【2】虎目石~私に仕事を~
無事に『Round Drop』からアパートへとたどり着いた。
部屋に入るなりバスルームへと飛び込んだ。シャワーを浴びて頭がスッキリとする。
ベッドに体を横たえて、昨日の出来事を戒めるように思い出した。
和は小さな印刷会社の契約社員だった。経理部に所属し、ひたすらエクセルと数字の睨めっこのような仕事をしていた。暗算は得意だし、自分が望んだ部署だったから文句はない。ただ、いつか正社員になりたいとは思っていた。
去年の半ばだった。不穏な噂が社内を駆け巡った。それはアルバイト、派遣社員を減らすというものだった。
出版物が売れない時代、印刷会社にもその波は押し寄せてくる。特にうちのような小さな会社が受ける打撃はなかなか大きいものだった。
そのしわ寄せがいろいろな所へ回り、最終的には人件費削減という最後の砦まで来てしまったらしい。
噂は現実のものとなり、バイトと派遣社員の人数が減った。そうなると仕事のしわ寄せは正社員と契約社員に圧し掛かる。経理部もバイトの子が一人辞めた。ただでさえギリギリでやっていた仕事が増え、静かな経理部がますます静かになった。
そして今年の初め。また嫌な噂が流れ始めた。うちの会社が潰れそうだというものだった。
嫌な予感がした。現在勤めている印刷会社の前に、働いていた会社があった。新卒採用で入った会社だ。でも半年で倒産した。そのときも倒産するかもしれないという噂が広がっていた。
同じようなことにならないでほしいと、和は願った。でもその願いも空しく、会社は倒産した。
諸々の手続き関係を終わらせ、二度と来ることもない会社を後にした。
真っ直ぐに家に帰る気にもなれず、何も考えずに来た電車に乗って、目的もなく適当な駅で降りた。
駅周辺をふらふらと歩き、コンビニのATMで一万円を下した。これで好きなだけ飲んで食べてやる。
和は目に付いた居酒屋に一人で入った。普段なら一人で入ることはない。今日はいつもの自分は存在していなかった。
生ビール小と枝豆を頼む。それが食べ終わると生ビール小と焼き鳥を頼む。それが食べ終われば生ビール小と刺身の盛り合わせ。そんなことを繰り返した。
和が記憶に残っているのは、居酒屋でお会計を済ませたところまでだった。
その後、和は謎の鼻歌を歌いながら歩いた。"何か"に縋りたいような気持ちになり、たまたま足にぶつかった"何か"を抱きしめながら号泣した。
その"何か"が『Round Drop』の看板だった。その後の状況は真理が話した通りだ。
二度も会社の倒産を経験し、その憂さ晴らしで酒を飲んで酔っ払い、人様に迷惑を掛ける。社会人として最低だ。真理から聞いた状況を振り返り情けなくなった。
明日、ちゃんとお詫びをしよう。和はゆっくりと目を閉じた。
夕方に目を覚ました和は買い物に出かけた。
次の働き先を探すため無料の求人情報誌を数冊集めた。そして大型ショッピングモールへ行き、履歴書、明日持っていく手土産、夕飯を買って帰った。
買ったものを仕舞い、和は履歴書を袋から一枚取り出した。志望動機などの欄は記入せず、名前や学歴、職歴などをとりあえず書いた。
次の仕事がすぐに決まるとは思えない。まずは繋ぎのバイトを探す方が先だ。
情報誌を見ながら、アパートから徒歩で通える場所を条件にいくつか目星を付ける。昨日のやけ酒のせいで若干声が枯れているため、今日電話をするのは辞めた。
テーブルの上に広がる求人情報誌や履歴書を見て、漠然と生きるって大変だと思った。
和が住んでいるアパートの最寄り駅から三つ先の駅で降りる。昨日の朝もここにいた。
歩いて十五分の所にパワーストーン・ビーズ専門店『Round Drop』はある。
昨日は地図を見ながら歩いていたため、街並みを気にすることはなかった。 カフェ、雑貨屋さん、アンティークショップやネイルサロンなど、小さいながらも可愛らしいお店が多くあった。
その中に『Round Drop』も存在している。二階建ての建物。大正ロマンを彷彿とさせる白い外壁に、窓枠からダークブラウンの線が伸びている。ドアの前には昨日直した看板もしっかりと立っていた。
ドアにはopenと書かれたドアプレートが掛けられている。ドアを開けると鈍いベルの音が響いた。
カウンター裏に座る真也。お客さんが三人、中央の丸テーブルに座って何かを作っている。そのお客さんに「先生」と呼ばれている真理。これがこのお店の日常なのだろうと和は思った。
カウンター裏から出てきた真也が「いらっしゃい」と声を掛けてきた。
「こんにちは」
「本当に来たんだな、ご挨拶」
真也は嘘くさい笑顔で言った。昨日と同じような服装で、相変わらず整った顔だと思う。こんな笑顔を振りまくくらいなら仏頂面の方が真也には似合っている気がした。
「ご迷惑をお掛けしましたから。これよかったら皆さんで食べてください」
菓子折りを渡すと「おっ、煎餅」と真也は嬉しそうに答えた。
「見ての通りだけど、姉さんは接客中だから、少し待ってもらえる?」
「はい。ビーズを見ていてもいいですか?」
「どうぞ」と言って真也はカウンター裏へ戻った。
和はお客さんの邪魔にならないように、静かに横を通り過ぎる。そして昨日見たパワーストーンを手に取った。
金紅石入り水晶、ルチルクォーツ。やっぱりきれいな石だ。
ビンを手の中でゆっくりと転がす。中から小さな音が鳴った。そして音と一緒にキラキラした光もあふれ出す。不思議な石だなと思いながら、ビンをもとの場所に戻した。
その隣にあるビンに目が行く。ムーンストーンの茶色バージョンという感じがした。ラベルには『虎目石/タイガー・アイ』と書かれている。確かに言われると動物の目によく似ていた。濃い茶色に薄い茶色のラインが一本入っている。それを見ていると、パワーストーンに見つめられているような気分になり、そっと元の場所に戻した。
店内にベルの音が鳴り響くと同時に三人の子供が勢いよく入ってきた。
「ねえ、のど乾いた」
「まだ。もう帰ろうよ」
「お腹空いた」
真理が先生として教えているお客さんの子供らしく、テーブルの周りが一気に騒がしくなる。三人の子供が同時に話すと、なかなかの音量になった。
「あとちょっとだから静かに待って」
「ほら、ほかの人の迷惑でしょ。静かに」
お母さんたちが注意すると子供たちは静かになった。
カウンター裏から出てきた真也が、子供たちに向かって「ほらこっちのイスに座って待ってて」と言う。
お母さんたちが座っているテーブルのすぐ横にあるテーブルへ、子供たちは素直に移動した。
「お母さんたちのお教室が終わるまで、あそこのお姉さんとお話ししてて」と言って、真也が和の方を指さした。
和は真也に駆け寄り「勝手なこと言わないでください」と小声で抗議する。
「俺、子供苦手なんだよ。姉さん待ってるんだから時間もあるんだろ」
「そうですけど」
「じゃあ、任せた」と言って、真也はカウンター裏へ戻ってしまった。
仕方ないと思い、和は子供たちの方を向いた。
「こんにちは。今からクイズをします。準備をするから待っててね」
和がそう言うと子供たちは「はーい」と元気よく言った。
パワーストーンが置いてある棚に戻り、一つのビンを手に取った。そしてラベルが見えないように大きめの付箋を貼る。そのビンを子供たちの前に置いた。
「ここにビーズがあります。このビーズはある動物の名前がついています。さあ、どんな名前か当ててみてください」
子供たちは興味津々でビンの中を覗き込んでいる。
「何だろう? 茶色いビーズだね」と女の子が言う。その子を挟むようにして座っている男の子もビンを凝視している。一人の男の子はキャップを被り表情がよく見えない。もう一人の男の子は赤いTシャツを着ていた。
「難しいな。お姉さん、ヒント!」
キャップの子が片手を上げながら言った。
「よし。ヒントは動物園にいます」
「ええ! それヒントになってない!」と赤いTシャツの子が声を上げた。
「そっか、そうだね。最大のヒント。ペンギン、トラ、クマ。この三つのうち、どれでしょう。三人で話し合って決めてね」
子供たちは頭を突き合わせて、どれが答えかを話し合っている。どうやら、トラとクマで意見が割れているらしい。
頃合いを見計らって、時間制限を付けた。
「残り十秒以内に決めてください」
和が数字をカウントし始めると、子供たちが焦りだした。結局、ジャンケンで答えを決めている。
その様子を見ながら「……三、二、一、ゼロ」とカウントを終えた。
「はーい、時間切れ。お答をどうぞ」
「せーの、クマ!」
子供たちは声を揃えて言った。和は三人の顔を二秒ほど見つめてから「残念!」と答える。
「えー!」
外れてしまったことに子供たちはがっかりしていた。
「じゃあ、答えを言うね。正解はトラでした」
その答えに「やっぱりトラじゃん」や「でもクマのほうが似てる」と口々に子供たちが言っている。
「はーい、こっち見て。これは虎目石といいます。よく見るとトラの目に似ているでしょ?」
「本当だ、猫の目みたい」
女の子はビンを覗き込みながら言った。
「そうだね」と和は相槌を打った。
虎目石のクイズが終わったころ、お母さんたちのほうも終わったみたいだった。隣のテーブルから「帰るから、お姉さんにお礼をちゃんと言いなさい」と一人のお母さんが言った。
「お姉ちゃん、ありがとう。バイバイ」と言って手を振ってくれた。和も同じように手を振り返した。他のお母さん方にも「ありがとうございました」とお礼を言われる。
「いいえ。私もとても楽しかったです」
三人のお母さん達の手首には、デザイン違いのパワーストーンのブレスレットが填めてあった。たぶん、そのブレスレットの作り方を真理が教えていたのだろう。
従業員でもない和も、真理と真也と一緒に「ありがとうございました」と言って、お客さんをお見送りした。
店内には人がいなくなり、さっきの賑やかさが嘘のように静かになった。
「長谷川さん、ありがとう。すごく助かった。ごめんね、弟が馬鹿なこと言って」
「いいえ」
「それにしても長谷川さん、子供の面倒を見るの上手ね」
「六つ下の妹がいるんで」
真理は「そうなの」と言ってから、真也の方を見た。
「ちょっとそのお煎餅は何?」
カウンターの方を見ると真也がお煎餅をバリバリと食べていた。
「長谷川さんからの手土産。ずっと食べたかったんだけど、お客様がいるし、音を立てるわけにもいかないから」
「お客様がいなくても食べない。今、営業中」
真也は袋の中に残ったお煎餅を全て口の中に入れた。そしてお茶を飲み「気を付けます」と言った。それは明らかに棒読みだった。
「真也、長谷川さんにお茶を出してあげて」
「あの、お構いなく」
和の言葉を無視して「はーい。ただいま」と言って、staff roomと書かれているドアを開けて中に入った。
「長谷川さんは座っててください」
そう言って、真理もスタッフルームへ行ってしまった。
一人取り残された和は、とりあえず子供たちと一緒に居たときに座っていたイスに座った。数分後、二人は戻ってきた。
真也はトレーからコーヒーを和の前に置く。
「ありがとうございます」
真也と真理も同じテーブルに座った。
「長谷川さん、わざわざ来てくれてありがとう。お煎餅、後でいただきますね」
「いえ。昨日はいろいろとありがとうございました」
「ううん。どうぞ」
真理に促され、和はソーサーに乗せてあるスティックシュガーとミルクを入れて、コーヒーを一口飲んだ。
「ねえ、長谷川さん、差し出がましいことを言ってもいいかしら?」
「はい」
「うちで働かない?」
「え?」
「急にごめんなさい。実は……」
そこから続く真理の話に、和は顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちになった。一昨日、この店の看板を壊したとき、和は身の上話をしてしまったのだ。
働いていた会社が立て続けに倒産したこと。今は繋ぎのバイトを探そうとしていること。経理部で頑張ってきたのに、と絶叫したこと。
昨日、酔っぱらった理由を聞かれなかったのは、和がすでに話していたからだった。
「うちね、二年前までは経理の人がいたんだけど辞めちゃって。それからは居なくても二人で何とかやっていたんだけど。最近、ビーズ教室の方が反響よくて、人手が欲しいの」
「私でいいんですか?」
「うん。私ね、長谷川さんに運命を感じているから」
和が不思議そうな顔で真理を見つめた。すると「タイガー・アイ」と真理が言う。
「タイガー・アイってどんなパワーを持っているか知ってる?」
「いいえ」
「仕事運と金運を上げる石。さっきタイガー・アイでクイズをしている長谷川さんを見て、この子が働いてくれたら仕事が増えるかもって思ったの」
「それはどうでしょうか。私に招き猫のような力はないですけど」
その瞬間、無表情だった真也が勢いよく噴き出した。今の話で笑う要素はどこにもない。一応「大丈夫ですか」と聞いてみると、少し笑いを堪えながら「気にしないで」と返された。
そんな真也の様子を見て、真理は嬉しそうに微笑んでいる。
和は不思議な姉弟だな、と思いながら二人を眺めた。
「弟がごめんなさいね。話を戻すけど、働く話、今すぐに返事はしなくていいから、考えてみてくれない?」
アパート周辺という条件からすれば、ここはその条件に満たない。でも前に働いていた会社よりも近い。真理は優しい人だし、真也は不機嫌な時が多いけれど、悪い人ではないと思う。職場の雰囲気もわからずに始める仕事より、わかっていた方がこっちとしても安心だ。
「あの、ここで働かせてください。ビーズやパワーストーンの専門知識は全くありませんけど、精一杯頑張ります」
真理は「ありがとう」と言って、和の手を握った。
「はい。頑張ります」
和の手を離すと、真理は真也の方を向いた。
「真也、いいわよね」
「……いいんじゃない」
真也は窓の方を向いて、真理を見ずに答えた。
単純な言葉しか並んでいないのに、その言葉の裏には何かがあるように思えた。




