帰ってきた歌姫
昨晩の『エミール』はダッキー目当ての客が大勢来店し、大変な盛り上がりであった。
テーブルというテーブルは埋まり、それでもなお客足が途絶えないので、曲だけでも聴きたいという人のために急遽入り口のドアを開け放ったくらいである。
これほどの騒ぎになったのは、ダッキー自身の人気もあるが、一番の理由は題材が《再統一王》ガヴィ王であった事によるものであろう。
レフ連合との開戦間近とまことしやかに囁かれる昨今、レフ大陸の情勢はスコルト住民の誰もが気になっていた。
そこにダッキーがガヴィ王の英雄譚を引っ下げて帰国したので、昨日のように大勢の客が『エミール』に詰めかける事態となったのである。
一夜明けた今日、ブルーとスミカの二人はどこか草臥れた顔で朝の仕込みをしていた。寝るには寝たが、まだ昨日の疲れが残っているのである。
一方、レミーリアとイングは普段通りに元気一杯といった様子。15歳の二人にとって、一日二日の激務などへっちゃららしい。
スミカは、レミーリアとイングをチラッと横目で見た。
二人はキビキビと働いており、今、スミカが感じているような昨日の疲れなど微塵も感じさせない。
(あの二人は元気そうだわ。これが若さなのね……)
スミカは心の中で黄昏れた。もちろんこのことは他人には指摘されたくはない。もし言われたら彼女はフライパンを振り下ろすであろう。
(何にせよ、今日はいつも通りであって欲しいわね)
スミカは心の中でため息を吐くと、気合いを入れ直して仕事を続けた。
スミカの願い通りにその日の『エミール』はトラブルも無く昼営業を終え、夜営業の時間となった。
ダッキーが今日は別の店で演奏しているので、そちらに人を取られ、客足はむしろ控えめなくらいだ。
疲れ気味の今ばかりはありがたい話である。
(今日、ダッキーさんは『オールトム』で演奏しているらしいし、明日は定休日だわ。今夜はゆっくり休めそうね)
スミカがそう考えた時、ドアが開く音が鳴り、『エミール』に新しい客が入ってきた。
スミカはクルッと入り口を振り返り挨拶をする。
「いらっしゃい……ませ」
その客を見た瞬間、スミカは呆然と立ち尽くした。その上、どこか絶望感を漂わせた瞳で新しい客を見つめている。
「こんばんわ〜」
新しい客は20歳前後の若い長髪のクルス人女性だった。整った顔立ちとスタイルをしており、透き通るような肌にサラサラの金髪を靡かせた神秘的で繊細な印象を感じさせる女性である。
確かに目を見張るような浮世離れした美女だが、スミカが恐れるような奇異な様子は見受けられない。いたって普通の女性である。
「あの〜スミカさん?」
その女性はスミカの反応に戸惑い、不思議そうに首を傾げた。
「スミカさん、お久しぶりです。どうしたんですか? そんなに驚いて目を丸くして」
そう言うと女性は後ろを振り返る。もしかしたら後ろに何かあるのかも、と考えたのだろう。
「別に何もありませんよ。あっ、私が急に帰ってきたから? スコルトに着いたらまっすぐにここに来たんですよ。そりゃ〜まだ噂にはなってませんね。へへ、まいったな〜、驚かせちゃいました?」
そう独り合点した女性の言動は、繊細さをかなぐり捨てるような明るくヘラヘラとしたものだった。
しかも、照れ臭そうに鼻の頭を掻いている。見た目とは裏腹な性格のようである。女性が身に纏っていた雰囲気が一気におちゃらけたものになった。
レミーリアや店内にいた客たちも、入り口でニヤニヤしている女性に気がついた。
「あ〜! ランジェさん、帰ってきたんですね!」
「うん、ついさっき着いたばっか! レミーリアちゃんただいま〜。元気してた?」
レミーリアは満面の笑みでランジェと呼ばれた女性に真っ先に駆け寄り、その嫋やかな手を握った。
ランジェもまた親しげに手を握り返し、きゃいきゃいと擬音が付きそうな感じで再会を喜んでいる。
「おっランジェだ! やっと帰ってきたな」
「今回もしっかり稼いできたか?」
「あら〜、ランジェちゃん久しぶりね〜」
「本当ね〜、相変わらず別嬪さんだわ〜」
店内の客もランジェを歓迎している。人気者だ。
ランジェはレミーリアに席に案内されながら周囲に笑顔で手を振っている。
「ランジェ、ただいま帰りました。いや〜、さすがにマーティン全国巡業は大変でしたよ〜。でも収穫祭に間に合ってよかった〜」
ランジェは「よっこらせ」と親父くさい仕草でイスに座り、早速レミーリアに元気よく注文を飛ばした。
「レミーリアちゃん、まずは一杯エールをちょうだい! 話はそれからよ」
レミーリアはにこやかに「はい、ただいま!」と言ってエールを取りに行った。
スミカは半ば放心状態でその様子を眺め、項垂れながらポツリと呟く。
「……ランジェちゃんが帰ってきた。今日も忙しくなるわ……」
「プッハー、やっぱりこれを飲まないと生きてる気がしないわ〜。レミーリアちゃん、おかわり! それとおつまみもお願いね〜」
ランジェはエールを一気飲みすると、レミーリアに空のグラスを掲げた。口元には白いヒゲが付いている。
レミーリアはフフッと笑い、「かしこまりました」と言って厨房に向かう。
おかわりを待っている間、ランジェは他の酔客と談笑し始めた。
「なんかスコルトは大変だったらしいじゃないですか。あっちこっちで噂になってましたよ。いいな〜、ドラゴン。私も見たかった〜」
「首なら集会所に飾られているぜ。行けば嫌でも目に入るさ」
「そうそう、どうせ今年も行くんだろ?」
残念そうにぶー垂れるランジェに、周りの客は大丈夫だと教える。
胴体は売っぱらったが、首から上はちゃんと取っといてあるのだ。それに集会所に飾られているので、まず間違いなくランジェは目にするはずである。彼女は収穫祭の日に絶対にそこに行くのだから。
「私の生きがいですからね、当たり前じゃないですか。そのためにわざわざ猫かぶってお仕事しているんですよ。種銭はバッチリです」
当然だと豪語したランジェは、イヒヒと下品に笑ってサイコロを振る仕草をする。収穫祭での賭博が彼女の楽しみなのだ。
レミーリアはランジェの前にエールのおかわりとおつまみの盛り合わせを置いて、そのついでに話しかける。レミーリアはレミーリアで聞きたい事があった。
「でも、ランジェさんのお噂もスコルトに届いてますよ。なんでもどこかの貴族に求婚されたらしいじゃないですか」
レミーリアの言葉に他の女性客たちが目を輝かせて食い付いた。
いつの世も他人の恋バナは楽しいものである。ましてやそれが身分差のある恋なら尚更だ。
「そうよそうよ、私もその噂が気になってたの!」
「教えなさいよ、ランジェ」
「そうよランジェちゃん、どうなの? ホントなの? 結婚するの?」
あっという間に取り囲まれ矢継ぎ早に質問を投げかけられるが、当のランジェはつまらなそうに手を振って、素気なく答えた。
「するわけないじゃないですか。何かソレっぽい理由をつけて断りましたよ。それに求婚っていったって、私は平民ですからね。つまるところ妾ですよ、め・か・け。3食昼寝付きでしょうけど、私は酒と博打も自由にできない生活はゴメンですね」
女性陣も、ランジェらしいその答えに納得し、「ランジェちゃんはそうよね〜」と苦笑した。ギャンブルには熱くなるが、色恋にはドライな性格だと知られているのだ。
ランジェはおかわりのエールをグイッと一口飲むと、「あー、あー」と喉の調子を確かめるように発声した。
「それじゃあ、その時に作曲した歌でも歌いますか。貴族に恨まれないように悲恋の歌を作ったんですよ。私も本当は貴方のことを慕っていますよ〜的な感じで。いや〜、思ったよりウケが良くって儲かりました」
彼女が歌うと宣言した瞬間、客たちはワッと盛り上がった
歓呼の声が店中に響き、ランジェは得意満面の様子である。
「《歌姫》の新曲? やったぜ!」
「いよっ、待ってました!」
「嬉しいわ〜、今日来て良かった〜」
「へへっ、では歌いますよ〜。ご清聴願いまーす」
ランジェは祈るように両手を胸の前で組んで、静かに歌い出した。
歌詞は先程言って通り、切ない恋心と実らない想いを抱えた女性についてだ。聴くものを涙させるような哀しい恋の歌である。
透き通った美声が店内に響く。お客たちはランジェの歌に聞き惚れた。
ランジェは歌手である。
それもそこらの歌手ではない。その神秘的な容姿と澄み切った歌声は多くの人々を魅了し、実力と人気ともに帝国一の呼び声高い大物歌手だ。
上流階級からの評価も高く、彼女の歌を聞くために大金を払う貴族が後を絶たないほどである。
有力者から招待を受けることも多く、日夜東奔西走、マーティン全土を股にかけ興行をしている大人気歌姫なのである。
――ただし性格を隠して、ではあるが。
生まれ育ったスコルトでは素を出しているが、別の土地では奥ゆかしく物静かな女性として通っている。
本人曰く、金持ちに人気が出て、角が立ちにくいそうだ。確かに普段の性格では貴族の前には出せないであろう。
やがて歌が終わり、店内で拍手喝采がおきる。ランジェは立ち上がり、周りに頭をペコペコと下げた。
「いや〜、どうもどうも」
歌っている間は見るものを魅了するような神々しさすらあったランジェだが、歌い終わった瞬間、軽薄な雰囲気の酒飲みに戻った。
「今、ランジェの歌声が聞こえたぞ。スピリタスに帰ってきてるのか?」
ランジェの歌声は店外まで漏れていたらしい。『エミール』に通行人がどっと入ってきた。スミカが恐れたのはこのことである。
「やーやー皆さん。お探しのランジェはここにいますよ〜」
ランジェは笑って手を振っている。一曲歌って上機嫌のようだ。
「おおっ! やっぱりランジェだ!」
「間違いないと思ったんだ。よしっ、一杯奢ってやるよ!」
「おかえり! どーよ調子は?」
「レミーリアちゃん、酒とおつまみテキトーに頼まあ」
「おっと、こっちにもお願い。ランジェ〜、俺も一杯奢るから何か歌ってくれよー」
目当ての人物を見つけた通行人たちは次々と『エミール』のイスに腰掛け、注文を飛ばす。
酒を対価にランジェの歌を求める客まで現れ、『エミール』はにわかに忙しくなった。
その後、ランジェは飲み食いの合間に帝都で流行りの曲を2、3曲歌うと「よーし」と言って腕まくりする。
「そろそろ本番といきますか!」
そう言ってランジェは今までの曲とはまるっきり違うものを歌い出す。歌うのは彼女の十八番であるスコルト民謡だ。
「〽︎今日も〜俺は〜漁に出る〜。穏やかな波は〜船を優しく揺らす〜。いっぱい採れた魚を売って儲けた金も〜。家に帰れば〜カミさんに取られた〜。なけなしの小遣いを握りしめ飲みに行く〜。明日も〜俺は〜漁に出る〜」
間違っても普段の活動では歌わないが、ランジェが本来得意としているのは労働歌や酒盛り歌などの民謡である。
しかも、『エミール』ではスミカに怒られるのでまだ抑えているが、飲み屋をはしごする度に歌詞がどんどん俗っぽいものを、悪く言えば下品なものを歌い出すのだ。
客たちはランジェの歌に合いの手を入れ、一緒に歌う。それを聞いた通行人がさらに『エミール』に来る。
盛り上がった店内には注文がどんどん飛び、レミーリアたちは眼を回しながら働いた。
(やっぱりこうなったわ……)
スミカは内心でため息を吐くのであった。
補足
ランジェの二つ名
《神秘の歌姫》《奇跡の歌声》《唄う博徒》《軽佻浮薄な歌姫》
前半二つは全国的な評判で、後半二つはスコルトでの評判。本人的には《唄う博徒》がお気に入り。
毎年大金を持って収穫祭の賭博に挑むが博才はないので大抵負ける。スコルト経済への貢献は大である。
彼女をモデルにした絵はファーネス商会の人気の商品。直筆サイン付きの限定品は貴族や富豪が高値で奪い合っている。




