高校二年生の夏休みの話
「透明 、よく来たね」
うだるような暑い夏の日だった。
各駅停車しか停まらない、改札が一つしかない小さな無人駅で下車し、一時間に一本だけのバスに乗って、終点近くの停留所から陽炎のようにふらふらと歩いて、ようやく辿り着いた祖母の家の玄関。
広く薄暗い玄関で、電気も点けずに、祖母はたった一人でわたしに向かって笑いかけた。
つぅっと首筋から汗が伝う。
遠くから、まるで過去から追いかけるように蝉の声が何重にも連なって響いた。
不気味だ。
あまりにも、不気味過ぎて。
「透明 。久しぶり」
「おばあちゃん」と言ったわたしの声は掠れていた。
祖母はゆっくりと立ち上がると、くっと首を曲げて、わたしの頭を撫でながら、あやすように
「おぉ、透明、透明。おまえは強い子、賢い子、優しい子。あぁ、透明……!」
と言って抱きしめた。
まるで呪文のようなその言葉に、祖母の中で、わたしが透明になったのかとようやく理解した。
そっと祖母の骨ばった背中に手を回す。
「久しぶり、おばあちゃん」
こうして、この夏の間だけ、わたしは透明になった。
祖母が「透明」と呼べば、なあに、と返した。
元の名前を忘れるくらい、わたしは透明という名前にしっくりと馴染んだ。
この田舎でわたしが見知って話すのは祖母と、九年ぶりに再会したユージの二人だけだった。
昼ご飯を食べ終えて、足が悪くなった祖母の代わりに夕飯の買い物に出かけた帰りに立ち寄った古本屋のレジで、魂を川の中に落っことしてきたような顔をして店番をしていたのが、ユージだった。
店内は埃っぽく、慣れた顔をして立ち読みをしている客が二人いるだけだった。
絶版になって、諦めていた書籍を見つけ、レジに持っていくと、眠そうな青年が触れるたびにパリパリと音がする古い本を暗い目で捲っていた。
おや、と思って、わたしは足を止め、彼を繁々と見つめた。
どうにも見覚えがあると思ったら、恐らくその彼はかつて水切りに燃えたあの純粋な少年であるようだった。
蘇る、夏の光。わたしも案外、乙女だった。
気の抜けたような挨拶をして会計をする彼に、内心、とてもどきどきしながら「ユージ?」と尋ねた。
彼が怪訝そうに顔を上げる。
その顔には、誰だっけ、と書かれていた。
「あー、その、あんたって」
「透明」
「……あんた、透明って名前なの。へんな名前だね」
「そういう名前の犬が昔いたんだよ。すごく頭が良かったんだけどね、死んじゃった。だから、わたしが後を継いだの」
「ふぅん。そりゃ大変だ」
「そうでもないけど」
「五千円になります」
「負けてよ」
ユージがあからさまに嫌そうな顔をした。
「これ絶版だから。安い方だよ、透明さん」
「もう水切りは、やんないの。ユージ」
「……何年前の話だよ」
わたしは、ユージが五千円、と言った時に開いた左手の掌の上に、四本指を立てた右手を重ねた。
ユージが笑う。
「これはまいった」
「あの石まだ持ってる?」
「今度思い出したら探しとくよ」
「わたし来週、誕生日なの」
するとユージは溜息をついて「じゃあいいよ。やる」と言った。
今も昔も、誕生日の人には何かあげなければならないという素敵なルールが、彼の中ではしっかりと息付いているようだった。
袋に入れてもらったとき、訊いてみた。
「わたしのこと思い出した?」
「白い犬もね。あんたらややこしいよ」