ううん、別に大したことじゃないよ」

 亜子に尋ねられたが、気になっている男がいるなんて言えば大騒ぎし始めることが目に見えていたのではぐらかした。恋愛的な意味で気になっているわけではないのだから。

 少し察しの良い夏美はニヤリとしながら言った。

「もしかして狙ってる男がいたりして〜」

「もう、そんなんじゃない」

 優子そう言いながらも、理系の棟に行くことを心の内でひっそりと決めた。


 翌日の授業が終わると、優子は昨日と同じ道筋を辿り、理系の棟に向かった。夏美にはバイトがあるから今日は一緒に勉強はできないと伝えた。連絡通路から12号館に入ると中には授業終わりで帰ろうとしている生徒たちがたくさんいた。男の子の雰囲気はなんとなく覚えていたため、きょろきょろと周りを探し回るがそれらしき姿が見えない。廊下を端から端まで歩いて探しても見つからなかったため、諦めて帰ろうとした時だった。優子のすぐ横を男子二人が通り過ぎた。気になって数秒してから振り返ると、見覚えのある男の子の姿があった。

「(あの子だ)」

 優子は忍足でゆっくりと二人の後を追った。二人は楽しそうに会話していたが階段に差し掛かったところで、別れた。追っていた男の子だけが二階に登っていった。優子も後ろに続いて二階まで行くと男の子が一番奥の部屋に入っていくのが見えた。通路を進んで行くと、教室のプレートが見える。一番奥の部屋のプレートには『科学実験室』と書かれていた。それ以外の教室は科学実験準備室や研究室ばかりだった。ガラス張りでチラチラと見える中の光景の非日常感に優子は少し高揚しながら歩いた。

 一番奥の化学実験室だけは、特殊ガラスで加工がされていて、中の様子を覗き見る事ができないようになっていた。ドアノブをゆっくりと握ると、音が鳴らないように静かに捻った。ドアノブを右にめいいっぱい捻り切ったところでドアの音が大きく鳴らないように静かにドアを引いた。中を覗いてみて人が多かったら日を改めようと決めていた。しかし、遅く引っ張ったつもりだったのに老朽化のためか、キイイイとひどい音が鳴った。ぎくりとする。

「すみませー・・・ん」

 静かに呼びかけながら中に入ると、幸運なことに誰の姿も見当たらなかった。実験台の上にはいくつかの実験用具が並べられていて、いままさに何かの実験の準備中だということがすぐに分かった。

「誰かいますかー?」

 遠慮がちに再び呼びかけるが、何秒経っても誰からも返事はなかった。部屋の逆側の右隅には隣の実験準備室へと繋がるドアがある。その部屋も覗いてみようとドアノブに手をかけようとしたタイミングで、優子の腰あたりに何かが引っかかった。

「しまった」

 そう思った時にはもうすでに遅く、引っかかった金属器具はバランスを崩して崩れようとしていた。慌てて下に落とさないように金属器具を抑えるがバラバラと部品が分かれてしまい何個かが床に落ちてしまう。金属の器具は床に転がりながらとんでもなく大きな音を立てた。優子はあまりにも大きなその音に驚いて身体を逃げるようにのけぞった。それと同時にタイミング悪く、実験準備室から男子が飛び出してきたため優子と正面衝突しそうになる。

「なんだ!?」

「ひいっ!」

「わっ!」

 お互いにぐっと踏ん張りなんとか衝突は免れた。後0.1秒でも反応が遅れていたらぶつかってしまうような至近距離で2人は静止した。向かい合った2人はお互いの吐息が耳に聞こえてくるのがわかった。優子は突然の状況に顔を赤くしながらもすぐに離れることができなかった。反射的に差し出した彼女の両方の掌は男子生徒の胸元にぴったりとくっついていた。

「ごめんなさい!」

 我に返った優子はすぐに両手を離してペコペコと頭を下げて謝った。

「こっちこそごめん」

 2人はそう言いながらもお互いの顔を確認した。何か昔の記憶を思い出すように男子生徒は眉を潜めた。優子は恥ずかしながらもチラチラと男子生徒の目や顔立ちを見る。2人はお互いに懐かしさを感じていた。そして、確かめるように名前を聞き合った。

「優子?」

「う、うん」

「しんくん?」

「うん」

 懐かしさで嬉しいというよりも、さっきの出来事での恥ずかしさの方が大きかった。2人はもぞもぞとしながらも、なぜだか同じタイミングで再会の挨拶を交わした。

「「ひ、久しぶり」」

 

 科学実験室の椅子に座り、優子と少年は話をしていた。始めこそ恥ずかしいものだったが、8年の距離感はすぐに縮まっていった。少年はリラックスした表情で優子と話をしている。

「何年ぶりだろう。最後に会ったのはいつだっけ?」

「たぶん私たちが仮設住宅を出る日。山本さんとか施設の人たちと見送ってくれたのをわたし覚えてる」

 優子の緊張もほぐれて普段と同じようにリラックスしていた。

「小春ちゃんは泣いてたよね」

 少年は思い出すように言うと、優子はその時を懐かしむように笑った。

「しばらく引きずってたよ」

 仮設住宅の時はよく三人で遊んだものだった。昔の思い出話をしていると、少年は急に改まった表情になった。

「また会えて嬉しいよ」

「わたしも」

 少年はにこりと微笑み、優子も照れながら笑った。

 すると突然、実験室の外から騒がしい声が聞こえてきた。

「よっしゃー続きやるかー」

 その声を聞いて少年はハッとした顔をして言った。

「部員たちが帰ってきた」

 優子は一緒にいるのが見られて邪魔になると悪いと思い、すぐに椅子を立って教室の出口に向かった。

「じゃあ、わたし行くね」

「うん、またね」

 優子は連絡先だけでも聞こうかと思い一瞬立ち止まったが、こうしてまた会えたのだから次もまた会えるだろうと信じて前に足を進めた。


 御影高校から優子たち古田家の暮らす公営住宅までは自転車で東へ10分ほどの距離だ。そのまま北の山の方へと登っていくと、震災前に暮らしていた渦森台がある。徒歩5分圏内にはJR住吉駅も通っていて利便性で言えば文句なしの場所だった。すぐ近くに流れる住吉川は港にある六甲アイランド場所まで続いている。

 震災があってから1年後には引っ越しをしたので、もうここへ住んで7年にもなる。それくらいの年月が経つと公営住宅からの引っ越しを進める人たちもいたが、それでも金銭面を考えて移動しない人の割合の方が多いらしい。

「ただいまー」

 授業終わりにいつも行っている東灘図書館での自習を終えて家の玄関の扉を開けると、いつもとは違って部屋がやけに暗かった。普段19時に家に着く頃には玲奈も小春もご飯を食べ終えてリビングからテレビの音が聞こえてくるのだが、今日は違った。

 返事が聞こえてこない。廊下の電気をつけてリビングに入るが誰もいなかった。出かけているのかと思い、個室側の扉を開けると母親が布団で寝ている姿があった。優子の足音に気がついたのか玲奈は布団の中でもぞもぞと動いた。

「ああ、優子おかえり」

 優子は母親の弱り切った声に驚いた。ひどく汗をかいていて呼吸も荒い。何かあったのか荷物を置いて駆け寄った。

「どうしたの?」

「なんか風邪引いたみたいで熱もちょっとある」

「大丈夫?冷えピタは?」

「いま小春が買いに行ってくれてる」

 そうこうしていると玄関からガチャガチャと物音がした。小春が帰ってきた。小春はビニール袋を提げて早足でリビングに入ってきた。中学生になった小春は、小さい頃とは違って子供っぽいツインテールではなくなっている。前髪も切りそろえ、少し大人びていた。服が制服ではなく普段着なのを見ると一度帰ってきて買いに行ってくれたのだろう。

「ああ、お姉ちゃん。夜ご飯も買ってきたよ」

 小春はビニール袋の中から冷えピタと飲料水と薬を手際よく取り出して母の元に持って行った。

「ありがとう。何度くらいあるの?」

 優子は心配そうに腕を組んでせっせと動く小春に聞いた。小春は手を動かしながら答える。

「さっき測ったら39度1分だった」

 それを聞いて優子は驚いた。

「ひどい熱。仕事場には電話したの?」

「しばらく休みにしてくれたって」

「そう。明日すぐ病院に行った方がいいよ」

 そう言った途端、玲奈が口を挟んだ。

「家でしばらくゆっくり休んでから様子見てでいいよ」

「ダメ。病気なんだからお金とか関係ないから」

 小春は自分の体調よりもお金の心配をする母親に強く言った。冷えピタを貼り、薬と飲料水を飲ませ終えると電気を消して寝室の扉を閉めた。小春は疲れて壁にもたれかかっている。

「ふう、早くよくなるといいけど」

「そうだね」

 母子家庭での母親の病気は生活が主に金銭面で危うくなってしまうことを2人は言葉にしないながらも理解していた。1ヶ月働けなければ水道代や電気代や携帯代が払えなくなり、払えなくなれば容赦無く何も使えなくなる。この生活をしていて何度か経験したことだった。もちろん母子家庭の補償や父方のおばあちゃんからの仕送りなどはあったが、母の立場上、全面的にそちらに甘えるわけにもいかなかった。

 小春はビニール袋から2人分のコンビニ弁当を黙って取り出すとテーブルに並べた。

「お腹すいたから食べよ」

「そうだね」

 海苔弁当だった。2人は静かに弁当を食べ始めた。

「(シフト増やさないとな)」

 優子は弁当を静かに食べながら、ぼんやりと考えた。

 

 3年の1学期中間テスト最後の答案用紙が帰りにホームルームで返却された。教科は現代文だった。優子は担任から答案用紙を受け取り席に戻って恐る恐る点数を確認した。70点。その点数を見て、ダメだったという後悔よりも、仕方ないという諦めの気持ちの方が大きかった。普段なら90点は取れているテストだから悲しかった。ここ数週間、優子は働き詰めだった。土日は8時間ずつフルタイムで働き、平日高校の授業終わりに3日バイトに入り、勉強は平日のバイト終わりの寝る前の数時間と残りの休みの日でやるしかなかった。バイト終わりのその数時間でさえ、くたくたで集中はできてなかった。

「優子ー今日勉強してく?」

 放課後。夏美が優子の両肩をほぐしながら聞くと優子はにこりと笑って言った。

「やめとく」

「今日もB?」

 Bというのは夏美との間で使っているアルバイトの隠語だった。この高校はそもそもバイトが禁止されている。夏美はなんとなく優子がバイトを増やしていたのを知っていて、少し心配そうに尋ねた。

「ううん。違うけどもういいの」

 優子は答案用紙を少し乱暴にバッグに入れ込んだ。その普段とは違うどこか投げやりな様子に夏美は声をかけて引き留める。

「大丈夫?もし協力できることがあればなんでも言ってね」

「うん」

 優子は冷たく返事をして教室を足早に後にした。

 下駄箱を出たところに、少年の姿があった。少年と話すようになってからもう1か月半ほどが経っていた。科学実験室で再会して以来、あの時のように、お互いに少し時間を作って下駄箱を出たところの脇にある人気のない小さい階段のスペースで話をしてから帰るようになっている。

「テスト、どうだった?」

 またか、と優子は心の中ではうんざりしたが、相手はそんなつもりで聞いてきてはないとわかっているため意地の悪い感情はグッと心の内側に押し込めて笑顔で答えた。

「あんまりかな。今回はちょっと苦手なところだったから。しんくんは?」

「まあまあかな。僕も苦手な範囲だった」

「行きたい大学とか決まってるの?」

 理系を選んで科学部で科学実験まで放課後にやっているのだから、理系に強い大学を志望しているかと思って聞いたのだったが、少年からは想定外の答えが帰ってきた。

「特に決まってないよ」

 みんなそんなもんなのかな。親に言われて目指していたり、決まっているけどそこで何がしたいか決まっていなかったり、ここに行ってこれをするという明確な目標がある人はあまり見たことがなかった。

「そう。決めるのって難しいよね」

「うん。優子は?」

「私は決まってるけど、今のままじゃ無理そう」

 4月の下旬に母がひどい熱を出して以来、体調が悪い状態が続いていた。熱こそ治ったものの、頭痛や身体のだるさが抜けなくてパートの仕事を休むことがたびたびあった。母に兄弟はいないし、両親や母方のおじいちゃんおばあちゃんも亡くなっていたため、血が繋がった家族で頼れる人はいなかった。父方のおばあちゃんには、食材などの仕送りを送ってもらっているため、これ以上心配させるわけにはいかないと、母は自身の体調のことを伝えていなかった。その足りない分の生活費は家族である優子が稼ぐしかなかった。

「どうして?」

 少年の質問に正直に答えるわけにはいかなかった。アルバイトのことは夏美にしか話をしていない。知っている人は最小限にしないといけない。教えれば教えるほどにバイトをしていることがバレる確率というものはぐんぐんと上がる。もし学校にバレたら、お説教に反省文、通学停止に追加課題、それにアルバイト先の方々にも迷惑がかかってしまう。それだけはなんとしても避けたかった。

 たとえその質問が、親しい友人の亜子からのものであっても優子は同じ答えを返しただろう。

「勉強がちょっと、追いつけなくて」

「本当にそれだけ?」

「うん」

 実際、御影高校の勉強のレベルは一般的な高校と比べても少し高い。入学してから勉強についていくことができずにやめていく生徒たちはゼロではなかった。自分にできることは勉強しかない。そう思っていたが、その幻想もゆっくりと崩れ始めていた。優子はそれで少年が納得すると思っていた。だが、少年の一言は予想していないものだった。

「バイトのせいじゃなくて?」

「どういう意味?」

 優子は反射的に聞いていた。バイトをしていることは少年には伝えていないはずだった。知っているはずがない。表情が真剣になった優子を見て、少年は慎重に言葉を選んだ。

「先週、たまたま君が魚崎の児童センターに入っていくところを見たんだ。六甲アイランドの方で用事があって、それに、よく東灘図書館でばったり会ってたのに急に来なくなったから。それで、もしかしてって」

 魚崎の児童センターは彼女たちの住む住吉付近から自転車で南に10分ほどの場所にある。震災の時にお世話になった山本さんのツテで手伝いという形で働かせて貰っていた。迷惑を極力かけたくないため、あまり知られたくなかったが、隠せなかった自分に不甲斐なさを感じた。行く時と帰る時は軽く変装をするなど、万全を期していたはずなのに、見られていたのなら仕方がない。

「そう。そのせいもある。だけどそれは家庭の問題だから仕方ない。それも含めて私の実力だよ。だからって、どうにもできないから・・・」

 これまでにお金の問題はイヤというほど考えてきた。優子は今日はもう話す気が起きないからと引き上げようとした。それに同級生に弱音を吐いてみっともないところを他の人や少年に見せたくなかった。

「今日はもう行くね」

 優子がすっと立ち上がり、階段を降りていると、少年が後ろでボソリと呟く声が聞こえた。

「どうにかできないこともない」

「え?」

 少年が言った言葉は聞こえたが、それが何を意味しているのか優子には理解できなかった。

「どういう意味?」

 優子が後ろを振り返った時、そこに少年の姿はなかった。


 翌日の授業終わり、バイトに向かうため、いつものように児童センターに入ると山本さんの友人であり児童センターの責任者の前田さんからカウンターに手招きをされた。

「優子ちゃんこっちへきて、話があるの」

 奥のモニタールームに招き入れられ、扉をかちゃりと占めると責任者の前田さんは、ふうと一息ついた。

「なんでしょう?」

 優子が尋ねると、前田さんは表情を和らげて話を始めた。

「あなた、仕事頑張ってる見たいね。地域の人からもすごく評判がいいわよ」

 いきなり褒められて少し驚いた。だけど仕事に関しては、普段から一生懸命やろうと意識はしているつもりだったので、素直に嬉しく思った。

「あ、ありがとうございます」

「それでね、話っていうのは、そういった頑張りを加味してあなたのお給料をあげようと思って」

 働いてもう2年ちょっとになるが、今までにそんなことは一度もなかった。自分の頑張りが認められた気がした。ただ、優子の給料は山本さんが気を利かしてくれて普段から人よりも高く設定されていた。だからこそこれ以上時給が上がることなんて考えたこともなかった。

「え、そんな、どうしてですか?」

「どうしても何もあなた真面目に働いてくれてるじゃない?始めは高校生を雇うってなって心配だったけど遅刻もせず、勉強と両立して立派にやってるわ。それを評価したいだけよ」

「でもそんな突然、いいんですか?」

「いいわよ。山本さんから事情も聞いてるわよ。大変だったでしょう?」

 前田さんは震災後に兵庫県に移り住んで来た人だった。優子はあの時の生活の辛さが急にブワッと湧き出してきた。優子はゆっくりと2回3回とうなずいた。

「今もそうだと思うけど、あなたたちならきっと大丈夫よ。勉強がんばりなさいね」

 前田さんは涙ぐみながらも、優子の背中を暖かくさすった。前田さんの声は温かい。人を包み込み、安心させる声だ。昔、母が言っていた。優しい人は人の苦しみを知っているから人に優しくできるんだと。前田さんとはあまり話をしていないけれど、前田さんもきっとそうなんだと感じた。優子は気がつくと涙が止まらなくなっていた。

「はい、ありがとうございます。ほんとに、ありがとうございます」

「もう今月振り込む給料から反映させといたからね。さ、涙は吹いてから行きなさい。子供たちが待ってるわ」

 普段は感じないけれど、人の優しさに触れた途端に、あの当時の心の傷は今もまだ残っているんだと実感する。そしてこの傷は一生消えないものなんだと気が付き、また悲しくなる。とても、悲しくなる。

 バイトが終わった帰り道、優子は住吉川沿いの歩道を歩いていた。昨日夏美にひどい態度をとってしまったことを謝ろうとメールを打ち込んでいた。

『昨日はひどい態度とってごめんね』

 勇気を出してメールを送信する。携帯をポケットにしまうとすぐに通知の音が鳴った。急いで取り出すと夏美からの返信だった。

『平気だよ。ただ、優子最近思いつめてるようだったから心配だった』

『もう大丈夫。ありがとう』

『あの子とはうまくいってる?笑』

『別に何もないよ笑』

 少年ことを話したのが間違いだった。その時は話が盛り上がってついつい話をしてしまったが、たまにこうして茶化される。 

 その時ふと昨日のことを思い出した。少年から言われた言葉を思い出した。

『どうにかできないこともない』

 その言葉の意味が言われたときにはピンと来ていなかったが、もし今日給料が上がったことと関係があるとすれば一大事だ。でも普通に考えて無理だった。無理だったのだが、優子はこういう不思議な状況を経験するのは何度かあった。一度目は震災前。瓦礫の中からしたあの少年に似た声。そしてその直前に言われた言葉。去り際に告げるあの感じ。あまりにも似ている。

「そんな、まさか」

 前回の地震の時は聞けなかった。疑惑が徐々に確信に変化していった。今回は変なやつだと思われても関係ない。あの時はタイミングが来たらなんて思っていたけれど、今がきっとその時だ。優子は少年に直接聞くことを決心をした。


 優子は放課後に科学実験室に向かった。足取りは早く、聞きに行くというよりも問い詰めに行く勢いだ。科学実験室の扉をガチャンと開けると教室内にいた男子生徒たちの視線が一斉に優子に集まった。皆何が起きたのかわからずにキョトンとした顔をしている。男子生徒たちが誰だとざわつく中、優子は少年の顔を探した。少年を見つけるとすぐに少年の方に近づいていく。

「何か用ですか?」

 部員の1人が聞くが優子は無視した。少年の腕をガシッと掴むと目を見て訴える。少年はすぐに察したのか、

「ごめん、ちょっと抜けるよ」

 部員の皆にそう言って席を立った。

 優子はそのまま無言で少年を科学実験室の外まで連れていった。校舎の外まで出ても手を引っ張っている。早足で歩く優子に少年は引っ張られながらも声をかける。

「そんなに急いでどうしたの?」

「話があるの」

「ここじゃダメなの?」

 そう言うと優子は校舎裏で足を止めた。少年の腕から手を離してグッと一歩詰め寄った。

「君がやったの?」

「何を?」

 優子は昔から知らないふりをしようとする態度にはすぐに気がつくタイプだ。優子は呆れるように首を振って起こったことを話した。

「君があの日、『どうにかできないこともない』なんて言った次の日に私のアルバイトの給料が上がった」

 少年の表情が曇る。

「僕は、何もやってないよ」

 少し戸惑う様子を見て優子は少年がやったのだと確信をした。

「小さい頃からずっとおかしいと思ってた。8年前のあの日、あの震災が起きる前、君は言った。『もうすぐ選択の時がくる』って。そしてそのすぐ後、震災が起きた。そして今回も、それと同じことが起きた」

「なんの話をしているのか」

 全てを話した上で、優子は真実が知りたかった。

「とぼけないでよ。私は全部知ってる」

 優子は少年の顔を真剣に見つめた。しばらくすると少年は白状するようにようやく白状するように話し始めた。

「ああ、僕がやった」

「そう、それで、えっと何をしたの?突然給料が上がるなんて。それに、こんなの、ありえない」

 優子は自分の今月の給与明細を少年の前に突き出した。記載されていた金額は30万円を超えていた。普段の2倍になっている。あまりにも高い金額にありがたかった反面、恐怖さえも感じていた。

「それは、言えないよ。けど、優子が卒業するまではその金額で雇ってくれる。彼女たちの生活に支障は何もないから大丈夫だ」

 優子は少年のことで何かあるのではないかと疑っていたが、いざそうだと事実が認められると戸惑った。そんなオカルトみたいな力、信じないタイプではなかったが、あまりにも非現実的で困惑する。

「そう。じゃあ、あの地震の時も」

「・・・ああ」

「じゃあもしかして今まであった不思議な現象は・・・突然パッと答えが思い浮かんだりしたのも、全部君がやってたの?」

「優子を助けようと思って」

 優子は混乱して頭を押さえながらも少年に一番聞きたいことを問いかけた。

「それで、あなた一体、何者なの?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ