第08話
「お先に失礼します」
心の中で言い聞かせ、挨拶をして部屋を出ようとすると、急に久喜さんに呼び止められた。
「―――遠藤!」
ドキッと心臓が跳ね上がったが、そんなことはありえないとすぐに期待を打ち消す。
(……言い忘れていた用事かな?)
決別したと思ったはずの恋心なのに、いまだに意識できないところで、私の体にまとわりついているらしい。
―――でもそれも、しばらくすれば消えるだろう。
「はい、何でしょうか?」
ドアノブに手をかけたまま、久喜さんを振り返る。
彼は机に右肘をついて、手の甲に顎を乗せていた。
私が勝手に”ロダンのポーズ”とこっそり命名した、考えている時特有の久喜さんの癖だった。
「……久喜さん?」
いつもテキパキと指示を与える彼らしくない。
黙り込んだまま、顔も上げずにうつむいている。
勢いよく私を呼んだにしては、この展開はありえない。
(もしかして、具合が悪い……とか?)
心配になってしまった私は、踵を返して久喜さんの元に走り寄った。
「ど、どうかしましたか……?」
正面に立ってみても、彼が今どんな表情を浮かべているのかは確認できない。
私は中腰になり、久喜さんの顔を覗き込むようにして尋ねる。
眉間に寄ったシワが、はっきりと見えた。
「だ、大丈夫ですか?」
最近は、あまり彼の顔を直視しないように仕事をしていた。
だから気づかなかったけれど、久しぶりに間近で見た久喜さんは、明らかに以前より疲れていた。
目の下にはうっすらクマができ、心なしか頬もこけてしまっている。
返事もできないほど疲労しているのかと心配になり、そっと彼の肩に手を伸ばす。
「久喜さ―――」
指先が触れるか触れないか。
寸でのところで突然、熱い感触が私の手のひらを包み込んだ。
「―――っ!」
久喜さんに伸ばした手を掴まれたのだと理解するよりも早く、彼の真剣な眼差しに射抜かれてしまった。
瞬きすら躊躇うほどの、刺さるような鋭い視線。
まるで標本に縫いとめられた蝶のような心境に陥る。
「な……なんです、か……?」
絞り出した声は自分でもわかるくらいかすれていた。
握られた手が痛い。こんなの上司と部下の距離じゃない。
(こ、この人は一体、何がしたいの……?)
「あ、あの……手を、離してください」
引き抜こうとしてもビクともしなかった。
でも、それだけの強い力で私を引きとめる割には、言葉では何も言ってくれない。
(ああダメだ、ここで泣いたって何も変わらないのに―――!)




