女教師の昼食会
よく晴れた日。今日も今日とて活気に満ちた昼のスピリタス。
この季節にしてはやや暖かい日で、外出する人も多く、食事時の各飲食店は大忙しだ。
だが、書き入れ時であるにも関わらず『食事処 エミール』の店内は異様な沈黙に包まれていた。
客が居ないわけではない。むしろ満席に近いくらいだ。
だが、席に座る客たちは咳き一つ漏らさないようにと口をガッチリと閉じている。どの表情にも緊張がありありと浮かんでいて、額にうっすら汗をかいている者までいた。まるで蛇に睨まれた蛙のように誰も動こうとしない。
先程まではこうではなかった。『エミール』では男たちがいつも通り酒を飲んで大騒ぎをしていた。
休憩中の職人、非番の騎士、遠征帰りの傭兵、皆が大いに盛り上がっていたのだ。
そう、とある3人の女性が入店するその瞬間までは……。
『エミール』のドアを開け3人の女性が入店した時、前述の通り、店内では昼間から酒盛りをしていた男どもが憚りなく大声を上げてバカ騒ぎをしていた。
しかし、来店した3人の女性に気がついた客の一人が「あっ……」と声を漏らしたことで状況は一変したのだ。
「ひぃ!」
「うっ……」
「やべっ……」
男性陣は女性たちの姿を見るや否や、手にしたジョッキをテーブルの上に静かに置いてバツが悪そうに黙り込む。あたかも親にキツく叱られて悄気る子供の様な有り様であった。
来店した女性たちは、3人とも年齢どころかタイプすらバラバラである。
しかし、3人が3人とも、男たちを恐れさせるわけがあった。
3人の中で一番若い、20代くらいの美しい女性は、一気に静まり返った店内を一瞥し呆れたように肩をすくめた。
スラリと背の高い、程よく鍛えられた引き締まった身体の女性である。気の強そうな見た目の通り、きっぱりとした物言いで男たちを詰った。
「なんだいなんだい、人様の顔を見て凍りつくなんて失礼ってもんじゃないか。ねえ、そう思いませんかメリー先生?」
「そうですわね」
メリー先生と呼ばれた女性は頬に手を添えてため息をついた。
最初に発言した気の強そうな女性より一回り年上であろう。落ち着いた中年女性である。
のほほんとした顔で、大人しそうな雰囲気な女性である。喋り方もおっとりした口調で、声も柔らかい。だが、何故か発する言葉には妙な威圧感が感じられた。
「まるで私たちが化け物みたいではありませんか。紳士的な応対は求めないとしても、これはあんまりですわね」
メリーが落胆したように言うと、店内の男性陣は気まずそうに目を逸らした。過剰に反応し、女性たちを腫れ物扱いした負い目を感じているようだ。
「なんですか揃いも揃って!」
最後の、3人の中で最も年嵩の老婦人は、鋭い眼光で店内を見渡すと、老齢とは思えないはつらつとした声で男たちを叱り飛ばした。
「あなたたちももう立派な大人でしょう! それが何を女性にビクビクしているのですか情けない! 構わないからお酒でも飲んでなさい!」
まるでカミナリが落ちたような怒声である。テーブルに置かれたジョッキの中の酒が少し揺れたほどだ。
かっちりとした服装に、ピシッと整えられた白髪。見るからに堅そうな女性である。怒り慣れているのか、声の出し方が堂にいっていた。
怒鳴られた男たちは一様に背筋を伸ばし、「はい!」と大声で返事をして、恐る恐ると再び酒を飲み始めた。
老婦人は男たちの情け無い姿を見て、やれやれと落胆したように頭を振り、一緒になって背筋を伸ばしていたレミーリアに対し呆れた目を向けた。
「……レミーリア様、何故あなたまで“気をつけ”をしているのですか……」
レミーリアはハッと我に返ると、顔を真っ赤にして謝った。
「すみませんローゼ先生。条件反射といいますか、つい……」
恥ずかしそうに言い淀むレミーリア。身体は反射的に強張ってしまったままだ。隙間なくきっちりと揃えられた両足がピンッと張っている。
どうやら女性であるレミーリアもこのローゼという老婆には頭が上がらないようだ。
「ハハハ、そうよねレミーリアちゃん。気持ちは分かるわ」
活発そうな女性が耐えきれないとばかりに笑い出す。
レミーリアは同意するように大きく何度も頷いた。
「そうですよねルーチェ先生! みんなこうなってしまいますよね!」
厨房で、レミーリアと同様に背筋を伸ばしていたブルー、スミカ、イングの3人も、全くその通りだとこっそり頷いている。
ローゼと呼ばれた老婆は憮然とした表情で眉間に皺を増やした。
――さて、彼女たち3人はそれぞれ別分野で“先生”と呼ばれている女性だ。
ルーチェは護身術、メリーは行儀作法、そしてローゼは学校の教師である。
3人ともそれぞれの理由で町の住人、ルーチェは特に男性に恐れられているのである。
「ええと、どうぞあちらのお席へ」
いつまでも3人を店の入り口に立たせる訳にはいかない。レミーリアは彼女たちを席に案内した。
メニューを渡し、注文を尋ねる。
「ご注文はお決まりですか?」
3人とも物事はパッと決める性格だ。
少しメニューに目を通しただけですぐに決まった。
「決まったわ。3人とも本日のシチューと紅茶にするわね」
「かしこまりました」
代表してルーチェが答えると、レミーリアは一礼して厨房へと注文を伝えに向かった。普段より気持ち丁寧な、恭しい所作である。
レミーリアはその後、紅茶を淹れて彼女たちのテーブルに運んできた。
「メリー先生にお茶を淹れるなんて緊張してしまいますわ」
レミーリアが紅茶のカップを置きながら冗談めかして言う。
メリーはかつてマーティン帝国皇帝の居城である帝城で侍女として勤めた経験を持っている。
退職後はその経歴を買われてスコルト男爵家に家庭教師として雇用され、レミーリアの礼儀作法を教育していたこともある。
もちろん紅茶の淹れ方も指導された事があるので、この一杯はレミーリアにとってはさながら実践テストだ。否が応でも緊張するというものである。
「ありがとうございますレミーリア様。では、いただきますね」
そう言って紅茶を一口飲み、メリーはふんわりと微笑んだ。
「ご安心下さいませレミーリア様。レミーリア様でしたら、この私が自信を持って帝城に女官として推薦出来ます。とても美味しいお紅茶ですわ」
レミーリアは内心ホッと胸を撫で下ろす。どうやら文句無しの合格点だったようである。
帝城の女官に就く貴族令嬢には高い教養と洗練された作法が求められる。メリーにとって嘘偽りの無い最大限の賛辞であった。
「光栄ですけど、私が勤めるのは『エミール』の女給ですわ」
とはいえレミーリアは、宮廷での生活や、ましてや出世などカケラも興味が無い。
彼女が望む将来は、愛するイングと共にある未来のみである。彼と離れ離れになるであろう帝城勤めなどゴメン被った。
その思いはしっかり伝わったようだ。メリーは、レミーリアの言葉にクスクスと笑い出す。
「そうですわね。レミーリア様の幸せが一番ですわ」
とんだひと騒動が起き一度は静まり返った店内は次第に、探り探りではあるが、喧騒を取り戻していた。
紅茶を一口飲んだルーチェは、メリーの方を向いて尋ねる。先程のレミーリアとルーチェの会話で思い出したことがあったのだ。
「帝城と言えば、メリー先生の娘さんも今そこで侍女としてお勤めされているんでしたっけ? すごいじゃないですか」
下働きをする下女ならともかく、平民が侍女として帝城に勤めるのにはかなりのスキルが求められる。もちろん身元への信頼も必要であり、そうそうなれるものではない。
この国の女性としては間違いなくハイキャリア、いわゆるエリートである。
故にルーチェは手放しで賞賛するが、当の母親であるメリーはどうも浮かない顔をしている。
「不肖の娘ですわ。どんな粗相をするか、いつも心配しております。できれば大過無く勤め上げて、私の教室を引き継いで欲しいのですが……」
メリーはため息混じりに不安な心情を吐露した。
彼女は今現在、スピリタスでマナー教室を開いている。
主にコースは3種類。〈恋人に恥をかかない初級コース〉、〈商売相手もニッコリ中級コース〉、〈貴族も接待できる上級コース〉である。(コース名はメリー考案)
スコルトの商人や傭兵などは研修の一環で彼女のマナー教室を受講させられるので、彼女に世話になった人間は多い。
メリーは娘にその教室を継いでほしいようだ。
「粗相ですか? 立派な娘さんだし、大丈夫だと思いますけどね」
何をそんなに心配しているのかルーチェにはピンとこないようであるが、ローゼは思う所があったようだ。
「親はいつまでも子供が心配なものです。貴女も直ぐに分かる日が来ますよ。ましてや彼女の職場は帝城。高貴な方々が多く出入りしておられる場。何があるか分かりません。どれ程心配しても足りないでしょう」
ローゼに言われ、ルーチェも少し理解したようである。
思えば帝城にごまんといるのは、平民にとっては天上人である貴族だ。いつ些細な事で処罰を受けてもおかしくない。それどころか戯れに非道な目にあう可能性も十二分にある。
ルーチェはたまったもんじゃないと吐き捨てた。
「そう言われると少し分かる気がします。確かにお貴族様みたいな厄介な相手はゴメンですね。あたしは絶対関わりたく無いですもん。あっ、ここの男爵様以外は」
「あら、うふふ」
「ふふっ、そうですね」
最後にルーチェが付け加えた言葉に、二人は思わず吹き出してしまった。
トリス男爵は、平民の目から見ても信じられないくらい寛容で人の良い貴族なのである。だからこそスコルトの住民から慕われているのだろうが。
「お待たせいたしました。本日のシチューです」
レミーリアが彼女たちに料理を配膳していると、店の扉が開いて新しい客が入ってきた。妙にチャラついた態度の若い男である。
彼はレミーリアを入るなり見つけると、馴れ馴れしい態度で近づいた。
「よっ、レミーリアちゃん今日も可愛いね〜。いや〜俺さ、急にレミーリアちゃんに逢いたくなっちゃてさ、来ちゃったわ」
レミーリアは苦笑している。男の言動は今に始まったことでは無いので、いつもは軽くあしらうのだが、今日は日が悪い。
男は周りの空気がおかしいことに気が付いた。
「ん? てかさ、今日客多いのになんか静かじゃね? まさか俺、変なタイミングで入ってきたとか? んな訳ないよね――」
何かおかしいと感じつつも、気のせいだとヘラヘラとした様子で周りを見廻していた男は、すぐ近くに座っていたルーチェとばっちり目が合う。その瞬間、男の血の気が一気に引いた。
「ひぃ、《男殺し》ルーチェ! レミーリアちゃんゴメンッ! また今度来るね!」
ルーチェを見て人聞きの悪い二つ名を大声で叫んだ男。
青褪めた彼はレミーリアに急いで詫びると、猛ダッシュで店から出て行った。
「ルーチェ先生、今の男の人に何かしたんですか?」
メリーが首を傾げながら尋ねると、ルーチェは憮然とした表情で口を開いた。
「記憶にありませんが、何かしたんでしょう。いちいち覚えてなんかいられませんよ。……それにしてもなんて酷い男。あんな二つ名で人を呼ぶなんて。私みたいな貞淑な女性に向かって言う言葉じゃ無いわ」
《男殺し》とは、聞きようによってはアダっぽい二つ名だが、この場合は物理的な意味合いである。
ルーチェは女性向けの護身術の教師である。しかもかなり実践的で、急所を容赦なく狙うような技を教えていたりする。
かつてルーチェの美貌に目が眩み強引に言い寄った男たちは、皆その餌食となっていた。もしかしたら先程の彼もその一人なのかもしれない。
別のテーブル席では騎士たちがルーチェを見ながらヒソヒソと話をしている。
「知ってるか? ルーチェの旦那って騎士なんだぜ」
「そうなのか? 初耳だ。《男殺し》、《玉潰し》のルーチェだぞ。怖くなかったのか?」
「ああ。どうやらルーチェの二つ名を知らなかったらしく、熱心に口説いて落としたそうだ。後からそのことを知って旦那は何て言ったと思う?」
「何て?」
「『真摯に想いを伝え、誠実に交際して、これ程良かったと思ったことはない』って青褪めながら言ったらしい」
さもありなんと男たちは頷いた。
ローゼは逃げて行った男の背中を見て嘆息した。
「ブリット君も変わりませんね。昔からあの調子で困ったものです」
「生徒さんだったのですね。覚えてらっしゃるということは印象深かったんですのね」
ローゼは首を静かに振ると、メリーの言葉を淡々と訂正した。
「印象深いことは否定しませんが、私は生徒たちの名前は全員覚えていますよ」
その言葉にメリーは目を丸くする。
「全員ですか! 先生の教師歴は確か……」
「もう50年になります」
さらりと告げられた年数にメリーは口に手を当て驚嘆した。
「それなのに全員! しかもまだ現役でいらっしゃるのでしょう? ご立派ですわ!」
ローゼはスピリタスにある学校の教師であり、子供たちに読み書きと計算を教えている。町のほとんどの子供は学校に通っているので、彼女は町の人間の名前をほぼ全員言えることになる。
因みに、マーティン帝国の識字率はかなり低く、平民で文字が読めるのは1割もいなかった。
では何故スコルト領では子供たちが教育されているのかというと、キルト人が文字の習得に熱心だからである。
キルト人は神々へのアピールのため、自身の行いを他人によく喧伝している。そして最も長く語り継がれる方法として、文章に残すことが最適であると理解したのである。
キルト人にとっては自分の冒険譚を書き残し大勢に読み継がれることが最大の夢なのだ。
そういった経緯もあり、キルト人と関係が深いスコルト領では学校が設立され、レミーリアやアンネといった男爵家の人間も通っていた。
ローゼはその学校で50年教鞭を取っている。規律に厳しい性格から卒業生からは影で《厳正厳格》、《地獄の獄卒》などと呼ばれてたりする。
なお子供たちからは《あのクソババア》と呼ばれているようである。
「――さて、そろそろお暇しましょうか」
ローゼが食後の紅茶を飲み終わり席を立つと、二人も一緒に立ち上がった。
楽しいひと時を楽しめたことに満足したメリーは、柔らかく微笑む。
「偶然お店の前でご一緒したので、これも何かのご縁とご相席させていただきましたが、とても楽しい時間でした」
ルーチェもニッコリと笑って頷いた。
ローゼはともかく、メリーは普段交流がない間柄であったが、話してみれば意外と気が合ったようだ。
「ええ、そうですね。良かったらまたご一緒しませんか?」
3人は「良いですね」と言いながらそれぞれ代金を払い、揃って店を出た。
3人が退店すると、店内の空気は一気に弛緩し、男衆は気が抜けたように脱力した。中には「あー疲れた」などと言い、伸びをしている者までいる始末である。
(できれば二度と同じ店で食事したくない)
客たちに共通した思いだ。
しかし、スミカだけは別のようで、
(ローゼ先生は怖いけど、お客が静かになるからちょくちょく来て欲しいな)
と考えていたのであった。
補足
メリーの二つ名
《紳士淑女製造者》
彼女のマナー教室はかなりスパルタである。少なくとも傭兵が「上級はもう二度と嫌だ」と泣くくらいには。