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第三話

 およそ半年間のことだ。光路の食生活は大いに乱れていた時期があった。料理ができないわけではなかったが、あまりに気力が湧かなかったせいで、立派な台所も埃をかぶる一方であった。

 それはもう、乱れに乱れていた。毎日が出前でピザ、うどん、カレー、弁当、等々。栄養バランスなど気にしない高カロリー高タンパクのオンパレード。まるでメタボになるため一直線な食事をひたすら摂り続けた。

 組み合わせなんて考えにも上がらない。その時、光路は食事なんて心底どうでもいいと考えていたのだから。ただ栄養が摂れれば、味があれば、かろうじて生きるのに必要であれば、何でもよかったのだ。

 なおかつ日がなゴロゴロして日が暮れるのを待つ生活を繰り返していれば、脂肪を蓄える要因など火を見るより明らかだ。

 そんなどん底の自堕落生活から浮上するきっかけの一つが料理だった。

 光路の短い人生の途中から父親と二人暮らしになり、そこから自然と役割分担ができていて、家事全般は光路の仕事だった。

 それまで以上にあくせく働きに出る父と会話する機会はぐんと減ったが、それでも最後の家族という存在は光路にとって大きかった。しっかり栄養バランスを考えた食事を継続する苦労も知ったし、料理のレパートリーを増やす楽しみも知った。

 前までは台所まわりなど、ジャングルの秘境みたいな場所で、料理道具が収まっている場所すら知らなかった光路だったが、性に合っていたのだろう。

 料理男子デビューはすんなりといった。

 それが一転。一人になってしまってからは、キッチンはみるみるうちに汚染区域と化した。

 家の掃除も、洗濯も手をつけずにいた頃は、まさしくテレビで紹介されるような汚部屋、ごみ屋敷といっても過言ではない状態に陥ってしまったのである。

 自分はこのまま人として終わるのではないか。ネガティブなことを考えるようになっても、何も動く気すら起きなかった。

 そんな最中に一度だけ、人を家に上げる機会があった。色白で、見るからに繊細そうなお嬢様といった風体の相手に戸惑いはしたが、生前の父と親しかったと聞き、疑うこともなかった。

 家にあげるなり、あまりの惨状に心神喪失しかけていた彼女の様子は覚えている。

 たった半年で変わり果てた光路の見た目と、思わず鼻をおさえてしまうくらいの悪臭。

 しばらく呆然としていた彼女は、この世の終わりが来たかのような叫び声をあげたかと思いきや、そのまま魚雷のような勢いで飛び出していった。

 

「(あ、いっちゃった)」


 感情が麻痺していた光路は、ぼんやりと心に浮かべた。そして、もう彼女がこの家に訪れることはないだろう、と思った。あんな綺麗な人は、こんな場所は耐えられなかったに違いない。ところで彼女はいったい誰だったのか。ひょっとして父親の愛人とかだったりするのか。ほんの少しだけ今出て行った彼女について思考を巡らしたが、すぐにやめた。

 考えることすら億劫だったから

 しかし、光路の予想に反して彼女は戻ってきた。どこぞのホームセンターで掃除用品を買い込んだらしく、彼女は日が暮れるまで光路の自宅を徹底的に掃除し続けたのであった。

 一心不乱、とはあのことを指すのだろう。とりあえず止めに入ろうとした光路を、あろうことか「すっこんどけ、チンカス!!」とぶん殴って隅っこに放り投げてまで、他人の家をぴかぴかに仕上げたのである。その時、すでに80kgを超していた光路の体を吹っ飛ばすほどの勢いの拳は強烈に効いた。

 掃除が終わると、一仕事やり遂げたぜと爽やかな笑顔を見せた相手は「はー、きれいになったなァ! ひっさびさに働いたーって感じ。ビールのみてーッ!!」と去っていった。去り際に光路へ目をやることもなく。

 その人物とはあれ以来、一度も顔を合わせていない。その見た目を全力で裏切る豪気な人であった。


 ぴかぴかに磨き上げられた部屋を見渡して、それからキッチンに何も物が残っていない状態を見たら、急に腹がなった。そういえば女性が尋ねてきて以来、朝から食事を摂っていないことに気がついた。

 そして、あろうことか料理をしたくなった。いつもは電話かネットで出前を取るしかなかったというのに。

 不思議なことに、何を作ったのかはよく覚えていない。あり合わせのもので適当に作ったのだと思う。

 あり合わせといっても、しばらく買い物にも出ずにいた一人暮らしの男の冷蔵庫に入っている食材なんて知れている。おそらく、ほとんど冷凍物だったりレトルト食品だったのだろう。

 強烈なことがあったばかりで色々と頭が追いついていない状態だったし、心半分でフライパンをせっせと動かしていたら、ふとこんなことを思った。


 ああ、俺は生きようとしているみたいだ。


 死のう、なんて考えたことはない。けど、こうして生きるために食べ、食べるために料理する自分というものに気づいた時に、ぐだぐだと魂が抜けたような生活に急に嫌気がさした。

 他人様から見れば、現在の生活だって褒められたようなものではないであろうが。仮にあんなひどい状態を抜け出せなかったとしたらと思うと、考えたくもない。

 食べることこそ、偉大なことだと光路は考える。外食よりも、家でぱぱっとでも何かを作ったほうがいい。


 料理好きの男は冷蔵庫の中身も常に把握しているものだ。何が足りず、何がどれだけ必要か。物を買うにも、それが処分されるまでの消費ペースの配分を道筋立てて想像する。   

 買い物カゴ片手に導き出す主夫の戦場。

 それがスーパーというものだ。


「ふむ、豆板醤に豆腐か。おや、ごま油に長ネギもか。おそらく、本格的な麻婆豆腐とみた。相違ないかい?」

「相違ないけど、何ですかあなた。そろそろ怖くなってきたんだけど」

「やあ」


 片手をあげ、高貴かつ爽やかという特殊な笑みを放つ人物に光路の顔が引きつる。本格的にやばいと勘が告げている。

 久々にぞわりと背筋を撫でる感覚を味わった。

 そして続く「奇遇だね」に優雅という美男子の底知らずのオーラに目までひくついてきた。

 髪をふぁさあっとかき上げる姿はあまりに完璧すぎてアホにしか見えない。既にカメラでも意識しなくてはいけない俳優ですら、こんなに決めてこないだろう。それが素でれば、なお怖い。


「あ、もしかしてこの辺に住んでる?」


 近所同士なら、スーパーで遭遇することくらいあるだろう。フォローのつもりで聞いたのに、優雅はゆっくりと首を振った。


「私の家は隣町だよ」

「あっそう」


 あっさりと返され、いっそ肩の力が抜けてしまった。この男と遭遇したからといって何だというのだ。

 偶然は偶然。たまたま自分を見かけて声をかけたのだろうと思うことにした。


「さあさ、ちょっと聞いておくれ。君はこうして買い物をする。一人でそれを食べるだろう。そして私はご相伴にあずかりたい」

「三つ目がおかしい。ていうか、なんだって会ったばかりの人間に晩飯を振る舞わないといけないんだ?」

「昼間は私がご馳走したじゃないか」

「あれはあんたがパチンコ勝ったからだろう! それにお礼と言ってたじゃねーか!」

「食材のお金くらいは払うよ。実は今日はもう少し時間を潰してから帰らないといけない事情があるんだ。外で食べようかと思ったけど、たまたま君の姿を見かけてね。迷惑だったら、いいんだ」

「しゃっらくさい奴だな。図々しいにも程があるだろう。ていうか、なんで俺が一人暮らしって・・・・・・」


 言ってから、はたと気づく。あの頃、周りのことなんてどうでもよかったから分からなかったが、きっと噂になっていたのかもしれない。

 光路が陥っていた境遇。きっとクラスどころか学年中の話題となっていたもおかしくはなかった。当時の光路はかなり目立っていたのだし。

 だから、一週間でも同じクラスだったというこの男も光路の事情を知っていても不思議でも何ともないのだ。


「ていうか、知ってて頼むって・・・・・・輪をかけて野面皮な奴だな」

「そういう君もずばずばと思ったことを口にするあたりが気持ち良いね。どうだろう? 私としては暇が潰せて腹が膨れればいい。いっそのこと外食でもいいんだ。一人じゃつまらないし、またご馳走するからさ。一択を選んでくれないか」


 何一つとして了承した覚えはなかったが、優雅の中では光路がとうに乗り気な前提らしい。

 どうにもこの男は相手の気持ちを横に流して、我を通そうとする節がある。これが強者のスタンダード・スタイルなのだろうか。


「俺じゃなくても、あんたなら誰か呼べば集まりそうだけどな。ていうか彼女とかいないのか?」

「彼女、ねえ。今のところはいないかな。可愛い女の子は好きだけど、必要じゃないしね」


 今のところは、である。世の非モテ男性が耳にしたら、それだけで血の涙を流して一揆に至りそうな台詞だ。

 正直、光路はどん引いていた。こればかりは間違っても想像したくないのだが、彼は異性に興味がないというより、「興味がもてない」人種なのではないか、と。

 そして何故か天文学的確率によってターゲットにされたのは・・・・・・。思考を強制的に停止させた。

 何ともぞっとしない話だが、現実的に考えてありえないだろう。非常に変わった男だが、害はなさそうなのだ。本当に気まぐれ、という可能性の方が高い。

 久しぶりに出くわした珍動物みたいな立ち位置なのだと信じている。


「まあ奢られるのも悪くないけど、今日はコレって決めてるしな。家で作ることにする。俺の飯食うってんならちょっとは手伝ってくれよ。ほら、豆腐もう一丁取ってきてくれ。同じやつだからな」

「うん! 同じのだね!」


 了承の意を感じ取ったのだろう。ぱあっと嬉しそうに目を輝かせた彼が意気揚々と駆けだして持ってきたのは、全く別の豆腐だったどころか、木綿だった。

 意外にポンコツな一面を見た気がした。絹ごし一択だろうが! とそれなりの剣幕で凄んだ光路だったが、「そ、そんな君の細かいこだわりとかわかんないし・・・・・・普通は木綿じゃないの・・・・・・?」と怯えるイケメンの姿に周囲の人間による批難の視線が光路に集中する。

 顔の出来がよすぎる奴の周囲には、こういった理不尽を味わう人間がいるのだと分かってしみじみとしてしまった。


「誰も、わかっちゃいねえ。絹ごしでも、崩さないようにすればこそだろうが」


 ぼそりと呟いた一言はスーパーのBGMにすら負けて誰の耳にも届くことはなかった。



「ごちそうさま。こんなに料理上手だなんて、誇るべき特技だよ」


 自分の分も含めて四人前ほど作ったのだが、あっという間に食卓の上は綺麗に片付いていた。

 ストレートな褒め言葉に光路は少し顔を赤くして視線を逸らした。


「べ、べつに麻婆豆腐なんて大した手間ないし」

「私はね。これでも料理なんてからっきしダメなんだ」

「言われるまでもなく、想像つくわ」

「そう言われると傷つくなあ。料理、少しは始めてみるべきか・・・・・・」

「別にいいんじゃないか? 実家にいるなら今すぐに覚える必要なんてないだろ」


 彼の家庭事情など知る由もなかったが、何かに不自由しているような人間には見えない。光路の見立てはきっと当たっていて、「それもそっか」と納得したようだ。

 家事なんて、よっぽど親孝行な人間でない限り高校生の内から覚えるものではないだろう。必要に迫られない限りは。


「綺麗な家だね。君は存外にも色々と細かいことにも気がつくし、家庭的な人間なんだねあ。驚いたよ」


 改めて優雅はリビングをゆっくりと見渡した。家に上がらせた時から、すでに感心した様子で何度も褒めてくるので、体がむずがゆくて仕方がない。

 

「家庭的、ね。もともと整理整頓は嫌いじゃないし、料理だって美味いものを食いたいから腕を磨くだけだ。細かいことに気がつくってのは、神経質なだけだと思ってる」

「自己否定がこうもすらっと並ぶのもどうなんだろう。でも私の意見をいきなり全否定するんでないよ。褒め損じゃない」

「気がついたら、こういう仕様なんだ。褒められて損することはなくたって、得することもない。ひねくれてるんだ。こういう人間だから、しょうがないと思ってくれ」

「昔は、そうじゃなかったって言ってるように聞こえるね」


 同い年の人間との会話なんて久々だったから、つい饒舌になっていた。切り返された言葉に光路は息を詰まらせる。

 油断していたところに、切り込んできたのは偶然のタイミングだろうか? その質問の効果は、明らかだった。

 光路が黙る反応を見て、彼は眉一つ動かさずに光路を真剣に見つめた。


「王子様、だったんだよね」

「昔の話だし、その話題はいやだ」

「実はね、その名称は今や僕につきまとっているものなんだって知ってた?」

「へえ。知らなかったな。じゃあ頑張りなさいよ二代目」

「まっぴらごめんだよ。そんなもの正式に襲名した覚えもないし、周囲が勝手に囃し立てているだけだもの」

「そんなの本人が嫌がったって意味がないさ。他人が勝手に言ってることなんだから、躍起になって否定しても、押しつけられたものは簡単にはひっぺがせない」

「何とも実感のこもった言葉だけど、それを自分自身の実感値として共感できるのがいやだよね」


 どんよりとした表情ですら絵になる男が何を言うのだと光路は鼻を鳴らした。


「君は、この先どうするつもりなんだい? 大検を取ったりとか、するの?」


 急な話題転換が得意な奴である。そして人が聞かれたくないことばかり聞いてくる。思わず舌打ちをしかけたが、ぐっとこらえてうなり声ともつかない音が喉から漏れる。


「さあ。考えてない。しばらく勉強なんてしてないし、今から取ろうと思っても無理だろうな」


 現実的に難しいだろう。光路は高校に通っていた頃、いち生徒としては優秀な成績を修め続けていた。しかし、その学力は高校二年生でストップしている。さらに言ってしまえば、二年生で学校に通っていたのはたったの一週間だ。

 学歴は中退。こんなにも早く人と違う人生を歩むことになるとは思っていなかったが、今さら他人と同じ道へ軌道修正しようとも思わなかった。

 ずっと今の生活が続くとはさすがに考えてはいないが。


「君はかなり勉強ができたはずだけど。文武両道を表していたはずだね。そもそも大検の問題は君が勉強していた範囲内からの出題だったはずだ。不可能ということはないと思うよ」

「詳しいな。でも、気が進まない。そこまでして大学に通おうとも思わない」

「動機が不足しているか。まあ強制されて行くところではないよね」


 光路がこう答えるだろうことは想定内だったかのような反応。それでも質問したところ、物わかりがいいのか悪いのか判断に苦しむところだ。

 食後のコーヒーはまだ半分も飲まないうちにすっかり冷めてしまっている。入れ直そうと席を立った。

 彼は光路の行動に目をやることもなく、じっとテーブルの上に置いた手を見つめて考え事をしている様子である。

 不思議な人間であった。何一つ困りごとなんてなさそうなのに、どうして自分などに関わろうとするのか疑問でならない。

 どこか胡散臭いと感じているのに、拒否してしまいたいくらいに懐に入ってこない。警戒心を煽るような発言をしてきても、ギリギリのラインで引き下がる。

 光路は一週間だけクラスが一緒だったという彼のことを未だに思い出せないでいるというのに。

 自分のことばかり聞き出され、彼の情報が全くないことにふと気がついた。


「なあ、優雅くん」

「なんだい。それより、くんはいらないよ」

「じゃあ、優雅。そういえば下の名前はなんて言うんだっけ?」

「秘密」

「はあ?」


 スッパリと断られた。他人に名を明かせぬ掟でもあるのだろうか。しかし、自分ばかりが知られているというのはそこはかとなく不公平感がある。

 光路もすぐには引き下がらなかった。


「なんでだよ? よっぽどひどい名前でも笑うつもりはないぞ。俺なんておおじこうじ、だぞ。どこぞのお笑い芸人みたいだし、まず名前が大仰だ。光の路と書いて光路だ」


 自分の口はいつから開けば自虐的な発言が垂れ流れるようになったというのだ。


「私は良い名前だと思うな。私の名前は・・・・・・ゴメン。今はちょっと教えられない」

「今は、って。名前一つに面倒くさいな」

「人には訊かれたくないことの一つや二つあるだろう?」

「俺はそのうちの一つや二つを既に訊かれたが」

「まあまあ。いいじゃないか、名前なんて。私の名字はそのまんま名前みたいなものなんだし、そっちで呼んでおくれよ」


 そう言われて、しつこくする理由もない。名字で呼ぶということで妥結することに。


「今夜はごちそうさま。とても美味しかったよ。また是非お呼ばれしたいものだね」

「あ、ああ。いつか、な。暇があれば・・・・・・気が向いたら」

「そうそう。言い忘れていたよ」

「なんだ?」

「ねえ大路くん。また来てもいいかな?」

「俺だってそう暇じゃない」


 その言葉に世間の半分以上は「そんなこたぁないだろう」と否定してきそうだが。


「はは。まあその辺は君の都合が最優先だ。それでね、よかったら連絡先を教えてもらえないかな? 君と話すのはなかなか面白いからね。これで終わりというのも味気ない」

「番号? ああ、そういえば携帯どこいったかな」


 通話する相手がいないので、携帯を常に持っていることへの執着も薄れていた。おそらく寝室に放り投げたきりであろう。


「なら、私の連絡先を書いておくよ。一度メールか電話でもくれるかな?」

「そのうちね」

「なんだか君からストレートに肯定された記憶がないんだけど」


 ひねくれ者、とその目が語っていたが無視した。


「ていうか携帯の料金を払った記憶が遠いな」

「なんだか君の生活って充実してるのかいないのか微妙だなあ。今や携帯がないと生きていけない若者ばかりだというのに」


 自分こそが件の若者のくせに、おかしな言い回しに光路は力が抜けたような笑いを浮かべた。


「お、今笑ったね。君は仏頂面がサマになりすぎてるが、そうやって笑う方が全然いいな。意外と親しみやすい顔になるよ」

「なんだよそりゃ」


 そして、口説いてんのかよと思ってしまった。天然でこうも恥ずかしい言葉をさらさらと繰り出せるのは一種の才能である。


「さて、お暇するよ。今日はごちそうさま。色々とお世話になったし、本当にありがとう」

「おお、それじゃあ」


 あっさりとした別れの挨拶を終えると玄関扉が閉まる。途端に家の中がしんと静まりかえった。

 少し前まで別の誰かと一緒にいた気配はどこを探しても見当たらない。流し台にある二人分の食器だけが、何かの間違いのように蛇口から垂れる水滴にさらされていた。

 それを見て、光路はどうしようもなく悲しくなった。悲しみは、ふいに脈絡もなく襲ってくる。ここのところ、そういうことがよくある。


「洗い物は後でいいか。風呂、はいろ」


 今日もよく汗をかいた。体重が減ったかもしれないと思って体重計に乗ってみても、何故かいつもプラマイゼロ。

 もう自分が元の体型に戻る日はこないだろうと思いつつも、時折思い出したかのように体重計を確認する。

 スリムに、とまではいかないが現状は脱したいのが本音だった。

 目指すはぽっちゃり系男子。デフォルメ体型であれば「あ、ちょっと可愛いかも」と思われるくらいが理想だ。

 とはいえ、このまま年を重ねていくことを想像すると、生活習慣病という単語が光路を阻む日が必ず訪れるだろう。

 一人暮らしの光路が心筋梗塞で誰にも知られずに孤独死。


 ぞっとする話だ。

 そこまで想像して、ぶるりと体が脂肪ごと震えた。少し波うった肉体に恨めしい視線を送る。

 痩せるためには身体の新陳代謝が高い方がいい。そのためには半身浴が効果的だと本で謳っているのを読んで以来、風呂の時間は光路の習慣と化していた。

 風呂を洗って浴槽にお湯が溜まるまでの時間はわずかだ。光路の肉体が持つ体積からすると、ごくわずかなお湯で事足りるのである。悲しい節約事情だ。

 温めの風呂に体半分だけ浸かりながら、光路は一日を振り返った。昨日から二日連続で出くわした不思議な美男子の顔を思い浮かべる。

 さぞやモテモテで、現役で王子と呼ばれているような存在が光路に気さくに接する光景は傍から見たら面白おかしく映ったであろう。

 その顔貌は線が細く、よくできた人形のように、磨き抜かれた陶器のような完成度。中性的な美しさは、そのままカツラでも被せただけで絶世の美女にたやすく変貌を遂げてしまうに違いない。

 足もスラルと長く、モデルのように立ち姿が美しい。よもや王子以外にも黒髪の貴公子、というあだ名も相応しいのではないかと思う。

 気さくな笑みですら、どこか凛としていて、絶えず上品さが漂うあたりが既に光路とは別の種族なのだと実感させられる。

 そう、美女と野獣。いや、この場合は相手が美男子で自分は・・・・・・家畜のようなものだ。

 

 家畜、とまで自分を貶めてしまった時点で「いかんいかん」と頭をふるった。

 気持ちを洗い流すようにバシャバシャと両手で掬ったお湯を顔にぶっかけて、別のことを考えなくてはと思った。


 ここ最近、休みなしに稼働していた。光路の生活は世間から見ると毎日が休日だが、朝は八時前にはホールの列に並び、19時くらいまで座りっぱなしというのが一日の流れである。日によっては閉店まで同じ台の前で粘ることもある。

 そういった生活を休みなく続けると、だんだんと精神がねじ曲がっていくような感覚を覚えてくる。

 この生活のはじめの方は加減が分からずに、体が壊れるまでホールに通い続けたが、三日間も高熱を出して以来、自分の体は自分でコントロールしなくてはならないと強く感じた。

 肉体はコントロールできているか怪しいが、おかげで体調を崩すこともなくなった。


「明日はどっか遊びにいこうかな」


 遊ぶ相手はいないが、一人でも遊べるところなど、幾らでもある。こういう時、「ああ便利な世の中でよかった」と心の底から思うのだ。

 こんな自分だって、生きづらくない。そこそこ楽しんでいられる。そんな世界はやっぱり嫌いじゃない。

 世界は決して甘くはないけど、お目こぼしはしてくれる。寛容といってもいい。

 せめて、明日は誰とも会わずに自分なりの休日を満喫できますように。そう願って光路は早々に明日へ備えて床へついたのであった。



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