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桜月夜。風が吹く。

作者: 沢 あつき

住宅街の中にある公園は、そこだけ小さな四角に切り取られた別空間のようにひっそりとしていた。


いつもなら見向きもしないで横を通り過ぎるだけの場所なのに、疲れ切った体を引きずるように歩いていたわたしは、そこで思わず足を止めた。そして失敗したと後悔した。

湿った冷たい夜の空気は重すぎて、どうにも前に進めそうにない。


なんとなく眺めたブランコに吸い寄せられるようにしてそこに座ると、ギィと懐かしい音を たてたので反射的にゆっくりと揺らしはじめてみる。

「なに…やってるんだろ」

なにもかもが嫌で、すべてが面倒だった。

仕事も駄目で、無理矢理奮い立たせたプライドは頭ごなしに打ち砕かれ、こんな時ですらお腹はすくし、寒いし、でも朝散らかしたまま固まっている一人暮らしの狭いアパートに、真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。


大きな溜め息を吐いたら泣きたくなって、また溜め息を吐いた。

心が暗いなかで、よれよれにしなびている気がした。わたしには何もない。手の中は空っぽで、何もつかんではいない。

胸がザワザワして、たまらずケータイを取り出した。薄いのに割と重いそれは、しっくりと手に馴染んだ。


少し前までよく遊んだ仲間は、彼氏ができたり結婚したり、仕事が忙しかったりして、疎遠になりがちだった。

わたしも仕事が忙しく残業続きで、みんなから取り残されている気がする。これもあの鬼上司のせいだ。


急に告げられた部署移動は、受け入れ難いものだった。

もともと苦手でやりたくはない仕事だったし、そこの上司はすぐに頭ごなしに怒ってくるので、さらに苦手だった。

もともといた部署で駄々をこねてはみたもものの、聞き入れられるはずもなく、ただ淡々と移動が決定しただけだった。


わたしには何の決定権もない。会社とゆう機械の小さな部品にすぎない。替えの部品などいくらでもあるのだ。


辞めれば次が補充される。でも辞めたわたしにはなかなか次の就職先などないのだ。

そうわかっているのに、今日は辞めることばかり考えていた。


今日のミスは酷かった。みんなにも迷惑をかけたし、残業もさせてしまった。

単純なミスを怒られて、ミスしないようにと思うとさらに失敗をして、もっと怒られて…。まるで負のループにはまったみたいに、状況は悪化するばかりだった。

「もう、嫌だ。もう、無理だ」

上司の罵声を浴びながら考えていたことは、いつ辞表を出すかということだけだった。


無意味にケータイを触り続ける。何も考えたくなかった。

ふいに画面の上に何かが落ちた。

薄くてほんのりピンク色のそれを指でつまんだ。

「桜…?」

上を見上げると、ブランコの奥の街灯の横に一本の桜の樹があった。よく見かけるくらいの大きさの桜だったが、満開だった。


忙し過ぎて、桜の季節だということも気付いてなかった。

桜の下に立って見上げると、満開の花の向こうに満月が見えた。

思わず息がもれる。

「きれい…。綺麗」

満月の青い光に浮かび上がる桜は、人を無条件に魅了する。気づくと眼に涙が溜まっていた。人は本当に美しいものを見ると涙が流れるというのは、真実かもしれない。


風に乗って花びらがクルクルと落ちてきて、わたしは色々なことを思い出した。


小さい頃、家族でよくお花見に行った時のこと。中学のグランドの周囲に植えられた桜の下を、部活の仲間とランニングしたこと。高校になって友達と絶え間なく喋りながら、駅のホームからみえる桜並木を眺めていたこと。

大学でこの街に出て、大好きな人ができて一緒に桜をみた時は、ずっとこのままでいられると信じて疑わなかった。

終わってしまった時は悲惨だったけど、それでも友達と花見旅行をしたりもした。


「みんな元気にしてるのかなぁ」

しばらく会っていない人も、もう二度と会うことはないだろう人も、それぞれの人生を頑張って生きているのかもしれない。


小さな公園で見上げた桜は、やさしくゆらゆらと揺れいた。桜の花が下を向いて咲くのは、人が好きだかと聞いたことがある。

持っていたケータイで桜の写真を撮ろうとして、でも何かが違う気がして、そのままカバンに落とし込んだ。


また桜を見上げた時、強い風が吹いて花びらが舞い散った。花の中にいる。わたしは桜に包まれている。

風が止んだ後、大きな深呼吸をして、歩きだした。


もう少しだけ頑張れる気がした。


とりあえず、コンビニで温かいものを買って帰ろう。明日の朝はいつもより少し早く会社に行って、最初に 今日迷惑をかけた人たちに、きちんと謝ろう。上司のことは嫌いだけど、出来ないのはわたしなのだし、悔しいけど頭を下げてやる。


また明日もミスをするかもしれない。出来ない事も多いだろう。でもそうやって、やっていくしかないのかもしれない。


公園を出る時に、もう一度桜を振り返った。

変わらず咲き誇っている桜を、満月が見ていた。




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