第一部:朝霧〜5〜6〜
5、
翌日、まだ早朝にもかかわらず、京都の街は人で溢れていた。始発の電車にも、日ごろでは
考えられないほど、人は多い。
表参道に顔を出してみれば、どこを見渡しても、人、人、人・・・。警察関係、報道陣に警備関
連の同業者、さらには一般の人々、つまり野次馬。たくさんの人が表参道、そして京都御所まで
の道にごった返していた。
私はうんざりした。どうもこうも、まだ王女の京都ご到着までには、五時間ほどの猶予がある。
仕事の人達は仕方ないにしても、こんな強烈に寒い時期、朝っぱらから王女の顔を拝むためだ
けに集まってくる群集たちの気が知れなかった。
どうも私は著名人とやらに、免疫ができてしまったらしい。
仕事柄、世間では有名人やビップとか呼ばれる人たちと、ものすごく遠くからではあるが、よく
接する。ハリウッドスターの誰々が京都訪問。天皇陛下の御遊覧。オリンピック選手たちの海外
遠征。挙げればキリが無いが、その度に特別召集がかかるのは現実。警備員の職に就いてま
だ三年しか経っていなかったが、いつのまにか数え切れないほどの仕事をこなしてきたみたい
であった。
だからか、著名人との接触が無駄に多い私には、そういうミーハーな群集心理がまったく理解
できない。
とは言っても、実はビップを直接守るのが私たちの仕事ではない。どちらかといえば、彼らを
守るボディーガードたちの警備、に近いような気がする。まぁ、所詮人員整備なので、警備対象
の半径五メートル以内に近づいたことは一度も無かったりするのだ。しかし、そんな距離であっ
ても要人たちの顔ぐらい十分に見てとれるし、話す声も聞こえる。だから、それは「接触」にカウ
ントしてもいいと思う。
とりあえず、群がる人々と一緒になってきゃあきゃあ喚くことに、少しの魅力も感じないのは確
かであった。
会社のオフィスに行ってみると、佐々木さんの姿が見えなかった。遅刻だろうか。
「なぁ、佐々木さんはどうしたんだ?」
手近な同僚に尋ねてみたところ、「あの人ならインフルエンザこじらせて、緊急入院だって」と
いう実にショッキングな答えが返ってきた。
「インフルエンザ?」
「あぁ。40度超える高熱出して、夜道でぶっ倒れちまったらしい。救急車で中央病院に運ばれ
たんだってよ」
「大丈夫なのか?」
「主任は大丈夫だって言ってたぞ。別に死んじまうってことはないそうだ」
そういえば、全身がだるい、とかそんなことを会議の後、言っていたような気がする。どうせま
たいつもの二日酔いだろうと、思っていたのだが・・・・。
私は眉をひそめた。
命に別状は無いといっても、心配だ。日ごろの不摂生が祟ったのだろうが、それにしても救急
車で病院送りとは。年齢のことを考えると、彼の自業自得と笑い飛ばすことができないところ
が、ちょっとリアルで嫌であった。
そして、私はあることに気付いた。ここに佐々木さんがいないということは、要するに、警備要
員に穴が開くということだ。そうしたら今日、私はタッグの相手がいないということになる。
え、どうするの?と少しぼけっと考えていたら、「新井、ちょっと」と町村主任に呼ばれた。
主任は表情を硬くしていた。多分、佐々木さんのことだ。
「もう、誰かから聞いたとは思うが・・・・」町村は言いにくそうにそう前置きして、
「佐々木のことなんだが、あいつは今日は休みだ」
「インフルエンザ、だそうですね」
「あぁ、今は入院中だ。でも、問題ない。命に別状はないとのことだからな。ただ、意識が飛んでるらしい・・・」
「そうですか・・・」
私以上に、きっと町村も佐々木さんのことが心配なのだろう。主任は彼との付き合いも長い。
人並み以上に思うところがあるに違いない。
「それでだ、佐々木が抜けたってことは・・・」
「あぁ、はい。一人足りないってことですよね。それに、私の組む相手もいませんし」
「その件なんだがな・・・」
町村が顎で指す。その先には、川村の姿があった。
「代わりに川村を当たらせることにした」
「川村を?」
「ああ」
なるほど。さっきから気になってはいた。川村が、妙に近寄りがたい異様な空気を放っている
のだ。おはよう、と話しかけることすら躊躇わせるほど空気が彼の周囲に漂っている。そして、そ
んな彼の虚ろな両目はどこか遠くを見やっていた。
「・・・・・・・・・・・・・・」
ちらっと横目で彼の顔を見やる。う〜む、相変わらず暗い。そのうち雨でも降ってきそうなぐら
いだ。
「まぁ、悪いとは思うんだがな・・・仕方ない」
主任が気にしているのは、多分こういうことだ。
私たちはローテーションで仕事を分担している。我々の警備任務は、現場での警備と本部で
の総連絡係との二つの役割で成り立っている。その時に、大抵の人員が現場に回されるのだ
が、何人かは好環境の本部で内務ができる。もちろん、真冬のこんな季節、誰もがヒーターの
効いた社内での内勤を望むのは当然であって、だからローテーションで内勤と外勤とを交代交
代に回すというようなことをしているのである。
川村が、去年入社したばかりの新人、とは先も述べた。だから、ローテーションの巡りが遅
い、ということがある。古参の社員のほうが新人より良い目を見るのは当たり前の話で、だから
昨日の会議中、自分にようやく内務の役割が回ってくることが決まって、川村は大喜びしていた
のだった。
「・・・しょうがないんじゃないですか、可哀相ですけど」
「うん。ま、という訳だ。お前は予定通り頼むぞ」
川村を励ましてやってくれ、と冗談交じりに言って、町村はオフィスを出ていった。なんでも、本
社の人間と打ち合わせがあるのだそうだ。
私は、特別に主任の言葉に従ったわけではなかったが、川村のデスクに向かった。
彼はぼんやり前方を見つめていた。そして、横に立った私に気付いたのか、彼の顔がこちらに
向いた。
じいっと私の目を覗き込んでから、彼はがっくりと首を垂れた。そして、
「新井さ〜ん、もう何とかしてくださいよぉ〜」
川村は泣きそうな声でそう言った。私は、半ばうんざりしながら、答えた。
「無茶言うなっての。そりゃぁ、まぁ、可哀そうだとは思うけど・・・」
「どういうことっすかっ、何すか、もう・・・せっかく、ようやく・・・うぅ」
「まぁ・・・あれだ。俺もこういうことはよくあったから・・・気にすんな」
「それって、慰めの言葉になってますぅ?」
「・・・・・・・」
言葉に詰まった私の様子に、彼は大きくため息をついて「そもそも、今回来るのってあの有名
な王女様なんでしょ。しかもお忍びじゃない。大々的に宣伝した上での御越しですよね。いっぱい、野次馬が集まるんでしょうよ、きっと。あの王女様かなり美人だし、人気ありそうだし。正直、もういやなんですよね、大物の警備と関わるのは・・・」
川村はいじいじと、そう洩らした。
「あの時みたいなことは、もう御免ですよ」
あの時・・・それは前回の警備任務のことだろう。
昨月、とある超人気芸能人が京都に来た。当然のごとく、私たちは警備に駆り出された。
甘いマスクとマフラーとメガネで、特にご年輩の日本人女性の心を鷲掴みにするその有名芸
能人。彼の来訪で、京都は沸きかえったわけだが・・・そこで川村は不幸な目に遭っているので
ある。
川村は、京都駅のバスターミナルの一角で人員整備をしていたらしい。そこを有名芸能人の
一行がお出ましになった。途端に現場は大混乱に陥って、意地でもラインを超えて有名芸能人
に群れかかろうとする衆人と、それに対抗してスクラムを組む警備陣がぶつかり合った。押し合
いへし合いの団子状態。
頭を殴られ、腹を蹴られ、足を踏まれ、それでも川村は必死に耐えたのだそうだ。そして芸能
人が去り、ほっと一息ついた川村だが、そんな彼に想像を絶する苦難が襲いかかることになる。
現場が落ち着いて、ようやく余裕ができた川村はそこにいたって、鬼のような形相で自分を睨
む年輩の女性、の存在に初めて気付いた。
どうして自分が睨まれているのか理解に苦しんだ川村であったが、すぐに事態を悟る。女性の
「この人、痴漢ですっ」の台詞。それが場を揺るがした。
先の余韻で、まだざわついていた現場がしゅんと静まり返る。
川村としては、はぁ?の一言に尽きた。何だって、痴漢?
無論のこと、川村には覚えが無い。断じて無い。そもそも、川村にはそんな性癖は無いし、結
婚を前提として付き合っている彼女までいる。しかも、彼はまだ若い。何もわざわざそんな好き
好んで・・・まぁ、明言はさけるが、彼には痴漢に走る理由が一つも無かったし、現にやっていな
い。あ、いや・・・不可抗力、としてならばあったかもしれないが、それもよく考えてみれば、先方
から敢えて突進してきているのであって、こちらには非は無いはずだ。もしくは、自身の二重人
格や記憶障害などで「やったことを憶えていない」などが考えられたが、そんなものは現実的で
ないと言わざるを得ない。何にせよ、川村が「痴漢」となる可能性は極めて少なかった。
と、そのような若い激情に任せた(ある意味失礼な)主張を川村はしたのだそうだが、問答無
用。川村の味方は同業者の警備員ぐらいしかおらず、周りの女性方は皆彼の敵に回っている。
「警察っ、警察っ」と興奮した群集たちは同様に現場付近を警衛していた警察官を呼び、さらに
現場責任者である町村主任までが慌てて駆けつける始末。結局、川村を痴漢だと紛糾した女性
がこういうケースで非常に有名な人間、つまり「騒動屋」的なことを常習にやっている(というか、
ある種の癖になっているらしい・・・全くおかしな時代である)ことが、警察のデータベースで判明
し、事なきを得たのだが・・・。
体中に打ち身をこしらえて、さらに理不尽な冤罪の疑いをかけられた川村。後、帰社した川村
は山のような始末書を書かされ、その上誤解であったにも関わらず場を騒がしたとして減俸ま
で食らった。この話は社内で長い間笑い話のネタになっていたが、本人にとっては笑い事では
ないだろう。ご愁傷様、なことだ。
私は笑って「あんなことがそう頻繁にあったら、警備員なんてやってられるかよ。グチグチ言っ
てないで・・・諦めろ」
「はぁ・・・」
「ほれ、そろそろ時間だろ。さっさと準備しとけよ」
明らかに落胆する川村。まぁ、これもいい経験になるのだろう・・・多分。
6、
会社の車で現場に向かう。先ほど、町村から最後の指示を受けた。
「いいか、お前ら午前の組がおそらく一番大変だ。ちょうど王女が来る瞬間に立ち会うことにな
るだろうからな。午後の組は、事後処理だけ。つまりだ、午前の組のお前らに頑張ってもらわね
ばならないということだ、分かるな」
町村はぐるりと首を回してそう言う。
「社訓を忘れるな。適当に手を抜き、適当に踏ん張り、そして全力でトラブルを避けろ。トラブ
ルは受け止めるんじゃないぞ、避けるんだ。いいな・・・よし、それでは解散」
社用の大型バンが現場に到着した。午前七時。時計台の短針が、ちょうど「7」を指し示したと
ころであった。
「時間ピッタリですね」
川村がバンから降りてきて、言った。
「あぁ。あと三時間ってとこか」
辺りを見渡せば、人の数がまた一段と増えていた。そろそろ、王女が関西国際空港に着くであ
ろう。彼女の一行はそのまま、車で京都市内に入る。そして、新しく完成した、御所の迎賓館
へ。
「・・・にしても、人多いな・・・」
「まあ、ねぇ。他にすることが無いんでしょう、きっと」
だったら、家で寝ていてくれ・・・頼むから。そんな願いも、なんのその。人々は時間に比例し
て、どんどん増えていくようだ。地下鉄の乗降口から、また大量の人のかたまりが飛び出してき
て、私は頭を抱えたくなった。
「とりあえず、準備をするぞっ」最後に下車した組部長が、怒鳴る。彼以下、私も含む七名の警
備員と派遣されてきた警察官らで、この一帯を警備する。駅から迎賓館までの行程をカバーし
なければならないので、あまり局部的に人数を集中できない。よって一人の負担が増すことに
なるが、この際仕方ない。
準備と言っても、コーンを立てたりテープを張ったり、その程度。ものの数十分で、作業は終
わり、あとは王女の到着を待つだけとなった
や〜っと、次回から殿下が登場します・・・長かった・・・(汗)