プロローグ
挿絵提供 むきこ様
この場を借りてお礼申し上げます。
春一番が吹き荒れる午後、大手出版社で働く新人編集者、錦織栞菜は担当する事になった書店を訪れていた。
「はじめまして。集講文庫、新人の錦織栞菜と申します」
集講文庫の先輩、鈴木太郎に促され、百枚作られた名刺の一枚目を、東日本書店新宿店の店長である渡部に手渡した。
少し手を震わせながら手渡した人生初の名刺である。
「にしこおり……さん?」
初老の店長、渡部は不思議そうな表情をした。禿げ上がったおでこの上に掛けていた老眼鏡をつまみ、目尻あたりまで指を下ろした。
「はい。錦織です。『にしきおり』でも『にしこり』でもなく、『にしこおり』です」
渡部は老眼鏡を上げ下げしながら、レンズ越しに錦織の名刺を眺めては裸眼で錦織の顔を覗き込む。そんな仕草を数回繰り返した。
「にしこおりさんね? 珍しい名前っていうか、読み方っていうか……。あっ、失礼。渡部と申します。わたなべではありません。わたべです」
「お名刺、ちょ……頂戴いたします」
ぎこちない腰の曲げ方であり、不馴れな手の出し方である。
見かねた鈴木が助け船をだす。
「渡部店長、不馴れな名刺交換で申し訳ありません。これから先、錦織とも長い付き合いになると思いますが、是非可愛がってやって下さい」
渡部は顔いっぱいに皺を寄せ、人懐っこい笑顔を見せた。
「最初はみんなこんなもんだよ。鈴木君の新人の頃よりましじゃないかな」
「えっ? 店長、ぼくこれより酷かったですか? 参ったな」
「酷いも何も。あのね、錦織さん。あなたの先輩はね……」
「ああ! 渡部店長。もうその辺で……」
鈴木は苦笑しながら渡部に頭を下げた。
書店からの帰り道、錦織は鈴木に笑顔で問いかけた。
「鈴木先輩。先輩の新人の頃ってどんなだったんですか? まあ渡部店長はあんな事を言ってましたけど、私は先輩の事尊敬してますので安心して下さいね」
「ちぇっ。お前に慰められるようじゃ、俺も終わりだな」
「あっ、いや。そういうつもりじゃ……。そう言えば成願寺さんのデビュー作の小説『僕はなんども君に恋をする』重版出来決まって良かったですね」
「お前『出来』なんて専門用語、よく知ってたな」
「へへっ。昨日楓先輩が教えてくれたんです」
錦織はそう言うとぺろりと舌を出した。
「なんだよ。知ったかかよ」
三度の飯より本が好き。そんな錦織栞菜は、島根の片田舎で生を亨け、小さな頃からおもちゃより本を欲しがるような少女であった。誕生日やサンタクロースにおねだりするプレゼントも本だったのだ。
中学や高校の頃、何人もの男子生徒から告白されるも全て断り続けていた。本を読む時間が減ってしまう。それが理由である。
前述の通り、もてなかった訳ではない。むしろその長い黒髪によく似合う整った白いベビーフェイスは学校中の男子を虜にしてきたほどである。
こと、高校に入ってからというもの、校則の緩さに甘え、髪の毛を染め毛先をカールさせてからは男子の注目の的であった。
そんな錦織が唯一想いを寄せた男性は既にこの世にいない。高校三年の時、地元島根の図書館に勤務していた四つ歳上の男性であった。
「もう、鈴木先輩。歩くの速いですよお」
履き慣れないヒールの高いパンプスに苦戦しながら鈴木を追いかけた。
「もう、置いてかないでくださいよお」
錦織は追いかけるのを諦め、故郷のある西の空を眺めた。
▽
「いらっしゃい。この前借りてった小説、もう全部読んだの? あれ? 今日はなんで私服なの?」
錦織に話し掛けたのは図書館に勤務している 尾藤大地である。
どうせ彼女とかいるんだろうな。そう思いながらもその屈託のない笑顔に錦織は惹かれていた。そしてとにかく本に詳しい。おそらくそこも錦織が尾藤に惹かれていった一つの理由なのだろう。
「はい。全部読んじゃいました。何かお勧めの本ありますか?」
いつもは制服姿のまま訪れていた図書館である。尾藤に会う為にわざわざ私服に着替えてきた事を悟られないよう、敢えて後者の質問には触れずにいた。
「あるよ。ちょっと待ってて」
受付の席に座っていた尾藤は「隣の受付をご利用下さい」と書かれた札を立て、席を立った。
錦織は尾藤の後ろをついていく。
「あ、これこれ。栞菜ちゃんなら気に入ると思うよ。この作者はね、そんなに有名じゃないんだけど、なんて言うかなあ……女性の心情を……」
錦織は作者について説明する尾藤をぼうっと見つめていた。
「栞菜ちゃん? 聞いてる?」
「えっ? あ、はい。聞いてます。じゃあ、これ、借りていきますね」
尾藤に勧められた本に、今までハズレはなかったのだ。しかし、何度も重版を重ねた人気のある小説を勧めている訳ではなかった。
その日勧められた小説も、『1994年11月5日 第1刷発行』と書かれてある物であった。
もちろんその後に重版されているのかも知れないが、尾藤の勧める本の殆どは『第1刷発行』や『初版発行』としか書かれていない古い本であった。
その夜、錦織は借りてきた小説を一気に読み進めた。眠くなったら栞を挟んで寝ようと思っていたのだが、先が気になり全て読んでしまったのだ。
読後感の良い小説を読み終えた錦織はあっという間に眠りについた。
翌日、錦織は小説の感想を尾藤に一刻も早く伝える為、学校が終わると一目散に図書館に向かった。
しかし、そこに尾藤の姿はなかった。
△
「おい、錦織! 何やってんだよ。渋谷店の店長にも挨拶に行くぞ。早く来い」
「えっ? あっ、鈴木先輩。待って下さいよお。足痛ーい。スニーカーじゃ駄目なのかなあ」
錦織はパンプスを脱ぎ、右手に持った。
「よーし! 頑張るぞー!」
そう言って素足で走り出した。