九十九里浜
――ピンポーン。
翌日の朝八時前、錦織の住む浦安市富士見のワンルームマンションのチャイムが音を立てた。
寝ぼけ眼で玄関の鍵を回すと引っ張られるようにドアが開いた。
「栞菜まだ寝てたの?」
大学時代の親友三人が腕組みをしながら頬を膨らませている。
「ごめーん。目覚まし時計が壊れちゃったかな」
「言い訳すんな!」
錦織はぺろりと舌を出しぼさぼさの頭を掻いた。
「ごめん。準備するから中に入ってて」
「大学の時も栞菜は一限目の授業はよく遅刻してたもんねー」
大沢美紅が笑顔で皮肉たっぷりにそう言ったのだ。
「なるべく仕事片付けちゃおうと思ってさあ、夜中までやってたんだよね。ごめんね、みんな。急いで支度するから。コーヒーでも飲んでて。美紅、コーヒー豆そこの扉に入ってるからよろしく」
そう伝えると錦織は寝癖を直す為に洗面所に向かっていった。
「よくこのマンションで飲んだよねえ。この部屋も変わってないね。わあ! この写真、四人でディズニーシーに行った時の写真だよね? 大雨で大変だったよねー。懐かしい」
錦織の部屋をぐるりと見渡したのは岡野聖である。僅か四ヶ月ぶりに訪れた部屋であるが、十年ぶりに訪れたような感想である。岡野は合コン好きで、一年前、今をときめく俳優、須藤尊の彼女の座を射止めた。
「そう言えば聖、須藤尊と上手くいってんの?」
錦織が歯ブラシをくわえながら洗面所からひょこりと顔を出した。
「うん。でもたまに浮気してるみたい。わたし、そういうの分かるんだあ。有名人だからしょうがないけど……」
「しょうがないって何よ! しょうがないって! 有名人だろうが何だろうが、あなたの彼でしょ? そんなの許していいの?」
浮気は犯罪。そう考えているのが菊池百合奈である。親友である岡野聖の浮気放任説に意義を唱えたのだ。
「百合奈の言う事もわかるけどさあ。芸能人なんてそんなもんじゃないのかなあ。浮気を問い詰めて真実を打ち明けられてだよ? それで、別れようなんて言われたら私……」
錦織栞菜、大沢美紅、そして菊池百合奈が口を開け閉じる事が出来ずにいる。呆気にとられた三人はお互いの顔を交互に見合わせた。
「ちょっ……ちょっと。聖? あなた……ほんとに岡野聖……さん?」
大沢が岡野にそう問いかけるのも無理はない。大学時代、岡野は当時の彼に対しかなりの束縛をしていたのだ。彼が他の女性と話をするだけで機嫌が悪くなり、異常なまでに問い詰めた。そんな岡野を見てきた三人にとって岡野の口から放たれた言葉だとは到底思えなかったのであろう。
「な……何よ。人は変わるものなの」
「変わるにもほどがあるわよ。まあ聖がいいならいいんだけどね。栞菜、コーヒーカップどれ使ってもいいの?」
大沢はコーヒーメーカーのスイッチを切り茶箪笥の扉を開けた。
「うん。どれでもいいよ」
狭いワンルームマンションに置かれた小さなテーブル。その上に淹れ立てのコーヒーが四つ並べられた。小綺麗に整理された女の子らしい部屋で四年間共に学んだ仲間がテーブルを囲んだ。
しばらく四人で大学時代の思い出を語り合っているうちに錦織の化粧が終わり、出発する事になったのだ。
花柄のワンピースを身に纏い麦わら帽子のゴムを首に掛けた錦織の姿。いかにも「今から海へ行きます」と言わんばかりの雰囲気である。三泊分の着替えや水着を入れた大きなバッグを左手に持つと、右手にはパソコンが抱えられた。どう見ても不釣り合いな荷物である。
「美紅から聞いたわよ。仕事、大変ね」
岡野は同情をたっぷりと含めそう言うと錦織の肩をぽんと叩いた。
「まあね。やりたくて始めた仕事だからしょうがないけどね」
錦織は苦笑しながら口を歪めている。
四人を乗せたワンボックスカーは首都高速湾岸線、浦安インターのETCゲートを潜った。
四人の再会を祝福するかのように、彼女たちの頭上には青空が広がっている。
車のエアコンが効くまでの間、全員が窓を開けていた。そこへ湿り気のない爽やかな風が錦織の長い髪の毛を踊らせていた。
暑さのピークは過ぎている。しかし首筋を焼かれてしまいそうな程の強い陽射しが襲いかかるように錦織を照らしている。運転手の後ろの席に座った錦織は右手でそれを遮った。
送風口から涼しい風が流れてくると四人は各々オートウィンドウのボタンを上げた。
途中、穴川辺りで少し渋滞したものの、概ね順調に車は進んで行ったのだ。
浦安を出て一時間半が経過した頃、四人の目には真っ青な海が写しだされていた。
遥か彼方に見える水平線まで、遮るものなど何もない。大きなコンパスで描いたようなそれは遥か北から遥か南へと連なっている。車内から八つの輝く瞳が水平線に向けられた。しかし数秒後、その内の二つはパソコンの画面へと落とされていく。
「イエーイ! 着いたー! 美紅、運転お疲れー」
助手席に座っていた菊池百合奈か大はしゃぎしている。菊池につられ大沢と岡野もはしゃぎだしたのだ。
錦織はパソコンの電源を落とし鞄にしまうと窓を開けた。そして目を閉じながら外の空気をたっぷりと吸い込んだ。
「うーん。潮の香りがする」
三人のはしゃぐ声と波の音により、錦織の声はかき消されていった。
ホテルのチェックインは午後一時以降にならないとできない。ワンボックスカーのデジタル時計には「10:58」と表示されている。
浜辺の有料駐車場に車を停め一泳ぎすることになったのだ。
「栞菜も行くでしょ?」
「そうだね。どうせまだチェックインできないしちょっと海に入ろうかな」
光は惜しげもなく降り注ぎ砂を焼いている。優しく柔らかな潮の香りを含んだ海からの風が、時折何かを思い出したかのように椰子の葉を揺らしていた。
四人は車の中で水着に着替え、焼けた砂の上を歩きだした。