聖女と白ペンキと黒歴史
寒さも本番になる一月。冷たい風が吹き、教会の塀をブラシで掃除する僕は凍えて身体を震わせた。
教会と言えば、清澄で清潔なイメージがあるけれど、長らく放置されていたこの教会は違った。いくつかの下品な言葉が、極彩色で描かれている。
前から思っていることなのだが、こうしたものを描く人間は、社会的な倫理は欠如しているものの、デザインとしてはなかなかだ。手放しに拍手は送れないが、僕にない才能を持っているのは正直、羨ましくもあった。
裏通りであり、夜は明かりも少ないため、人通りがない教会の前の道。教会に用事がある人しか通らないだろうし、また、用がある人間でもこの教会は選ばないだろう。
僕も選びはしない。そもそも、先日までここに教会があることなんて知らなかったのだから。
ではなぜ、この教会の塀を掃除しているかと言うと、ある人物との出会いがあったからだ。
触れ得難いまでの美しさを持つ、シスターとの出会い。ここで働き始めるらしい彼女の手伝いを、何となくしてみたくなったのだ。
この感情は恋ではない。むしろ、芸術に対する賛美と言うか、単純に彼女の考えに興味が湧いたのだ。
だが、できる手伝いは限られている。僕はキリスト教徒ではないし、聖書を読み込んだこともない。誰かの悩みに乗れるほどできた人間でもない。
そこで思いついたのは掃除だった。思いついた時は「これだ!」と自画自賛したけど、今になって思えば大寒間近のこの時期に外で掃除なんて自殺行為だ。
ブラシで塀を擦る作業を終える。これは落書きを落とすためではなく、塀についている埃やガムなんかを剥がして、ペンキを塗りやすくするためである。
水を張ったバケツにブラシを突っ込む。このまま放置していれば、翌朝には凍ってしまうだろう。後で屋内に入れる必要がある。
白ペンキの缶を開けて、別のバケツへと注ぎ込む。これに水を加えれば、準備は万端だ。
高校時代に使っていたジャージを取り出し、それを上に着た。パーカーの上にさらに着たのでキツイのだが、服が汚れるよりかは良いだろう。
「順調ですか?」
門から顔を出したのは、この教会に赴任する予定のシスターだ。美人、とはまた違うその顔は穏やかな笑みを浮かべている。
「これから塗るよ」
「白ペンキでも、中二病だった貴方の黒歴史は消せませんよ」
「確かに慣れない洋楽を聴いてたけれども!」
あの頃は兄が使わなくなったギターを片手に洋楽、しかもオルタナティヴ系バンドをネットで聴いていた。あの時の兄の温かい視線の意味を理解したときは虚しくなったものだ。
ちなみにそのギター、元は父のものらしい。
「あら、てっきり『“黙示録の獣”の化身たる俺には、この人間界は狭すぎる』とか言っていたのかと」
「そんな重症じゃない!」
しかもいろんな神話が合体している。何より、真っ当なシスターの発想ではない。
クスクスと笑うシスターは、両手に持つ紙コップを片方、僕に差し出した。
「熱いので気をつけてくださいね」
シスターがそう言うので、注意して受け取れば、確かにそれは熱かった。次いで香りが漂ってきて、中身が何なのかわかった。
「……オニオンスープ?」
「はい。元気が出ますよ。頑張っている貴方にピッタリかと」
とても嬉しい配慮だった。体全体が温まるし、玉ねぎは身体を活性化させる成分が入っているからだ。
飲めば、心地好い刺激が口に広がった。温めなのは舌を火傷をしないようにという気持ちだろう。
「おいしいです」
「良かった」
安心して笑みを浮かべた彼女に見惚れる。慌てて意識を塀へと逸らして、視線を外す。
ハケを取り出しペンキをつけて、塀へと挑む。毛先が触れた先から白く染まるのは快感だった。
しばらく作業を続けていると、僕とシスターはほとんど同時に同じことに気づいた。
「ペンキが足りないですね」
シスターはペンキの残量と塀の塗られていない部分を見比べて言った。
「どれくらい必要かわからなくて……」
ペンキ塗りなんて慣れない作業だから、僕には何がどれくらい必要かはわからなかった。思いついたのは、中学の技術のニス塗りくらいで、ハケとバケツ、そして塗る前に埃を掃う必要があることくらいだった。
買ってくるしかないかな、と思いながら、いましている作業をどうしようか悩む。
それがわかったのか、シスターが言った。
「では、私がペンキを塗るので、買いに行ってもらえますか?」
「良いんですか?」
「はい。大丈夫です。それに、貴方にばかりやらせるのも良くありませんからね」
好意で始めた作業であったが、知らない内にシスターに意識させてしまっていたようだ。
僕としては、彼女の手伝いをと思っていて、最後まで一人でやりたかったのだけれど。
「じゃあ、お願いします」
近くにあるホームセンターまで、バスで十分くらいだ。財布の中身を確認して、ペンキ代があることも確認する。
ジャージを脱いで、シスターに渡すと、彼女は少し驚いた顔をしてそれを受け取った。
「汚れたらいけないから」
「ありがとうございます。使わせていただきますね」
シスターがジャージに袖を通す。美人であり聖職者であるシスターがジャージを着ている光景は、少し面白い。レアなシーンでもある。
この人にも学生時代があったんだしと思い、背を向けて笑いを堪えている顔を隠した。
「じゃあ、行ってきます」
「はい。……あ、領収書をお願いしますね」
「経費で落とせるなら早くに言ってよ!」
さっき買ったペンキやハケなどのレシートは、すでに捨ててしまっていた。
すぐに来たバスに乗って十分、着いたのはホームセンターの前だった。
本当は集合住宅前であるのだが、その集合住宅の向かい側にはスーパーとホームセンターが一つになった建物がある。
だいたいのものが揃うそこには僕もお世話になることが多い。買い物に便利だし、ポイントカードも共通している。
自動ドアをくぐれば、温かい風が身体を包む。フッと力が抜ける感覚がして、自分の思っている以上に身体に力を入れているのがわかった。帰ったら肩をほぐさなければ、肩コリになってしまうだろう。
理路整然と並んでいる商品を見ていると、不思議と他のものも買いたくなってしまう。一目見ただけで使用用途のわからない商品なんか、男心を刺激されてしまう。だが、今の目的はペンキの補充だから、それのみを考える。
慣れた足取りでペンキのある塗料のコーナーへと向かった。白のペンキの、さっき自分が買ったものよりも大きなものを選んだ。ついでにハケも追加で買っていく。
僕がそれを手に取ると、脇を女の子が歩いていく。高校生くらいだろうか。髪も長く伸びていて少し不健康そうで、マスクをしている。
こんな女の子もホームセンターに来るのか、と思いながら用を済ませた僕はとっとと会計をした。自動ドアを通ろうとし、ドアが開いたときにふと気づく。
「……あ、領収書」
慌てて振り返って店員に話し掛ける。領収書を用意してもらうまでに、ふと視線を上げると、さっきすれ違った少女が買い物をしているところだった。
買っているものを、不謹慎だと思いながらも見る。
店員がバーコードを読み取ったそれは、白ペンキだった。
同じものを買ったのは偶然だろうが、何かが引っ掛かった。
バスを捕まえることができなかったので、徒歩で教会へ向かうことにした。
バスを使えば楽なのだが、通る道としては徒歩の方が近い。バスの順路は人の集まりやすい場所を通っているので、遠回りしてしまうのだ。
やはり、バスの方が早く着くから、その二倍以上の時間をかけて教会に着く。繁華街を抜けた先にあるそれの塀は、僕がいなくなってからいくらか白く塗られていた。
僕に気づいたジャージ姿のシスターは、いつもの包むような笑顔を浮かべた。
「お帰りなさい。大丈夫でしたか?」
「うん。これだけあれば大丈夫かな」
ペンキの大きな缶を取り出す。シスターも見慣れないのか、不思議そうな顔でそれを見ていた。首を傾げる姿は、未知の物を見た猫を思わせた。
僕が差し出した領収書を受け取ると、笑顔に戻り、口を開いた。
「あのですね、いくらこの教会に人が来なくても、女子高生を連れ込むのはどうかと思いますよ」
「え?」
シスターが何を言っているのかわからなかった。しかし、彼女の視線の先は僕ではなくさらに先、僕の後ろを見ているような気がした。
振り向けば、そこにいたのはホームセンターで会った、マスクをした不健康そうな女子高生だった。少し距離が離れているが、驚いて立ち止まっていることがわかる。
いろんなことが頭を過ぎったが、一先ずシスターに言うことにした。
「紛らわしい言い方をしないでください!」
「ふふ」
シスターは笑うだけで、女子高生を手招きした。
それに視線をさ迷わせながらも頷いた少女は、覚束ない足取りでこちらへやってくる。
「どうされました?」
「いいいいえ、そそ、その」
緊張しているのか、はたまたそういう病気なのだろうか、少女は吃った。
それを聞いても尚、シスターは笑顔で優しく接する。シスターは彼女より背の低い少女と視線を合わせるために、少し屈んだ。
「落ち着いてください。大丈夫ですよ。深呼吸を」
言われて少女は大きく吸って吐く運動を繰り返した。
それで落ち着きを取り戻したのか、今度は視線をしっかりとシスターへ向ける。
「どうされました?」
再度、同じ質問。少女は少し間を置いたあと、マスク越しにくぐもった声を出した。
「お、お手伝いがでで、できればって……」
「そうですか。では、荷物はそちらに置いてください」
僕はそのやり取りを横目に、新しいハケを用意して落書きを消す作業を始める。ジャージはシスターに貸したままだ。服がいくらか汚れてしまうだろうが、仕方ない。
少女はいそいそと自分のハケを取り出した。さっき買っていたペンキは、どうやら教会の落書きを消すためだったようだ。
偶然、だろうか。いや、前からこの教会の落書きをどうにかしようと思っていて、思い立った日が僕と同じだっただけなのだろう。
……あえて、ある可能性を考えないようにしている。僕は何分、うたぐり深い性格だ。だけど、そんなものでこの女子高生の好意を無下にはできない。
「お名前は?」
「マキ、です」
少女の名前はマキと言うらしい。既に用意してあるペンキの入ったバケツを見つけ、視線をシスターとバケツの間でさ迷わせる。
「使って構いませんよ。ね?」
了解を求め、僕に笑顔を向けるシスター。僕は頷いて作業を再開する。
無言で作業をしていると、シスター隣に並んだ。新しいラインから白ペンキを塗りはじめる。マキはシスターのさらに向こう側だ。
三人で黙々と作業をしていると、シスターがさりげなくオニオンスープの入った紙コップを脇に置いた。
「あ、ああありがとうございます」
向こう側でも同じやり取りが行われているらしく、吃ったマキの声が聞こえてきた。
マキがオニオンスープを口に含む。マスクを取った顔を見たが、彼女は童顔のようで、もしかすると中学生なのではないかとも思えた。
「あ、あの!」
すると、マキは少しだけ大きな声を出す。僕とシスターが振り向くと、びくりと反応して、視線を逸らしながらも言葉を紡ぐ。
「その……ここ、こうやって消した後に、ま、また落書きされるとか思わない……んです、か?」
「そうですね。されるかもしれません」
マキの質問に答えたのはシスターだった。
「ですが、だからと言ってそのままにしておくのは良くないです。また汚れるからと言って服を洗濯しない、なんてことはしないでしょう?」
「でも!」
マキはどうしてか、はっきりした口調だった。
「でも……やる人は、い、いるんです。やや、やってしまう人は、いるんです……」
涙声で、マキは言った。
あえて無視していた可能性。それは、マキがこの落書きを……全部ではなく、一部かもしれないが、描いたということ。
薄々感じていた。不健康そうな女子高生が白ペンキを買い、教会へやってくる。それが、どれだけ普通でなく、しかしありがちなことなのか。
もしもっと前から、違う目的で行われていたことなら。
そして、彼女の意識が、僕が考えた通りならば。
「良いんじゃないですか、描けば。幸い、ここは教会です。迷える子羊が吐き出す場です」
シスターは、変わらない優しい口調で言った。
「誰が何度落書きしようと……私と彼がこうして、重ねて塗ります。ここに落書きをすることが貴女の助けになるなら、それに勝る喜びはありません」
ただ、とシスターは間を置いた。マキの瞳をジッと見つめて。僕からはシスターの表情はわからないが、マキが泣きそうな顔をしているのがわかる。
「ただ、それが貴女を苦しめると言うなら……やめるべきです」
マキはそれを聞いて、黙り込む。僕も少し気になって、あまり気の利いた質問ではないけれど、したくなったのだ。
「君は……落書きを消しに来たの?」
「は、はい。あ、あの、前かららら、落書きされれてたんですけど……私も、ちちちょっと落書きして、それで」
マキは少し息を切らしている。どうやら落ち着けず、呼吸が難しくなっているようだ。
深呼吸をして調子を整えたマキは、続けた。
「……わ、私、学校をしばらくズル休みしてました。そそ、それで、落書きを見て、自分でやっても面白くなって。でででも、また学校に行きたくなって、みんな心配してて。そそそしたら、落書きしたのが、ははは恥ずかしくなって、それで」
たどたどしい話し方だった。けれど、気持ちは伝わった。彼女が本心を話してくれたのが、嬉しかった。
きっと、誰よりもそれを望んでいたシスターは、ハケを再び塀につけた。
「過去は、白ペンキで消すことはできません」
それはシスターが僕に言った言葉によく似ていた。
「どんなに取り繕っても、このペンキの下に落書きがあるように、過去に犯した罪は消えないのです。ですが、主はそれを許します。許す、と言うのはなかったことにすることではありません」
なかったことにするのは、逃げだ。逃げて逃げて、たどり着いた先は断崖絶壁か、地獄への門だろう。僕にはシスターが言いたいことがわかった。
マキは真剣な顔で、シスターの言葉を聞いている。
「その罪を背負いながらも、主は『進んでよろしい』と言うのです」
「それが……許す」
家族や友達と喧嘩して仲直りしたとき、罪を犯した人間が服役して出所したとき、喧嘩や罪はなくなったことにはならない。だけど、それを背負って生きることは認める。それが許すということ。
確かに、個人的感情で許せないこともあるけれど……きっとそれとはまったく関係ないところから「許す」と言えるのが、シスターの信じるものなんだろう。
マキは俯いてしまう。そう、神様がいない今、僕らは何からも許されないことがある。そしてマキは、最も大事な“自分”から許されていない。
僕に出来ることはなんだろう。何かをしなければ、何かを、何か言わなければ。
「僕は……許すよ」
そう言ったとき、マキは顔を上げた。驚きが張り付いた顔。
シスターも頷いて、言った。
「私も許します。ですから、まずはこの落書きを見えないようにしましょうか」
大きく頷いたマキは、涙を堪えるような顔でペンキを塗りつづける。僕とシスターも同じように、落書きの上にペンキを被せた。
それからずっと作業を続ける。三人でやっただけあって、思ってたよりも早く終わった。
むしろ、一人でやっていたらどれだけ時間がかかっていたのかと思うと怖くなる。寒空の下でそんな苦行はしたくない。
「綺麗になったね」
「はい、綺麗になりました」
僕が言うと、シスターが続いた。それを聞いたマキは、いよいよ大粒の涙を流しはじめた。
それを見た僕は、どうしてかわからないけど達成感があった。それは少女を泣かせたことではなく、誰かを助けられたことへのものだ。
きっとシスターは、こういう世界で生きているのだろう。尊敬の念を込めてシスターを見る。
シスターは僕が貸したジャージの胸元に、ペンキで白い斑点ができてしまっているのを指差して言った。
「汚されてしまったのですが、誰が責任を取ってくれるのでしょうか?」
「台なしだよ! ジャージ脱いで!」
「こんな寒い中、女の人に脱ぐことを要求するなんて、鬼畜さんですか?」
「違うよ! 違うからね!」
僕とシスターのやり取りを聞いて、泣いていたはずのマキが笑っていた。
何と言うか、そう。やっぱり最後は笑顔が良い。僕は確かにそう思った。そして、みんなもそれを望んでるんだって。
ありがとう。そうマキの口が動いた気がした。