第一部:朝霧〜1〜2〜
希望は永久に人間の胸に湧く。
人間はいつでも、現在幸福であることはなく、いつもこれから幸福になるのだ。
ポープ『人間についての試論』
第一部 朝靄
1、
天使だった。
いや、よく考えれば天使などというものを見るのは人生初めての体験であって、これが天使なのかどうかなんて判断のしようも無いことなのだけれども、でも、背中に大きな白鳥のような羽を生やし、真っ白いローマ人が着ていたような衣服を纏い、頭に輝く輪っかを乗せ、ふわふわと宙に漂い、満面の慈悲深そうな微笑を浮かべているその姿は、やはり天使なのだと思う。
男か女か何とも言えない中性的で端整な顔立ち。天使は口を開かずに声を発した。
「わたしは天使です」
高くも低くも無い子供のような声音。やはり彼か彼女かはっきりとしない。天使は続けた。
「わたしは天使です」
辺りを見渡してみる。霧がかっていて遠くの方は何も見えない。まるで濃霧の中にいるみたいであった。足元も霧で覆われている。
「わたしは天使なのですよ」
天使の姿はよく見える。自分と天使以外、ここには誰もいないのかもしれない。
「わたしは天使なのですよ」
天使は相変わらず、屈託の無いそれでいて上品な微笑みをこちらに向けている。
「わたしは天使なのですよ」
またそう言った。ずっと微笑んでいた天使であったが、しばらくして首を傾げた。そして、少し不思議そうな顔をする。
「わたしは天使なのですよ?」
何度も言わなくても分かる、そう応えようとしたが、何一つ喋ることができなかった。息がひゅうひゅうと喉から漏れるだけで、話すことはできない。
天使はさらに首を傾げる。困ったような表情が覗えた。
「わたしは・・・天使なのですよ?」
分かっている、と叫んだ。叫んだはずだった。盛大に息が漏れる。やっぱり音声にはならない。
天使はゆっくりとこちらに近づいてきた。手が届きそうになる距離まで近づいて、もう一度「わたしは・・・・天使・・・なんですよ?」と言った。
もう話そうとする努力はやめた。手振りで意思疎通を試みる。しかし、天使は今度は悲しそうな顔をして、言った。
「わたしは・・・天使なのに・・・」
そして、天使はすうっと上昇した。急いで手を伸ばす。だが、すんでのところで天使には届かなかった。天使は上方へと消えていった。
何故だろうか、情けない気持ちになった。胸が痛む。
いつまで見上げていただろう、突然地が震えた。地震だろうか。ガタガタ地が震えている。そして、次に上から何かが落ちてきた。ぼとっと肩口に降ってきたものに目をやって、驚愕した。
ナメクジであった。人の拳骨位あろうかという大きなナメクジ。慌てて払い落とす。
今度は逆の肩にナメクジが降ってきた。またしても慌てて振り落とす。嫌な予感がした。恐る恐る見上げる。身体が凍りついた。無数の点が集まって、頭上は真っ黒になっていた。それがすべて、こちらに向かって落下中のナメクジ達だと直感した。
「この子達は可哀そうなナメクジです。あなたに預けます。この子達の世話をよろしくお願いします」
天使の声が何処からともなく聞こえた。
「わたしは天使です」
天使の満足げな声が響いた。地の震えが激しくなる。
「後は、お願いしますね。あなたなら大丈夫」
冗談じゃない、心の中で主張した。ナメクジ群はもう間近に迫っていた。
こいつらは自分の子供じゃない、押し付けないでくれ。厄介ごとだけ残して逃げるなんて都合が良すぎる。こっちの都合も考えてくれよ。
必死の無言の答弁も虚しく、ナメクジは予定通り、降り注いだ。すさまじい勢いでナメクジの雨に打たれる。ねばねばしたナメクジの体液塗れになった。それだけではない。ナメクジは際限なく落ちてくる。下半身がナメクジで埋まる。もぞもぞ何かが蠢く気色の悪い感触。ナメクジの雨は止まらない。すぐに上半身までナメクジは積み上げられていく。遂には無事なのは顔だけになった。それでも、ナメクジは振り続ける。もう体中がねばねばべとべとになっていた。
そして、ナメクジが眼前数センチまで迫ってきて、もうだめだと観念した時、またしても天使の声が聞こえた。
「やっぱり、わたしは天使ですよね」
ふざけんなっ、声が出ようが出まいが関係ない、思い切り叫んでやろうとした。だが、次の瞬間、一際大きなナメクジがちょうど顔面に降ってきた。
(あっ・・・・・・)
目の前が真っ暗になった・・・。
2、
がばっと飛び起きた。
いつの間にかベッドから転がり落ちていた目覚まし時計が、床の上で踊りながら電子音を鳴らしている。振動タイプの設定もしてあったので、固い床をその振動でバンバン叩く。電子音以上に大きな音である。
私は目覚まし時計を手にとって、それを止めた。騒がしさが無くなって、何となくほっとした。息が荒い。何度か深呼吸して、気持ちを落ち着ける。
それにしても阿呆な夢を見た。何だったんだあれは・・・天使とナメクジ・・・何なんだあれは。これまで生きてきたが、これは「阿呆らしい夢ナンバー5」に悠にランクインしそうなぐらい阿呆な夢だ。どうして、天使がナメクジを降らすんだ?訳が分からん。波打つ心臓を押さえて、私はげんなりした。
そして、寝起きでぼんやりする頭を巡らし部屋の中を見回して、私はもっとげんなりすることになった。友人から譲ってもらった石油ストーブがごうごうと熱を放っていた。どうもストーブを炊きっ放しにして眠ってしまったらしく、だから室内はサウナのように蒸し暑い。昔ながらの旧式ストーブに、空気が悪くなったら自動停止するなんてシャレた機能は付いていない。気が付けば自身も汗だくになっていた。寝巻きも掛け布団も汗でぐっしょりと湿っていた。
なるほど、私は何となく自分が何故あのような阿呆な夢を見たのか理解できたような気がした。理解できたが・・・・ますます気分は落ち込んだ。
時間を確認する。針は午前七時半を示していた。私は一つ大きく欠伸をした。体調も気分も最悪だったが、今日という日は待ってくれない。特に時間にうるさい上司なんかも待ってくれない。いつまでもぐずぐずしている訳にもいかなかった。
取りあえず窓を開け換気して、それから汗まみれの布団と寝巻きを洗濯機に放り込んで、洗うことにした。これまた友人から譲ってもらった旧式の洗濯機だが、まだまだ現役である。さすがに汗で気持ち悪かったので、シャワーも軽く浴びる。いつもより余計な雑事が増えたので、落ち着いて朝食を取る時間は無く、私はコーヒーを一杯だけ飲んで家を出た。
外は寒かった。私は身を竦ませた。室温が上がりすぎていたせいで、一段と冷え込んでいるように感じる。雪こそ降っていないが、凍てついた一月末の朝の空気。
「寒いですな、新井さん」
唐突に声をかけられて、振り返ってみれば、白金庸夫がいた。いつもの散歩にでも行くのだろう、ペットの犬を連れている。
「今から散歩ですか」私がそう返すと「ちゃいますよ、帰りです」と白金は言った。
白金庸夫は私が住んでいるこのアパートの大家である。今年で米寿を迎えるらしいが、そんな様子がちっと感じられないほど若々しい老人で、毎朝こうして愛犬を連れて散歩兼走り込みをしている。走り込みとは一体どういうことかというと、実はこの老人、地元では有名なマラソンランナーだったらしく、今もなおフリーの大会に出場しているとか。もう八十歳も目前で、下手をすればお迎えも目前であるにもかかわらず、フルマラソンを完走してしまうほどの気概と根性の持ち主なのだ。
「あんたは、これからお仕事かね」
「あ、はい」
「それはまた正月やっちゅうのに、ご苦労さんなことで。まぁ、頑張ってくださいや」
大方抜け落ちた歯が並ぶ口でにっこり笑う白金。
「若いってのはいいもんやねぇ。うらやましいかぎりですわ」
それはこちらの台詞だ、と私は心の中で苦笑した。多分、このアパートの住人の中で一番若々しいのはこの老人だろう。
その時、一陣の寒風が吹き抜けた。「おぉ、寒い寒い。それじゃ、新井さん。いってらっしゃい」と衣服を掻き抱いて、白金は自宅へ戻った。私も堪らずコートのポケットに手を突っ込んで、急いで駅へ向かった。
こんな駄文に目を通して下さって、ありがとうございます^^
ただ単に「王女殿下」というものが書きたくなった、というだけの理由から始めたもので、深い考えも無かったから・・・色々読みづらいところもあると思いますが・・・次回もお付き合い願えたら幸いです。