ありふれた日常
「へへっ、もう観念して大人しく俺様のモノになったらどうだ?」
「誰があなたなんかに……ッ」
微かな灯りによって照らされる薄暗い室内で一組の男女がいた。
男は卑下た笑みを浮かべ、灯りで浮かび上がったナイフをペチペチ叩きながら部屋の隅へ女を追いつめている。
「い、今に見てなさい……ッ! 私のお父様は街の貴族ですよ。だから──」
「お前のお父様? ハハ、こりゃめでたい! お前は何も知らないみたいだな!」
「なっ、どういうことですの!?」
「お前はな、借金のカタに売られたんだよ! 借金を帳消しにしてやる代わりにお前を寄越せって言ったらコロッと掌返したぜ?」
「! う、嘘よ! お父様が私を見捨てるなんて!」
「ところがどっこい、現実です! 全て現実なんです!」
「うぅ、お父様……どうして…………」
信じがたい事実を突き付けられ、泣き崩れる女。
最も信頼していた人間に裏切られ、失意のどん底に陥った彼女に対して男は手心など加える筈もなく、容赦なく地獄へ突き落としていく。
「へへ……なぁに、安心しな。お前はこの俺様が直々に可愛がってやるぜ。なに、ちょいと良い娘にしてれば優しくしてやるぜ。俺様は紳士だからな……」
「嫌! 辞めて、近寄らないで!」
「何も怖がらなくていいぜ、すぐ俺様のムスコなしじゃ生きていけない身体にしてやるからよ。お前も素直になりな。そうなればラクになるぜ?」
「嫌よ! 誰か、助けて……ッ!」
後ろへ下がれないと分かっていても、心理的恐怖から後ずさりしようと必死になる女を、獲物をいたぶるような嘲笑を浮かべながらゆっくりと手を伸ばす。
この瞬間、彼女は自らの運命を悟り、絶望の表情を浮かべる。
瞳に映るのは男の姿ではなく、町中で出会った純朴な青年。
助けに来る筈がない──そう頭で分かっていても、藁にも縋る思いから、思わず彼の名前を力一杯叫ぶ。
「助けて、デニス様……っ!」
「へっ、お父様の次はデニスってか? 無駄だぜ、ここには──」
「凄腕の殺し屋に守られてる……てか?」
「な……っ!?」「デニス様……っ!」
二人の間に割り込むよう、突如として現れた第三者に驚愕の表情が張り付く。
男は混乱から、女は絶望の暗雲に差し込んだ一筋の光明への歓喜から。
「お前は……外の殺し屋はどうした?!」
「あぁ、あいつなら呑気に昼寝してるぜ? ……ルチア、待ってろ。今すぐ助けてやる」
「はい、デニス様……」
「くっ……だが、俺様の前にノコノコ出てきたのはある意味不運だな。狂犬のザクダム様に殺された人間の末路を知ってるか? ズタズタに切り刻まれて苦痛の中で死ぬんだぜ? 今ここで泣いて許しを請えば半殺しで勘弁してやらないこともないぜ?」
「ハッ、ご託はいいからさっさと来いよ三下が。格の違いって奴を教えてやるぜ」
「テメェ……後悔させてやるぜ!」
手にしたナイフを順手に持ち替え、豹のように姿勢を低くして襲いかかる男。
だが、デニスは何処までも冷静だった。
右から迫るナイフを冷静に捌きつつ、優位な立ち位置を確保して容赦なく拳を撃ち込む。
「ぐふっ……こ、この……俺様が……」
「ふん、素人が……見え見えなんだよ」
デニスの放った拳がよほど効いたのか、男はその場で膝を付き気絶する。
男が倒れたのを確認してからデニスは彼女へ駆け寄り、ギュッと抱きしめる。
「済まない、俺がいながら危ない目に遭わせてしまって。……怪我はなかったか?」
「はい……デニス様のお陰で傷一つありません」
「良かった」
「それで、あの……デニス様……」
もじもじ……と、内股を擦り、恥じらいながら上目遣いでデニスを見上げる。
頬はほんのり朱色に染まり、僅かながら呼吸も荒いように見える。
「私……お父様に見捨てられてしまいましたので、デニス様に差し上げられるものが何もありませんの。……ですから代わりに私のこと、デニス様の好きにして下さい」
「……いいのか?」
「はい……。私は、デニス様のご恩に報いたいのです……」
示し合わせたように二人は自然に唇を会わせ、貪るように舌を絡ませ求め合う。
やがて灯りに照らされた影は一つとなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ありがとう御座いました、御主人様。またのご来店、お待ちしてま~す」
「あぁ、最高だったぜ。次来るときはお前を指名させてもらうぜ」
「まぁ、嬉しい! これ、ほんの気持ちです。……ちゅ」
「へへ、悪いな。……じゃあな」
数時間後──デニスは先程まで身体を重ねていた女性に見送られて建物を出ていった。
ここは三等地区にある娼舘・紳士の砦──現代でいうイメクラ系の娼舘だ。
メリビアの娼舘は各地区によって提供されるサービスが異なる。
世間一般の人間がイメージする娼舘が並ぶのが二等地区であるのに対して、三等地区の娼舘はマニアック向けのサービスが多い。
デニスが今回、利用した紳士の砦もまたその一つであり、コンセプトは『か弱い女性を権力や暴力の魔性から救い出して、御礼にムフフなことをする』という、官能小説では王道パターンと言える体験ができる店だ。
他にも、上司によるパワハラでメイドや秘書を性的に虐める店や生徒と教師の禁断の関係を演じられる店などが存在するのも三等地区である。
三等地区の娼舘がこうしたサービスを取り入れるようになった背景にはとある男の存在があるそうだが、真相は闇の中……誰にも分からない。
(あぁ、メリビアの娼舘マジ最高だぜ……くそ、こんな優良店ばかりじゃ他の街へ移りづらくなっちまうぜ)
デニスはメリビア人口の一割を占める冒険者の一人だ。
二人一組でパーティを組み、時には臨時を組んで依頼を受けて日銭を稼ぐ、ありふれた中堅冒険者。
宿場町に数ある宿屋の次男坊として生まれたデニスは冒険者や行商人の話を聞いて育ち、一三で冒険者となった。
初心者時代は苦労の連続だったが、客商売で生計を立てる親の下で育った影響か、物事の道理について多少ながら理解していた。
その甲斐あってか、同期で冒険者となった同業者達よりも早くランクアップを果たし、二年後にはオーク程度ならタイマンでも倒せる程度には強くなった。
そんな彼がメリビアへやって来たのは護衛の依頼を受けたから。
より多くの経験を積むべく、慣れない仕事に四苦八苦しながらもどうにか街へ着き、及第点を貰えて正規の報酬を貰い、迷宮で一稼ぎしてからまた違う拠点へ移る予定だった。
客引きしている娼婦を見るまでは──
「ねぇお兄さん、私の店寄ってかない? 私、紳士の砦っていう娼舘に勤めているんだけど──」
「な……っ」
ギルド併設の酒場で仲間と食事を取っているとき、偶然目撃した現場。
勿論、デニスも娼婦の存在は知っている。
知っているが、あまりいいイメージはなかった。
白い粉で全身を飾り、真っ赤な口紅を付けて客引きをする地元の娼婦達は……こう言っては何だがレベルが低すぎて逆に引いた。
髪もくすんでいれば肌のキメだって荒ければ、着ている服も女としての器量もイマイチ。
だから彼女が店内に入ってきたときは世間知らずのお嬢様が迷い込んだと勝手に勘違いしていた。
ところが、彼女は適当な男を見繕うとごく自然に腕を搦めて、堂々と娼婦と告白したではないか!
あんなに美しい女性が何故娼婦をしているのか気になるところではあったが、デニスは彼女の美しさに見惚れ、何もできないまま外へ出ていくのを見守っていた。
「……あんなに綺麗な女が、娼婦やってんのか?」
「なぁ、さっき紳士の砦って言ってたよな? ……行ってみないか?」
「バカ言え! あんだけ綺麗な女が働いてる店だぞ? うちの地元にも娼婦はいたけどよ、一番いい女でも三シルバもするんだぜ? あれだけの女を抱ける店なら最低でも五○シルバは必要になるんじゃねぇか?」
「ん? 兄ちゃん達、紳士の砦行きたいん?」
「あっ?」
当然のように会話に割り込んできた声に、反射的に声のトーンを上げる。
音源に目を向ければ薄い黒地のケープを纏った一二歳かそこらの少女が人懐っこい笑みを浮かべていた。
今はまだ幼さが色濃く残っているが、数年もすれそれは幼さと成熟した女性の魅力がいい具合にブレンドされ、男が放っておかないような美少女になるだろうと、デニスのパーティメンバーは評価した。
普段のデニスなら問題なく対処できるが、仕事上がりで酒が回っていること、堂々と娼舘へ行きたいかと聞かれたことで不機嫌のバロメーターが上昇する。
「チッ、なんだガキ? ここは子供の遊び場じゃねーんだ! 怪我する前に失せろ!」
「そう怒らんといてや。ウチ、これでも娼婦やで? ゆうても見習いやけど」
「娼婦? オメェみてぇなガキが?」
「そやで。せやけどまだまだ修行中やからお客さんの身体洗うだけや。せやからこうして客引きしとるんよ」
これには男二人揃って絶句する。
確かに女を抱くなら若い方がいいが、目の前の子供を抱きたいかと聞かれれば否だ。
自分が娼婦の世界に疎いだけなのか、それともメリビアではこれが当たり前なのか……デニスには判断が付かなかった。
「で、兄ちゃん。相場知りたいんか? それ教えるのもウチの仕事やで。あ、これ情報料はいらんから安心してええで。店まで案内するのもタダやから」
「そ、そうか……。それで、紳士の砦についてなんだけど……」
「紳士の砦な。あそこは三等地区にある娼舘や。相場は大銅貨九枚からや」
「ハァッ、たったの九○カッパ!? ……いやでも、さっきの女が特別美しいだけかも知れないし……おい、あの女を抱くとしたら幾らかかる?」
「んー、他の店の指名料までは知らんけど、ウチが働いてる店なら指名料でプラス大銅貨五枚貰うで。あとな、あれくらいのねーちゃんやったらメリビアにはぎょーさんおるで? 嘘やと思うならその辺の兄ちゃんに聞いてみ。ウチと同じ答えやから」
「マジかよ」
「マジやで。……ほんで兄ちゃん、どないする?」
「むむむ……」
瞬間、デニスの頭の中の天秤が激しく揺れ動く。
今、自分が自由に使える金は一シルバしかない……メリビアに来た以上、質のいい武具を買いそろえたいと思うのは冒険者として当然の心理だ。
しかし、見たこともない……それこそ絶世の美女と言ってもいいくらいの女を破格の値段で買えるかも知れない……その欲望が、理性を激しく攻める。
(新しい武器は欲しいけど女も抱きたい……でも武器だって大事だし娼婦なんていつでも抱ける……いやでも最近ハッサンしてねぇし……けど装備は欲しい、死んでしまったら元も子もないだろ……ならここは──)
「あ、因みにウチと一緒に店に来たら大銅貨一枚分サービスしたるで?」
「よし娘、案内しろ」
こうしてまた一人、娼婦の虜となる男が生まれた。
高品質の娼婦を、破格の相場で楽しめるメリビアではありふれた光景である。
*殴った男は空気を壊さないよう静かに退室しますのでムードが台無しになることはありません。