【1】金紅石入り水晶~どこですか、ここ?~
人生はうまくいかない。人生はうまくいかない……。
和は何もない薄暗い部屋で、床に正座をしていた。ただ、何もない空間を見つめている。頭の中は「人生はうまくいかない」という言葉が何度も繰り返されていた。
何もないはずだった空間に一筋の光が見える。そこを凝視すると頭が痛くなった。
なにこれ。すっごく痛い。
両手で顔を覆うと、突然シップの匂いがした。
「臭っ」
その言葉と同時に和は目を覚ました。
何なんだろう、今の夢。最悪だ。
何度か瞬きをして、ぼやけた視界を落ち着かせる。ぐるっと周りを見回す。そこは知らない場所だった。
天井は高く、キラキラとしたガラス玉がたくさん付いたランプシェードがぶら下がっている。
自分が寝ていた場所はソファの上だった。ご丁寧にブランケットまで掛けてある。すぐ横には、木目が細いボーダーのように並んだブラウンのローテーブル。その上に自分のバックが置いてあった。
とりあえず体を起こし、ソファに座った。
頭がガンガンする。どこなんだろう、ここ。
曖昧な記憶を手繰り寄せようとしても、頭が痛いということに意識が持っていかれてしまう。
靴を履き、ソファから立ち上がろうと座面に両手をつく。掌に力を入れ、腰を上げようとしたときだった。左手に痛みが走った。そこを見ると手の甲より一回り大きいシップが貼られていた。
何したんだろう、私。
疑問しか浮かんでこない自分にため息を吐いて立ち上がった。
部屋には丸テーブルが二台、中央に並べて置かれている。各テーブルにイスが五脚用意されていた。その奥には小ぢんまりとしたカウンター。全てダークブラウンの木目を基調としていて、落ち着いた雰囲気だった。
和が何よりも釘付けになったのが、四方の壁に備え付けられている棚だった。
出入口の近くにある棚の方へ近づいた。缶コーヒーを一回り小さくしたサイズのガラス瓶がたくさん並んでいる。その中には色とりどりのビーズが入っていた。それぞれのビンにラベルが貼ってあり、名前、サイズ、品番らしきものと、値段が書いてある。
ここは手芸関係の専門店だろうと和は思った。
窓に掛けてある木製ブラインドの隙間から漏れる日の光で、ビーズがキラキラと光っていた。その中でもひときわ光輝いていたものを手に取る。
琥珀色の丸いビーズ。日の光にかざすと、細部までよく見えた。ベースは透明だけど、ゴールの筋が何本も入っている。それは金色の藁が小さなビーズの中に閉じ込められているようだった。
「きれい」
名前を確認しようとラベルを見たときだった。
「金紅石入り水晶」
頭の上から男の声がした。
和は「うわ」と声を上げ、体を反転させながら数歩後ろへと下がった。
「あの」
「金紅石入り水晶、ルチルクォーツ。そのパワーストーンの名前」
そこには背の高い黒髪の男がいた。細身で手足が長い。白いシャツに黒いパンツ。シャツの首元には黒縁の眼鏡が引っ掛かっていた。切れ長の目に整った鼻筋。女にもてるだろうなという顔をしていた。
ビンを持ったまま硬直している和に「二日酔いは?」と笑みを浮かべながら聞いてきた。
「頭、痛いですけど、大丈夫です」
「そう。あれだけ酔っぱらっていれば、そうなるだろうね」と言って、男は和の横を通り過ぎ、出入口の方へと向かった。
右手には工具箱を持っている。それを床に置いて、出入口の近くに立て掛けてあった看板を持ち上げた。
「悪いんだけど、工具箱、そこのテーブルの上に置いてくれる?」
男が顎をクイッと動かした。それは和のバッグが置いてあるローテーブルを示していた。言われた通り和は工具箱を置き、男は横で看板を広げた。
看板は折りたたみ式のもので、横から見るとアルファベットのAに見える。街中でよく見かけるタイプのものだった。その看板には『RoundDrop』と書かれている。
「手は大丈夫?」
看板を見たまま男が聞いてきた。
「あまり力を入れなければ」
「そう。ならここ押さえてくれる。片手でも問題ないから」
指示された所は一番上。Aの尖っている部分だ。
右手に力を入れ、左手は添える程度で押さえた。男は押さえているのを確認してから、工具箱からドライバ―を取り出してしゃがんだ。
横から見てアルファベットのAの横の線に当たる部分のネジを緩め、手際よく修理を始めた。
工具と金具の軋む音が響く中、少し鈍いベルの音がした。それは出入口のドアについているベルの音だった。
「おはよう」
中に入ってきたのは小柄な女性だった。ショートカットの黒髪。濃紺のデニムにライトグリーンのカットソーというすっきりした服装だった。肩には大きなトートバッグを掛けている。
「ちょっと真也、お客さんにそんなこと手伝わせないの」
真也というのがこの男の名前なんだと、和は思った。
「壊した張本人に手伝わして何が悪いんだよ」
「でも、女の子だし、けが人よ」
その会話で血の気が引いた。
これをやらかしたのは私? このシップの原因はこれ?
手伝わせるな、問題ない、というような会話をループのように続けている二人に勢いよく言った。
「すみませんでした。あの、昨日、記憶を飛ばすほどお酒を飲んでしまって。記憶はないんですけど、看板を壊してしまいすいませんでした。その上、手当てをして泊めてくださりありがとうございます」
和が捲し立てるように言うと、女性はソファに座りトートバッグを足元に置いた。隣の空いた場所を軽く叩きながら「こっちに座って」と言う。
「あの、手を放しても大丈夫ですか?」
「もう平気。ありがとう」と、男はこっちを見ずに言った。
女性の隣に座ると、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。弟が何も説明しなかったでしょ」
「はい」
「ここはパワーストーン・ビーズ専門店。弟が店長で、私が副店長なの」
和は軽く相槌を打った。
「弟は高野真也。私は大石真理。私は結婚しているから苗字は違うんだけどね。あなたのお名前も伺っていいかしら?」
「はい。申し遅れました。長谷川和です」
「のどか、可愛い名前ね」
「ありがとうございます」
落ち着いて話す真理に安心し、和は固くしていた体の力を抜いた。
「昨日、長谷川さんが来た様子を話すわね。夜の九時くらいに、お店の外で大きな音がしたから、私と真也で様子を見に外へ出たの。そしたら、長谷川さんがうちの看板を抱きかかえるようにして倒れていて。結構酔っぱらっていたみたいだったから、お店に運んだのよ」
最悪だ。死ぬほど迷惑な酔っ払いだ。話を聞いているうちに、真理の顔を見ることができず、自分の膝をただ見つめた。ゆっくりと息を吐き出し、和は立ち上がった。
「本当にご迷惑をお掛けしました」
頭を深く下げた。そして、看板の修理を終え、丸テーブルに寄り掛かるようにして立っている真也の方に、体の向きを変え、同じように謝罪をする。
「そんなに恐縮しないで。気にしてないから。体調はどう? 手は大丈夫?」
「はい。このシップは大石さんが?」
「ええ。手の甲が赤くなってたから」
「ありがとうございました」
「いいのよ。真也もむすっとしないで、何か言ったら」
ずっと無言だった真也が笑みを浮かべ「気にしないでいいですよ」と言った。
それは和にパワーストーンの名前を教えてくれた笑顔とは別物だった。笑っているけど、胡散臭い感じがする。内心は怒っているのだろうと和は思った。
「あの、私はこれで失礼します。お世話になりました」
和がバッグを持つと、真理はにこにこしながらトートバッグを持ち上げ「朝ご飯作ってきたから一緒に食べない?」と聞いてきた。
「いや、これ以上ご迷惑をお掛けするわけには」
さりげなく後ずさりをすると「食べていけば」と、真也にまで言われてしまった。
「でも」
「本当に遠慮しないで。お弁当、三人分で作ってきちゃったから」
そこまで言われて断るのも失礼だろうと思い、和は朝ご飯を食べていくことにした。
真也は下してあったブランイドを窓の真ん中くらいまで開け、店のライトを点けた。
「俺、工具置いてくる。姉さん、何か必要なものある?」
丸テーブルにトートバックを置き、中から大きなランチボックスを出しながら「取り皿が欲しいかな」と真理は言った。
「わかった。それから長谷川さん」
ただ突っ立っていた和は急に自分の名前を呼ばれ、肩がびくっと上がった。
「ソファの横にある棚の隣にトイレがあるから、使いたければご自由にどうぞ」
「はい。ありがとうございます」
頭を軽く下げた和を見て、真也は一言「うん」と言った。そして、そのままドアの向こうへと姿を消した。
「あの、お手洗いお借りします」と真理に声を掛けてからトイレに向かった。
中はきれいに掃除されていて、洗面ボールの横にはピンクのミニバラとカスミ草が花瓶に生けられていた。
腕時計を見ると朝の九時だった。真理の話から自分が十二時間も、このお店で寝てしまったことに気付く。
それだけ長い間寝ていた割に、顔は思ったほど酷くはなかった。鏡に映る顔をしっかりと確認する。もともと化粧をそんなにしないタイプだったおかげで、目の周りがパンダになるようなこともなかった。
ただ肌の乾燥は酷かった。酒を飲んで、顔も洗わずに寝ればそうなるだろう。
バッグからポーチを取り出した。メイク落としの用シートで顔を拭き、顔を水で洗う。化粧水を付けると、肌が生き返ったような気がした。軽くメイクをして、髪を簪で束ねる。ネックレスのアジャスターが前に来ていため、それを直してからトイレを出た。
真理も真也もイスに座って、大方の準備は整っている感じだった。
「すみません、お待たせして」
「焦らなくて大丈夫。長谷川さん、飲み物はコーヒーでいい?」
「はい」
テーブルの中央には、コーヒーメーカーから持ってきただろうと思われるサーバーが置いてあった。真理がコーヒーをマグカップに注ぎ、和に手渡した。
目の前に並べられているランチボックスを凝視しながらマグカップを受け取った。
野菜がたっぷり詰まったサンドイッチ、ポテトサラダ、小さなオムレツ、タコさんウィンナーにから揚げ。見るからに美味しそうだった。
二日酔いによる頭痛も少し治まり、お弁当を見たら無性にお腹が空いていることに気が付いた。
「いただきます」と言って、サンドイッチに手を伸ばした。レタス、トマト、ピクルスに少し多めの粒マスタードが挟まっている。マスタードのピリッとした味付けで大人向けのサンドイッチになっていた。
「すごく美味しいです」
「そう。よかった」
真理はポテトサラダを真也に取り分けながら言った。
「朝からこれだけの量を作るのって、大変でしたよね?」
「そうでもないのよ。主婦を十年近くやっているから、慣れちゃったっていうのもあるけど。うちの旦那と息子がよく食べるのよ」
何とも嬉しそうな顔で真理は言った。
なるほどと思いつつ、主婦十年という言葉にビックリした。真也も真理も自分より上だろうと思っていた。ただ真理はどう見ても二十代終わりくらいにしか見えない。
そしてよく食べる息子ということは、育ち盛りの息子ということだ。しかも自分たちが今食べているようなものを食べられる年齢とすれば、小学生ぐらいだろう。
「あの息子さんって、おいくつなんですか?」
「八歳、小学校二年生。サッカー少年。今日も旦那と自宅近くの大きな公園でサッカーして遊んでるの。それでお弁当を作ってあげたから、ついでに」
「そうなんですか。今日は天気がいいんで、いっぱい遊べそうですね」
「そうね。今日は一段と洗濯物が増えそうだけど」
少し困った顔をしながら真理は言う。そんな真理をを見て幸せの中にいるんだろうなと、和は思った。
向かいに座っている真也は「いただきます」と言ったきり、何も話さない。
まあ、女性二人が話していれば、男性は会話に入りづらいだろう。それに真也は喋ることが好きなタイプでもなさそうだし。
真理は息子さんや旦那さんとの日常を楽しそうに話している。そして、和が記憶を無くすほど酔っ払った理由は聞いてこなかった。
たぶん、若い女性が酔っ払う理由なんて高が知れている。失恋か、限度を知らずに飲み過ぎたか、ストレス発散か。どれが理由にしたって、話すには恥ずかしい内容でしかない。それを察してくれているのだろう。
食事が終わり、和は出入口のドアの前に立った。
「いろいろとありがとうございました。後日、ちゃんとご挨拶に伺いたいのですが、定休日はいつですか?」
「そんなこと気にしなくていいのに」
カウンターの奥に入った真理が、紙を片手に戻ってきた。
「はい。これ、うちのチラシ。営業時間と定休日が書いてあるから。裏にはざっくりだけど駅までの地図もあるから」
「助かります。ありがとうございます」
二人に向かって頭を深く下げた。
お店から出るとき「気を付けて帰れよ」と真也に声を掛けられた。逆光になって表情は見えなかったが、そんなに不機嫌な感じはしなかった。
「はい、また来ます」
和はパワーストーン・ビーズ専門店『Round Drop』を後にした。