選択
1995年1月17日火曜日。兵庫県のあるアパートの一室。小さなソファにランドセルを背負ったまま座っているのは古田家の小学4年になる10歳の長女、優子だった。視線の先の小さなブラウン管テレビでは、周辺地域の朝の時間帯の台風情報を報道している。
「学校休みになるかな?」
目線はテレビから動かさずに、すぐ隣の台所にいる母の玲奈に心配そうに聞いた。
「このあたりは晴れてるけど、どうだろうね」
台所の窓ガラスからは、台風が日本に上陸しているとは思えないほどに明るい朝の日差しが差し込んでいた。時々、外の強い風が窓をカタカタと揺らしている。
玲奈はテーブルで仕事用具を準備する手を止めて、腰の高さほどのテレビを前屈みで覗き込んだ。テレビ画面の下では警報地域一覧がゆっくりと右から左へと流れていく。玲奈はそこに自分たちの住む地域が表示されるのを見つけると、あっと声を出した。
「警報は一応でてるね」
玲奈は「ほら」とテレビに映る自分たちの住む町『兵庫県神戸市東灘区』の地名を人差し指で表示を追いながらツーっとなぞった。
「じゃあ、休み?」
優子が母の方に首を回す。その質問に玲奈は眉をひそめた。台風の時の学校の判断というのは昔から基準がよくわからないものであるからだ。急に休みになったり、休みじゃなくなったりすることもある。
「どうなんだろうね。学校に電話で聞いてみよっか。その方が早いし」
玲奈は折りたたみ式の携帯電話を開くと登録されたアドレスから娘の通う小学校を探し始めた。優子はその間もじーっとテレビの情報を眺めている。
突然、リビングと一つ区切られた襖がゆっくりと開いた。眠気まなこを擦りながらリビングに起きてきたのは5歳になる妹の小春だった。母の玲奈は携帯で誰かと話していて、姉の優子はテレビに釘付けだった。玲奈が小春に気がついてはっとした表情をする。電話中の玲奈は、口を「おはよう」の形に動かした後に「朝ごはんそこにあるよ」と指を刺しながら起きてきたばかりの小春に合図した。玲奈の指さした方を小春が見ると、テレビの前に置いてある長方形の小さなテーブルの上に目玉焼きとソーセージの皿と小さな容器に盛られた白ごはんが用意されていた。丁寧にラップがかけられている。小春はとぼとぼとテーブルに近づきながら優子に向かって聞いた。
「お姉ちゃん学校?」
「わかんない。今お母さんが聞いてくれてる」
「ふーん」
いつもなら幼稚園に通っている時間なのだが、その時間帯に家でご飯を食べれることが変に嬉しく、小春は心を弾ませながら絨毯の上に座った。テーブルに並べられているピンク色の箸を握るといただきますと小声で呟き、お皿にかけられたラップをペリペリと剥がしていく。ラップをめくると、目玉焼きとソーセージ、白ごはんからはもわっと湯気が出てきた。
小春は近所にある渦が森の幼稚園に通っている。小学校とは違い、幼稚園では昨日の時点で休みになることが決まっていた。今日は休みということもあり、幼稚園の用意は全てテレビ横の空いているスペースに積み重ねられていた。通園バッグには、年長さくら組の目印である綺麗な一輪の桜のワッペンが縫い付けられていた。
玲奈は学校との電話が終わると携帯をパタリと閉じた。
「休みだって。今決まったところって」
その知らせに優子は嬉しそうに手をあげて喜んだ。
「やったー!」
「良かったね、お姉ちゃん」
その様子を見ている小春も嬉しそうに声をかける。
「よし、急がないと」
玲奈は仕切り直すように呟くとバッグに荷物を急いで詰め込んだ。腕時計で時間を見た後に、携帯、財布、従業員証、と1人再確認を行い、そしてまた最後に、よし、と呟いた。
玲奈は玄関で座って靴を履きながら子供たちに聞こえるように少し大きな声で言った。
「今日はおばあちゃん用事で来れないみたいだから2人ともお利口に留守番してるんだよ」
その言葉を聞いて姉妹は玄関にトタトタと走ってきた。
いつもなら元夫の母である叔母の久美子が子供たちのお世話を手伝いに来てくれるのだが、急遽用事が出来てしまい、来ることができなくなったので、子供2人だけで留守番をすることになっていた。
「おばあちゃん病院?」
優子が心配そうに尋ねる。久美子は数年前から膝の調子が悪く、時々足をひきづるように歩いているのをよく見かけていた。
「ううん、違う。急用だって」
「そうなんだ」
優子はどこか浮かない表情をしている。
「お昼は冷蔵庫にあるからレンジで温めて」
「お菓子はー?」
小春はわざとらしく首を傾げながら聞いた。
「わがまま言わないの」
優子が小春の背中をポンと軽く叩くと、小春は優子の顔を見上げてむすっとした顔をした。
玲奈は靴を履き終えて立ち上がると、2人の娘の頭を両手でポンと撫でた。そして、2人の目を交互に見る。
「誰が来ても絶対に出ないこと、勝手に外には出ないこと、留守番上手にできたら、お菓子は帰りに買ってくる」
「やったー!ポテトチップスでいい?」
小春はほんの数秒前とは打って変わって小さく飛び跳ねながら喜んだ。
「もちろんいいわ。優子もそれでいい?」
「うん、何時くらいに帰ってくるの?」
「17時30分には帰る」
「約束?」
「うん、約束。何か会ったら携帯で連絡して」
「わかった」
「じゃあ、行ってきます」
玲奈がそう言って姉妹は母親を玄関で見送った。
「「いってらっしゃーい」」
ガチャン。
玄関の扉が閉まると急に家の中に、しんとした空気が流れた。
そして、2人は休みを満喫するべく、すぐにバタバタとリビングに戻っていった。
彼女たちの住む兵庫県神戸市東灘区渦が森は神戸の中央区から車で30分ほど東に走り、少し北に丘の斜面を登った場所にある小さな町だ。丘の上から下に向かって棚田のように区画が3つに分かれており、それぞれの区画は将棋盤の様に綺麗に整えられている。区画の間にはスロープのような道路が斜めに一本通っていて、丘の上から数えて2つ目の区画である3丁目、大きなアパートが何号も立ち並ぶ区画から少し外れた場所のアパートで彼女たちは暮らしている。港から少し距離はあるが、お金を持った人たちが比較的多い地域に近いため治安も良い。丘の頂上にある渦森展望台公園からは神戸の港町の綺麗な景色が見渡せる。車で西に40分の隣町には摩耶山掬星台と呼ばれる大きな展望台もある。神戸の東側、三宮から大阪湾岸周辺の景色をパノラマビューで一望でき、その夜景の美しさから、日本三大夜景の一つにもなっている。
午後1時半過ぎ。テレビでは、地元情報番組の特集で掬星台が特集されていた。姉妹の2人は用意されていたお昼ご飯を食べ終えたところだった。二人ともテレビを見ている様子はない。食べ終わった食器の片付けが終わったタイミングで、アパートのインターホンが鳴らされた。
ピンポーン
「誰か来た!」
小春はすぐに玄関の方へと走っていった。
「だれ?」
優子も小春の後ろに小走りで続いた。
小春が覗き窓に顔を近づけると、レンズの向こう側には彼女の友達が立っていた。
チェーンの鎖を外してドアを開けると寒い風と一緒に少年と少女が現れた。
「小春ちゃん遊ぼ」
開口一番にそう言ったのは小春といつも遊んでいる近所の妙子ちゃんだった。
「たえちゃん!・・・とー」
その隣には、いつもは見慣れない少年が立っている。手にはサッカーボールよりも少し小さいゴムボールを持っている。背丈からして優子と同じくらいだろうか。随分と整った顔立ちをしている。落ち着きのある賢そうな表情だった。
「だあれ?」
小春は妙子ちゃんに聞いた。
「近くに住んでるんだって」
男の子に視線が集まると彼はにこりと笑顔を作ってボールをヒョイと自分の顔の方まで持ち上げた。
「一緒にボール遊びしようよ」
「お姉ちゃんいい?」
小春が振り返り優子に尋ねる。
優子は黙って小春の少し前に出ると赤ちゃんを宥めるような声で言った。
「ごめんね妙子ちゃん。今日は遊べないの」
「どうして?」
妙子ちゃんは不思議そうに小首を傾げた。
「台風だしお母さんがダメだって」
「ええー、ちょっとだけは?」
小春が話に割り込むと、優子は小春の方を見て声を低くして厳しく怒った。
「お母さんに言われたでしょ?」
その様子を見ていた妙子ちゃんは外を指さして言った。
「でもそこで遊ぶだけだよ?」
優子は靴を半分履いて玄関の外を注視した。確かに妙子ちゃんの言う通り、強い風は止んでいたし雨も降っていない。遠くへ行かなければよほど大丈夫そうに見える。
「ほんのちょっとだけ!」
優子が一瞬揺らいだ様子を察したのか、小春は追い討ちをかけるように懇願した。
車はほとんど通らない道路だ。余程のことがない限り大丈夫だろう。
「そこの駐車場から出たらダメだからね」
その言葉に三人の表情が明るくなった。
「やったー!」
小春はすぐに下駄箱から靴を探して履き始めた。
「1時間だけだよ、お母さんに怒られても知らないんだから」
優子は釘を刺すように言った。小春は1秒でも無駄にできないと、髪を自分でいつも通りのツインテールに結んでから、外の駐車場に飛び出して行った。
優子は玄関を閉めると部屋の中に戻った。壁にかけているシンプルな白の時計を見ると、2時前を指している。なんとなく眠気を感じた優子は、3時には声をかけようと決めてソファに寝転んだ。そしてお昼ご飯の後の強い眠気がだんだんと優子の意識を奪っていった。
そして───、
「あ!」
まずい、何時間も経ったかもしれない。そう思って飛び上がって時計を見たが、そんなには経っていなかった。とはいえ、約束の時間から30分は過ぎていた。自分でちゃんと帰ってきているだろうか。起き上がってトイレや寝室をパッと確認するが部屋にはいない。急いで玄関のスリッパを履いてドアを開けると、妹たちの姿が見えて安堵した。だが様子は変だった。妹たちはボールで遊ぶわけでもなく、何やら自転車にまたがる近所のおじいさんを取り囲むように話をしている。誰だろう?少し怪しく思い、防犯の意味も込めて少し大きな声で玄関から呼びかける。
「小春ー!もう帰ってきなよー!」
優子の声に小春が振り向いた。
「うん!わかった!」
小春は指でOKの形を作って返事をした。
もうすぐ切り上げて帰ってくるだろう。優子は玄関を閉めてソファに戻った。だけど、なぜか、あのおじいさんが不審に思えてしかたない。見た目がとても清潔だとは言えないし昼間から子供たちに話しかけているおじさんは大抵危ないものだと何となくわかっていた。何かあってからでは遅いと思い、居ても立っても居られずに再び玄関に戻った。玄関を少し開けて外を観察すると、まだおじいさんを取り囲んで話をしている。
「小春!」
優子が大きな声で呼びかけると小春は驚いた表情をしながら数回手招きをした。
「なにー?」
「お姉ちゃんちょっときて!」
優子は自分を改めて見るとパジャマ姿だった。外は寒いし着替えるのにも手間がかかる。
「私はいい!」
すぐにそう断ったが、すぐに返事は返ってきた。
「いいからー!」
優子が小春たちのもとに向かうと小春が息切れするように興奮しながら近づいてきた。外気が冷えているためか、口元からは喋るたびに白い吐息が出ていた。
「渦森展望台公園に珍しい蝶がいっぱいいるんだって」
何かとんでもないことが聞けるのではないかと期待をしすぎてしまっていたせいで、優子は少しがっかりした。なんだ蝶か、と。それに、それがどんな情報であったとしても、もういい加減に帰らなくてはいけない。
「そうなんだ。でももう帰る時間だから残念ね」
小春のわがままに、優子は冷たく返した。
「もう見れないかもしれないって!」
小春が何とかわがままを通そうとする様子を見ておじいさんも優子に声をかけた。
「なかなか見られるもんじゃないぞ。お前さんたちも見ておかないときっと後悔する」
おじいさんの口調は思っていたよりもずっとしっかりとしていた。よく想像してしまうガラガラ声のへんな人ではないようにも感じる。
だが、姉としての不安は色々あった。
「ここから展望公園まで15分はかかるし台風がもし強くなったら」
「おじさんもう台風は過ぎたって言ってたよ」
小春が再び口を挟むと優子は小春を睨みつけた。
「小春は黙ってる」
優子のその言葉に小春は両手で自分の口をバッと覆った。
「お嬢ちゃんの心配もわかる。だけどわしがしっかりみんなを家まで送るから大丈夫じゃよ」
おじいさんは説得したが優子は迷っていた。
「でも・・・」
彼女たちのいる場所から展望公園まで行き、蝶を見て帰ってくるだけなら、母が帰るまでの間には家に帰ることができるだろう。だからといって約束やルールを破ることに気が進まなかった。
「見てすぐ帰るだけだから」
小春は塞いでいた手の蓋を口から一瞬パカりと外して小声で呟いた。
「見てすぐ帰るだけ・・・」
優子は小春の言ったことを、頭の中で葛藤しながらも自分に言い聞かせるように復唱していた。
優子の考えが少し揺らいだのが態度からわかったのか、おじいさんも続いた。
「そう、見てすぐ帰るだけじゃ」
姉はもう一度考えた後に、はあ、と大きくため息をつくと気持ちを切り替えて皆に念を押した。
「本当に、見てすぐ帰るだけだからね」
優子からの許可が降りた。小春の口角がぐいーんと上がる。その様子を見ていた妙子ちゃんと少年も、小春と一緒になって喜んだ。
「やった!」
渦森展望台公園に到着するまでの間、近所のおじいさんは錆びた自転車を押しながら、子供たちに豆知識を披露していた。
「アサギマダラは秋の蝶でな、公園に植えられたフジバカマっちゅう花の蜜を吸いに展望台公園まで飛んでくるんじゃよ」
子供たちはその一言一言に何度も頷きながら真剣にその話を聞き続けた。
翅の色は半透明色の水色で、翅の生えてるから箇所から外側に向かってまるで木が枝分かれするように黒い脈のような模様が入っている。翅の外側の縁の部分の前翅は黒色、後ろ翅は褐色で、ここにも半透明の水色の斑点模様を持っている。半透明の水色の箇所が多く水色の蝶のイメージが強い。細かく羽ばたかずにふわふわと飛んでいるらしい。そして、にわかには信じられないことだったが、おじいさんが言うには、なんでも人懐っこいらしい。
優子は最初おじいさんを不審者だと思っていたが、優しく丁寧に、そして何よりも楽しそうに自分の知識を話す様子にその疑いは徐々に晴れていった。
優子は歩いていてあることに気がついた。小春と妙子ちゃんの少し後ろを歩いている少年の靴紐が解けている。靴紐は足を動かすたびに跳ね上がり、靴に当たっている。パチパチと音はしているのだが、少年は気がついてない様子だった。優子は少年に声をかけようとしたが名前がわからなかった。仕方なく肩をトントンと叩いて靴紐のことを伝えた。
少年は優子の目を見て、
「ありがとう」
と言って立ち止まると靴紐を結び直し始めた。優子も少年に合わせて立ち止まるが、少し前を歩いてる小春たちは気がつく様子がない。小走りをすればすぐに追いつけるだろうからわざわざ呼び止める必要もない。
優子は靴紐を結び直す少年の様子を黙って見守っていた。特に喋ることが見つからずに頭の中で考え事をしていると、そういえばこの男の子は何て名前なんだろう、と気になった。玄関に入ってきた時から名前を聞いた覚えがない。
「名前はなんて言うの?」
優子が何気なく声をかけると少年は靴紐を結ぶ手を止めて優子の顔を見上げた。改めて見ると少年のずいぶんと整った綺麗な顔立ちに、優子は驚いた。
「名前は、うーん、秘密」
少年は悩んだように答えると照れ隠しする様ににっこりと笑って答えた。
優子は名前を教えたがらないなんて変な子だなと思った。
「何年生?」
「それも秘密」
続けて質問をするがなかなか教えてくれない。
少年は最後に靴紐をキュッと縛ると優子を置いて坂道を駆けて行ってしまった。
「それくらい教えてくれてもいいのに」
少年の背中を眺めながら一人呟くと、自分も妹たちに追いつこうと小走りで坂を駆け上がるため地面を蹴った。
渦森展望台公園は公園とはいっても子供たちが遊べるような遊具は少ない。山の形になっている石のツルツルとした滑り台と絵が剥げてしまって、一体何の動物なのか分からないスプリング遊具が2つあるだけだった。公園に入る前には階段をいくつか登る必要があり、たどり着くまでは一苦労する。
屋根が付いたベンチには散歩で登ってきたと思われるおばあさんが飲み物を飲んで休憩していた。いくら近所だとは言っても展望公園まで来るのには少し疲れる。優子は足の裏が、じんと少し痛むのを感じていた。前を行くおじいさんはいつの間にか自転車を公園のそとに止めて歩いていた。
「ちょうちょは?」
「あそこの階段を登ったところじゃよ」
小春が聞くとおじいさんは山の形の滑り台を指差した。山の後ろに備え付けられた階段から上に行けるようになっている。登っていくとそこには小さなテニスコート一つ分ほどのスペースがある。古びたフェンスで囲まれているその場所がこの公園の中で一番高い場所に位置するスペースだ。大阪湾の海が見渡せる側のフェンスに沿うように花壇があり、そこにはピンク色の花のような植物が植えられている。
我先にと階段を上がっていた小春の、弾けるようなきらきらとした声が階段を上がっている最中の優子の耳にも聞こえてきた。
「わああああああ〜!」
その瞬間、優子には隣のおじいさんの頬が少し上がったように見えた。
優子も足の痛さを忘れて階段を駆け上がる。
開けた場所の裏手に出る。
妹たちのいる花壇の方へと急ぐ。
海側のフェンスに近づいていくにつれて、視界には空だけでなく、雲が、海が、港が、街が、順番に姿を表す。そして、たどり着いたその場所には、絶景が広がっていた。
大阪湾の海の向こうに沈んでいく夕日が、広大な海と大空、雲までもオレンジ色に染めている。
対岸にうっすらと浮かび上がる大阪の港町に沿っていくように縞模様の雲が幻想的に浮かんでいる。時々、港からの海風が彼女たちの髪をなびかせた。
そしてそのすぐ手前、まるでそれを喜ぶかのように半透明な水色の翅を持つアサギマダラ数十匹が華麗な舞を披露していた。ゆっくりと手をかざすと、そのうちの1匹がふわふわと優子の手の周りを飛んだ。こんなに近づいても逃げていかないなんて、本当におじいさんの言っていた通りだ、と優子は感動した。
この蝶たちは、これから長い時間をかけて南西諸島や台湾に南下して飛んでいく。冬を越す場所に移動をするのだという。時には2500キロもの距離を移動したこともあったらしい。場所で言うと、北海道の函館から鹿児島まで飛んでいることになる。そんな途方もない距離の海の上を、おそらく止まることなく、ただただ、自分たちが生きるために飛んでいく。一体どれほどの時間がかかるのだろうか。
「海なのに怖くないのかなー」
おじいさんの話を聞きながら、小春が呟いた。
おじいさんは遠くを眺めている。
「そりゃ怖いさ。でも生きるためには、前に進むしかないんだろう。みんなそうだ」
しばらくすると、ポツポツと街明かりが灯り始めた。俯瞰で見る景色は不思議だ。こんなにも多くの人がこの街で生きているんだということを改めて考えさせられる。自分たちが普段、あそこで生活している時には考えもしないことだ。多分、また展望台から降りれば、そのことも忘れてしまう。そんな小さな魔法のような力がある。それに、町からだいぶ離れているせいなのか、やけに静かだった。
夕焼けが沈むのは早い。数十分もするとあたりは途端に暗くなり夜の気配がぐんと濃くなっていった。帰り道、展望台公園から下っていると小春が思い出すように優子に言った。
「すごかったね」
確かにすごかった。優子は行ってよかったと心底思った。
「そうだね。ルールは破っちゃったけど」
優子が少し冗談ぽく言うと小春は不安げに眉をひそめた。
「お母さんに怒られる?」
「小春がうっかり言わなければ大丈夫だよ」
おどすつもりはなかったのに真剣に怖がる小春に、優子は少し笑いながら答える。
「小春言わない」
小春はそう言ってまた口を覆った。
十字路に着いたところで妙子ちゃんが足を止めた。この道を右に曲がって真っ直ぐ行けばすぐに自分の家に着くらしい。優子たちの住む場所はこのまま坂を下って5分ほどで着く。おじいさんは妙子ちゃんが一人になるのは心配だからと彼女の方へついて行くことになった。少年は優子たちと同じで、下って行ったところに家があります、と言った。
「小春ちゃんばいばい」
「妙子ちゃんばいばい」
二人とお別れをして、姉妹と少年は再び坂を降り始めた。行き道は20分くらい時間がかかったが帰りは下りだからその半分くらいの時間しかかかっていないように感じた。心なしか足取りも軽い。
優子たちのアパートの前に到着すると、優子が少年に尋ねた。
「お家はどこ?」
「ここをもう少し行ったところ」
少年は坂の下を指差した。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫」
冬は日の入りが早い。17時前だというのにすっかり周りは真っ暗だ。淡々と質問に答える少年はどこか不安そうに見えた。優子は妹と同じ年の少年をこの時間に一人で返すのはあまりにも危ないと考えた。
「やっぱり危ないから家まで送るよ」
声が聞こえていないのか、少年は黙り込んでいる。地面をじっと見ていた。どこか様子がおかしい。周りが急に静かになったように感じる。さっきまで吹いていた風がぴたりと止んで不穏な空気が漂っている。
「大丈夫?」
小春も心配になって声をかけると、少年が何かをボソリと言った。
「君たちに・・・」
あまりに小さい声で2人は聞き取ることができなかった。
「なに?」
優子が聞き返すと、今度は顔を上げてハッキリと言った。
「もうすぐ選択の時が来る」
そう告げる少年の顔はどこか異様な空気を放っていた。暗い風景の中でその少年の顔だけが浮き彫りに映るようなそんな不気味さだった。それに、今まで話をしていた口調とは違い、妙にハキハキとしている。優子の腕に鳥肌が立った。
「・・・」
優子と小春は言葉の意味がわからずに黙っていた。なにについて言っているのか。なんでそんなことを言ったのか。選択の時とは何なのか。
「選択の時って?」
小春はもう一度聞き返すが、少年は黙ったまま姉妹を見つめている。その様子を怖がったのか、小春がグッと優子の袖を掴んだ。
「お母さん帰ってきちゃう。いくよ」
優子は不安そうな小春の目を見て笑みを作った。
「うん。ばいばい」
2人はすぐにその場から逃げるように家の中に入っていった。小春が家に入るときに一瞬だけ振り返った。少年は、そこからじっと動かずに、同じ場所に立ちつくしていた。
家に帰ると、優子と小春はそれぞれ好きな漫画を読みながら母の帰りを待っていた。あの奇妙な少年のことは気がかりだったけれど考えても答えは出ない。優子は、もうあまりあの子には近づかないようにしなさい、と小春に注意をした。
優子は寝室の絨毯の上に、小春はテレビの前の小さなソファに座っている。時計の針はとっくに17時を10分ほど過ぎている。母の玲子は時間には厳しい人だった。17時には帰ると断言した日はいつも時間通りに帰ってきていた。
「お母さん全然帰ってこないね」
「もうすぐ帰ってくるよ」
優子は小春を安心させるためにそう言ったが内心は不安がこみ上げてきていた。普段はそこまで不安に思わないが、さっきの不気味なこともあり心の中で何かモヤモヤとした悪いものが渦巻いているように感じる。交通事故にあったのではないだろうか、何かトラブルに巻き込まれたんじゃないだろうか。考えれば考えるほど悪い方向に考えてしまう。
ソワソワと不安そうなのは小春も同じだった。
「電話してみる?」
小春が漫画を閉じて優子に提案をする頃には約束の時間から30分は過ぎていた。帰るのが遅れるなら遅れるで電話の一本もあっていい頃の時間だ。
優子は少し考えた後、
「6時になったら電話しよっか」
と顔を上げて言った。
「うん」
小春は静かに頷いた。
テレビをつけていないせいか、家の中は静かだ。耳を澄ましても、聞こえてくるのは時計の針が秒針を刻む音と、冷蔵庫が時々機械的な音を出すだけだった。
「(あと15分)」
優子は時計をちらっと確認すると、読んでいる漫画に意識を戻した。
数ページ読んだところで、パキッという建物の軋む音が突然部屋の中に響いた。優子はこの音に聞き覚えがあった。今までに何回も聞いたことがある。
「(地震の前兆だ)」
そう気がついたのは小春も同じだった。
二人は読んでいた漫画をパタリと閉じて机に置くと、お互いに顔を見合わせた。なにも言葉を発さずに、なぜだか少し宙を見あげる。何か来る。その予感をすぐに感じとるために咄嗟の行動だった。そしてその予想通り、次のアクションはすぐに起きた。
カタカタカタカタと食器棚の皿が音を立てて揺れ始める。部屋に干してある洗濯物も右に左にと徐々に大きく揺れ始めた。
「やばい」
普段よりも大きい地震が来ているということを感じ取った優子は地面に手をついてバランスをとりながら一人呟く。震度3以上はある。そうわかるほどに強い揺れだ。ダイニングテーブルに置いていた背の高い花瓶がバランスを崩して地面に落下した。パリンッ!と高い音が部屋に響いたのを皮切りに、小春が恐怖に悲鳴を上げた。
「お姉ちゃんっ!」
涙目になりながらもしっかりとテレビ台前の小さなテーブルの下に隠れている。
「大丈夫!すぐ収まるから」
いつもの揺れと明らかに違った。立つこと、いや少しの距離の移動さえままならないほどの揺れだった。食器棚の扉が勝手に開き、食器は地面に落ちて次々に割れていく。お願いだからすぐおさまって。優子は心で願った。
だが、その直後だった。経験したことのないほどの揺れが二人を襲った。
ぐわんと大きい揺れが来たと思った瞬間には全てが遅かった。ぶら下がった食卓の電球は割れ、テレビや棚は一瞬にして倒れていく。テレビは小春の隠れていた小さなテーブルの上に倒れた。今この部屋の中にあるのは轟音と少女の悲鳴だけだった。
「お姉ちゃんっっ!!!」
小春はそれでもテレビの前の小さな机をしっかりと手で握って隠れている。だが次第に揺れの激しさでテーブルごと大きく揺さぶられ、地面を左右に滑っていく。
「小春!こっちに来て!」
高さのある家具は全く置いていなかった寝室の方が安全だ。小春は地震が一瞬弱くなったタイミングを見計らい、這いつくばるようにして寝室に飛び込んだ。引き戸から布団を取り出している余裕もない。姉妹はただその場でじっと、地震の揺れに身体の重心を取られないように踏ん張った。
しかし揺れは一向に止む気配がない。次第に外壁は崩れ落ち、天井に大きなヒビが入っていく。そして畳み掛けるように耳を引き裂くような轟音が鳴り響いた。姉妹にはアパートの天井が崩れて落ちていくその信じられない光景だけがしっかりと見えていた。その瞬間、2人の視界は土煙に覆われて姉妹は意識を失った。
ひどい耳鳴りがする。キーーーンという甲高い音が耳から離れない。心臓の鼓動がドクドクと波打ち、呼吸がうまくいかない。玲奈は軽度のパニックに陥っていた。
なにがあったのか。目の前の惨事を見れば一目でわかるのだが頭の理解が追いつかない。スーパーの店内のほとんどの棚は地震による揺れでなぎ倒されていた。入り口付近の屋根は崩壊して崩れ落ちて、自動ドアがなくなっている。体感にして15秒くらいだった。その一瞬で全てが一変した。周囲からは潰されてしまった来店客やスタッフの唸り声が聞こえる。そんな中、真っ先に思い浮かべたのは娘たちだった。家からそう遠くないこの場所でこれだけ揺れたなら、家のほうもかなりの揺れだったはず。玲奈はポケットから携帯を取り出すとすぐに家にかけた。だが、聞こえてくるのは回線が入っていないことを告げる機械的なメッセージだけだった。周囲を見渡すが店長の姿が見当たらない。バックルームの倉庫で作業をすると言って作業に行ったのだが、バックルームの入り口は瓦礫で塞がれていて中の様子は見られそうにない。娘たちの安否を確かめないと。玲奈は商品の瓦礫の中を一歩ずつ前に進み、出口に向かった。
外もひどいことになっていた。駐車場のコンクリートはひび割れていてアパートの向かい側に面する家の何軒かは潰れている。1階部分が潰れて2階部分だけ残っている家もある。とんでもないことが起きてしまった。玲奈は荒々しく乱れる息をなんとか抑えながら車に乗り込むとすぐにエンジンをかけた。スーパーマーケットの入り口を出て家の方面へと車を走らせる。玲奈が働いているのは芦屋と呼ばれる町で家から大阪方面に15分ほど向かった場所に位置していた。信号はほとんど全てが機能していなかった。
運転をしながらも左手で電話を再びかけた。かけていた番号は一番近くの病院だった。
プププ、プププ、プルルルルルルルルル
何回かのコールの後に女性職員が電話にでた。
「はい、甲南医療センターです。ご用件は───「娘たちは搬送されてますか?年は5歳と10歳。服装は多分外には出てないと思うのでパジャマかと思います。私は職場にいたので、家にいる二人が、もし怪我していたら、一番近いここに搬送されてるはずで、それで、あの、そこにいそうですか?」
玲奈は女性職員の声を遮るように尋ねた。息が荒い。
「周辺道路が崩壊していて搬送は間に合ってません。探してみますがすぐには無理です。大量の怪我人が病院に来ています。なので折り返しになりますが───」
「いますぐ見てください。今家に向かっているんです。もし家にいなかったらそこにいないとおかしいんです。だからいますぐに見てください」
「いますぐには無理です。怪我人が多すぎます」
「いますぐ見なさいよ!それがあなたたちの仕事でしょ!」
玲奈は涙ながらに女性職員を怒鳴りつけた後すぐに電話を切った。そしてすぐに別の病院にかける。だが、どの病院も電話回線がパンクしてしまい繋がらなくなっていた。そのうち携帯の電波が切れてついには使い物にならなくなってしまった。
家に向かってはいたが、家にはいて欲しくなかった。ここまでの道筋で2階建ての家が崩壊しているのをいくつも見てきた。いま自分たちの住んでいる古いアパートが崩れていないことがあるわけがなかった。でも、崩れてないでと願うほかない。周囲ではなぜだか火災もひどい。至る所で火の手が上がっている。人手が足りず消防がくる気配もない。道路は所々ひび割れていて大きく割れてしまっている箇所もある。ちょうどその時、車の外にさらに目を疑う光景が現れた。
「そんな、嘘、なんで、こんな・・・ひどい」
目の前に飛び込んできたのは、阪神高速道路だった。だが、普段とは違い、見るも無残に横たわっている。港に沿う様に建てられた高架道路。それを支える鉄筋コンクリートの大きな柱の中央が引き千切られた様に亀裂が入り、鉄筋が剥き出しになっている。ぐにゃりとバランスを崩した高速道路は山側に500メート以上に渡って倒れていた。そしてその下には高速道路に潰された車が並んでる。恐らく何十人も亡くなっているだろう。玲奈は目に涙を浮かべながらハンドルを握りしめ、その場を後にした。
視界が暗い。起き上がろうと腕を動かしても身体が動かない。木材が身体の上に乗っかっていてびくともしない。最後に見たのは天井が落ちてくる光景だったのは覚えている。優子の隣からは呻き声が聞こえてきた。
「こ、小春・・・」
顔を反対側にゆっくりと動かす。パラパラと木屑が顔に降りかかった。小春も同じ様に横たわっている。額からは血が流れていた。意識ははっきりしていないようだった。
左手が瓦礫で埋もれてしまっている。動かそうとしてもびくともしなかった。右手をゆっくりと伸ばすと小春の肩を揺すった。
「小春、小春、起きて」
「お姉ちゃん・・・」
小春はゆっくりと目を開けてすぐにまた目をつぶってしまった。
「小春しっかり、助けが来るはずだから」
「お姉ちゃん、痛い、足が痛い、動かせない」
小春は徐々に涙目になり痛みでシクシクと泣き始めた。小春の足の上には重い木材が乗っていた。無事ではないことは優子にもわかった。優子は意識を途切れさせないように小春に何度も声をかける。
「小春、大丈夫、もうすぐお母さんが来てくれる」
瓦礫でたまたま隙間ができて生き残ることができたのは幸運なことだった。上を見上げると少しだけ隙間がある。なんとかそこまで這い出ることができれば助けを呼ぶことができる。手を動かそうとすると優子の手に引きちぎられるかと思うほどの耐え難い激痛が走った。
「・・・ぐっ、く、うう、はあはあ」
額から嫌な汗が噴き出る。この状態では間違いなくここから動けない。このままだともうだめだと優子は思った。このまま家に押しつぶされた状態で死ぬんだ。あれほどの地震ならきっと周りもひどい被害を受けているだろう。助けはすぐには来ないことは優子にはわかった。
その時だった。どこからか声が聞こえてきた。家の外からというよりも、どこか別の遠い場所から声が聞こえてくるような感じだった。まるで空に響くような声だった。何か喋っているのが聞こえる。優子が耳を澄ませていると声は段々と近くなってきた。聞き覚えのある声だ。男の子の声。
「だれ?」
そう聞いても返事はない。次第に声は優子の耳にはっきりと聞こえるようになった。声は優子に向かってこう言った。
「さあ、選択の時間だよ」
そう聞こえた瞬間、その声の主の顔がふわりと脳内に浮かび上がった。お昼に遊んだ、あの少年の声だった。なぜ聞こえるのか、少年が何者なのかはわからないが、少年の声は続けて聞こえてくる。
「このまま瓦礫に埋れて死んでしまうか、ここから出てもう一度お母さんと暮らすのか、どっちにする?」
優子にはなにを言っているのか理解ができなかった。お母さんと暮らしたいに決まってる。もしも選ぶことができるのなら選択の余地はなかった。
「お母さんと暮らしたい!ここから出して!」
優子がそう叫ぶとすぐに少年の声が返ってきた。
「本当にその選択でいいの?」
「どういう意味?」
すぐに聞き返すと少し間があった。
そして少年は言った。
「これは君の人生の大きな選択になる。これから君がどんな人生を送ろうとも後悔しない選択をした方がいい」
優子には少年の言葉の意味が全く理解できなかった。
「意味がわからない!あの時の男の子でしょう?!そこにいるの?」
質問に対しての返事が返ってこなくなった。小春は隣で痛みを我慢しながら意識を保とうと懸命に頑張っていた。
「お母さん・・・お母さんに会いたい」
その言葉を聞いて優子はもう一度少年に向けて叫んだ。
「ここから出してよ!お願い!助けを呼んでよ!」
優子の声が静まり返った空間に響いた。
数秒して少年からの返事が返ってきた。
「・・・わかった」
その途端、瓦礫の中から見える少しの外の隙間に小さな光が見えた。小さな光は徐々に明るく大きくなっていき、やがて姉妹二人を照らした。二人は眩しい明かりに思わず腕で目を覆った。
次の瞬間には、大人の大声が聞こえてきた。さっきの少年の声のように遠くはなかった。二人が埋まっているすぐ外からの声だ。
「子供がいる!!!こっちへ来てくれ!!!」
救助隊は崩れた家屋の間に二人の姉妹を発見した。
アパートがもうすぐ見える。車内で運転をしながら玲奈はふーっと呼吸を整える様に何度も深呼吸をして坂を登った。
「(お願いだから無事でいて、お願いだから無事でいて、お願いだから無事でいて)」
何度もそう唱えながらアパートに到着した。
そして現実を叩きつけられた。
住んでいたアパートは瓦礫の山になっていた。すぐに車から降りてアパートに向かう。心拍数が高くなり息があがる。過呼吸気味になり、涙が溢れ出る。こんなの助かってるはずがない。だが身体は助け出そうと瓦礫の山の方へと向かっていた。
その時だった。携帯の着信が鳴った。
ポケットから携帯を取り出すと番号を確認せずに出た。
「もしもし」
「こちら甲南医療センターです、古田玲奈さまでお間違い無いですか?」
「はい、そうですが」
「娘さんたちが数分前に搬送されてきました」
その言葉を聞いた途端、玲奈は力が抜けてその場にへたり込んだ。安心で涙が溢れ出てきた。
「お二人ともひどい怪我ですが命に別状はありません。容体は安定しているので───」
看護師は電話で説明を続けたが、玲奈の頭には内容は入っていなかった。ただ娘二人が無事だという事実だけで十分だった。
次に優子が目を覚ました時、そこは病院だった。真っ白い天井が見える。身体の背中側にふんわりとしたベッドの感触がした。
「(助かったんだ)」
優子はゆっくりと上半身だけ起こすと周りを見渡した。小さな病室には8つのベッドが並べられていた。こちら側に4つ、反対側に4つ。優子が寝かされたのは扉を入って一番右奥だった。すぐ左には、妹の小春が眠っていた。いろいろな管が付けられているが無事なことに優子は安心した。優子の左手には硬い包帯が巻かれている。骨折した人がよくしているやつだ、優子はぼんやりと状態を理解した。力を入れようとするとピシリと鋭く痛む。
部屋にかけられた時計を見ると午後21時過ぎを指していた。
「小春、小春」
何度か小声で声をかけるが反応はない。小春の右足には硬い包帯が巻かれていた。おでこの付近には包帯が巻かれている。ただ幸運なことに、ここに一緒に寝かされているということは無事なのだろう。
優子はベッドから足を下ろして自分の点滴スタンドを持った。チューブが左腕の手首の下のほうに刺さっている。不思議な感覚だった。部屋は薄暗く、周りの皆は寝ているようだった。
動くたびに全身の所々が酷く痛むが病室を出た。なにが起こったのか知りたかった。どこにいるのか把握できていなかったが、案内の矢印に従ってロビーまで歩くことにした。時々看護師とすれ違ったが特になにも言われない。みんなやつれた顔をしていて早足で病院内を駆け回っている。ロビーに向かうにつれて、人の声がうっすらと耳に聞こえてくる。曲がり角を曲がるとロビーまで続く大きな通路に出た。
その直線通路にはたくさんの人がいた。たくさんの、ひどい怪我をした人たちがいた。壁際にいくつも置いてある待合ソファーにはタオルでくるまって寝ている人や親子が心配そうに寄り添う姿があった。場所が足りずに、地面に毛布を敷いて座っている人たちも大勢いる。優子はその間を一歩一歩進んだ。
総合受付のロビーには、それよりも多くの怪我人やその親族で人が溢れていた。ソファーは何十個もあるのに、開いている場所は一つもない。受付では、看護師の人たちが電話や対応に追われてせわしなく働いている。時々、優子の持っている点滴台の車輪が床の絨毯の上で休憩している人の使っている毛布に引っ掛かった。
「ごめんなさい」
その声に振り向いたおばあさんの目はどこか遠くを見ている様だった。優子と視線は合っているが、目は優子の目をつらぬいて、その向こうの壁を見ている表情をしていた。おばあさんはなにも言わずに毛布を自分の膝にぐっと手繰り寄せた。
ロビーの奥の壁に小さなテレビが吊るされている。ニュースがやっているのが遠くからでもわかった。テレビの前に近づいて行くと、自分たちになにが起こったのかすぐにわかった。ニュースでは上空からの映像がヘリコプターで映し出されており、記者がせわしなく状況を説明していた。
『淡路島付近を震源地とするマグニチュード7.3で最大震度7の激震が兵庫県を襲いました。揺れの影響で何軒もの建物が崩壊しています。そして、高速道路が、北向きに横倒しになっています。支えとなる柱が折れて倒れてしまっているのが見えます。その目の前にはたくさんの民家があり───』
自分たちの住んでいる街がぐちゃぐちゃになった姿を、優子はただ呆然と見ていた。これからどうなるんだろうか、あの人は大丈夫だっただろうか、そういうこと考えている余裕はなかった。大きな地震が起きて大勢亡くなった。ただその事実だけが、少女の心の中全てを暗い影で覆い尽くしていた。
ぼーっとテレビを見ていると遠くから母の声が聞こえた。肩を掴まれた感覚がした。目の前では母が涙を流してこっちを見ている。お母さんだ。そう認識した途端、優子の目からは涙が溢れ出していた。
「優子!大丈夫なの?!小春は?小春はどこにいるの?!」
あまりの安心感に優子は何も言葉を出すことができなかった。ただ黙って母に抱きついた。二人はしばらくの間、そうしてその場で抱き合っていた。