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別れ

 翌朝、錦織が起きた頃、吉村は既に漁へ出掛けていた。


 鉛筆で薄く塗られた中に浮かび上がった電話番号を眺めながら錦織は意を決したようにスマホを取り出した。


 十桁の番号をゆっくりと順番に押し、最後に緑色のボタンをタップした。


『はい。石巻漁業組合です』


「あっ、もしもし。わたくし集講文庫編集部の錦織と申します。突然のお電話申し訳ございません。取材の為にある人を探しておりまして……」


『人探し? 午前中のこの時間忙しいんだよね。夕方にしてくれる?』


「あ、申し訳ございません。夕方そちらへお邪魔したいのですが少しお時間いただけますでしょうか?」


『あそう。夕方四時くらいならいいよ。にしこりさんつったっけ? 俺、掛川と言います』


「掛川さんですね? わたしはにしこおりです」


『にしこおり?』


「はい。詳しいことは後程。ありがとうございます。それでは失礼いたします」


 錦織はスマホのアプリを使い、昨日降りた殿山駅から石巻駅までのルートを調べた。ルートは沢山あるが一番早く到着できるのは一度上野に戻り新幹線に乗るルートであった。それでも約五時間半の道のりなのだ。


 錦織は布団をたたみ全ての荷物をアタッシュケースに入れた。


「お母さん、わたし今から石巻に行く事になりました。泊めていただき本当にありがとうございました」


「もう行くのかい。また寂しくなるね。気を付けて行くんだよ。またいつでも遊びに来ておくれ」


 老婆の瞼からひとつぶの涙が皺の道に沿ってこぼれ落ちた。それを見た錦織の瞳にもキラキラ光る物が溢れていた。まばたきをすれば流れ出てきそうなほどのそれを必死に我慢していた錦織であったが、耐えきれずまばたきをしてしまった。


「はい。必ずまた遊びにきます。お母さんもお身体充分に気を付けて下さいね」


 流れた涙を拭こうともせず、錦織は老婆の手を握りしめている。


「あ、そうだ。ちょっと待っておくれ」


 老婆はそう言うと台所へ向かっていった。数分して戻ってきた老婆の手にはハンカチに包まれたおむすびが二つ入っていた。


「電車の中でお食べ」


 老婆はそう言ってにこりと笑った。無数に散りばめられた皺で作られた老婆の笑顔を錦織は瞼に焼き付けた。


「お母さん、ありがとうございます。電車の中でいただきます。守さんには今日の夜電話してお礼を伝えますね。守さんによろしくお伝え下さい」


 老婆は再び涙を流しながらうんうんと何度も頷いた。


 その後、老婆の計らいにより、隣の家に住んでいる人に駅まで車で送ってもらえる事になったのだ。


 老婆は門の外で杖をつきながら、車が見えなくなるまで手を振り続けた。


「お母さーん。お元気でー」


 手を振り返す錦織に老婆はただただ手を振り続けた。


 錦織は上野まで戻ると新幹線に飛び乗った。大宮を過ぎた頃、錦織のお腹がキュルリと音を立てる。錦織は鞄の中から花柄のハンカチに包まれたおにぎりを取り出すと、調度そこへカートを押しながら車内販売がやってきた。


「すみません。お茶いただけますか?」


 錦織はコイン数枚と引き換えに五百ミリリットルの冷たい緑茶を受け取った。


 NRE(日本レストランエンタプライズ)と刺繍された制服を身に付けた販売員は笑顔で錦織に頭を下げた。


「ありがとうございました」


 錦織はペットボトルのキャップを開け、緑茶を喉の奥深くに流し込む。


「ふう、美味しい」


 そう言ってハンカチの結び目をほどくとアルミホイルに包まれた二つのおにぎりが顔を出した。


「一つは焼き鮭がいっぱい入ったおむすびで、もう一つはうちで漬けた梅干しのおむすびだからね。都会の人には少し酸っぱいかも知れないけど許しておくれ」


 老婆の隣人の車に乗り込む直前、錦織の手を握りながら発した最後の言葉を思い出していた。


「お母さん、ありがとう。いただきます」


 錦織が最初に口にしたのは梅干しのおにぎりであった。一口目を頬ばった時、中央で待機する梅干しには届かなかった。しかし、老婆自家製の梅干しにはシソも一緒に漬けられていたようでそのシソがおにぎりの周囲に散りばめられていた。梅干しに届かなくともお米と海苔を引き立てるには充分な美味しさであった。


「わあ、美味しい!」


 錦織は隣の席に座っているサラリーマンの事など気にする様子もなく、大きなおにぎりを口いっぱいに頬ばった。口の中のお米と海苔そしてシソを何度も噛みしめ、それらを緑茶で一気に胃の中へと流し込む。


「うんまい!」


 そして錦織が大きな口を開けおにぎりを再び頬ばった。すると、


「うわー! 酸っぱーい!」


 錦織はあまりの酸っぱさに顔を歪めるが、酸っぱさの中にあるなんとも言いようのない旨み――古郷島根の祖母を思い出すような味――に身震いしたのだった。


「酸っぱいげど美味しい! お母さんありがとう」


 隣のサラリーマンの事など全く気にする事もなく錦織は窓の外を眺めながら老婆への感謝を口にした。


 お腹が満たされた錦織は眠気に勝てかなった。気づいた時には仙台駅に到着していた。発車のベルを聞いた錦織は慌てて荷物を持ちドアが閉まる寸前に飛び降りたのだ。


「ふう。盛岡まで行くところだったわ」


 そのまま在来線に乗り継ぎ、石巻駅に着いたのは午後三時半である。駅前でタクシーに乗り石巻漁業組合に向かった。


 島根の港町で育った錦織にとっては「漁業組合」などという所は、古い建物であり魚や潮の匂いのする場所という印象しかなかったのだ。


 しかし、錦織が目にしたその建物は比較的新しくおおよそ「漁業組合」という名には相応しくない印象であった。


 午後四時、錦織は組合員のドアを開けた。そして忙しく動き回る従業員らしきでっぷりした体型の女性に声を掛けた。


「あ、あのー。錦織と申します。掛川さんいらっしゃいますか? 本日四時にアポイントメントを取らせていただいておりまして……」


「太一郎ちゃんとアポイントメント? わーはっは! 太一郎ちゃんも偉くなったもんだね。アポなんて取らなくてもいつでも会えるわよ。ほらっ。あそこにいる色黒で筋肉ムキムキのお兄ちゃんが太一郎ちゃんよ。ねえ、太一郎ちゃん。お客様よ」


 錦織はその女性の指が向く方向を見た。

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