8歳の誕生日の話
わたしは徐々に首を絞められるように死んだわけなので、没日というものは存在しないのだけれど、生まれたのは夏だった。
というわけで、わたしは小学二年生の誕生日を祖母の家で迎えた。
あまりにもいつも通り朝が始まったので、朝ごはんの冷麦を啜っている時に、祖母が「おめでとう。何でも好きなものを買いなさい」と五千円札をくれるまで、わたしは自分の誕生日をすっかり忘れていた。
まだ八歳になりたてだったわたしにはものすごい大金で、びっくりして、その場で兎みたいにぴょんっと跳び上がった。
その拍子に隣でうつらうつら水を呑んでいた透明もびくっと震えて「うぅぅっ」とちいさく唸った。
「こんなに、いいの?」
「皆には内緒だよ」
そのとき、ぽんっと弟の顔が頭に浮かんで、わたしは密かに弟に対して言い表せない優越感を感じて、喉のところに何か苦しいものを感じた気がしたのだけれど、よく分からなかった。
祖母にもごもごとお礼を言いながらわたしは百円玉や十円玉しか入っていない財布に、大事に五千円札を仕舞った。
それだけが妙に場違いで、それだけに気分が高揚した。
気分が落ち着かず、朝食もそこそこにして、財布を持って透明を抱いて、転がるように外に出た。
あの皺くちゃの五千円札は、素晴らしい世界への切符だった。
当時のわたしは五千円で何ができるかなんて全く想像もつかなかった。
「透明、透明。すごいね、五千円も、持ってるんだ、わたし、今」
「わん」
「なんだか心がふわふわするね、ねっ、透明」
「うぅ」
「これがあれば何処にだって行けるよね」
この言葉に対する透明の返答は無かった。
どうしたのだろうと透明の顔を覗きこむと、困惑する苦悩の哲学者のような目でちいさく「………………………くふん」と咳をした。
「……へぇんな透明!」
透明はやっぱり天才犬だったのかもしれない。
少なくとも、当時のわたしよりは数段、世間というものを知っていた。なんせ、公園に捨てられていたくらいだし。
河川敷までとことこと歩いて行くと、少年がひとり河原で屈んでいた。
なにか大事なものを落として探している風ではあったが、それにしてはのったりとした極めて緩慢な動きだった。
見覚えのない少年に、人見知り気味だったわたしは向こう岸に渡るための橋へ向かおうとしたのだが、腕の中の透明が狙い澄ましたかのように「きゃんっ」と鳴いた。
わたしは心臓が跳びはねる想いだったが、少年はさほど驚いた様子も無くこちらを振り向き、あっと声を言った。
「犬だ」
「……うん、犬だよ」
「お前じゃなくて、その犬。この前まで公園に居たのに、或る日急に消えたから、何処に行ったのかと思ってた。ふぅん、お前が拾ったんだ」
「わたしじゃなくて、おばあちゃんだけど」
「あっそ。な、触らせて」
少年はわたしの訂正をいかにも興味なさげに流すと、嬉々とした声で土手を上って来た。
「いいよ」
「こいつ、こんなに白かったんだ」
わたしの腕の中で透明は、少年に乱暴に撫でられても大人しくされるがままになっていた。
おかげで、少年の手が離れた頃には、透明のふわふわの毛はぐしゃぐしゃになっていた。
「名前、何?」
「透明」
「トーメー? ……変な名前」
「わたしが付けたんじゃないもん!」
「別にいいけど。透明か。ふぅん」
すると透明が、返事をするように、きゃんっと鳴いた。
「こいつ、なんか、頭良さそう」
もしわたしがこの少年に心を許すキッカケがあったとするならば、それは何気ない少年のその一言だったのだろう。
うれしくて、誇らしかった。祖母の唯一の主張は、頭が良いのだ。
「ここで、なにしてんの」
「水切り」
「へ、ぇ……」
「知ってるか。水切りはな、技術なんだよ」
そう言って少年はポケットから石を取り出した。
平べったくて、少年の手の内にあると磨き抜かれたぴかぴかのそれは一種の手裏剣のようにみえた。
「これ、最高の石。……言っとくけど、やらねぇから」
「……要らないよ」
「俺の宝もん。いいだろ」
少年が、わらう。
少年の後ろで川が光を反射してきらきら輝いて、なんだか少年が眩しかった。
羨ましい、と思った。なにが、とまでは当時のわたしには分からなかったけれど、今なら少しだけ分かるような気がする。
「いいね」
「だろ」
「うん」
「ユージ」
「はぁ?」
「俺の名前」
「ふぅん」
「よろしくな、透明」
わたしにはよろしくしないのか、と思ったがそこで怒るのもなんだか筋違いであるような気がして、ぐしゃぐしゃと撫でられている透明を見下ろしながら黙りこくった。
透明がくふと咳をする。
どうやら少年の乱暴な愛撫は天才犬にはお気に召さないようだった。
ユージもなんとなく気づいたのか、気まずそうに手を引っ込めた。
だまる。
そして、じっと、睨むように川を見詰めた。
そのまっすぐで、女の子には出来ない、爽やかに鋭い視線を見て、わたしは
(男の子の、目だ……)
と、思った。
「なあ、お前、見たことねーけど、ここの奴なの」
「ううん。夏休みだけ、おばあちゃん家にいるの」
「ふーん。なんで?」
「弟が、ショーガッコージュケンするの。だから、お父さんも、お母さんも、わたしの面倒まで見切れないの」
「ショーガッコージュケンって……なに?」
「トクベツな小学校に入るためのテスト……だって」
「お前も、それ、したの」
「ううん。わたしは、オンナだから」
「はあ? 俺だって男だけど、そんな変なこと、したことないぜ。テストとか、キライだし」
「わたしもきらい」
「じゃ、良かったじゃん」
でも、オンナだから、ショーガッコージュケン、しなくていいんだけど、だから、お父さんと、お母さんと、一緒に居られないんだけどな……。
と、思うと、喉が、綿を詰められたみたいに苦しくなって、目の下の奥が、つめたく疼いて、気が付けば、わたしはみっともなくぼたぼたと涙を零していた。
ユージは、分かりやすく、ぎょっとした。
「な、なんだよ、どうしたんだよ」
「よ、よ、よくない、よぅ……なんにも、よくない……」
「なんでっ」
「きょ、きょう、た、誕生日なの。なのに……お、お父さんと、お母さん、い、い、いないんだもん!」
わたしは大声で泣きじゃくって、賢い透明は、そんなわたしの腕の中で大人しくしていた。
ユージは何やらごそごそとポケットを探り、何かをわたしに向かって差し出した。
「おい」
「なにぃ」
「こっち見ろ」
「なんでぇ」
「いいから、見ろ、ばか!」
ばかって何よ、と言おうとして、見ると、ユージの手には、片手に乗るほどの、真っ白な、つるりとした石があった。
きらきらと、光っている。さっきの、最高の石だ、とわたしは気付いた。
「やる」
「え」
「やるってば!」
ユージは手渡すというよりも押し付けるように、わたしの手に乗せた。
驚いたわたしは、目をぱちくりさせたまま、まじまじと石を見詰めた。
「親がいないからって、なんだよ。お前、いくつだよ!」
「八歳、だけど……」
「そういう意味じゃねー! 別に、いーだろ、親が居なくても、透明が居るし、俺が祝ってやるだろ! だから、泣くな、ばか!」
わたしは、涙が引っ込む勢いで、びっくりして、口をぽかんとさせた。
男の子にこんなに、ばかって言われるのも、祝われるのも、こんなふうに、きらきらして見えるのも。
透明が、きゃん、と、鳴く。
「……最高の石なのに、いいの」
「いいよ。まだあるから」
「…………」
「おめでとう」
「……ありがとう…………」
ユージが、きらきら、わらう。夏の光を、飛び散らせるみたいに。
そこからはよく覚えていない。
二人と一匹でそのまま遊んだような気もするし、帰ってしまったような気もする。
沢山のことがあったかもしれないし、もしかしたら何も無かったのかもしれない。全ては遠い。
夏が爆発したみたいなあの少年の笑顔だって。
まだかろうじて生きていた頃の、わたしがただ、夢を見ていただけで。
「あれ、何これ。そんなの、あったっけ」
青年は目敏く、テレビの前に置いてあった真っ白な石に気付いた。
「昔、貰ったもの。なんか懐かしくて」
「ふぅん。きれいだね。きっと、素敵な人なんだろうね」
……本当に、目敏い。
「言いたいことがあるなら、はっきり言って」
「怖いなぁ。ねぇ、お腹が空いたな。石より食欲だ。ご飯にしようよ」