傷跡
震災の被害は甚大だった。淡路島北部沖を震源地とした地震は近くにある野島断層を破壊、それにより大きな断層破壊が発生した。淡路島の形に沿う様に斜め上に割れた断層は大阪湾の上部左半分を占める兵庫県神戸市の真上だった。震災による火災、建物の崩落、鉄道や道路のインフラ破壊などにより、町は壊滅的な状態に陥った。さらに道路崩壊などの影響による救助の遅れなども重なり、負傷者は4万人以上、死者は6000人以上にも及んだ。死亡者の7割は建物に潰されて亡くなった。第二次世界大戦後、最悪の地震災害だった。
優子たちの住む地域の被災者たちが食事をとることができたのは、震災から実に7日経った日のことだった。
渦が森の小学校の体育館は避難所にもなっていてこのあたりの地域の被災した人たちが、家から持ち出した毛布にくるまり、冬の体育館のキンとした寒さを耐え忍んでいた。なるべく多くの人が入れるように、布団が一枚一枚敷き詰められるように敷かれていて、足の踏み場はほとんどない。
その日の体育館も、避難所になってからの毎日と変わらない日だと誰もが考えていただろう。ガラガラガラガラと普段より勢いよく開いた体育館の大きなドアの音に中にいた数人が音のする方へ視線を向けた。ただの迷惑な人かと思ったが、すぐにその男の人の一言で違うことがわかった。30代ほどの男性は息をハアハアと切らして肩を上下させながらも中にいる全員に聞こえるように声を張って言った。
「みんな!配給が来る!今日の昼だ!」
その希望の一声は、体育館の中に淀み漂っていた不穏な空気を外へと押し出し換気するかのように人々の活気を湧き起こさせた。中にいた数人は男性の元へと駆け寄り、より詳しい内容を聞こうと取り囲むようにして話を始めた。
その知らせに優子も母も一緒になって安心した。小春は布団の上で寝ていて、近くには松葉杖が置かれている。病院は医者不足とベッド、水、食糧不足により治療の済んだ人たちは病院を後にせざるを得ない状況だった。優子は手を骨折、小春は足を骨折した。2人とも通院が必要なのだが次に行くのは1週間後と指定された。
ところどころから、よかった、という安堵の声がヒソヒソと聞こえてくる。なにも見えない暗い空間の遠くで光が見えたような、そんな気がした。
お昼になり配給車が到着すると、お腹を空かせた人たちが体育館からぞろぞろと顔を出し列をなしていった。
玲子は小春の寝相でめくれてしまった毛布を肩までかけ直してゆっくりと腰をあげた。
「お母さん列に並んでくるね」
「あ、わたし行くよ」
優子は母を引き止めるとすぐに立ち上がった。
「外寒いし手怪我してるんだから安静にしてないと」
玲子が心配そうに言うと優子は靴を履きながら答えた。
「平気。お母さんは小春と一緒にいて」
ここ数日。体育館の中にこもっている時間がものすごく長かったから優子は少し気分転換をしたいという思いもあった。
外への扉を開くと冷たい空気が隙間に流れ込んできた。話をしている人たちの口元から煙が見えるほどの寒さだった。
「さむっ」
優子は毛布を鼻の方まで持ち上げてグランドに向かった。
グランドには配給のための簡易テントがいくつか建てられ、その下で、遠い町から駆けつけたボランティアとみられる人たちがせっせとご飯を作っていた。用意されたのは味噌汁とカレーとリンゴ。5日ぶりの食事だというのに、普段感じる美味しい料理を目前にした喜びや興奮は少ない。それよりも飢え死にしなくても済むという安心感の方が大きかった。
列には何十人も並んでいるが数分立ち止まることはなかった。食事を渡すだけなので流れが比較的に早かったからだ。優子が列で並んでいると一個前に並ぶ青年とお年寄りの男性が噂話をしていた。近くにいた優子はその人たちの会話が嫌でも耳に入ってきた。
「なんか極道の人が炊き出しやってるとこもあるらしいっすよ」
お年寄りの男性は、腕を組みながら喋る青年からそんな噂を聞くと、周囲よりも格段大きい声で力強く言った。
「そんな奴らの炊き出しなんておらあ死んでも食わねえ」
「テレビで報道されて知名度をあげるために決まっていますよね」
限られた空間では噂話がよく話される。
最近、神戸ポートタワーのある中央区の三宮駅周辺で極道の人たちが、炊き出しや人命救助の支援などをして市民を助けているという噂が広まっていた。真実はわからないけど、たとえ知名度をあげるためであっても、そういう行動は被災者にとってはありがたいものなのにと、優子は心の中で静かに思った。
そんな噂話を延々と聞いていると気がつけば優子の順番が来ていた。配給の人たちは次々と手際よく食べ物を配っている。優子は三人分の炊き出しをトレーにもらうと、ギプスをうまいこと駆使して、体育館に戻った。もうすぐ食べられることを考えると口の中からよだれが溢れ出してくる。
体育館に入ると玲奈が誰かと電話をしているのが見えた。自分たちのスペースまで誰かにぶつからないように慎重に歩く。周囲の活気に気がついたのか、小春は起き上がっていた。
「誰?」
「おばあちゃんだって」
なにやら喧嘩している口調のようにも見える。
「そう、それよりも、ご飯持ってきたよ」
優子は座りながら、ご飯をのせたトレーを毛布の上に置いた。小春はすぐにその中の一つを持ち上げると一目散にカレーをかき込んだ。優子もその様子を見ながらカレーを口に運ぶ。カレーの温かさと空腹が満たされる安心感で優子の目には涙が滲んだ。
電話が終わった玲子は優子にご飯のお礼を言いご飯を食べ始めた。
「おばあちゃんなんて?」
優子が聞くと、玲子は淡々と答える。
「みんなは大丈夫かって」
あれだけ長々と話をしていたのに、と優子は不思議に思って聞いた。
「それだけ?」
「うん、それだけ」
この口調の時のお母さんは何を聞いても教えてくれない。絶対に何かあったのだろうけれど、優子はその態度から察してそれ以上聞くのをやめた。
炊き出しを食べ終えてゴミ箱に持っていく途中、体育館の入り口付近に見覚えのある人影を見かけた。あの、少年だった。
「あの子・・・」
扉の影から優子の方を見ている。
優子は急足でゴミを捨てた後、少年のいた出口の方へ行った。少年は体育館外の階段に座っていた。優子は少し感覚を開けて少年の右側に腰をかけた。
そして、なぜ帰り際にあんなことを言ったのか。一言言ってやろうという気で息を整える。少年は優子の存在に恐らく気がついてはいるが、彼女の方は見ずにどこか遠くを眺めている。
「まさかこんなことが起こるなんて」
少年が呟いた。
「そうね、ほんと」
優子はなんとなく相槌を打った。
少年の横顔を改めてみると美しい形をしていた。美術館の絵みたい、優子は密かにそう思った。あまりにじっと見てると悪いので視線を逸らす。
あの声は本当にこの少年だったのだろうか。あの時はその確信があったはずなのに、なぜだか時間が経つとそう言い切れる自信は薄れていた。直前に話をしたから、彼の声の幻聴を聞いていたのではないか。あの時の優子の精神状態はパニックに陥っていたので、決して正常だということはできない。ここで急に問い詰めるのも違う気がするし、もしも違ったら、精神がおかしくなったと思われる。
そんなことを考えていると、
「小春ちゃんやお母さんは大丈夫だった?」
少年が心配そうな声で優子に聞いた。
「うん、大丈夫だった」
「そう、よかった」
そういえば、少年の家族はどこにいるのだろうか。どこか別の場所で避難しているのか、もしかしたら怪我をおってしまったのか。優子は気になって聞こうか迷っていると、少年が優子の怪我に気がついたのだろう。優子の顔を見て驚いたように言った。
「腕どうしたの?大丈夫?」
「骨折しただけ、大した事ないよ」
優子は恥ずかしそうに肩を上げると努めて明るく答えた。
「だといいけど・・・」
「それより外、歩かない?」
「いい気分転換になりそう」
優子が提案をすると少年は快諾した。優子は歩きながらも、なんで歳下っぽいのにタメ口なんだろうと内心首を傾げていた。
避難所の外側は、文字通り瓦礫の山だった。この景色にも見慣れてきたのだろうか、恐怖はあまりない。全てが壊れた1日目の恐怖感に比べればまだ良かった。外の惨状に関わらず、空には雲一つない気持ちいい青空が広がっている。歩いている最中、優子と少年はたわいもない会話をしていた。相変わらず少年は身の上話をしたがらなかった。
「そっか、それで、タメ口だったんだ」
「年上の人にいきなりタメ口は効かないよ」
少年は笑いながら言った。どうしてタメ口なのかずっとモヤモヤしていたが、事前に小春から優子の年が何歳か聞いていたらしい。
それを聞いた途端に優子は少年に親近感が湧いた。それと同時に優子は少し恥ずかしく感じた。少年のことを歳の下の男の子だと思っていたからだ。渦森展望台公園に行ったあの日の年上っぽい振る舞いを思い出すとお腹のあたりがそわそわとした。
そして優子はもう一度、あの時には聞けなかったことを少年に尋ねた。
「そう、それで、名前は?」
「しん」
ようやく名前を教えてくれたと、優子は嬉しく思った。ただ、それと同時にある瞬間を思い出した。少年が最後に言った言葉だった。
『もうすぐ選択の時が来る』
確かにそう言ったのを優子は覚えている。あの時はなんのことを喋っているのか意味がわからなかった。そしてその後すぐにひどい地震が起きた。優子は記憶を思い出すに連れて、少年に対しての疑問が湧いてきた。それにあの時の声、
『さあ、選択の時間だよ』
間違いなく少年の声だった。地震の前に喋っていることとも辻褄があう。でもそんなことがあるかな?優子は隣を歩く少年を改めて眺めた。どこにでもいる、普通の男の子だ。話をした感じだと怪しいところやおかしな点は感じなかった。あんなひどい状況だ。やっぱりわたしがおかしくなっていたのかもしれない。優子は自分の中でそう納得させようとした。だけど地震前に言ったこと。あれはどう考えても現実に少年が言っていた。少年がそう言った事実だけ、優子はどうしても確認したかった。
「あの、変なこと聞くようだけど」
「なに?」
言おうとするがなかなか言い出せなかった。
「ううん、なんでもない」
何かタイミングがあった時にでも聞こう。優子はその疑念を心の奥底にそっとしまい込んだ。
避難所の渦が森小学校を出てから1時間が経とうとしていた。もうすぐ帰ろうかと話をしながら歩いていると、少年が遠くの何かに気がついて指をさした。
「ねえ、見てよ」
指差した方に目を凝らすと白髪の優しい顔をしたおばあさんが壊れてしまった家の前で肩に担ぐほどの大きなカメラとカラオケで使うようなマイクを1人の男性から向けられているのが見えた。
「テレビの取材かな?」
2人は気がつかれないように近づいた。おばあさんはテレビのインタビューを受けている最中だった。おばあちゃんはエプロン姿だった。建物の前にはトランクが大きく広げられた軽自動車が止まっていた。車はすすだらけで元の色がよくわからないほどに真っ黒くなってしまっている。二人は高架下の柱の影からその様子を覗き見た。優子は少年の後ろから顔を出すようにすると、インタビュアーとおばあさんの会話が聞こえてきた。
「ここはあなたの家だったんですか?」
「うん、焼けて全部潰れちゃった。なんとかして持てるものだけ持ってきたんだけどね。それを積み込んでるところよ」
おばあさんはインタビューに懇切丁寧に答えながら、なんとか家から持ち出した自分たちの荷物を車に詰め込んでいた。青や黒のゴミ袋をぎゅっぎゅっと何度も押し込んでいる。数秒の沈黙ののちにインタビュアーが尋ねる。
「これからどうするんですか?」
おばあさんはその質問に数秒黙り込んだ。荷物を積み終えたのか、後ろのトランクの扉をゆっくりと閉める。
「さあねえ。とりあえず愛知県の実家のほうに帰って、ほんで、1ヶ月くらいは過ごそうかと思ってるけどねえ、立て直すのにそれくらいかかるでしょ?・・・こんなんだから1年2年かかるか」
おばあさんはそう言いながらもケタケタと笑っている。
トランクの締まりが甘かったのか、もう一度トランクに手をかけると勢いをつけて締め直した。インタビュアーはおばあさんのその姿に、その言葉に、その表情に、なにも言わなかった。かける言葉が見つからないというのはこういうことを言うのだろう。
おばあさんは最後に深々とお辞儀をしてインタビューは終わった。優子と少年はお互いになにも話さずにその場を後にした。可哀想、酷い、そんな言葉がちっぽけに感じるほどに惨たらしい現実が人々に向けて叩きつけられていた。
帰り道に通りかかった公園では焚き火をしている人たちがいた。公園の真ん中に火を焚いてそれを取り囲むようにベンチを並べて寒さを凌いでいた。ベンチに座れない人たちは、地面に毛布を敷いて火の灯りで温まっていた。優子は横目でその光景を見ながら歩いていると、椅子に座っているおじいさんの新聞の見出しが目に入った。
『阪神大震災 死者1200人を超える 行方不明10000人』
写真には、燃え上がる民家と崩壊した家などが貼り付けられていた。おじいさんは動かずにじっとその表紙を眺めていた。街にいる人たちはみんな自分を取り巻く状況や環境と静かに戦っていた。
避難所に戻る頃には外はだんだんと暗くなり始めていた。冬は日の入りが早い。少年は用事があると言って別の場所へ行ってしまった。自分たちの場所に戻ると、誰もいなかった。優子は周りを一周ぐるりと見渡す。すると、遠くの方で歩き回っている小春の姿を見つけた。なにをしているのか気になりすぐに小春の元へと向かった。
「小春、なにしてるの?」
「あの時のおじいさんがどこにもいないの」
小春は渦森台展望公園に一緒に登ったおじいさんを探していた。住んでいるのがこのあたりの地域で、この避難所にいないというのは珍しい。ほとんどの近所の人はこの施設にいた。だけど、公園や、病院で治療を受けている可能性もある。それに避難所はここだけではない。最悪な可能性を考えるにはまだ早すぎた。
「きっと大丈夫よ。どこか別の場所に避難してるんだよ」
努めて明るく言ったが、小春はどこか不安げな面持ちで呟いた。
「だといいけど」
「お母さんは?」
小春は外を指差した。
「外で手伝いしてるよ」
「手伝い?なんの?」
「わかんない」
「どのへん?」
「わかなんないけど外にいる」
「どれくらい前から?」
「さあ。10分くらい前から」
「そう」
続けざまに質問をしていると小春が真剣な表情で優子を心配した。
「お姉ちゃん大丈夫?」
小春の言葉に優子は驚いた。自分ではなにも普段と変わらないと感じていたが、他人からするとおかしくみえたということだ。だが実際に優子が受けていた心の疲労はかなり大きかった。どこか落ち着きのない優子の姿に小春は違和感を感じていた。
「顔色悪いし休んだほうがいいよ」
顔色が悪いというのなら体調が悪いのかもしれない。言われてみると急に倦怠感のようなものが身体にじわじわと出てきた。
「そうだね、そうする」
優子は布団で身体を横にすると、すぐに眠りについた。
目の前には真っ暗な一本道が続いてる。どこまで続いているかはわからないが、これがきっとどこまでも続いているのが感覚的にわかった。先が全く見えない。両側には潰れてしまった家が瓦礫となって転がっている。優子はその道を一人でゆっくりと進んでいた。
突然、ライトの明かりが優子に当てられた。なんだろう。そう思った途端、ライトの明かりはどんどん近づいてくる。人がいる。やけに早足だ。優子は怖くなり少しだけ後退りをする。そして優子は正面から両肩をガシッと掴まれた。ライトが地面を転がり、30代ほどの男性の顔が目の間に浮かび上がった。あまりの恐怖で言葉が出ない。男は緊迫した表情で優子に言った。
「従兄弟を!兄さんを!母さんを!助けてくれ!」
急に大声で言われ、萎縮していまう。どうしたらいいかわからなかった。瓦礫の山を指さしているが、それをどけろということだろうか。そんなのできないに決まっている。優子が涙目になっていると男は続けた。
「みんな瓦礫の下に埋まっちまった!みんな!瓦礫の下に埋まっちまったんだ!」
あまりの迫力に圧倒されて過呼吸気味になり、すぐに涙が溢れ出してくる。どうすればいいのか震えていると、遠くから原付のエンジンの音が聞こえてきた。そしてすぐに運転手と思われる別の男性の声が飛んできた。
「おーーーい!マモル!」
原付がスピードを落としなが近づいてくると、男は優子の両肩から手を離して原付の方へと駆け寄った。そのまま原付を止めるように、ケンの胸ぐらをぐっと掴んだ。
「兄さん!生きてたんだな!」
ケンという男性がこの人の兄なのだろう。マモルが再会に喜んでいたが、その喜びはすぐに悲しみに変わった。
ケンは真剣な顔でマモルの目を見た。その表情にマモルも何かを感じたのか表情が曇った。ケンは口にはタバコを咥えながら深く深呼吸をするように息をしている。
「落ち着いて聞けよ。トウカは俺が助けた。無事だ。だけど、母さんは、助けられんかった」
従兄弟は助かったが母は助からなかった。その知らせにマモルは絶望した。
「くそ!くそ!くそ!」
歯を食いしばるマモルにケンは落ち着いて母のことを伝える。
「炬燵と壁の間に挟まってる。俺らではどうにもできんかった」
「死んだのか?」
マモル食い気味に大声で聞いた。その質問にケンはゆっくり二度頷いた。マモルは様々な悔しさが溢れ出て瓦礫を蹴り上げた。
「くそう!!」
「そこに」
ケンはすぐにマモルを案内するようにすぐ近くにあった家の裏へと向かった。一部始終を見ていた優子もなぜか吸い寄せられるように後ろに続いた。家の横側付近で二人が立ち尽くしている。場所的に見て、リビングがあった場所だろう。優子も恐る恐る覗くと、そこには彼らのお母さんの、むごたらしい死体があった───
「いやああああああ!!!」
優子が飛び起きたのを見て、玲奈は慌てて彼女の頭を抱き抱えた。酷く悪い夢でも見たのだろう。こんな経験をした後だ。小さな子供なので無理もない。玲奈は何度も何度も優子の頭を撫でながら優しい声をかけた。
「優子、大丈夫よ。優子?お母さん、お母さんよ。大丈夫よ、もう大丈夫」
「はあ、はあ、はあ、はあ」
優子は額にびっしょりと汗をかいていた。動悸も早い。小春もその声に驚いて起きて、その様子をすぐ隣で見守っていた。周りにいる人も騒ぎに気がついてチラチラと優子たちに視線を向けていた。あまりにもひどい様子に小春は優子の背中を何も言わずにゆっくりと優しくさすった。
「もう大丈夫よ。かわいそうに」
玲奈は優子の頭を撫で続け、優子はしばらくの間、彼女の膝の上で泣きじゃくっていた。
そして、震災が発生して1ヶ月が経った。メディアではこの地震が「阪神・淡路大震災」と報道されるようになった。時が経つにつれて被害も明確になり始めていた。倒壊家屋24万棟、焼けた家屋7500棟、避難民は約32万人を超えていた。日数が経つにつれて連日の報道も収まりを見せ始めた。その間、兵庫県の人口は毎月1万人ほど減少を続けた。多くの人々が街を去ったことで復興までの道のりはより困難なものになると予想された。そしてその頃、被災した人たちの仮設住宅への移動が決まった。
「よい、しょっと」
仮設住宅の玄関の二重の扉を足で押さえながら優子は頼まれた食材を部屋の入り口に置いた。
「ただい───」
そこまで言った優子の身体に張り付いてきたのは、湿気にまみれたもわっとした嫌な空気だった。急に息苦しくなる。
「またやったの?」
この湿気を味わうのは何度目かだった。優子は靴を脱いで荷物を持ちながらうんざりした。
「しょうがないじゃない、壊れてるんだから」
お風呂場から顔を出したのは、母の玲奈だった。玲奈は壊れたお風呂のドアをガシャガシャと押したり引いたりしている。何日か前に前触れもなく突然外れたお風呂のドアは、それ以来簡単にレールから外れるようになってしまった。誰かがお風呂に入った後にタイミング悪く閉まらなくなるとこうなってしまう。
「サウナみたい」
ただでさえ、湿気のこもりやすい仮設住宅には大ダメージだった。
優子はため息をつきながら荷物を置くと、小さな冷蔵庫に近くで買ってきた食材を入れ始めた。小春は座りながら濡れた髪の毛をタオルで拭いていた。優子と、小春、2人とも怪我はまだ治っていない。小春に関しては足が骨折していたため、お風呂に入るのにも母の補助が必要だ。病院へは1ヶ月に一回ほどリハビリと定期検診を受けに行っている。
「今ごろ天井のカビは大喜びね」
優子は言いながら天井の角にでき始めたカビをうんざりした目で見つめた。
小春はあまり興味がなさそうに、だね、と呟いた。
「修理にはまだ来てくれないの?」
優子が冷蔵庫を整頓しながら聞くと、玲奈は肩を落とすように答えた。
「いろんな家で問題が起こってるから順番にお伺いしていますって」
仮設住宅はありがたいが、問題もある。隙間風や雨漏り、極度の床冷えなども高齢者の多いこの地域では深刻な問題だった。冬は、ほとんどの家の中の窓の内側には湿気対策としてプチプチが敷き詰められている。湿気対策には他にも吸水性の高い新聞紙を床に敷き詰めたりしている家もある。夏の暑さも深刻だ。暑さ対策としては壁の内側にアルミシートを貼り断熱をしたり、玄関付近にすだれをかけたり、家の外側に植物を植えて暑さを凌ぐなどの工夫をしている。
優子は冷蔵庫に食材を入れ終わると、ふう、と一息ついて出かける準備を始めた。準備といっても、読み終えた小説と小春の飽きたおもちゃをビニール袋に入れるだけだ。それを終えるとすぐに玄関に向かった。今も尚、お風呂の扉をガシャガシャとしている母の背中に声をかける。
「ちょっと外出てくるね」
玲奈は動かしている手を止めて優子をちらりと見ながら門限を指定した。
「17時までには戻りなさいよ」
「はーい」
優子は気の抜けた声で返事をすると小春に、じゃあね、とだけ挨拶をして外へと出かけた。
優子がまず向かったのは、仮設住宅が建てられている敷地内にある子ども支援センターだった。ここでは震災の復興を支援する団体の人たちが、子どもに向けて玩具や絵本などの貸し出しを行なっている。それ以外にも親の様々な支援なども行なっている。
「こんにちは」
優子が遠慮がちに中に入ると支援センターの人がすぐに気がついた。出迎えてくれたのは、いつも優子がお世話になっている支援センターの職員の山本さんだった。いつも優子を満面の笑顔で迎えてくれる頼りになるお母さん的な存在だった。
「優子ちゃんこんにちはー!今日も本借りに来た?」
少し太っていて丸めの体型も、子供にとっては親しみやすさもあった。
「はい、もう読み終えたので。後、小春の違うおもちゃも借りに来ました」
子供支援センターは仮設住宅が建てられるのと同時に建設されたため、優子と山本さんの付き合いは2ヶ月にもなる。
「ええ!もう読んだのあの本!すごいねー!頭いいなー!」
山本さんは優子の頭をわしわしと撫でた。優子は山本さんの自分にはない太陽のような明るさと身にしみる優しさが好きだった。山本さんの言葉を文章にすると全部にびっくりマークがつくようなそんな気がする。
「小春ちゃんは元気?」
「はい、元気ですよ」
「ほんとー!よかったー!」
「お母さんは?」
「お母さんも元気です」
「そうかそうかー!よかった!」
山本さんはそう言って、両手を頭の上まで突き上げた。ちょっと大袈裟だと思う時もある。
優子は小説を借りるために5日に一回は子ども支援センターに顔を出すのだが、山本さんは毎回毎回みんなの様子を聞いてくれていた。日頃から常に早く普段の生活に戻りたい思いはあるが、もしも普段の生活に戻れることになったら、山本さんと離れ離れになってしまうことだけは唯一残念な点だと優子は思った。
子ども支援センターでいつも通りに小説と小春のおもちゃを借りると、次は敷地の外に出た。
敷地のすぐ外の階段には少年の姿があった。優子と少年は最初に避難所で話をした日からどこかの階段で喋るのが習慣になっていた。毎回約束をしたりするわけではないのだが、なんとなく集まっていた。お互いの近況を話したり、これからの話をしたりしていた。その日もいつも通りに少年と話をしていると、階段を通る人が近づいてきた。邪魔になるような場所ではなかったが、優子はなんとなく一番すみに寄った。
「!?」
移動するときに少し少年と手が触れた。優子は反射的に手をパッと引いた。優子の心臓の鼓動が少し早くなっていた。優子も自分自身がドキドキとしていることに驚いた。
「そ、そしたら小春がね───」
「うん」
照れ隠しをするように話を続けようとしたが、少年の反応が薄いことに優子は気がついた。隣を見ると少年はどこか浮かない表情をしていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない、ただ・・・」
優子が聞くと少年は少し考えるようにしてから答えた。少年がこんな悩むような顔を優子は見たことがなかった。少年は何も言わずにゆっくりと立ち上がると遠くを見つめるようにしている。
「今日はもう帰るよ」
「・・・そう」
優子は何か自分が気に触ることをしてしまったのか心配になり黙り込んでしまった。もしかしたら手が触れたことが気に障ってしまったのか不安になった。少年は、じゃあ、とだけ言うとそさくさとどこかへ行ってしまった。
門限が迫っていた。優子は少し焦りながらも小走りで仮設住宅に戻った。すると自分達が暮らしている家の前に男の人の姿があった。
「(誰だろう・・・)」
家への訪問者は珍しかった。2週間に一回程度、警備の人が生活はどうか、困ったことはないかと見回りに来てくれるのだが、家の前に立っている人の服装は警備の人間ではないラフな格好をしている。警備員の見回りは孤独死の早期発見という名目もあるらしいことを優子は仮設住宅に住んでいる人たちの立ち話を盗み聞きしたことがある。近づいていくと、すぐに誰かわかった。優子の実の父親だった。優子は驚いた。どうしてこんなところにお父さんが。父は優子が8歳の頃に家を出ていった。見た目は、2年前とはあまり変化していないように思える。優子はなんとなくその場で足を止めて建物の影に隠れるようにした。耳をそばだてると父が家の玄関に向かって何か言っているのが聞こえてきた。
「子どもたちに合わせてくれ。無事か確認したい」
仮設住宅の壁が薄いのもあり、家の玄関からの母の声ははっきりと外まで漏れている。
「何よ今さら。子どもたちは無事だから今すぐ帰って」
「なあ頼むよ、ひと目でいいんだ」
母の厳しい言葉に、父はすがるように言った。だが母は決して譲らなかった。
「あなたにはもう関係のないことでしょ、ここから出ていって」
扉を強く閉めて話を遮った。家を捨てた男が地震のことを聞きつけて飛んできたのだろう。恐らく居場所はおばあちゃん、つまり、父のお母さんに聞いたに違いない。おばあちゃんは、優子たちの生活を金銭面や仕送りで支えてくれていたので優子たちがどこで生活を送っているのかを知っていた。
取り残された父は、そわそわしながら、最後に玄関に向かってこう喚き散らかした。
「誰がこの生活を支えてやってると思ってんだ!」
優子の父は敷地外に止めていた自分の車に乗りこむとエンジンをふかした。門の影でしばらく停止した後に、どこかへ行ってしまった。
相当ひどい口論だったのだろう。優子は門の近くから戻ると、自分たちの家の周りには野次馬が心配そうに大勢立っていた。優子は恥ずかしくて家に帰ることができず、騒ぎが収まるのを待ってから30分後に何も見てない風を装って家に戻った。
その後、おばあちゃんに聞いた話によると、仕送りの分のお金は父が支払ってくれていたことが判明した。おばあちゃんの年金だけではお金が足りず、父に頼るしかなかったこと、母に相談しても断られることがわかっていたため相談をせずに受け取ったことを電話でお母さんに話していた。おばあちゃんは協力してくれるけど、たまに勝手に行動するから喧嘩になるとお母さんはよく話をしていた。避難所の体育館での口論も恐らく父に関係した話だということは優子にも容易に想像がついた。
震災から3ヶ月が経つ頃には、自衛隊による倒壊家屋の撤去が完了した。また、それと並行して行われていた、水、電気、ガスなどのインフラ整備も終わりを迎えていた。だが、仮設住宅を出た後の生活に不安を抱えている人は多い。県営住宅や市営住宅に移り住む人もいれば生活保護の受給に動いている人もいる。先が見えないまま、しばらく仮設住宅で暮らすことを決めている人たちもいるだろう。仮設住宅は、住むことができる期間が決まっているためいずれは出なくてはならない。自分たちがどうするか、人生での大きな決断を皆が短期間で決めなくてはならなかった。それは優子たち家族も一緒だった。
私たちは一体どうなるんだろうか。
優子は今日の母と父の口論を見てそんな不安に襲われていた。時計の針を見ると、23時を過ぎていた。部屋の小さなスタンドライトの明かりだけが暗闇に小さく灯っている。優子は布団の上で座りながら、光を頼りに小さなノートに日記を付けていた。鉛筆で書き記す音が部屋の中に小さく響いている。
『仮設住宅で暮らす人の中には、生きているだけで幸せだという人もいる。あの時に死んだ人に比べれば当然、幸せだろうと。だけど、わたしはあまりそうは思わない。私たちには未来がある。こんな小さな狭い空間に何年もいても明るい未来の可能性はどんどんと削がれていってしまう。段々と自分の内側から天井のカビのように悪いものがにじみ出てしまう気さえもする。だからと言ってそう考える人がおかしいとは全く思わない。どう生きていければ幸せなのか、それは人それぞれの価値観だ。自分が好きな食べ物を他人が好きだとは限らないように幸せの価値観も違う。問題は、自分がどんな食べ物を食べたいのか、自分がどう生きたいのかだとわたしは思う。だから、わたしはわたしの思い描く普通の幸せ、例えば、素敵な男の人と結婚をして子供を産んで生活するような、そんな幸せを手に入れたいと思う。』
一月ほど前から、優子は思ったことや今日あった出来事を日記に書く行為が習慣になっていた。小説を読み始めたことでの影響だろう。後から見返して、あの時どう思っていたのか見返すことが生活の中の少しの楽しみにもなっていた。優子は書き終えた日記を閉じると小さなスタンドライトの明かりを消した。今日もいろいろなことがあった長い一日だった。温かい布団にくるまると優子はそのまま眠りについた。外は静けさに包まれていた。
それから数ヶ月後のことだった。私たちが公営住宅に移動が決まったのは肌寒さが強くなってくる冬の始まりの時期だった。震災から1年が経とうとしていた。