17歳の誕生日の話
十七歳の誕生日、わたしは縁側でユージに貰った本を読んでいるうちに寝てしまった。
昼寝から目が覚めると、焼けただれたような太陽が遠い山際に沈みかけていた。
ねっとりと纏わりつくような暑さの原因は、開け放された縁側にかかる夕日と、祖母がかけてくれたらしいタオルケットだった。
足に絡まったタオルケットをそのままに、ぼんやりと塀のこちら側にある何も植えられていない花壇を見ていた。
祖母もわたしも庭には興味が無かったので花壇は見事に雑草に覆われていた。
わたしは一か所だけ雑草が丁寧に抜かれているところを見つけた。
この家には祖母とわたししかいないので、わたしでないとすれば、祖母がしたことには違いなかったが、その理由は不明だった。
そもそもあまり自分で考えて行動することのない人なので、あるとすればよっぽどのことのような気もするのに。
何の前触れもなく突風が吹いて、頭上の風鈴が飛ばされて、割れた、と同時にわたしは思い出した。
ここは、透明の墓だ。
透明が死んで、わたしと祖母とで亡骸を花壇の一角に埋めたのだ。
わたしは急いでタオルケットを解き、花壇に駆け寄った。
ぽっかりと空いた小規模なミステリーサークルのようなそこには、雑草が欠片として残っていなかった。
わたしは縁側に戻り、しばらくぼうっとしていたが、急になんだか訳もわからないくらい哀しくなって、独りでしくしく泣いた。
(透明はここにいる)
(わたしは、透明じゃない)
いつの間にか祖母が横に居て何も言わずに、わたしの背中を擦っていた。
頭皮から流れた汗が涙と混ざり、塩辛いものが口内に紛れ込んでも、わたしの涙は止まらなかった。
「透明、あぁ、透明」と祖母が言った。
(透明はここにいる)
「おまえは強い子、賢い子、優しい子」
(わたしは透明じゃない)
「おぉ、透明」
(わたしは……)
風が吹いた。夢から覚めるような涼しい現実的な風だった。
(わたしは、透明の死体だ)
天才犬が墓からよみがえった姿は、強くも賢くも優しくもない、こんなにも情けない女子高生だった。
それが申し訳なくて、また泣いた。
祖母が「おまえはいつまで泣いているの、透明。ごはんだよ」と立ち上がって台所に行ってしまうまで、わたしはずっと泣いていた。
後から確認すると、ユージから、メールが届いていた。
『ハピバ。良い年になりますように』
死体でも、誕生日が来るんだな……と思うと、笑えるような気もしたし、泣けるような気もした。
受験生の弟が転がり込んできたのは、その夜のことだった。
連絡もなしにリュック一つでやって来た弟は、わたしに「匿ってよ」と懇願した。
弟は玄関タイルの上にいて、わたしは廊下にいたから、わたしの視線のほうがずっと高く、弟が頭を下げてしまうと、わたしは弟が一体どんな表情をしてここにいるのか分からなくなった。
一瞬、両親の顔が火のようにわたしの中でぱっと燃え上がり、続けて瞬間的な激しい怒りが湧いたが、何も言わなかった。
何か言う前に、怒りは冷め、わたしはこの弟にどのような態度で向かうべきか迷い、正解を見失った。
隣の部屋から顔を出した祖母が「入れてやんなさい」と言った。
「意地悪はいけないよ、透明。おまえは優しい子なんだから」
わたしは、うっと苦いものが口の中で広がったような気がした。
弟は申し訳なさそうにでもにやにやと薄笑いを浮かべていた。わたしは弟のこの笑い方が嫌いだった。
「上がれば」
思いの外きつい口調になる。
祖母は何も言わない。
弟も何も言わずにスニーカーを脱いでいる。
今、両親は何をしているのだろうと考え、怒りと長年の哀しみが喉に詰まって、苦しくなった。
来ないでよ、と透明でないわたしが胸の内で涙ぐみながら悲痛に叫んだ。
でも、無音の声を聞き取る能力は弟には備わっていなかった。
「お邪魔します」
あぁ、これだ、とわたしは思う。
この、どうしようもない丁寧さ、慇懃無礼が、わたしをどうしようもなく惨めにさせて、嫌なのだ。
就寝時、わたしが寝泊まりしている部屋に、弟がいた。
電気はとっくに消して、二人とも蒲団に入っていた。暑いからと開け放した窓から虫の声が聞こえた。
わたしの心境に反して、とても静かで穏やかな夜だった。人の声も、自動車の音もしなかった。
無視を決め込んでやる、と決心した矢先に弟が「ねぇ」と声をかけてきた。
無視をし続けたが、弟が「ねぇ、ねぇって」としつこいので、結局折れて「……なに」と返した。
「透明って、どういうこと?」
そういえば、わたしは弟に透明の存在を話していなかった。
しかし今更説明するのは億劫で「君には関係ない事」と言った。
弟は意地になって尚も問いただした。
「姉さんの名前、透明じゃないじゃん。ばあちゃん、おかしくない?」
「おかしくない」
「だって、姉さんの、名前は……」
「――うっさい!」
わたしはわたしの名前が大嫌いだった。
あの家族の空気も、弟の薄笑いも、わたしの名前も、ひっくるめて嫌いだった。
だから、その名前の女の子は、死んだのだ。ゆっくりと。殺されたのだ。埋められて。
怒鳴り声に慣れていない弟は、それでも素直に、ごめん……とちいさく謝ると黙った。
言いすぎたかもしれない、と思ったけれど、わたしは弟のように素直に謝ることのできない性分だった。
すぐ近くに人がいるのも忘れてしまうほど静かな時間が過ぎた。
久しぶりに大声を出したわたしは気が高ぶってしまってなかなか寝付けなかった。
「なんで、君がここにいるの」
もう寝てるかなと思ったが
「ばあちゃんが、姉弟はおんなじ部屋で寝るもんだって言ったから」
と明確な答えが即座に返って来た。
祖母は食事の献立から洗剤や食器の種類に至るまで何も自分の主張というものをしなかったから、偶に自分の考えを押し付けるようなことを言えば、わたしは納得がいかなくても、ついつい受け入れてしまうのだった。
「そういうことじゃない。君は分かっていて言ってる」
「……家出」
「ばか」
「友達に一緒にしたんだけど」
「いないじゃない」
「途中の駅で、怖くなって下りた。……あいつ、びびりなんだ」
「こんなところにいるお前も、どっこいどっこいだ。ばーか」
弟がこちらを向いて、わたしを睨んだ。
殺してやるって勢いの、渾身の、若い睨み方だった。
「全然、怖くないよ。君なんて」
すん、と弟が鼻を鳴らして、目元をぬぐう仕草をした。
「そうやって、すぐ泣く。男のくせに」
「じゃあ、殴れば」
と弟が至極当然のように言った。
わたしはびっくりして思わず弟を凝視した。
弟は平気そうな顔をして続けた。
「殴れよ、姉さん」
「……本気?」
「冗談で殴られたら、たまんないよ。だから、本気で殴って、姉さん」
わたしは半身起き上がって、弟を見た。
弟は本気だった。
本気で、わたしに殴れと言っているのだ。
わたしは溜息をついた。
弟も半身起き上がり、またわたしを急かした。
「俺のこと嫌いなんだろ、じゃあ殴れるだろ」
わたしは弟の顔を掴んで固定した。
「歯ぁ、食い縛ってよ」
わたしは、弟を殴った。
正面向かって人を殴るのはこれが初めてだった。
弟は衝撃のせいか数秒放心したように無言だったが、「もう一回、いいよ」と挑発するように言った。
「もうやんない」とわたしは言った。
弟は不満げにわたしを睨んだ。
目尻の端に薄っすらと涙の切れ端のようなものが浮かんでいて、わたしはそれを、綺麗だから触れられないとも思ったし、汚いから触れたくないとも思った。
「君は結局、許してほしいだけなんだよ」
右手の指がじんじんと痛む。
とりあえず分かったことは、痛みではこの蟠りは消えないということだった。
弟はショックを受けたような顔をしたかと思うと、不貞腐れたように蒲団に潜り込み、しくしくと泣き始めた。
田舎の静かな夏の夜に沈む透明の墓を遠く眺めながら、またわたしの目じりから涙が一筋こぼれた。
強くも、賢くも、優しくもないわたしは、もし生まれ変われるなら真っ白な犬になりたいと、本気で思った。