親友
「すみません。ちょっとめまいがしただけなので……。もう大丈夫です」
錦織は気を取り直し、ようやく名刺を渡した。
「突然お邪魔してしまい申し訳ございません。わたし集講文庫の錦織と申します。今年のお盆休みに九十九里に行ってまして、その時この手紙を拾ったんです」
錦織はそう言って一枚の手紙を絢斗に見せた。
「これ!」
「そうです。絢斗さんが奥様へ送った手紙です。絢斗さんが何故この手紙を送ったのか。三年間郵便局で保存されて絢斗さんに届いた手紙がどんな内容なのか。いろんな疑問がわいてしまい、直接ご本人からお話をお伺いしたくて……」
すると絢斗は少し苛立ったような仕草を見せた。
「そんな事知ってどうすんだよ。話す事なんてなんにもねえよ。帰ってくれ」
絢斗はそう言うとくるりと背中を見せ中へ入っていった。
「おい、絢斗! そんな言い方しなくても。彼女はわざわざお前に会う為に東京から来たんだぞ。錦織さんごめんね。俺がこいつに話すから。今日は帰ってくれる? 名刺に携帯の番号書いてあったよね。明日電話するね」
「掛川さんにまでご迷惑を掛けてしまってごめんなさい」
タクシーに乗り込みホテルに向かう錦織を見送った掛川は、漁の道具を洗い始めた絢斗の肩をポンと叩いた。
「なあ、絢斗。優花ちゃんが亡くなってもう五年だっけ? 早いよなあ。怒らないで聞いてくれよ。お前が優花ちゃんの事をどれだけ愛してたのか、お前の次にこの俺が一番よく知ってるよ。お前『もう女とは付き合わない。たった一人の女性も幸せにできなかった俺には恋なんてする資格はない』なんて言ってたよな? でも俺はそうは思わない。優花ちゃんは幸せだったと思う。たまたま神様のいたずらで乳癌になっちまったけど、たった二十二年の命だったけど、優花ちゃんは大好きな絢斗に抱かれながら息を引き取る事ができたじゃねえか。もしもだよ、もしも優花ちゃんがお前に出会う事ができなければ最悪な人生だったかもしんねえけど、優花ちゃんはお前に出会えたんだよ。お前に出会えてお前に愛される事ができたんだよ。幸せだったにきまってんだろ! それにさ、もう自分を責めるのはやめろよ。『俺が優花を殺したんだ』なんて言ってたよな? そんなもん医者でもねえお前に解る訳ねえだろ。あれはしょうがねえよ。お前の責任でもなんでもねえよ。なあ、絢斗。優花ちゃんの事忘れろなんて言わないよ。でもそろそろ自由になっていいんじゃねえか? 結婚記念日の度に手紙海に投げてんのか? 新しい彼女や奥さんができたとしても送りたければ送り続けていいと思うしさ。なあ、頼むよ。昔のお前に戻ってくれよ。家と海の往復だけじゃなくてさ。昔みたいに一緒に馬鹿やってくれよ。悪いな、俺ばっかり喋っちまって。俺が言いたいのはそれだけだ」
掛川が話し終わると絢斗は作業の手を止めた。
「ははっ」
「何が可笑しいんだよ。親友であるこの隆司様が心配してやってんのにさ」
「いや、隆司そんなに喋るやつだったっけなって思ってな。隆司、ありがとな。今度久々にキャッチボールでもやるか」
絢斗は笑顔で拳を作り、掛川の胸をガンと叩いた。
「おう! お前のボールは絶対後ろにそらさねえから思いっきり投げ込んでこい」
「おう! お前昔から捕逸なんてした事なんてねえもんな。お前だから……隆司だからランナーが三塁にいても俺はフォークボールを投げる事ができた」
「ちっ! くすぐってえだろ。やめろよ。あっ、錦織さんの話、聞いてやったらどうだ」
掛川のその言葉を聞いた絢斗はいたずらを企む少年のような顔をした。
「ちょっといじめてやるかな。明日少し海が荒れる予報が出てるだろ? 漁についてきて一日根をあげないで手伝えたら話を聞いてやるかな」
「お前悪いやつだなー。荒れなくても初めて船に乗るやつはほとんど根をあげるのに、あんな若い女の子がそんな事できる訳ねえだろーが。なんとか協力してやれよ」
「やだねー」
絢斗はそう言って作業を再開させた。
「ったく。まあ一応電話してみるよ。全く乗り物酔いしないやつもいるからな。でも明日雨も降りそうだしなあ」
掛川はそう言いながらスマホと錦織の名刺を取り出した。
「あ、もしもし錦織さん? 掛川です。あのさ、あいつがね、話を聞いてやってもいいって言うんだけどね……」
『えっ! 本当ですか?』
「それがさあ、条件があるみたいでさ。明日の漁でね…………。朝四時に今日来たうちの事務所の近くの港に来れるかな?」
『…………』
「そんな経験があるのか。それじゃあ無理だね。ごめんね。絢斗、根はいいやつなんだよ。こんな意地悪な事言うやつじゃないんだよ。悪く思わないでね。それじゃあ」
掛川はスマホを切ると大きなため息をついた。
「絢斗、彼女さあ、おととい茨城で初めて漁の手伝いしたんだってさ。今までは乗り物酔いなんてした事なかったらしいんだけど、流石に船の揺れにはついていけなくてゲロゲロ吐いてダウンしたらしいんだよ。だから明日は来ないな。なあ、そんな意地悪しないで話聞いてやれよ」
「フンッ! まあそんなもんだろ。じゃあな隆司」
「おい、絢斗」
絢斗は掛川に背を向けながら手を振り、そのまま家に入っていった。
翌朝、絢斗はまだ暗い空を部屋の窓から眺めていた。大粒の雨が風に押され斜めに落ちてきている。勿論海は荒れている。普通の漁師であればこんな天候で漁に出る事はしない。しかし絢斗にとっての海は、唯一亡き妻に会える場所である。
船を出す決心をした絢斗は港に向かっていく。
船に乗り込んだ絢斗はいそいそと準備を始めた。船と桟橋をつないでいるロープをほどき立ち上がった。
すると絢斗の目の前に、コンビニエンスストアで買ってきたような白く安っぽいカッパを着た女性が立っていた。錦織である。
「絢斗さん、お手伝いさせて下さい。お願いします」
絢斗は呆れ顔で錦織を見つめた。
「無理だよ。帰んな」
「大丈夫です。お願いします。こ、こう見えても漁の経験があるんです」
錦織はおもちゃをねだる子供のようにがんとして動かない。根負けした絢斗は苦笑いしながら錦織に話しかけた。
「分かったよ。話は聞いてやる。聞いてやるから帰れ。夕方うちに来な」
しかし錦織に帰る様子はない。
「何やってんだ。風邪ひくぞ。早く帰れ」
「帰りません。お手伝いさせて下さい」
呆れるにも程がある。そんな表情で絢斗は錦織に手を差しのべた。
「お前は馬鹿か。早く乗れ。寝込んでも知らないからな」
錦織は満面の笑顔で絢斗の手を握った。