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終曲 〜Finale〜

作者: ハルヲミ

 ──死の世界。


 灼熱の、そして極寒の。



 渇いた地に命を生み出す力はなく、漂う空気は毒そのもの。大地の亀裂からは(あか)い血があふれ、(そら)は暗黒に閉ざされていた。

 かつてあった美しさのすべては損なわれている。

 緑の森、(はて)に連なる大気にかすれた蒼い稜線、空を彩って刷かれた薄い雲たち。

 目に届く限りのなにもかもが。


 ──これでは。


 彼は絶句したまま、切り立った断崖の(いただき)でたたずむ。

 ある程度の荒廃は予測していた。生なき知恵者どもがこの地を見離すことも、またはなんらかの腹いせに『裁き』と名づけた鉄槌を、いずれかに下すだろうことも。

「……だが、……だがこれでは、我らの繋がれた獄より……」

 言葉を紡ごうとして、彼は美しい形で歪んだ唇を閉ざした。生き物の気配は、欠片(かけら)たりとも見いだせない。

 かの君が、気も狂わんばかりに焦がれた地。

 罪深くも愛しい、子羊たちの園──

 白磁の肌を熱風がなぶり、濃い蜜にも似た金色(こんじき)の長い髪が乱れて、彼は不快げに左の手を上げた。

 風は萎縮したように、ぴたりと動きを止める。熱気もすぐに枯れ果て、周囲は心地よい空気に満たされた。

 これくらいのことは、なにほどでもない。そう──幾らもかからず、この地をかつてと同じほどに美しくもできよう。

 その程度の力なくして、かの君に近く仕えることなど出来ようはずもない。

 けれど。

 それでは、意味がないのだ。

 意味がないからこそ、彼はここでこの惨状を目の当たりにし、憂うのだ。

 彼は人たりえない黄昏に似た紫紺の瞳をこらし、厚い黒雲におおわれた天を睨む。眼差しは雲を突き抜け、遙か彼方に座すそれを射抜いた。

 力持つ者だけが見ることの出来る、透けるように白い幻の城。あれこそが天国の門。

 そして、天界そのものでもある。

「……墜ちるか消えるかなりとしていれば、今少し溜飲も下がろうというものを」

 玲瓏たる(おもて)に憎々しげな色をたたえて、彼はつぶやき、力を振るう。

 その瞬間にも、あたりの気配は一変した。

 浄化、ではない。

 記憶にあるかつての大気を再現しただけ。おそらくそれは同じものですらないだろう。ただごく、似たものとして。

 ──気休めだ。

 かの君ならば、たかが千年の刻が流れようとも、完膚なきまでに叩きのめされた地を、塵ひとつ(たが)わず元通りにすることも叶おうが。

 そう、かの君ならば。

「……我が君……」

 天にあってもっとも美しく、地に堕ちてもっとも残酷な、輝ける者。

 白翼であったかつては、(あけ)の明星と(うた)われ、神へ一番近い位に座し、果ては天に反旗を翻し、魔王の名を戴いた──闇に堕ちてさえ、まばゆい力の遣い手。

 幾つもの名と顔を持つ、古き悪意の蛇エイシェント・ドラゴン

 美しき六枚の黒翼、黄金をまぶしたかの髪、青味と憂いのかかった白金(プラチナ)の瞳。そして、見る者を凍りつかせる怜悧な美貌、それに相応しい、低く情のない声音。

「……ルシフェル様」

 つぶやきはしかし届かない。届いた試しがない。(いいや)──届いてなお黙殺するのだ。どれほど非情な眼差しであっても、向けられた者には至福であるというのに。

「貴方は……コキュトスの氷獄よりも冷たい方だ」

 恨みがましさの感じられない響きの声とは裏腹に、彼の美しい瞳にはじりじりとした焦燥の色がある。

 地上が、この中間の世界がこんな風に荒れ果ててしまう前──

 ルシフェル率いる反逆天使(アルコーン)の軍勢が天界と(たもと)を分かって数万年経って、突然神により地獄と地上を繋ぐ門が断たれた。

 名目は堕落を意味し、人間を見えざる神の手から誘惑することを無上の楽しみとする悪魔(デヴィル)への制裁。

 今さらのことではあったが、このことにより『魔』を冠する者のすべては九層からなる地獄へ繋がれ、千年の沈黙を余儀なくされた。

 そもそも地獄という階層は、堕ちたる高位の有翼種(サタン)の力をもってしても御し難く、ことに第七圏の『炎獄(プレゲトーン)』、第八圏の『悪の溝(マーレボルジア)』、最下層であり第九圏の『氷獄(コキュトス)』などは、少々の魔を冠した程度では呼吸することすらままならぬ、過酷で陰惨な世界なのだ。魔王が指先ひとつで第五圏に創り上げた魔都ディースがなければ、大公(サタン)君主(デーモンロード)将軍(ジェネラル)といった支配者クラスの魔族以外は、ことごとく消滅の憂き目にあったことだろう。

 ディースは地獄で唯一の都であり、避難所であり、すべての魔にとっての拠り所だった。その場所に相応しく、壮麗で無意味、いかがわしくも無慈悲な都市。まるで魔王の僅かな一部を写したような。

 軍勢を入れることを除いて許されぬことはなく、天のごとき規律も煩わしさもない。地獄という場所で、彼らは存分に自由だった。

 しかし明確な寿命を持たぬ魔族といえど、千年という年月は決して短いものではない。変化は目に見えぬようゆっくりと訪れ、地獄を侵蝕し始めていた。

 退屈が、彼ら(デヴィル)を蝕んでゆく。

 (たたか)いもない。愛しくも愚かしい人間どもで、遊ぶことすらできない。天界と対をなすほど広大な地獄であっても、閉じこめられてしまえばただの檻だ。

 気がつけば互いに益のない斗いへと身を投じ、ディースを囲む『冥界の河(スティクス)』を屍と血泥に埋め、いさかいは何百年という単位でそこかしこに烽火(のろし)を上げた。

 そもそもが退屈しのぎで始めた斗いである。終わりはいつとも知れず、得るものなどなにひとつない。いっそのこと天使の軍勢にでも攻め込まれた方が、まだしも面白味はあっただろう。

 さすがに魔王をはばかり、ディースが戦場になることはなかったが、地獄はよりそれらしい様相を帯びていくことになる。

 不思議なことに、これほど地獄が乱れても魔王は姿を現さなかった。地上と繋がっていた頃より、一切の無関心を通し続けていたとはいえ。

 (ディース)を象る魔王の力はいささかの衰えも、揺らぎさえない。だからこそ、その存在は疑われることもなく、姿見たさに探索する者もなかった。

 魔王は邪魔を嫌う。わざわざ不興を買いに行くのは、愚かし過ぎるというものだ。門が閉ざされている以上、地獄に存在していることだけは確かなことなのだから。

 ところが魔王の行方は(よう)として知れない。千年を過ぎ、神の呪いが解けても。

 そうして懐かしい地上に戻ってみれば、目前に広がるのは地獄と見紛う情景である。

 これではもうひとつの仮説も消えてしまう。

 たとえば門が閉ざされる前に、或いは閉ざされた門をこじ開け、魔王は地上にあるのではないかという、幽き希望が。

 ──気配はある。

 だが、それだけだ。

「……一体、どちらにおられる……」

 届かぬと、応えはないと解っていてさえ、彼は問わずにいられない。

 彼にとって、否──大多数の魔族にとっても、魔王は闇で光だ。存在するために必要なすべてだ。失くしてしまえば、生きてゆくことは出来ない。

 誰より早く門を抜け、誰より早く地上を目にした。そして、より信じ難い思いに囚われる。

 かの君が地上にあったなら、この惨状はあり得ない。神が自ら降臨したとしても、だ。

 彼は知らず唇を噛む。

 誰より深い忠誠を誓いながら、主君の痕跡を辿ることも出来ない己が不甲斐なく、口惜しい。もっとも己に辿れぬのなら、他の誰にも辿れはしないが。

 挑むように濁りの取れた天を仰ぐと、不意に──

「そう落ち込むな」

 馴染みのある声音が降って、彼は美しく弧を描いた眉の片方を上げる。

「……ネヴィロス」

 隣に忽然と現れた黒髪の青年は、彼の不機嫌な眼差しを受け、質の悪そうな灰銀の瞳を眇めた。端正な右の頬に堕天の烙印(スティグマ)──

 同類だ。

「君の嘆きはこの胸を貫く。微笑んで欲しいとは云わないが、素直にこの戒めから解放されたことを喜んではどうだ? まあ君の場合、それで鑑賞価値が下がるわけじゃないがね」

「……お前に云われると虫酸が走る。用もなく私の前に姿を見せるなと云いおいたはずだが?」

 不快げな声音が一層に低くなる。その不快さを得てさえ、ネヴィロスは実に愉しそうに笑った。

「そんな昔のことは覚えてないな。ベリアル……久しぶりの邂逅だというのに、相変わらずつれないことだ」

 するりと頬に伸びてくる指先を叩き落として、ベリアルは毒を含んだ視線を投げ与える。眼前の男に然したる効き目がないのは、十全に承知していたが。

 果たしてネヴィロスは軽く肩をすくめ、広がる光景を差し招いた。

「見ろよ、まるで源始だ。いっそ神に(なら)ってアダムとイヴからやり直すという手もあるな。なにしろ我らには腐るほどの時間がある」

「──悠長な」

「そうかね? だがこの惨状では一からやり直す以外、方法があるとも思えんが。ことに【あの男】が不在の今の状況ではな」

 あの男、という呼称にベリアルは微かにまなじりを上げる。気づいているだろうに、ネヴィロスは知らぬ顔で言を継いだ。

「ここには死霊の気配さえない。つまり、かつて確かに存在したはずの命の跡すら見当たらないということだ」

 ネヴィロスは七人いる【君主(デーモンロード)】のひとりに数えられる。地獄と地上に彷徨(さまよ)う死霊を統べる【死霊遣い(ネクロマンサー)】にして、地獄の法の一部を司る。彼ならどれほど微量な死の痕跡であっても、見逃すことはありえない。ベリアルが詐術と悪徳と欲情を意のままに操り、制することが出来るのと同じに。

「……馬鹿な。現在がこの有様だとしても、滅びたなら必ずその瞬間に死が発生する」

 ベリアルはそれの示す意味を探して視線を彷徨わせ、ネヴィロスは緩く腕を組む。

「その通り。だとすれば答えは二つしかないだろう? 神が自らの手で根本からその存在を抹消したのか、初めから誰も死んでいないのか」

 ベリアルはその美貌に軽い嘲笑を浮かべた。

「神が? はッ、それこそまさかだ。我がものを跡形もなく消し去れるほど無欲な方ではあるまいよ。でなければ、いつまでも我らの存在を野放しにしておくものか」

 くつ、とネヴィロスが喉を鳴らす。

「まったくだ。ではなにも死んでいないのだろう。【死】がこの目を掠めることなど出来ない。たとえ【十大公(サタン)】に数えられる君の仕業でもね。解っていると思うが、実際にこんなことが出来るのは【あの男】くらいのものだろうさ」

 言葉が終わるか終わらぬかの刹那、ざっと風に似たものがネヴィロスの濡れた鴉羽(からすば)を煽った。

 幾筋かの髪が断たれ、足許に真紅の雫が滴り落ちる。左の頬を裂いたのは風ではない。風に溶け込ませた、闇の刃だ。

「ネヴィロス……我が君を愚弄するような物言いは控えろ。あの方が旧知のお前に甘いからと云って、私も甘いなどとは思わぬことだ。今度同じことを云わせたら、二度と減らず口が叩けぬようにしてやるぞ」

 ベリアルの声は常より低く平坦で、だからこそ込められた怒りは一層激しい。

「く……それは怖い」

 とてもそうとは思えぬ口調で云ったネヴィロスは、頬を濡らす真紅を指先ですくうと、艶めかしい仕草で舐め取った。

「しかし甘いというのは正しくないな。そもそも魔王が人間以外に甘かった試しなどあったか? あの方は徹頭徹尾それだけだ。私に甘いと云ったがそうじゃない。趣味がよく似ているのでね、他の者より少々大目に見て頂いてるのさ」

 ざっくりと裂けていた頬の傷は、いつの間にか跡形もない。

 ベリアルは口の端に苦い笑みを刻んだ。魔に堕ちて豹変した(やから)とは違い、ネヴィロスは力天使(ヴァーチューズ)副官(ナンバーワン)として、長であったベリアルに仕えていた昔よりほとんど変わりない。その気になれば幾らでもそれらしく振る舞えるというのに、この男の口からは皮肉と軽口しか出てこないのだ。

 軽く溜息を吐き、ベリアルは思いついたように眉を上げる。

「……そう云えば、お前も人間で遊ぶのが好きだったな」

 ふと、ネヴィロスは数々の人間を幻惑してきた皮肉げな表情で口許を笑みの形に吊り上げた。

「人間と──と、いって欲しいものだな。信じられないかも知れないが、私は人間が好きなんだよ。意味もなく希望に満ちた()も、絶望に彩られた悲痛な慟哭もね。羽虫のように儚い癖に、時折信じ難い強さでもって誘惑を退ける……なんとも不可思議な生き物だ。すべての限界を知り尽くしている我らとはあまりに違う。だからこそあの異質さに惹かれるのかも知れないな」

 本心からの憧憬がかすかに覗いて、ベリアルは軽く瞳を(みは)った。

「──ほう。お前がそんな風に思っているとはな。しかし、それではどちらにしても人間で遊んでいるのと大差あるまい」

「同じ、だと?」

 ネヴィロスの視線が、面白そうに瞬く。

「同じだろう?」

 憮然として応えれば、くくく、と半ば嘲るような笑みが返った。

「ベリアル……その答えでは駄目だ。それでは永劫に魔王の気持ちは理解出来まいよ」

「……今度は私を愚弄するつもりか、ネヴィロス」

 ちろり、と怒りが再燃する。持って回った話術は、むしろベリアル自身が得意とするものだ。

「まさか」

 と、今度はネヴィロスがおどけたように瞳を見開いた。

「私は永遠に君の信奉者だ。君が魔王の位にではなく、魔王自身へ忠誠を誓うように。ベリアル、思い出してみろ。私が一度でも君に立てた誓いを破ったことがあるか?」

 まるで信憑性の感じられない囁きは、困ったことに大体においては真実であった。ベリアルは溜息混じりに額を押さえる。

「……そうだな。確かにお前は私に嘘を吐いたこともなく、誓いを違えたこともない。だからといって、お前自身を信頼するかどうかについては別の話だ。元来から持ち合わせのないそれに、一体なんの効力がある。私が信じられるのは、この私自身の意志だけだ」

 かの君を絶対として仰ぐ、おのれのこの意志。そうと選んだおのれこそを信じている。その思考は、なにがあろうと揺るぎはしない。

「だからこそ解る真実もある。……ネヴィロス、おまえ──一体なにを企んでいる?」

「……人聞きの悪い」

 ネヴィロスは苦笑を浮かべた唇に、そっと指先を当てた。

「だがまあ、なにかは企んでいるとも。我々は皆そういう生き物だ。──かの魔王でさえ、な」

 ばさり、と予告なくネヴィロスの背に一対の黒翼が広がる。

「貴様!」

 逃げるつもりか、と言外に込めて叫べば、ネヴィロスは曖昧な笑みで首を傾げた。

「……私はいつでも君の味方だ、ベリアル。君の名にかけて、助けが必要な時はどこにいようとすぐさま駆けつけよう」

 羽ばたきの前兆か、巨大な翼が大きくしなる。もちろん止めようと思えば、方法は幾つもあっただろうが。

「──ネヴィロス!!」

 宙に浮き上がったネヴィロスは、ふと思いついたように手を伸ばす。指先がベリアルの唇に触れて、すぐに離れた。

「──もしもこの地上を元に戻すなら、アダムとイヴは君にしか造れない。なぜか解るか? 魔王の愛したこの地上を、正確に記憶しているのは君だけだからだ。力だけなら他の【十大公(サタン)】」でも可能だろうが、ベルゼは人間が嫌いだし、アスモデウスは(イヴ)にしか興味を抱かない。レヴィアタンとアバドンに至っては破壊が専門の方々だからな。確か神は土塊(つちくれ)に光と闇を吹き込んで人間を造ったと云うが……なに、光なら天上でさえずる白い小鳥たちから奪えばいいさ」

 ベリアルは一瞬、無礼を咎めることも忘れ、怪訝に眉根を寄せた。

「──どういうつもりだ、ネヴィロス? 貴様、なにを知っている!?」

「別に? ただ私としては、地上が元に戻って魔王が戻ってきてくれた方が楽しい。……では、またな。今度会う時は心からの笑みを見せて欲しいものだ」

 非の打ち所のない好意的な笑みをにっこりと浮かべ、ネヴィロスは今度こそ力強い羽ばたきと共に姿を消した。後に残るのは、宙をひらひらと舞う数枚の羽。

 闇色の。

「……くそっ」

 ベリアルは手入れの行き届いた長い爪を噛む。

 ネヴィロスは実に回りくどいやり方で方向を示唆したのだ。もとより周到な男ではあるが、どうにも解せない箇所がある。早々に地獄を出たこの身を追ってまで──

「……追って……?」

 ベリアルは虚空を睨んでつぶやく。

 千年の戒めが解かれたこの最初の瞬間に? 否、初めから尾けられていたのだと解釈すべきだ。

 ──なぜ?

 人間が好きだというネヴィロスの言葉は本心で、事実だろう。地上が戻ることは、彼にとっても望みであるには違いない。

 だが。

 この世界を作り直すとして、少なくともより原型に近い形が必要だとするなら、この人選はあまりに正し過ぎる。

 一見善意にも見える示唆。そこになにか酷い悪意が仄見えはしないか。正しい善意とは、はなから無縁の生き物ではあるにせよ。

 ネヴィロスの背後に、それ以上の意志がある。明らかな嘲笑と共に織り込まれた、拒むことすら許さぬ圧倒的な力と、意志と、気配が。

「……なるほど」

 だとすれば、心当たりなどたったひとつしかない。この身を屈服させる意志が、他の誰に持ち得ると?

「ネヴィロスめ……謀ったな」

 憎々しげに天を仰ぐと、永遠に訊き慣れることの出来ない、美しく冷ややかな笑い声を訊いた気がした。

 ネヴィロスごときの言葉をすんなり訊き入れたと思われるのは業腹だが、魔王の思惑に気づいてしまった以上、自分はそれを叶えるだろう。

 真意は窺えず、意の出所すらも不確かであろうと、自らに課した誓いと意志ゆえに。

 ベリアルは、その背に見事な漆黒の翼を広げ、邪気のある微笑を浮かべた。

「……この借りは後で必ず返すぞ、ネヴィロス」

 闇が滴るように、こぼれた羽が地に染み込む。風は幾つかのそれをさらい、目の届かぬ地上のあちこちへと運んだ。

 放たれた力の結晶がゆっくりと世界を包むまで、そう長い時間はかからなかった。




 その空間は信じ難いほどに澄み、激しく清らかな陽光に護られている。天はどこまでも蒼く、一面に広がる砂の海は金色に輝いていた。

 ネヴィロスを問答無用でこの世界に引きずり込んだ力は、金色の砂海を(みどり)(あお)で彩る豊かな沃地(オアシス)に建てられた、豪奢な館の前でぷつりと途絶える。

 ここからは歩いて来い、と云うわけだ。

 ネヴィロスは肩をすくめて、見上げる大きさの扉を潜る。実を云えば案内など必要としない程度には、この館を知っていた。好きで知るほど通ったわけでは断じてないが。

 大理石の柱が並ぶ長い回廊を抜け、中庭に面した吹き抜けの側を眺めつつ歩く。そこから見える庭の中央には、美しい石造りの噴水が小さな虹を作っている。哀れな天使の像がはまった、真っ白な──

「……気の毒なことだ」

 回廊の真ん中で足を止めたネヴィロスは、永劫に清らかな涙を流し続ける石像をうっとりと眺めた。かつて天上から送り込まれた【監視者】のひとりだ。死んではいないが、生きてもいない。まるでピンで羽を縫い止められた美しい蝶のようだ。

「だが、趣味はいい」

 囚われのそれに笑って再び歩を進めると、やがて広い居間に辿り着く。

 中世風の調度と、贅沢な織りの絨毯。飾られた彫刻や美術品の類は、主の趣味というより、その意を計った人間の使用人たちの見立てだろう。

 館の主人は細やかな装飾の施された長椅子にゆったりと腰かけていた。視界に入ればぎくりとせざるを得ない、凄まじいまでの美貌をまとった青年は、冴え冴えとした灰青色の瞳を上げる。

「……どうした、ネヴィロス? 機嫌は直ったようだな」

 一瞬、忘れかけていた腹立ちが蘇って、ネヴィロスは彼の正面に置かれた椅子に、どっかりと腰を下ろした。

「機嫌が直っただと? 人を使いっ走りに使っておいて。……君には色々と便宜をはかって貰っているし、正面切って敵対するほどバカじゃないがね。こんな頼みはこれきりにして欲しいものだな」

「ま、一応は訊いておこう」

 くつくつと喉を鳴らす魅惑的な声音は、ベリアルでなくとも主従の誓いを交わしてしまいそうなほど。

「あいつを謀るのは命がけだ。高価くつくぞ、ルシフェル」

 ネヴィロスは低く云って、椅子の背に深く寄りかかり、高い天井を仰ぐ。

 神の鉄槌とやらが地上に届く寸前──ルシフェルは人界を地上から切り離した。次元をずらし、あるはずのない場所に、あるはずのない世界を強引に移動させたのだ。

 ここは、この強大な力を持つ男の箱庭。この男の許しなくば、何人たりとも足を踏み入れることの出来ない、楽園である。

 ──彼だけのための。

「なんなりと」

 と、魔王は笑う。滅多に見ることのできぬ、晴れやかな笑みだ。迂闊にも見惚れそうになりながら、ネヴィロスはテーブルに用意してあった華奢なグラスを引き寄せる。

「……しかし解せんな。君ほどの力があるなら、地上を元に戻すくらい容易いはずだろう?」

「元に戻すだけなら、な」

「?」

 ネヴィロスが眉を上げると、ルシフェルは組んだ膝の上で、開いていた書物を閉じた。

「おまえは自分で造った人形と遊んで楽しいか? そんな都合の良すぎるもので?」

 端麗な指先が、美しい黄金の前髪をかき上げる。

「いかな私とて、己自身の予測のつかないものを造るのは不可能なんだよ。すべてが意のままになる世界など、つまらないとは思わないか? 神になどなってなんになる。あれほどにつまらぬ役割もあるまい? 己以外がすべて奴隷ではな。あげくわざわざ私のような反逆者を造り出さねばならなくなった。……おまえたちは皆勘違いしているが、私は神になりたいと思ったことはただの一度もない。神が消えれば、我らもまた消え去るのかと試してみたことはあったがね」

 くつりと笑った魔王の双眸には、本気で面白そうな光が宿っていた。

「……やれやれ。君といると、つくづく自分が善人のような気がしてくるな。ベルゼビュートあたりが訊いたら憤死するぞ」

「関係ないな」

「──君に叛旗を翻しても?」

 ネヴィロスは含みのある口調で、琥珀の酒を満たしたグラスを目の高さに掲げる。

「叛旗、ねえ?」

 ルシフェルは指先で頬杖を突き、小さく唇を歪めた。酷薄な笑み。時折垣間見せるその本質こそが、力だけでなく、彼が魔王と呼ばれることとなった証明に他ならない。

 この美しい恐怖に惹かれ、翼を焼き尽くされるほどに近づき、闇に堕ちた天使も数多い。焦がれても焦がれても、この男の見据える先は虚無ばかりだというのに。

「あれらもそれほど愚かではあるまいよ。もとより、私は配下など持った覚えはないからな。この場合叛旗とは云わず、ただ邪魔になるだけだ」

「そして邪魔者はさっさと消し去るわけだ。酷い男だな」

 ルシフェルは口許だけの微笑を深くし、無言のまま視線を寄こす。ネヴィロスはわざとらしく溜息を返して、グラスの中身を一気にあおった。

「──さて、毒気に当てられないうちに退散するとしよう。報酬は……そうだな、時々こちらの世界へ呼んでくれ。地獄は死ぬほど退屈でね」

「まあ、よかろう」

 立ち上がったネヴィロスに、魔王は鷹揚にうなずく。

「おまえの骨折りのおかげで、地上が元通りになるのもそう遠いことではあるまい。それまでの間、おまえが私を呼べばいつなりと叶えてやろう」

 謝意は述べない。これは正当な報酬でもあるからだ。

 ネヴィロスはふと、窓に差し込む陽の光を見つめ、整った容貌をわずかにしかめた。

「……やはり太陽も昼間も苦手だな」

 死霊を統べるという固定された属性のせいだろうかと考えた時、ふわりと静電気に似た気配が押し寄せてくる。軽く肌が粟立って、不可視の力に包まれたことに遅ればせながら気づいた。

「──ではな、ネヴィロス。今度は夜に招こう」

「……ルシ……!!」

 不意打ち同然のやり方に、きつい一瞥を投げたその瞬間──

 唐突に景色が切り替わる。

 残像のような微笑みに、見慣れた光景が重なって、消えた。

 瞬きの間で、ネヴィロスは地獄に送り返されたことを知る。そこは【悪の溝(マーレボルジア)】にある己の居城ではなく、中立の魔都ディースに置いた館の私室だった。

 界さえ隔てた、いずことも知れぬ場所より送られた力の片鱗は、今や跡形もない。

「……相変わらず勝手な男だ」

 ネヴィロスはつぶやいて、苦く笑った。

 地獄の魔王として君臨しながら、人間という取るに足らない存在を守護し続けるあの男は、果たしてその矛盾に気づいているのだろうか。なにより深く愛するがゆえに、神との狭間で揺れる人間たちを誰より憎んでもいることを。

「──闇は光を理解しないもの。光が闇を理解し得ないように。……だが両方の属性を持つ君は、すべてを知り得る、というわけだ。だからかな、ベリアルと違って君の力に興味はないが、君の隠す狂気には惹かれるよ」

 囁きが、あの男に届くことを疑いもしていない。ネヴィロスはやがて、くつくつと肩を揺らし始める。


 楽しくて楽しくて、仕方ないのだとでもいうように。


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